▼第五章

「今、ドヴォルザークのチェロ協奏曲を弾いていたね。
 凄いじゃないか」

「どうも」

 シンジは、何と答えて良いか戸惑っていた。
 アスカの叔父と名乗っているのだから、それなりに音楽への造詣が深いのだろうか?。
 それに、いずれにせよ自分でも、どうだったのか分からないのだ。

「それにしても、アスカにボーイフレンドとはねぇ」

 と加持がにやにや笑いながら言った。

「ちょっ、な、なによ、何時の間にどうしてそんな話になるのよ!!」

 アスカは慌てて否定してかかる。しかも照れ隠しではなく、本気で否定していた。

「違うわよ。絶対に!!!」

 シンジは少し傷つく。アスカとは知り合ったばかりなのだから、別に否定されて怨む筋合いなど無いのだが。

「ねぇねぇ、加持さん。
 今までどうしてたのよ」

 そう言いながらアスカは加持の腕を取り、居間の方へ向かう。
 最早、アスカはシンジの事など全く眼中に無いように見えた。

 アスカが立ち去ってしまった後、シンジは楽器を未だ構えたまま、さてどうしたものかと途方に暮れる。

「ごめんなさいね。
 アスカがああいう調子じゃあ、もう楽器は仕舞った方がいいわね」

 気が付くと、リツコがシンジを見下ろしていた。

「あの・・・・」

 シンジは何かを訊こうとして、止める。
 何を訊こうというのか?。加持さんってどういう人ですか?、とか、どうでした、僕の演奏は、とか?。どれも間抜けで、実際にはそんなことの答えは欲しくもないのに気が付いたからだ。
 シンジは言われるままに楽器を置き、弓を緩めると名残惜しそうにケースにしまい込む。

「チェロ、弾くの、好き?」

 シンジは、少し微笑む。その言葉には暖かいものを感じたからだ。

「はい」

「今まで、コンクールとかに出たことは?」

「無いです」

「冬月先生は出ろって言わない?」

「何度か。
 でも・・・・多分、父さんが喜ばないから・・・」

「どういうこと?」

「・・・・多分。
 おまえには未だ早いからって」

「そう」

 リツコは敢えて、それ以上は追求しなかった。

「それより、あっちに来てお茶にしない?」

「あ、はい・・・頂きます」

 リツコは微笑んだ。
 シンジは怪訝そうに尋ねる。

「あの、なんか変なこと言いました?」

「ううん。
 何でも無いのよ」

 おかしかった訳ではない。余りに可愛らしかったから微笑んだのだ。
 引込み思案な癖に、妙に人懐こい雰囲気を漂わせている。ある意味とても魅力的な少年だとリツコは思った。

 居間に行ってもアスカは加持にべったりだった。
 加持のとなりに座り、加持とだけ話している。加持はと言えば聞いているようでもあり、聞いていないようでもあり、どこかつかみ所の無い態度で対応している。

 そして、シンジは黙って出された紅茶をすするしかできない。
 見兼ねて、リツコが色々と教えてくれた。
 アスカの母親が存命だったときは、加持は丁度学生で、よくアスカの家に何かと厄介になっていたこともあって、小さい頃からアスカがなついていたこと。
 リツコと加持は学生時代に同級生だったこと。

 それにしても、アスカは加持と一緒に居られることが本当に嬉しいようだ。
 目を輝かせ、頬を少し赤らめながら話している姿にシンジは少し嫉妬のような感情を味わう。

「それにしても、良かった。
 久しぶりに、アスカが明るい表情を見せてくれて」

 とリツコが言う。

「加持さんが好きなんですね」

 リツコは、シンジが何気なく言い当てて仕舞っている事に苦笑する。

「まぁ、そう見えるわね。
 でも、わたしはあなたの事を言ってるのよ?」

「え、どうしてですか?」

「あなたと一緒に演奏したせいよ」

「ま、まさか」

「そう。
 加持君は単に、タイミング良く現れただけ。
 ここんところ、ちょっと落ち込んでたのよ、アスカ」

「そうなんですか?」

 ちょっとシンジには落ち込んだアスカが想像出来なかった。
 そう言えば・・・、とシンジは先程の彼女の言葉を思い出す。

 ―誰も本当のことは言わないから

 日も暮れて来たので、リツコがシンジに帰りを促すと、加持がリツコの車で送ってやると言い出した。
 アスカは、ドライブがてら付いて行くと言うので、結局リツコだけが残る事になった。

