▼第七章

 夏は疾うに終ってしまった。
 あれから今日まで何も起こらなかった。

 そうして毎日が繰り返されて行く。

 何も変わらない。

 学校には、シンジの心を惹くものは何もなかったから、ただ黙って拘束された時間が通り過ぎるのを待つだけだ。それから家に帰って、チェロを弾く。
 週末には冬月先生の所でレッスンを受ける。
 判で押したように同じ日々。

 以前なら、それでも良かった。

 さして外に対して期待もしていなかったから、別段これでも構わない。
 そう思っていた。
 チェロを弾く時間だけが、生き生きと流れて行く時間だった。
 それで十分だ、と思っていた。

 しかし、何かが違っていた。

 小さな隙間から、少しづつこぼれ落ち行くもの。
 光景は、ほんのわずかに、だが確実に色が褪せて行く。
 耳にするものの中に、微かに咎めるような、あるいは悲鳴のような声が含まれているかのよう。
 シンジは、それに気付くまいとしていたのだが・・・・・

 ある日学校から帰ると、驚いた事に父が家にいた。

 夏休みの後にあったのは、別荘から帰って来た日に一度だけ。しかも、その時父は、これから演奏旅行に出発しようとしているところだった。一言二言どうでもいいような会話をしたけれど、それは他人行儀ということすら未だ甘いと思える程、そっけないものだった。

 その父とリビングのテーブルを挟んで向かい合っているのは見覚えのある少女だった。

 二人は、シンジが部屋に入って来ると会話を止め、視線をシンジの上に止めた。
 シンジの侵入によって打ち破られた、談笑の名残が二人の表情に残るものの、シンジと相対しているのは、最早冷たい視線にすぎなかった。
 気まずい思いをしながら、シンジはぼそぼそと挨拶めいたことを言う。

「あ、父さん、お帰り」

 だが、父からはすぐには返事は帰らない。
 バツの悪さを感じつつ、シンジは自室に戻ろうとした。
 ようやく、父が声をかけた。

「そこへ座れ」

 仕方無く、歩み寄るシンジに対し、青みがかった銀の髪の少女が無表情な顔で会釈した。

「レイには今日からここに住んでもらうことになった」

 シンジが席に付くのを待たず、父はそう宣言した。

「え?!」

 驚いて、シンジは少女の方へ視線を走らせる。
 少女は確かに、微かな笑みを浮かべた。

「レイはこれから音大の受験が終るまで、この家に住んでもらう」

「え、あの、そ、その・・・」

「不満か」

「いや、そういう訳じゃなくて・・・
 その・・・」

「では、なんだ」

「困るよ」

「何故、困る?。
 部屋は空いている所を使ってもらう。
 家事は、横沢さんがやってくれる」

「だ、だって・・・」

 女の子と二人切りだなんて・・・と言いかけてシンジは、その先をどうしても言えない。
 レイ自身が納得し、父が認めているのならシンジ一人が心配するのもばかげていることになる。
 どうせ、分かっては貰えないだろう、それくらいならば、いっそ・・・。
 シンジは観念した。

「よろしくね」

 少女が言った。

 綾波レイ。

 シンジにとっては母方のイトコにあたる。
 二年前、母の法事で一度顔を会わせたことがある。

 生まれつき色素が少ないと言うことで、紅い瞳が印象的だった。

 寺の、待ち合い室の片隅で一人ぽつんと座っていた。藍色のブレザーとスカート。白いレースの襟。
 そして白い透き通るような肌に、愁いのある面質。不思議な色の髪。
 色素が少ないせいなのだけれど、どうみてもその髪は青かった。そんな髪の色にも拘わらず、奇異な感じはしなかった。

 シンジは、思わず見入ってしまっていた。


 不意に少女は顔を上げ、視線をシンジの顔に向ける。

 少女はまっすぐシンジを見ていた。
 その表情は、「ただ見ている」としか言い様の無いものだった。
 自分を見つめている少年に訝しげな問を含むでもなく、愛相を振りまくでもなく、さりとて怒りでも、無関心でも無かった。その瞳は確かにシンジを見、そして見ていることを意識している眼差しだった。けれど、それ以外の何の感情もそこには見出せなかった。
 紅い瞳に吸い込まれるかのように感じながら、シンジは随分長いこと自分をまっすぐ見据えている少女の顔をただ眺めていた。

