▼第八章

 帰って来てからのアスカは、表面上取り繕っているものの、以前よりも悪くなっているのは明らかだった。
 リツコはそれを、あの体験のせいだと思っていた。拳銃で脅されての帰京。そして彼女達が連れて帰ったその人物の無惨な死。ショックを受けるには十分過ぎる理由だった。加持の行方も分からない。まあ分からないということは逃げ切ったことを意味していたから、彼の死を悼む必要は無いだけマシというものだが。
 それにしても、これからどうしたものかリツコは途方に暮れるのだ。
 そのリツコも、アスカがあの日の会話を聞いていたことは知らなかった。彼女は、アスカには汚い世界を隠しおおせていると思っていた。そうしてこれからも隠し通せるものだと。
 やがてアスカ自身にも十分、そうした危険を避ける知恵と力が身に付くだろう。あるいは戦って行かねばならなくなるかも知れない。
 だが、それは今では無い、そう考えていた。

 スケジュールをキャンセルし続けるのも限界だった。

 リツコ自身の手腕による政治力と、天才少女ということで理解を見せるに吝でない業界に助けられて、ここまで引き延ばして来たものの、来月からのスケジュールはさすがに引き受けざるを得ない。
 それはアスカも理解していたから、帰京してから毎日念入りな練習を欠かさなかった。
 アスカは熱心に練習しているように見えた。
 だが、そうすることの意味自体に疑問を抱えながら続けて行くのは、練習そのものよりも遥かに困難な仕事だった。その困難窮まり無い作業をやりおおせている。
 今、アスカに唯一ある喜びと言えば、その達成感以外には有り得ない。自分を騙すという難業をやり遂げる達成感。余りに虚しい喜び。
 だが、そこからどうやって逃れられるのかアスカには見当も付かなかった。
 何もかも投げ出すこと。
 だがそれは一番出来そうに無い事だった。
 自分を許せなくなることを、出来る程には壊れているとは思いたくなかったからだ。

 時おりシンジのことを思い出すこともあった。

 あの時は、あれがもう一つの出口のように感じられたりもしたのだった。
 だが、今彼と会ったとして、それが一体何になるのか心許ないのだ。確かにそこには安らぎと満足があった。恐らくシンジならば、それだけで充足しているに違いない。

  アスカは?。

 何かが欠けている。そこに留まり続けることを何かが咎め続ける。

  何故?。

 それが分かれば、ひょっとして出口が分かるかも知れない。

  だが、どうやって?。

「アスカ、今週末、時間ある?」

 学校から帰ると、リツコが声をかけてきた。

「何?、仕事?」

「ううん、仕事じゃあないわ。
 でも、一緒に来て欲しいところがあるんだけど」

「いいわよ。別に何も予定無いし」

 リツコが持ち込む事以外に用事などある訳が無い。学校の友人と約束などしたことは一度も無かった。
出席日数ぎりぎりしか登校出来ないのだ。
 しかも、演奏家としての生活など、級友達の日常と共有できるものは何もない。
 最初は、物珍しさも手伝って何かと声をかけてくれた級友達も最近は、疎遠になってきていた。冷たくされているのではない。どうしていいのか持て余しているのだ。それが気になるからアスカの方からも声がかけにくい。もっと自分から歩み寄らなければと思うのだが、その一歩が踏み出せないでいる。

「リツコ、ここは?」

 連れて来られたのはKホール。アスカも何回か、ここで演奏会を行ったことがある。音響特性を室内楽に最適化した設計と、にもかかわらず、かなりの客席数を両立させていることで有名なホールである。