 窓から3人の乗った車が走り去るのを見届けた後、書斎に戻る。
 加持に任せたことを少し後悔している。
 冷酷な男。テロリスト。
 だが何食わぬ顔で、リツコとアスカの日常生活に割り込ん来る。そしてリツコは拒めない。

 ばたんとドアが乱暴に開かれる。

 リツコは驚いて書斎のドアを振り返った。

「ちょっとぉ、不用心ねぇ。
 田舎だからってみんな御人好しとは限んないのよ」

「・・・ミサト」

 リツコは自分の迂闊さを呪った。
 彼らは最初からここで落ち合う予定だったのだ。
 リツコは険しい目付きでミサトを睨み付けた。

「あら、恐い顔。
 何よ、かっての親友が訪ねて来たって言うのに、少しは嬉しそうな顔しなさいよ」

 そういうとミサトは書棚の前にあった大きなソファに体を投げ出す。

「ここんとこ、疲れてんのよね。
 ああ、いいソファねぇ」

「何の用なの」

「いやぁねぇ、何にもないわよ」

「国際的に手配中のテロリストが危険を犯してまでここに来るのに、何の理由も無いわけないでしょう?」

「あらぁ、ご機嫌斜め」

「ふざけないで!!」

「ふざけてませんよぉ。
 ちょっと里心が付いちゃってね。なんせ砂漠ばっか見てる生活だったから」

「で、望郷の念止みがたくって?
 そんなこと信じられると思うの?」

 ミサトは不意に真顔になると、リツコの顔をじっと見据えた。

「そうね。
 私も信じられない」

「ミサト・・・・」

「だから御期待に答えて用件を伝えるわね。
 明朝8時、あなたは御宅のお嬢ちゃんを連れて車で東京に戻るの」

「な、何を!!!」

「別に。何でもないでしょう?。
 十分休養をした天才ピアニスト、アスカが帰京するのに何を憚る事があるのよ」

「帰らないわ」

「帰るのよ」

「だって、まだあの子は完全に復調した訳じゃ・・・ミサト」

 リツコの視線の先には、ミサトの手に握られた銃があった。

「あなたに選択する権利はないわ。
 もうあたしにも余裕は無いのよ。
 とにかくそう言うことであなた方は明日東京に帰ること。
 それと、私達もね」

「そんな、検問にひっかかるわよ」

「かもね」

「かもねって・・・・」

「あなた方なら安心して通すんじゃない?」

「公安がアスカと加持君の関係位知らない訳無いでしょう?」

「知っても、まさかアスカが協力者になるとは思わない」

「そんな・・・」

「案外、ああいう連中にはそういう発想の死角みたいなところがあるのよ」

 ミサトは銃をしまうとタバコに火を付けた。
 一口吸って煙を吐き、窓の外の湖面を見詰めながら小声で言った。

「ごめんね」

 車中ではさっきまでと打って変わってアスカは大人しかった。
 加持がしきりにシンジに声をかけていたせいもあるのだが、それでもアスカはどこか心ここに在らずといった感じだった。

 ・・・どうしたのだろう?。

 いつもなら、加持さんが来てくれると、それだけで全てがうまく行くように思えたのに。
 確かに、会えて嬉しかったけど、その嬉しさはいつも思っていたのと違う。
 ずっと会いたいと思っていたのに、拍子抜けするくらいに普通の「うれしい」だった。
 楽しかった夢が醒めかかっている?。嫌な感じがする。
 ううん、そんなことは無い。そんなことは信じたくない・・・・。

