シンジは水平巡航の限界近い速度で。
 アスカは毎時約550kmほどの速度で、互いの左側を通過する。

 すれ違った瞬間、シンジは失敗した事に気が付いた。
 アスカの機速は、P−51Hの最高速度には程遠い。
 急反転も急上昇も思いのままになる、格闘戦時の速度だった。

 そうでなくとも震電の翼面荷重は高く、機速が乗りすぎれば直進安定性が強すぎ
て格闘戦には向かない。
 余りに快調に回るエンジンに気をよくした、シンジのミスだ。

 シンジはバックミラー越しの限られた後方視界でムスタングの姿を捉えようとす
るが、無理だった。
 震電のコックピットは真後ろが確認できるようには作られていない。

「とにかく距離を取らないと」

 スロットルを緩めずに、そのまま緩上昇に移る。

 アスカはすれ違った瞬間からきっちり一分後、ハーフスロットルからフルスロッ
トルへの移行に伴う反動トルク――平たく言えば、プロペラの回転とは逆に機体を
回す力――を利用して、一瞬にして機体を反転させる。

 機体が安定するより早く、アスカはムスタングの持つ数多い利点の一つ、全周視
界を確保するプロクシガラスのキャノピー越しに、前方で緩上昇から急上昇に移る
シンジの震電を捉えた。

「ふん、上昇力で勝てると思うの?」

 アスカはすぐさまシンジの後を追う。

 すれ違いから一分が経過した時、シンジは完全にアスカのムスタングを見失って
いた。
 シンジは意を決して急上昇から一転、急降下へと移行する。
 ほぼ垂直になる震電のコックピット。
 震電の機首を地面へ向けたまま、シンジは機体を180度ロールさせる。

 シンジから見て、真上から急接近するアスカのムスタングが見える。

 アスカの視線の先には、真下を向いた震電の翼が目に入る。

「逃がさないわよ」

 全速力でムスタングの下方へ潜り込もうとする震電。
 アスカもムスタングをロールさせ、機首を地面に向ける。

 最高速のまま、進路を地面へと向けた二つの機影。
 震電が下になり、ムスタングがそれを追う形でまっ逆さまに落ちていく。

 最高速からの急降下は、ムスタングをレシプロ機の限界速度を遥に越えた速度に
まで加速させた。
 プロペラの迎角はフェザリング寸前の緩いものになり、プロペラ自体は推力を生
むどころか、むしろ抵抗を生んでエアブレーキとなる。

 回転するプロペラの突端が、まず音速の壁にぶち当たって激しく震動する。
 さらに、僅かな舵角が舵面から気流を剥離させ、失速した翼は激しくバッフィン
グを起こす。

 二つの機体は急降下と言うよりも、危険な速度で単なる落下をしているに過ぎな
い。
 落ちながらも、アスカはムスタングを震電の真後ろにつけようと必死で機体を操
っていた。

 一方のシンジは……と言うよりも震電は……まだコントロールに余裕があった。
 機体の後端に取り付けられたプロペラは、まだ音速の壁にはぶつからない。
 先尾翼は元々失速を前提に作られている。

 シンジは、ムスタングに対する震電の唯一の武器、亜音速時の操縦性に勝負を掛
けたのだ。

 無論、そんな速度での機動実験は行っていない。
 机上の理論では、既存のいかなる戦闘機よりも優秀な“高速度での操安性”が期
待されていたが、根拠はただそれだけだった。

 だが、震電はシンジの期待にこたえた。

 震電の後を追うアスカに、絶望的な機体設計の差が感じられた。
 圧倒的な工業力を誇ったアメリカ航空産業の頂点よりも、なお高いところを目指
した震電の設計。
 既に主翼のバッフィングは無視できないほどに危険な強さで、アスカを乗せた機
体を揺さぶっている。
 震電の方が地面に近いとは言え、このままの速度で急降下を続ければ、引き起こ
し時にコントロールを失って地面に激突する危険性が高い。