「M学生音楽コンクール。まぁ、国内の主に学生を対象としたコンクールよ。
 アスカはもう出る必要もないものだけど」

 ホールのエントランスに立て看板があり、そこにそう書かれているので答えるまでもない。
 ようするに、リツコの答えは答えを引き延ばしたにすぎない。

「どうして、こんなところに?」

「まぁ見てみれば分かるわ」

 そういうとリツコはどんどんとホールへ入って行ってしまう。
 ロビー入口に立ってモギリをしていたスタッフは、リツコを見るなり丁重な礼をして向かえた。
 こんなところにもリツコが音楽業界で持っている政治力が伺われる。
 資本力では大手事務所に叶わないとは言え、一方でこの業界がコネによる政治力がものを言う世界である以上、リツコの力は会社の見掛け以上に強いのだ。
 リツコに続いて、アスカが入って来るのを見て、ロビー内にざわめきが走る。
 アスカに注がれる目は好奇の眼差しと言って良かった。
 何故?。将来を嘱望される天才少女ピアニストが、学生音楽コンクールの、しかも弦楽器部門の日に姿を見せる。一体、今日の参加者にそれほど注目を集めるものがいただろうか、と。

 ダークホース。

 それは正しく、シンジに当てはまるものだった。

 リツコすら、碇ゲンドウの愛息子で、これほどチェロの力量に優れている少年が居ることを知らなかったのだ。シンジの存在を知るものはT芸術大学の冬月教授他、碇氏に親しい極数人に限られていた。
 そして、その力量も固く外部に洩らされる事無く秘められていたのである。
 学生音楽コンクールの審査員には、特に何も知らされていなかった。普通、こうした有力者の関係者が参加する場合、大会スタッフや各事務所関係者から、それとなく失礼のないよう注意事項が申し渡されるものだった。またしばしばそうした有力者自身からの挨拶が行われるのが通例だった。
 したがって書類審査の段階で審査員全員が注意するようになるものだ。しかし今回はそうした事は全く行われなかった。普通の一般参加者として申し込まれ、普通の一般参加者として審査されたのである。シンジの師にあたる冬月教授の申し沿えも無かったので、碇という姓に珍しいものを感じながらも、審査員達は、碇ゲンドウとの関係を露も思い付かなかったのである。

「シンジ君、来週のM学生音楽コンクール、申し込んであるからね」

「えっ?」

 冬月教授の話は唐突だった。それはいつものレッスンの終り。
 まるで世間話のように白髪の老教授は言った。

「課題曲は、ほら、どれも一辺やった奴ばかりだな」

 そういって一枚の紙切れをシンジに渡す。
 そこにはシンジにとっては馴染みの曲ばかりが並んでいた。

「・・でも、コンクールなんて、僕どうすればいいか分かりません」

「あ、なに、当日は君も知ってるだろう、ほら、伊吹君。彼女が君に付き添う事になってるから、彼女の指示に従ってくれれば問題無いはずだ。なんせ申し込み書上は君は伊吹君の弟子ということになってるんでね」

 伊吹とは、冬月の教え子で現在芸大の大学院に在籍しながら、演奏活動を始めた新進の女性チェリストである。レッスンに訪れたときに何度かシンジとは会ったことがあった。
 一見、大人しそうにみえる小柄で清楚な美人だが、話してみるとかなりボケとおっちょこちょいが強い。
 余り安心出来るとは言いがたいタイプだ。とはいえ、冬月の教え子のなかではシンジと最も気が合っていた。

「それに、既にレイには、碇から話しがしてある」

「な、なんで綾波が?」

「伴奏者だよ、伴奏者。このコンクールでは本選の課題曲はピアノ伴奏が必要だが、伴奏者は参加者が自前で調達することになってるんだ」

「そ、そんな、どうしてそんなことまで決まってるんです」

「ま、気を悪くしないでくれ。
 碇に固く口止めされてたんでな。一週間前まで教えるな、とな」

「・・・・父さんが・・・」

 一体、父が、どういうつもりなのか全く分からなかった。
 それまで人前での演奏などしたことはなかった。学校の文化祭での演奏すら固く止められていたのである。それが突然のコンクールだという。しかも本人に知らされたのは一週間前。
 これではまるで準備などする時間は無い。