 だから、さっきは必死に打ち消そうとして、自分でも焦っているのがはっきり分かる。
 まるで浮気をしているのを隠しているみたい。加持さんに隠し事をしているみたいに感じている自分が居た。なのに、いえ、それだから一層、べたべた甘えてみた。
 だけどそうすると、余計に嫌な感じがした。
 気が付くと、シンジがもう帰るってリツコが言っていた。
 あたしは、はっと我に帰る。
 まるで寝顔をずっと見られてたのに気が付いたみたいに気恥ずかしくて、全身が何か汚れているみたい。シャワーで洗い流してしまいたい。

 加持さんは気が付いちゃったかな?。

 分からない。

 加持さんはいつも、本当は何を考えているのか分からないから。あたしは知ってる。どんなに頑張ったって、加持さんにはあたしは子供にしか見えないことくらい分かってる。
 どんなにピアノが弾けたって、どんなにコンクールで優勝したって、どれほど演奏家として認められたって、ちょっとでも身動きしただけで、あたしの中の子供ぽいところなんて、全部見抜かれてる。
 泣きたくなって来る。
 何をやってもあたしには届かない。
 敵わない。悔しさが涙になってしまいそう。
 なんだってこんなときに、現れたのよ。
 何時の間にか加持さんを怨みたくなってしまう。
 それがもっと嫌。

 塞ぎ込むアスカをよそに、加持はシンジと当たらず障らずの会話を続けていた。
 シンジはアスカの様子が気にならないでも無かったが、加持が気にも止めていないので、別に問題は無いだろうと決め込んでいた。もっともアスカと話が出来ないのは、少しばかり寂しかったのだが。

 やがて、シンジのロッジに上がる小路の麓に着いた。
 上がって、お茶でもというシンジの申し出を辞して、車は帰路に着く。

「さっきはどうしたんだ」

 助手席に座ったアスカは、加持の反対側の窓の外を見詰めている。

「・・・何でもないわ」

「・・・・ま、いいけどな」

 加持はしばらくアスカの様子を窺ってから言った。

「そうそう、最近ちょっと落ち込んでたんだって?」

「・・・別に・・」

 つまらなそうな表情をしてアスカはシートベルトを弄ぶ。
 が、その仕草が取り繕ったものであることは容易に見て取れた。

「気が付いてしまったんだろう?」

「何に?」

「君の声に、本当に耳を傾けてくれる人なんて居やしないってことに」

「!!!」

 はっとしてアスカは加持の顔を見る。

「誰も、君の演奏を本当に聴き取れない。
 コンクールや演奏会で、君を絶賛する連中は、実のところ、どいつもこいつも愚劣で演奏の善し悪しなんててんで分かりゃしないクズばかりだ。
 君は認められ、有名になればなるほど、そういう連中ばかりに出会ってる。
 リサイタルに聴きに来るのも『有名な天才少女ピアニスト』を見に来た連中ばかり。
 来る日も来る日も、君はそういう連中の前で、自分を賭けて演奏する。
 その結果は、もう自分だけにしか分からない」

「・・・・やめてよ」

「演奏と言うことが、こんな下らない連中に聴かせることに他ならないなら、一体何の意味があるんだろう」

「・・・お願い・・止めて・・・」

「結局、それは下らない連中のためにある下らない、意味の無いことじゃないのか」

「・・・・居るわよ、きっと・・・」

「本当に聴いてくれる人が?」

「・・・ええ、必ず」

「まぁ、少なくともリッちゃんと俺はそうかもしれないな」

「そうね・・・・あと、シンジと」

「ああ、彼は良い子だ」

「・・・・」

「だから彼を連れて来たのかい?」

 アスカは、首を振って言う。

「分からない・・・
 でも・・・それだけじゃない」

「ほう?」

「別荘で、シンジはたった一人で弾いてたの」

「・・・」

「あたしだって、人に聴いてもらうよりも何よりも、弾くことそのものが楽しかった時期があるのよ。
 でも、もう今じゃ、それがどういうことだったのかも分からない。
 あたしは、シンジを見てもう一度、あの頃の気持になってみたかったの」