 より地面に近い、ムスタングよりも高度を失っている震電は、依然として引き起
こし操作をする気配が無い。

 地面が見る見る近くなる。
 太陽を反射してきらめく水路と、白い砂利が踏み固められた畦道。

 深い緑に輝く、実り始めた稲穂。

「まさか、コントロールを失ってるわけじゃないでしょうね」

 アスカは悔しさに唇を噛み締めながら、エルロンを下げて機速を落とす。

 一瞬、ひときわ激しいバッフィング。

 アスカは、あまりに高い対気速度に耐え兼ねた主翼が、ついに弾けたかと思った。
 だが、すぐに機体は速度を落として、ムスタングの設計速度の範疇に収まると同
時にバッフィングも止んだ。
 迎角の付いたエルロン後端から剥離した気流の渦が、胴体後部と水平尾翼を一瞬
揺さぶったのだった。

 対気速度計を確認――急降下からの引き起こし操作には、設計上の上限速度が決
まっている――機速が十分に落ちている事を確かめて、操縦棹に手を掛ける。

 アスカは前方を睨み付けながら、ムスタングを引き起こす。
 忌々しい事に、シンジはまだ震電を地面に向けている。

「そのまま地面に突っ込む気?」

 呟くと同時に、震電はムスタングの機首の向うに見えなくなった。


  

Sky Lover

第九話

  


 シンジは地表の様子がはっきりと肉眼で捉えられるほど突っ込んでから、機体を
引き起こした。

 下は水田。
 畦道に、平和が戻ったはずの空で爆音を轟かせる二機の戦闘機を見上げる人影の、
その驚いた表情までもが見えた。

 次の瞬間、シンジの身体をGが襲う。
 操縦棹を握った腕が持ち上がらないほどの重圧に、一瞬目の前が暗くなる。
 慣性の付いた機体は、機首がほぼ水平に向いてもなお地面に引き寄せられるよう
に高度を失う。

 失敗したかと覚悟を決めるほどに地面ギリギリで、震電は水平飛行に移った。
 間髪を入れず、首を垂れた稲穂に尾翼が触れんばかりの低空から、一気に上昇へ
転ずる。

 シンジは震電よりも早く上昇に移っていたムスタングの機影を頭上に捉える。

 形勢は逆転した。




 アスカはシンジが地面に激突しなかった事を確かめると、機体を大きく傾けて急
旋回する。
 真横を向いたコックピットから、左に震電が見える。

「民家が近いのに地面すれすれとはねえ……思ったより度胸有るじゃない」

 アスカはさらに大きく機体を傾けると、逆落としに上昇する震電を迎え撃つ。

 一瞬二機の進路が交差する、が、どちらも互いの姿を照準に捉える事は出来ない。

 アスカはムスタングの機速を更に落として、格闘戦速度で地面をかすめる。
 高度を失った地面付近での格闘戦なら、軽快なムスタングに分が有ると踏んだの
だ。

 だが、シンジはその誘いには乗らない。
 更に高度を稼ぐ為に上昇を続ける。

 アスカはシンジの戦略をすぐに悟った。

 急降下時のアドバンテージを見せ付けておいて、ムスタングを地面近くに引きず
り下ろす。
 そうしておいて、自分は高度を稼いで、高い位置から一撃離脱を狙うつもりなの
だ。
 先ほど見せた決死の引き起こしが“まぐれ”でなければ、震電はムスタングが逃
れられないほどの高速度で急降下が出来、一撃ののち安全に離脱が行える。

 シンジより下にいては勝てない。

 アスカはすぐさまシンジの後を追って、ムスタングの機首を再び上に向けた。




 双眼鏡を手に、滑走路では葛城が嘆息の声を上げていた。
 模擬戦とは言え、あの機体での格闘戦が初めてとは思えない。
 シンジは震電の長所を知り尽くしていた。
 そして、その生かし方も。

 開発に携わったテストパイロットとして、シンジは震電による格闘を幾度と無く
シュミレートしていたのだろう。
 その戦いぶりは、当代随一のテストパイロットと言われた葛城をも嘆息せしめる
ほどに、見事なものだった。