「固くならず、いつも通りやればいい」

 冬月は、明るく言ったが、どこか気の毒がっている風にシンジには聞こえた。

 冬月にしてみれば、これまで散々、自分が勧めながらシンジの関心を呼び起こすことが出来なかった経験から、このやり方しか無いことは承知していた。
 しかし自分をダシに使ったゲンドウのやり方には少々腹を立てても居た。

 レッスンから戻ると、レイがリビングのテーブルに着いて待っていた。
 テーブルには薄緑色の表示の真新しい楽譜が置かれている。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 シンジはテーブルの上の楽譜が、課題曲のハイドンのチェロ協奏曲の伴奏曲であることを見て取る。
 彼女はずっと知って居ながら、一言も言わなかったのだ。そう思うとシンジは少し腹が立った。
 レイは、伴奏の練習をしようと待っていたのは明らかだったけれど、わざと気が付かない振りをして素通りする。キッチンに入って、冷蔵庫からジュースの瓶を取り出し、コップに注いで自分だけで飲んだ。我乍ら嫌らしい仕打だと思いながら。
 レイは、すっと立ち上がると楽譜を手に取り言った。

「音楽室で待ってるから」

 そうして振り返りもせず部屋を出て行った。
 考えてみれば、レイには断ることなど出来ない相談に違いない。生活の全てを頼っているゲンドウに逆らうことなど出来るはずが無かった。
 どうあがいても、悪者になるのは自分しかないとシンジは諦めるしかなかった。

 音楽室に行くとレイは、既にスタンバイした状態でじっと待っていた。
 その姿にシンジの心は小さな痛みを覚えた。
 楽器をケースから出し、弓を張る。それから楽器を構えると、レイは何も言わずAの単音を弾いた。
 シンジも何も言わず調弦を始める。
 ひとしきり弦を調節すると、シンジはレイに頷いてみせた。
 前奏のD-durの響きが部屋を満たした。