「で?」

 加持は先を促す。

「ううん、うまくは行かなかったわ。
 だって、もうそれは無理だから。
 時計は逆戻りできないもの。
 でもね・・・・」

「彼とは通じ合う事が出来た?」

 アスカは頬を赤らめる。

「ええ、あんなこと始めてだった。
 コンクールで室内楽の課題もあったりして、アンサンブルだってやったことなかった訳じゃない。
 でも、今日みたいな感じは始めてだった」

「そうか。
 でも俺にはシンジ君はいまいち、他人と演奏しなれていないように見えたがな」

「そうよ。
 だって彼今日始めて他人と演奏したんだもの」

「へぇー」

「ずっと一人だったらしいわ」

「どうして?」

「そんなの知らないわよ。
 だってあんまり話してないんだもん」

「俺に気兼ねせず話せばよかったのに」

「・・・・・話せなかったのよ・・・どうしても」

『やれやれ、お姫様も、ちっちゃいながら、女だってことか』
 加持は車を正門前に止めた。門扉が半開きになっている。どうやら"連れ"は着いたらしい。

 居間に入って、アスカは歓迎されざる人物を発見する。

 葛城ミサト。

 リツコや加持の大学時代の同級生だという。
 だが、アスカにとっては、加持の恋人だという甚だ信じられない人物でもある。母が生きていた頃、何度か加持と一緒に家に来たことを覚えている。
 その後も、加持に会う都度、彼が未だに彼女と付き合っているらしいことは気が付いていた。