 それに対してアスカのムスタングの動きは、教科書の範囲内と言わざるを得ない。
 これまでその優れた機体、そしてパイロットとしての素質の限界を試されるよう
な“好敵手”と戦った事が無いのではないか。

 アメリカ軍のパイロットであれば、そんな修羅場をくぐったのは初期のP−39
など、零戦に手も足も出なかった時代遅れの機体から、のちにP−38やF−6に
乗り換えた一部のベテランに限られる。

 機体を操る事に掛けて、その天賦の才……センスは同等。
 であれば、より限界付近で戦う事の多かったシンジの方が、戦闘機乗りとして優
秀である事は自明だった。

 だが、先ほどの急降下、そして引き起こし。
 もう一度やって上手く行くかどうか。

 それほど際どいシンジの操縦に、葛城は危惧を抱かずには居られなかった。
 せっかくこの馬鹿げた戦争を生き延びたのだ。

 こんな所でその若い命を散らして欲しくはない。



 シンジはバックミラーの視界の端で、アスカのムスタングが自機を追っているの
を確認した。
 急上昇でもアスカは諦めずに後を追ってくるに違いない。

 シンジはアスカの性格まで計算に入れて格闘戦をイメージしていた。


 アスカの目の前に、震電の特徴的な後ろ姿が見える。
 シンジは機体を揺する事すらせずに、ひたすら急角度での上昇を続けている。

 アスカはトリガーを引く。
 が、二機の速度は最高速に近づいている。

 曳航弾は震電にたどり着く前に失速して落ちて行く。

 距離を詰めなければ当たらない。
 アスカは既にフルスロットルまで押し込まれたスロットルレバーを忌々しげに叩
いた。


 シンジは震電の性能を試している。
 下で見上げるケンスケには、その気持ちが痛いほど良く分かった。

 燃料のオクタン価を上げるように、熱価の高いプラグを送るように、それが駄目
ならせめて鉱物製のエンジンオイルを。
 だが、開発現場からの要求通りに部品が届いた事など無い。

 米軍のプラグ、米軍の燃料、米軍のバッテリー、米軍のエンジンオイル。
 戦時中、シンジやケンスケが夢見てやまなかった最高の状態が与えられた誉エン
ジン。

 その限界性能を試さなければ、この模擬戦に勝ったところで意味など無いのだ。


 シンジはフルスロットルのまま、操縦棹を引き続けた。
 機速は徐々に落ちるが、高度計は凄い勢いで回りつづけている。
 誰もストップウォッチなど押してはいないが、震電の上昇速度が桁外れである事
は一目瞭然だった。

 米軍最強、最高の性能を誇るムスタングすら、震電の上昇力に追いつけないのだ。

 高度が7000mを超えても、誉エンジンは排気タービンにより順調に過給され、
その力強さは一向に衰えない。
 シンジはマスクを口に当て酸素ボンベに手を掛ける。
 パイロットの限界である高度1万2000mまで、上昇を止める気はなかった。

「何処まで逃げれば気が済むのよっ! この意気地なしっ!!」

 インカムからアスカの絶叫が聞こえる。
 追いつけない以上、シンジを仕留める事は出来ない。

 そして、模擬戦のリミットである15分はもうすぐなのだ。

「そんな大声じゃあ酸素ボンベがいくつ有っても足りないよ」

 シンジは笑い出したい気分だった。

 既にどんな山も、雲も、震電よりも下にある。

 遠くの雲の切れ間から海が見える。

 真上にはいつにもまして明るい太陽。

 空の青さが深くなり、紺碧よりももっと深い、まるで夜空のような澄んだ濃紺の
蒼穹がシンジを包む。

 その蒼穹の一角だけが、真っ白に輝いた。
 もう終った夏の名残だろうか、巨大な入道雲の頂上が見えた。
 今まさに、上昇気流が成層圏に達して水蒸気を持ち上げられなくなり、雲の頂き
が水平に広がり始めたところだ。