 リツコ達が会場に着いたときには午前の予選はとっくに終了し予選通過者の氏名の張り出しも済んでいた。本選開始までには後20分もあった。

「ふ〜ん、それじゃ本選参加者を見てみましょう」

 そういうと張りだしがされている掲示板に向かう。

「ねぇ、一体どうして今日、ここに来たのよ」

 アスカが尋ねる。

「大丈夫。ちゃんと通ってるわ」

「ねぇ、リツコ」

「御覧なさい。アスカが良く知ってる人が出てるわよ」

「えっ?」

 エントリNo.17 碇シンジ

「・・・良く、って程知らないもん・・・」

 思いがけない名前にアスカは動揺する。嬉しさと恥ずかしさで顔が赤らむのが分かる。

「あら?」

 とリツコは意地悪く尋ねる。

「知らないっ」

 そういうとアスカは走り去った。

「やれやれ・・・」

 だが効果はありそうだ、とリツコはほくそ笑んだ。


「おや、赤木さんの・・・」

「あ、冬月先生、御無沙汰しております。
 シンジ君、通過してますね」

「やれやれ、君には御見通しって訳か。箝口令敷いてたんだけどねぇ」

「あたしも意外でしたもの」

「まぁ碇の奴がねぇ」

 と冬月は苦笑する。

「よほど大切になさってらっしゃるのね」

「ちょっと異常な位にね」

「で、これでお披露目ですか?」

「まぁ、そういうことになるだろうが・・・碇としてはそれだけでは無いようだな」

「それだけではない?」

「まぁ、すぐに分かるよ」

「それはそうと・・・」

 リツコは、かねてより思っていたことを言い出そうとする。

「分かってるよ、君のところでシンジ君を、という事だろう?」

「ええ」

「まぁ、何事も碇次第だがな」

「先生からも御口添え頂ければと思いまして」

「うむ、余り期待せんでくれよ。なんせああいう男だからな」

「お手間取らせます」

「ああ。
 ところで・・・」

 そこで冬月は声を潜める。

「アスカ君のことだが」

「・・・はい」

「ほれ、親戚の、キョウコ君の兄弟で、なんとか言ったな。ええと・・・」

「・・・・」

「大丈夫かね?」

「はぁ」

「こういう事でスキャンダルになると、ちと困ったことになるからなぁ」

「恐れ入ります」

「それじゃ」

 リツコは自分が、冷汗をかいているのに気付く。疲労のようなものがずっしりと肩にかかって感じられた。

「どうして・・・・」

 シンジは、初めてレイと合わせた時に思わず尋ねたものだ。
 アスカと演奏したとき、アスカはまるで対話を愉しむかのように、誘いかけあるいは拒絶しあるいはじらし、そして時には寄り添うかのように歌ったものだ。
 しかしレイは、そうしたことは全くしなかった。あの鋭敏な耳が紡ぎ出す、確かな構成感は変わらないにしても、それよりもシンジの歌にぴったりと従い、決してその枠をこえようとはしないのだ。

「?」

 レイはシンジに問いに怪訝そうに目をみはる。

「どうして、もっと自由に歌わないの?」

「これは碇君の歌だから」

「・・・」

「碇君が全てを決めるべきだから」

 それが当然だと言わんばかりだった。

「だって、自由に歌った方が面白くない?」

「面白い?」

 少しレイの顔が険しくなる。

「それであなたはいいの?」

「え?」

「あなたは自分の音に対して、そんな風に考えてるの?」

「・・・どういうこと?」

「全てはあなたの音から流れ出て来るもの。そこから生い育って来るものだもの。
 その隅々まで、あなたは自分の息を通わせたくはないの?。
 それを他人の歌でかき乱されても平気なほど無責任な演奏しているの?」

「別にかき乱されるなんて思わない。
 二人でやれば、調和することだって出来るはずだ」

「本当に?。
 あなたにそこまで読みきれて?」

「?」

「そこまで出来てるなら、そう考えるのも分かる。
 でも、今の碇君じゃ、単に責任の一部を他人任せにして楽をしているだけにしかみえない」

「そ、そんな!」

「とにかく」

 レイは、まるでこれで話しは終りだと言わんばかりだ。

「わたしはこうするの。
 碇君は、不満なら満足の行くようにリードしてくれればいい」

「・・・うっ・・・」

「練習続けるわ」

 そうして、問答無用と、一楽章の序奏を弾き始めた。
 その節は、先程聞いたものよりも更に、シンジの歌い方に近付いたものだった。

 実はその日の予選以降、審査員達は大騒ぎだったのだ。

 午前の部では、教本視奏とバッハの無伴奏組曲の演奏が行われたのだが、殆んど知られていなかった少年が圧倒的な技量を示したからだ。
 そして、少年の姓が碇であることを知るに及び、審査員の間に恐慌に近いものが走った。もしや、碇ゲンドウ氏の子息だとしたら・・・。その狼狽えぶりは甚だみっともないものだった。確かな見識に基づいて公平は審査が行える筈のコンクールの審査員も実のところ、コネ塗れの業界の中で自己の保身に窮々とする小心者の集まりに他ならない。冷静な筈の鑑識力も、そうした我が身かわいさの前には曇勝ちなのである。だからこそ、ゲンドウは予選まで、シンジの素性に思い至られない工夫をしたのだ、と言える。譬え予選で、それが露見したとしても、既に予見を持たぬ耳でシンジの演奏を聞き、判断した後であれば、本選に持ち込まれるバイアスはそう大したものでは無かろうと。