「アスカちゃん、久しぶりねぇ。
 あらぁ大きくなっちゃって」

 立ち上がって、大袈裟な身振りでアスカを迎えるミサト。

 その上っ面だけの表情に、アスカは嫌悪感を覚える。なぜ、加持はこんな浅薄な女と付き合っているのだろうか?。
 リツコはと見れば、露骨に不機嫌な顔をして座っている。

「どうやら、あんまり友好的雰囲気とは言えなかったようだな」

 アスカの後ろから、居間に入って来た加持が言った。

「そう?。
 仲良く、昔の想い出なんか話してたわよね、リツコ」

 とうそぶくミサト。

「アスカ。部屋へ行ってなさい。食事の時は呼ぶから」

 リツコが冷たい声で言う。だが彼女の視線はじっと加持の顔に注がれている。

「え、どうして」

 思いもかけないリツコの言葉に、反射的にアスカは尋ねてしまう。

「いいから!。黙って部屋へ行きなさい!」

 滅多に怒らないリツコの怒声にアスカは、たじろぐ。

「いいじゃない、ここに居たければ居てもらえば」

 ミサトがのんびりとした声で口を挟む。

「どうしてよ。説明くらいして欲しいわね。今までそんな頭ごなしな事言ったこと無いじゃない。
 なのにどうしてよ」

 アスカも、納得出来ないので尋ねかえす。

「リツコ、どうせ明日は一緒なんだから隠す必要なんか無いわよ。
 好きにしてもらっていいんじゃない?」

「ミサトっ!・・・・」

 リツコはミサトを睨みつけた。
 だがミサトはリツコの怒りを構う様子がない。

「アスカちゃん、明日東京に戻ってもらうわ。
 休暇途中で終わっちゃうのは残念だけどね」

「加持君!。最初からこうするつもりでここに現れたのね」

 加持は、詰るリツコの顔を見ようともしない。

「どういうこと?。
 東京に帰るって一体、何?」

 アスカは驚いて尋ねるが誰もそれに答えてはくれなかった。

「巻き込むつもりはない。君達は、俺たち二人を途中まで乗せて行ってくれるだけでいい」

「それだけで、立派に犯人隠匿罪になっちゃうわよ」

 リツコはため息混じりに答える。

「大丈夫、つかまりはしないわ」

 相変わらずミサトは、脳天気な調子を崩さない。

「今度は一体何する気?」

「それは・・・・」

 と加持が言い淀んだ。

「サミットよ」

 ミサトが言う。

「か、葛城・・・」

「いいのよ、どうせ片棒かついて貰うんだもの、知る権利はあるわよねぇ」

 そういってアスカに笑いかける。

「止めて!!。アスカにまで教える必要ないでしょう」

「あら、過保護ね」

 酷薄な笑みを浮かべてミサトは言った。

「お嬢様にはタフな話かもしれないけど、こっちはそんな事に構ってる余裕は無いの。
 取り敢えず、明日やることだけ言っておくわね。
 明日は、リツコが運転してアスカと一緒に東京に戻ってもらいます。
 事務所にはさっき連絡入れて貰ったから、問題はないわよね。
 その時に私と加持君も一緒に乗せて行ってね。
 あたし達は、後部座席に乗るから馬鹿な事は考えないように。
 都内に入ったらあたしの指示する場所で降ろして。
 それで全てはお仕舞い。もうそれ以上は何の負担もかけないわ」

「ちょっと、あたしはまだ帰りたくない!」

 アスカが食ってかかった。

「残念だけど、休暇中に仕事に呼び戻されるなんて良くある話よ」

「な、一体なんであんたにそんなこと指図されなきゃならないのよ」

 憤るアスカの目の前に突き付けられたのは拳銃の銃口。

「ミサト!!、子供に銃を向けるなんて!!・・・」

 ミサトはリツコに乾いた視線を一瞬向けたが、すぐにアスカの方に向き直る。

「理由?。それはあなたがたの生死をあたしが握っているから。
 これで十分でしょう?」

「なに、馬鹿なこと言ってるの?。
 たかが東京に行くくらいで、なんで銃を突きつける必要があるのよ」

「あら、加持君、お嬢さんには自分のしていること打ち明けてないんだぁ」

「葛城、止めろよ」

 不機嫌そうに加持がうなる。

「どうして?。まさか姪には話せないくらい恥ずかしい事してるんだっけ、あたし達って」

 軽口めいた口調ながら、ミサトの言葉には刺があった。

「アスカには未だ早い」

「あ〜ら、子ども扱いしちゃって。や〜ね、おじさんって」

 そう言うとミサトはアスカにわざとらしくウィンクしてみせた。

「ふざけないで!!」

「ふざけてないわ。
 教えてあげる。あたしたち、いわゆるテロリストってやつぅ?。
 悪い大企業だとか、馬鹿な政治家とかを爆弾でやっつけたり、撃ち殺したりする人なのよぉ〜。
だから警察にはすっごく嫌われてる訳ぇ」

「ま、まさか・・・・」

「そうよねぇ、あたしだってまさかって感じするもん」

「嘘でしょ?」

「嘘じゃないわよぉ? 疑う気?」

「・・・・・」

「そうそう、新宿の爆破事件、あれあたし達だったんだけど、知ってる?」

「くっ・・・・」

 アスカは、何とかこの窮地を脱する方法が無いか、考え始めた。

「あら、逃げようとしたら、リツコ殺すわよ」
 そうしたアスカ考えを見透かしたかのように、ミサトが言う。

「人でなし」

「そうね、そうかもしれないわね。
 でも覚えとくといいわ。人でなしには人でなしって言っても無駄だって事をね。
 手荒なまねはしたくないの。こう見えてもね、あたし達にはポリシーがあるから。
 そんじょそこらの強盗犯のようなまねはしたくないのよねぇ」

 アスカは怒りに顔を紅潮させて立ちすくむ。

「アスカ」

 加持が気遣うように声をかける。

「加持さんもなの、ねぇ、どうして」

「すまない。
 分かってくれとは言わない。
 だが俺たちにはやらなければならない事があるんだ。
 どうしても・・・・」

「分からない。
 そんな、人に銃を突き付けてまでやらなければならない事なんて、あたし知らない」

「あーあ、泣いちゃったわねぇ。ま、いっか」

「逃げられないわよ。都内は警官で一杯。
 ただでさえ、サミット前で警戒厳重なのに、あなたたちが新宿でやった事のお蔭でますます厳しくなってるのよ。
自殺行為だわ」

「あら、リツコ心配してくれるのぉ?
 やっぱ親友よね」

「今は違うわ。少なくとも、友達に銃を突き付ける親友なんてあたしには居ないから」

「つれないわねぇ。
 ま、いいでしょ。
 御心配の件は、抜かり無いわ。あたし達だって馬鹿じゃない。
 新宿の件だって、計画の内よ」

 リツコが用意した簡単な夕食をとった後も、リツコとアスカは居間を離れることは許されなかった。テンション高く軽い調子を崩さないミサトだったが、心なしか疲れの色が見え始めている。しかしリツコとしてはその機会を利用する気にはなれなかった。