「なによ! 戦う気が無いんだったらさっさと降りてきたら! 馬鹿にするんじゃ
 ないわよ」

 言葉の切れ間に、アスカの荒い息遣いが聞こえる。
 与圧されていないコックピットでは、酸素ボンベが有ったところで息をするのに
骨が折れる。
 さらに、手足の先が痺れるほどの寒さと、視界を奪う窓の結氷。

 高度が上がれば上がるほど、パイロット自身の体力と集中力が試される。

 そして、アスカのムスタングもまた、喘ぎ始めていた。
 まだまだ上昇する事は出来る。
 だが、フルスロットルで供給される濃いガソリンを完全に燃やせるほどの空気は、
もうここには無いのだ。
 スロットルを緩めてエンジンをいたわらなければ、もはや飛ぶ事もままならない。

 震電との、シンジとの距離は、もう縮まらない。



 シンジは周りの風景を楽しんでいた。
 成層圏から見上げる、自分を包む秋の空の色を。
 今まで来たくても来れなかった、高度1万m超の、高々空の眺めだった。

 シンジも頭の芯が痺れてきた。
 スロットルを緩めないと、誉エンジンも回らない。

 それでもずっと、ここに居たい気分だ。
 もう機体を操る事も、戦う事も、どうだっていい。


 ただ、空が飛びたかった。


 誰よりも速く、誰よりも高い空を……。


 不意に、涙が込み上げてくる。

 これが見せたかった! この一点の曇りも無い空!

 高く昇れば昇るほど、さらに高くみへと澄んでいくこの青い空を!


「一緒に来たかったんだ……ここへ、一緒に」

「…に?……良…聞こえ…い…よ!……」

 アスカの声にノイズが混じる。
 地上からの声も、もう届かない。


 流しかけた涙が、睫に凍る。
 痺れた手が、酸素マスクを取り落とした。

 限界に達した入道雲のまばゆい輝きが、その白さが、シンジに失われたレイの面
影を呼び覚ました。


「……もう、いいの?……」



 突然、ひどく近くで懐かしい声を聞いた……気がした。


「うん……ここに来たかったんだ……ただそれだけ」

「もっと高いところへ行くの……待ってたの、あなたが来てくれるのを」

「そう……か。……悪かったね、待たせちゃって」

「ううん……けど、もう行くわ、私」

「ごめん……一緒には行けないんだ」

「あなたが帰るのは、向う……生きていれば、きっと良い事があるもの」

「そうかな……そうだね」

「……さよなら……」


 震電ですら昇る事の叶わぬ高みへと、白い輝きが瞬きながら昇ったように見えた。

「……ありがとう……さよなら」

 シンジは操縦棹を引きつづけていた手を、離した。




「聞こえないって言ってるでしょう! この馬鹿! 誰と喋ってんのよ!」

「まだ居たの? アスカ」

「な〜〜んですってぇ〜〜っ! このっ!……きゃあっ!」

 アスカのムスタングは、急にせき込むようにエンジンが止ってしまった。

 セルなど無い。
 仕方なく機首を下に向けると、降下する速度でプロペラを回してエンジンの再始
動を試みる。

 機首を下に向けて、止ってしまった燃料ポンプを手動に切り替え、キャブにガソ
リンを送り込む。
 十分に機速が付いたところで、フェザリングしていたプロペラに迎角をつけて回
す。唸りを上げて重いプロペラが回った所で、非常用のクラッチを繋いで点火!
 ……失敗。

 超高々度の薄い大気は、思ったほどにはプロペラにトルクを与えてくれない。
 ポンプを動かす手を止める。
 今の失敗プラグがかぶったかもしれない。
 クラッチを繋いだまま燃料ポンプを止めて、シリンダーの掃気を心がける。

 しばらく降下。
 機速を稼いでクラッチを切り、燃料ポンプを動かす。
 プロペラがどんどん速く回る。

 今だ!クラッチを繋ぐ……エンジンが息を吹き返すのと、曳航弾が翼に当たって
弾けるのが同時だった。

「ごめん。でも、僕の勝ちだよね?」

 高度計は既に6000mを指していた。
 そして、15分を刻み終えたストップウォッチ。

「謝るんじゃないわよ……馬鹿」




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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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