 そして審査員をなだめるダメ押しとして冬月が派遣されたのだ。
 審査員控え室では、委員長の石動がにがりきっていた。

「おう、石動、居るかい?」

 と尋ねながらも答えを待たずに冬月は控室に入って行った。他の審査員はまだ休憩からは帰って来ていなかった。

「やってくれるじゃねーかよ」

 石動は、冬月の姿に目もやらずに憮然とした面持ちで言う。

「はっ、はっ、はっ」

 冬月は笑い飛ばした。

「笑いごっちゃねぇよ」

「まぁ、そんなに怒んなさんな」

 石動は冬月より二歳年下だが、現在でもT響の主席チェロ奏者を勤めている。その歳まで現役を続ける為の苦労たるや並大抵の事ではない。冬月はそうそうに現役を引退し芸大教授に収まった。しかし石動は乞われて教鞭もとって入るものの、某私立音楽大学の助教授どまりだった。
 学生の頃から反骨魂とでもいうのだろうか、理不尽なことには後先考えず、NOと言ってしまうような男だった。コンクールの審査員の中で唯一骨のある人物だと言って良い。

「冗談じゃねぇ。審査員はみ〜んなびびっちまってるよ」

「だが、予選選考ではびびってはいなかったろう?」

「まぁな。そう考えりゃ御曹司だろうがなんだろうが臆するこたねぇんだ」

「そのとおりだ。わしが心配するまでも無かったようだな」

「確かにな、おめぇ、そりゃ余計なお世話ってもんだぜ」

「悪い、悪い。
 この埋め合わせはまた今度にな」

「けっ、飲み食いににゃごまかされねぇぞ」

「そうかい、じゃ行かないってことで」

「おいおい、ちょっと待て、それとこれとは別って言うんだったら相手してやる」

「はいはい、じゃ邪魔者は消えるぜ」

 そう言うと冬月は部屋を出て行く。

「おい、ちょっと待て」

 背後から石動が呼ぶ声がする。

「ありがとな、心配してくれて」

「ああ、気にするな」

 冬月は後ろ手にドアをしめると、深いため息をついた。
 石動がこの分なら大丈夫だ、と冬月は安堵した。もっともゲンドウがこんなことまで心配していたと石動が知ったら、さぞ激怒するだろうなと苦笑いしながら。

 アスカは心臓がこれほど早く打つのを意識したのは久しぶりのことだった。ステージの前に緊張しない訳ではなかった。いや適度な緊張感、プレッシャーを感じなければ決して「乗った」演奏などではしない。しかし今感じているのはそういう緊張ではない。
 まるで初めて人前で弾いたときのように、「アガリ」にも似て、それでいてどこか切ない気分だったのだ。もうじき、シンジがステージに現れる、そう思っただけで居ても立っても居られない程の興奮を覚えていた。
 シンジを求めていた。
 切実に。
 それが何を意味するのかは、まだはっきりとは分からなかったけれど。

 やがて、ひょろりとした、頼り無さそうな少年がステージに登場する。付き添って現れた伴奏者は青い髪の少女だった。どういう関係だろうか?。アスカは胸騒ぎめいたものを覚えた。けれど久しぶりにシンジの姿を見た喜びの感情の大きさに驚いて、そんなこともすぐに脳裏から消えさって行った。

 ピアノが序奏を始めるや否や、会場内は、それがコンクールのための演奏という枠を張るかに超えた音楽が始まろうとしていることに気付いた。
 その始まりが余りに鮮烈だったからだ。普通、伴奏のピアノは、ハーフポジションで開けられた本体蓋や、ステージやや置くに楽器が配置されたことの効果もあるのだが、少々冴えない音が鳴り出すのが普通だ。ピアノリサイタルなどで聞く音とは明らかに異質の音響なのである。
 所詮、伴奏は伴奏であって、全てのタッチが際だつような透明度の高い響きなど望むべくもないのが普通だった。これはこれで困った問題を引き起こす。例えばベートーベンのバイオリンソナタのようにピアノのパート自身が単なる伴奏を超えた音楽を持っている場合、伴奏のピアノの音響では楽曲自体が成り立たないケースも存在する。一方、弦楽器に比べると単音の立ち上がりが遥かに鋭いピアノは、もしピアノがステージ前面に、且つ天蓋を完全に開けた状態で設置した場合、ソリストの弦楽器奏者にとって耐えがたい重圧となる。
 もとより、弦楽器のソロにピアノ伴奏という形態は、慎ましやかなアップライトピアノによる、サロンの場での演奏という形式の元で発展を遂げたものだ。
 一方で近・現代の楽器の開発は、グランドピアノをして、大ホールに耐え得る音響効果を与えてしまっている。この間、弦楽器自身にはこれといったイノベーションは起こらなかったというのに、である。
 そうして現代の弦楽器のソロとピアノの組合せという形態はいわば妥協的な音響効果を選択せざるをえなかったのだ。