 それだけだった。

 やがてシンジは、気恥ずかしさを覚え、視線を逸した。
 それからは却って彼女の方を見ることが躊躇われ、気にはしながらも結局彼女の姿を見ることは無かった。

 結局、法事の日中、シンジは彼女のことを気にしていたせいか、普段なら全く気にする事の無い親戚同士の口性ない会話の中から、彼女に関することを結構耳に止めていた。
 曰く、幼い頃に両親を無くし、それ以降、どうやら養育費はシンジの父親が出しているらしいこと。ただし、つい最近まで外国に居て、何でもむこうの偉い先生に預けられ一種英才教育のようなものを受けていたこと、等々。
  ただ、身寄りの無い彼女が帰国して今どこで生活しているかは結局分からなかった。
 父が面倒を見ているということを聞いても、ショックは覚えなかった。なにしろ、滅多に家には帰って来ない父だ。最初から自分と父との間にある懸隔について、それを受け入れて育って来たのだから。
 それもあってレイの事を直接父に尋ねようとは思わなかった。
 恐らくは答えてくれないだろう。それに自分がレイに関心を持っていることを見透かされるのも嫌だった。
 だから、言わないには言わないだけの父の考えがあるのだろう、と思うことにした。

「では、シンジ。
 後は頼んだぞ」

 唐突に父は立ち上がる。

「えっ、父さん・・・」

 途方にくれているところに、このまま放り出されるのか、とシンジは思わず父を呼び止めてしまう。

「なんだ」

 それは尋ねると言うよりも拒否するような響き。

「・・・・な、なんでもない」

 こうなると、シンジは引き下がるを得ない気がしてくる。

「おじさま」

 レイが立ち上がると、父に声をかけた。臆すること無い、静かで余りに自然な声。

「ああ」

「どちらにいらっしゃるか、おっしゃらないんですか?」

 シンジは驚いてレイの方を見た。
 落ち着いて、父を恐れることなく、父が誠実に問に答えるだろうことを露も疑っていない。
 そして父の反応はシンジをもっと驚かせるものだった。

「そうだな」

 少しばつの悪そうな笑みを浮かべて父が答える。

「ニューヨークに行って来る。演奏会の契約があるのでな」

「いつお帰りになられます?」

「1ヶ月程だな」

 それを聞くとレイは唖然としているシンジの目を覗き込むようにして言った。

「だそうよ。
 で?」

「は?」

「何も言わないの?」

「え?」

「出かける人に言う言葉」

 シンジは何を言われているのか分からず暫くぽかんとして居たが、ようやくレイが何を求めているかに気が付いて、妙に恥ずかしくなって赤面する。もう何年もそんな言葉を言った覚えが無かったから。

「い、いってらっしゃい」

 吃りそうになりながら、どうにかシンジはそれだけの言葉を吐き出す。もっとも父の顔を見てはとても言えなかったのだが。

「ああ、行って来る」

 こうしてシンジは、レイと二人切りで取り残された。

「え〜と、あの、そ、その・・・・
 何て呼べばいいのかな?」

 レイと呼ぶのは厚かましい感じがしたし、それほど親しくもないのに馴れ馴れしい呼び方はしたくはなかった。けれど「レイさん」と呼ぶのもどうにも座りが悪いように思えた。

「御好きなように」

 そっけない回答。だが別に冷たい反応ではない。しっかりシンジを見て、話す。

「じゃ、綾波さん」

「いや」

「え?」

「さん付はいや」

「だ、だって・・・」

「同じ家に住むのにさん付されるのはいや」

「あ、そ、そそうだね・・・」

「・・・・」

 じゃあどう呼べば良いのかとシンジは考えあぐねる。
 するとレイはきっぱりと言った。

「綾波でいい」

「え?、いいの?」

「いい」

「だ、だって呼び捨てだよ」

「構わない。
 碇くんは、多分、レイって呼ぶの恥ずかしがるから」

 さん付けは嫌と言いながら、レイはシンジのことを「碇くん」と呼ぶことに決めたようだった。

「あ、僕はシンジ、で構わないけど・・・」

 と言いかけて、少し厚かましいかなと腰砕けになる。

「ううん、あたしは碇君って呼ぶことにする」

「そう・・・・」

「・・・・・」


 会話はとても弾むとは言えない。
 打ち解けないから、と考えたかったが、どうも今までの感じを見る限りレイは、多分なれて来ようが来まいが、この調子のようだった。
 嫌な感じではない。むしろシンジは彼女がこの部屋に一緒に居てくれることが心地よかった。
 不思議と心が休まる感じがした。けれど、何故か、言葉を繋がなくてはと焦っても居た。