 結局、ミサトの指示でアスカもリツコも、居間で眠る事になった。
 ミサトと加持が交代で監視するつもりのようだ。

 異常な状況にも関わらず、昼間の疲れも手伝ってアスカはすぐに眠くなり始めた。
 確かに酷い話ではあるけれど、切羽詰った緊張感は無かった。ミサトも加持も悪いようにはしないだろうと思い込んでいたのだ。

「・・・・今更革命なんて信じちゃいないでしょうに・・・」

 気づくとリツコの声。
 寝ている者に気遣うかのように声を潜めている。

「ああ。もう全ての革命は試されつくしている」

 話し相手は加持らしい。
 アスカは、目を開いた。
 部屋の灯は、テーブルランプ1つだけが灯されていた。
 テーブルを挟んで、両側のソファ各々にリツコと、加持が身を投げ出しながら話している。
 その向うの長椅子にだらしなく眠りこけているのはミサトらしい。

「妙なものよねぇ・・・・
 昔の友達に銃を突き付けられて脅されて・・・その脅した奴が、まるであたし達を信頼仕切ったみたいに眠りこけているのを、大人しく見てるあたしって・・・なんか馬鹿よね」

 加持も銃は持っていないらしい。逃げようと思えば容易に逃げ出せたろう。
 だがリツコには疾うに逃げる気は失せていた。

「ああ、妙なものだな」

 加持は天井を見上げて言う。その言葉はリツコの言葉への返事のようでもあり、あるいは全く別の事への応答のようにも聞こえた。

「本当のところ、うまく行くと思ってる?」

 この問はもう何度も投げかけられている。
 リツコも最早、はぐらかしのような答え以外は期待出来ないことは承知の上でなお問うてしまう。

「うまく行くさ」

「どう?」

「どうって?」

「だってあなた達って、作戦の成功を目指しているって感じじゃないのよね」

「どう違うのかい」

 寝そべっていた加持が起き上がり、ソファに座り直した。

「まるで死にに来たみたいに見える」

 加持はその言葉にしばし考え込む風だった。

「当たっているかもしれないな。人は本当にしたいことは自分でも良く分からんものだからね。
 だが、少なくとも俺は死ににきたりはしない」

「では何が得られると?」

「・・・・・」

「それが分かれば、あたしも納得できるのかも」

 加持は軽く笑って言った。

「リッちゃんはずるいなぁ。それじゃまるで脅迫だよ」

 リツコも少し笑った。

「正直言って政治は俺にも分からん。そういう事を考えるのは葛城に任してる。
 俺自身の動機に付いて言えば・・・
 そうだな・・・・
 見たかったんだよ」

「何を?」

「全ての人のエネルギーが開放される瞬間を。
 ・・・
 その先のことなんか、考えちゃいない。
 革命なんて、そのほんの一瞬のものだ。
 どんな革命も一瞬の間輝いて、そしてあっと言う間に色褪せ下らない煤けた日々に化けちまう。
 もし、歴史の法則があるとすれば、定めしこれがそうだろうさ。
 だがな。
 全ての人が、神々しい姿を表すはずのその一瞬。
 それは決して嘘じゃない。
 俺はそれを待ち望んで待ち焦がれているのかもしれない」

「あら、随分と芸術的な動機ね?」

 リツコの口調には嘲りの色が篭められていた。だが加持は、全く気にしていないかの如くに話を続けた。

「そうだな。
 芸術と革命と・・・・
 陳腐だがね」

「それが人殺しをしてまで追い求める価値があることだ、とでも?」

「ほう、すると君は、死んでいるかのように生きている事の価値があるとでも?」

「それは傲慢だわ。
 あなたに他人の生を決める権利なんか無い」

「そうして、みなグダグダと下らない時間を過ごし、だらだらと余生を送り、
 ぼろぼろになって大勢に介護してもらって、死んでゆく。
 それも権利の行使には違いない」

「そういう風に決めつけるのが思い上がりだって言ってるのよ」

「はい、はい、優等生のリツコちゃん。
 俺は別に決めつけているつもりは無いぜ。俺は決めるんじゃない。裁きもしない。
 ただ行動するのさ」

「身勝手」

「そう捨てたもんじゃない。
 じゃ、聞くが、君がアスカの音楽を聞かせてやっている、あの連中は一体なんだ?。
 本当にアスカの音楽を聞くだけの価値があるとでも言えるのか?」

「そんなこと関係ないじゃない!!」

「知ってるんだぜ、例のコンクールの・・・K氏はアスカの体を条件に持ち出したんだろ?。
 一晩好きにさせろと」

「・・・くっ・・」

 リツコが息を飲む。アスカは我が耳を疑った。
 あの好々爺としたK氏が、そんなことを言っていたなどと・・・。
 背筋を気味の悪い感覚が走る。

「あの一族は腐り切ってるからな。
 で、どうした?。
 君は未だ自分の肉体的魅力が、対価として役に立つということを再確認して嬉しかったかい?」

「下衆!!」

 そう言えばアスカには思い当たる節があった。
 コンクールの一時予選の日の晩、リツコはホテルには帰って来なかった。翌日のリツコは顔色も青く、明らかに体調が悪かった。
 暗闇の中にリツコの嗚咽が聞こえる。
 アスカは吐き気を堪えるのが精いっぱいだった。

「そうさ。俺は、そんな奴だからな。
 だがな、結局見てみろよ、そうした腐り切った連中か、その連中に踏みつけられて生きながら死んでる奴か。この世界にはそんな人間しかいないじゃないか?。
 俺は、そうやって死にながら生かされてるものの怨念を開放したいんだ」

「そんなの子供の理屈よ!!!」

「子供じゃなきゃ開放できなどしない!!」

 薄暗闇の中で、加持とリツコは睨み合っていた。
 アスカはすぐに飛びおきて、リツコに問い質したかった。しかし出来そうになかった。
 もし問い質せば、リツコの身代りの行為をも暴かざるを得ない。
 だがそうしたところでどんな意味があるのだろう。リツコを傷つけてまでして得られるものなど何もない。あの賞は、リツコの体を蹂躙した醜い老人の手によって手渡されたのだ。

 まるで今までの危惧が全て、証明されてしまったかの様。

 吐き気を堪えるのは最早限界だった。
 苦しいながらも、アスカは演技することにした。いや演技していると思わなければ、崩れてしまいそうだった。

「う〜、・・う〜ん・・・」

 寝苦しそうに呻いてみせる。

「アスカ?・・・」

「・・・う〜」

「どうしたの、アスカ」

「・・・・くっ・・・・う〜」

「アスカ!、アスカったら!」

 リツコが駆け寄って来るのが分かる。額に当てられる冷たい手。

「う〜気持悪い・・・・」

「どうしたの、大丈夫?」

「・・・吐きそう・・・・」

「吐きそうって・・、こんなところじゃ・・・」

「大丈夫、起きられる」

 どうにか演技は成功したようだ。よろよろと起き上がろうとしてリツコに助けられる。

「肩を・・・」

 リツコに支えられながら、どうにか洗面所の入口まで辿り着く。

「・・・ここまでで・・・いいから・・・」

 演技のつもりだったが、本当に気持ち悪かった。吐き気どころか寒気がする。
 慌てて、トイレに飛びこみ、嘔吐した。
 涙と鼻水と吐しゃ物で顔はくしゃくしゃだった。
 すっぱいものが逆流し、胃は痙攣して、やがて何も吐くものが無くなっても、アスカの体は嘔吐感に痙攣を繰り返していた。
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