「そういえば・・」

「なに?」

「音大・・・」

「?」

「受験するんだよね」

「・・・・碇君はしないの?」

「え?」

「碇君もするんでしょ?」

「・・・そんなこと考えたこと無かったな」

「そうなの」

「・・・」

 自分が将来の事を聞かれるのが苦手なのは意識していた。そもそも、将来何になりたいか、は社会をどう見ているかに関っている。彼自身の社会観があればこと、本人の価値観と社会の許容する在り方との妥協的な像としての将来への希望が生まれて来る。たとえ夢だとしても、それすら最初から妥協の産物なのである。

 シンジには、その為に必要な社会観そのものがすっぽり抜け落ちている。いや、期待できないもの、関心が持てない何か、としての社会観ならあると言って良い。だが、これとシンジの価値観とでどう折り合いが付くと言えるのだろうか。

 彼が唯一持っている望みと言えば、それはチェロを弾くことを通じて、より沢山の美しい音の構築物に出会うこと位しか無かった。そしてそれは音楽家という「職業」の目的や使命では無い。
 とはいえ、さすがに世間に疎いシンジとは言え、どうやら「音大」なる学校は音楽をやる人間が行く学校であるらしいことは知っていた。
 そう言えば、レイは何の楽器をやるのだろう?。
 目の前のいとこについて、シンジは余りに何も知らな過ぎた。

「楽器、何やるの?」

「ピアノ」

 そっけないほど、感情の混じらない純然たる答え。

 愛相の言い言葉の一つでも思い浮かばない訳では無かったが、それを言ったところでレイの反応は予想出来た。シンジは無駄なことは言わない事にした。
 それよりも、「ピアノ」という言葉を聞いただけでシンジは、微かな胸の痛みを覚えていた。
 栗色の髪の少女。その面影、そして音。彼女の生み出す音の流れの中で、あの時確かにシンジは息づいていた。その音の流れに沿い、あるいは流れを変え、あるいは流れに身を任せて自身も音そのものとなっていたあの時間。
 今ごろ、彼女はどうしているだろうか・・・・・。

「音楽室、どこ?」

「え?」

 気が付くとレイが立ち上がっていた。

「音楽室どこ?。
 あたし練習する」

「あ、そうか・・・」

 シンジも立ち上がると廊下へのドアを開け、音楽室のドアの方を指し示す。

「あそこだよ」

「そう。
 ありがとう」

 と言うが早いか、レイはさっさと音楽室に姿を消す。

 どんな音楽を聞かせてくれるのか、シンジは興味があった。
 だが、その願はなかなか叶えられ無かった。

 というのも、それから一時間余りの間、レイはメカニカルなトレーニングのみに終始したからである。
(後で、それは安川和寿子という日本人の名ピアニストが考案したウォーミングアップ用のエチュードであると教えられた)
 それにしても、正確な、余りにも精密なテクニックだった。
 シンジはレイが、極めて優れた技術を持っている事に驚嘆させられた。どれほど早いパッセージであろうと、どのようなダイナミクスでも正確に一音一音の音価を均等に響かせることが出来、またタッチを正確に弾き分けることが出来るのだ。
 また、オクターブを含む和声であっても、ここの声部のバランスを正確にコントロールしてみせた。
 (事実、和音進行の練習では数種類のバランスで何度も繰り返し練習していたので、レイがそれを意識してコントロールできるのは明らかだった。)

『アスカとどっちが上手だろうか』

 そう言えば、こうしたテクニックの点だけに注意してアスカの演奏を聞いたわけではなかった事を思い出す。これでもシンジとてピアノのレッスンには付かされていたので、楽曲の難易について分からないでもなかった。先日のコンチェルトの伴奏は、考えてみれば酷く難しい筈だった。だがアスカの演奏にはそうしたことを微塵も感じさせるところは無かった。
 ということはテクニックすら意識させることなく音楽を紡ぎ出せたということになる。
 となれば、やはりアスカも驚嘆すべき技量の持ち主なのだろう。そう思い返してシンジは少し嬉しくなる。別にシンジが彼女のことを誇らしく思う謂れは何もないのだが。

 メカニカルな練習がようやく終了したと思うや、レイは、猛烈な勢いでバッハのイギリス組曲の5番を弾き始めた。
 この曲自体は、難易度の高い楽譜ではない。そもそもバッハは「ピアノ」という楽器を知らなかったのだ。そうして当時の音楽を考えれば、数種類の鍵盤楽器での演奏に耐えられるよう、それはいわば「抽象的な」音楽として作曲されているのである。
 いずれの楽器であろうと、音楽として成立しえるような作曲、というのは音楽が実際の物理的に存在する楽器という物体を通して、物理的に「音」として鳴り響かなくてはならない以上、抽象的な音楽と呼ぶに相応しい。
 ということは、バッハの曲をピアノという楽器で演奏する指針というのが、ピアノ発明以降のピアノ曲とは異なり全く存在しない、ということを意味する。平たく言えば、それはピアノの為に書かれた音楽では無い、という事だ。
 だが、それにも関らずピアノという楽器の持つ美しさを十全に生かした演奏が出来るのなら、それは抽象的な音楽がそこで肉体を持ったとでも言いえるような素晴らしい事であるには違いない。

 そうしてレイの奏でているバッハは、驚く程ピアノ的だった。

 正確なテクニックは、そこでは複雑に絡みあう全ての声部が同時に、各声部の音楽の流れにしたがって、「歌う」事を可能にしつつ、さらに全体の響きが正しくピアニズムの精要とも言うべき音響構造を浮かび上がらせるのに役立っている。各声部の線は各々がまるで他を気にすることなく、自由に歌の流れに身を任せているのに、それは見えざる手に導かれるように全体として調和し、更に大きな響きの構築物を浮かび上がらせていた。

 と同時にシンジは、ある種、アスカの演奏とは対極的な性格を聞いて取っていた。

 その演奏はむしろシンジのチェロの演奏に近いと言える。耳は正確に音を聞き分け、音に内在する筋に沿って、自ずから響きを構築していく。そこに人はある意味で存在はしない。聴く人という位相を一切含まない。

 純粋音楽。

 それを独善と呼ぶことも出来ようが、必ずしもそれは当たってはいない。何故なら元より音楽とはそうしたものでもあるからだ。和声楽や対位法というメソドロジーが西洋音楽の中に成立したのも、本来そうした自律性とでも言うべきものに人々は魅せられても居たからだ。

 では、こうした演奏に対処的であるアスカの演奏とはどういう性格のものなのだろうか?。
 シンジは実のところを、この段階でそれを正確には認識出来ては居なかったのだが、強いて言うのならば、弾く人=聴く人という位相を含んでいるものだ、と言うことが出来るだろう。音に内在する筋と言っても、その本質は人間の心理にある以上、人間の、聴くという行為やその時の感情と相関するものであるのは確かだ。恣意に流れるのではない。そうではなくて、音の内在する法則すら、実のところ無垢なものではない、という醒めた意識がありえるのである。そのうえで成り立っている音の生成とは、もはやロマンティックな性格を帯びる事は容易に理解しえよう。

 とはいえ、そうした演奏がロマン派以降の楽曲に適し、反対のスタイルは古典・バロック期の音楽に適するのだとは言えない事に注意すべきだ。演奏の局面に於けるロマン主義と、作曲の、創作のロマン主義とは近縁性を持っているとはいえ、独立した何かなのだ。

 バッハを一時間程弾いた後、レイはシューベルトのピアノソナタを攫い始めた。現在のレッスンでの課題であるのだろうか。シンジは苦笑した。この調子ではどれだけ弾き続けるか分からない。
 音楽室はレイに占領されてしまったのだ、と諦め自分の練習は自室ですることにした。
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