 だが響き始めたその音楽は、そうした妥協的な音響を予想していた耳を裏切って、まばゆいまでの正確で美しいタッチをもって開始されたのだ。あたかもハイドンのピアノソナタを聞いているかのようにクリアで堅固な和声の構成物は、それだけで音楽の世界を出現せしめていた。
 さらにチェロの独奏が始まったとき、あまりにもピアニズムそのものといったその響きが、その実、少しもソロのチェロの音を脅かすものではない、いわば絶妙なバランスであったことに更に驚かされるのだった。

「あの娘は誰なの・・」

 リツコは唖然としていた。

『まぁ、すぐに分かるよ』

 冬月のあの言葉はこのことだったのか。だがこれでは、シンジにとって不利ではないだろうか?。

 しかしそれは杞憂に過ぎなかった。

 始まったソロは、そうした完璧なピアノの音響を完全に支配していた。
 いや、伴奏がソロに合わせるのでも、ソロが伴奏を引っ張るのでもない。
 全てがシンジの弓と弦が生み出す音のうねりの中に混然一体となって、そうした音の王国の中で悠然と全てを支配して揺るぎ無い一人の音楽家が居るのだ。
 それがあのひ弱そうな少年であることすら、聴衆は忘れていた。夏のあの日、シンジが展開しみせた壮大な音の構築物が、今このハイドンのどちらかといえば地味でさえある協奏曲を素材として目の前に立ち聳えていた。
 リツコは圧倒されていた。凄まじい、そう。それは凄まじいと言うしかない才能だった。
 こんなハイドンの演奏は曾て聞いたことが無かった。余りに完全な音響の世界は、一方で始めて直面される者にとっては暴力的ですらあった。いやもともと、好々爺然としたパパ・ハイドンの音楽の中には最初からデモーニッシュなものが潜んでいたのだ。
 それが今、完全に現れたとき、最早、均整の取れた古典的様式の節度ある音楽というイメージは微塵も無かった。


 アスカも驚いていた。

 リツコ以上に、レイがなにを行っているのかを正確に耳にすることが出来たから、それがどれほど正確で隙の無い高度なテクニックと、繊細な耳のもたらす技であるかははっきり分かった。

 レイは、見事な程にシンジの音楽を理解仕切っていた。


 嫉妬。


 その胸の痛みは、そうだったかもしれない。
 例えリツコのように優れた耳の持ち主だとしても、最終的にシンジの演奏の内奥までも理解しえるのは自分だけだと、何時の間にか信じていた。例え僅かの時間しか共有していなかったとしても、まるで前世からの契でもあったかのように、アスカにはそんな特権的な能力が備わっているかのように思っていた。それがシンジとアスカの絆なのだと。

 その幻想をレイはいとも容易に打ち砕いてしまっていた。
 その理解は、実際アスカをも超えていたかも知れない。アスカとなら、シンジはこれ程にデモーニッシュな表現は引き出さなかっただろう。
 レイは、シンジの影の部分まで容赦なく抽出して、それすらシンジの芸術としてコーディネイトしてみせているのだ。

 アスカは震えていた。膝の上に握り締めた拳に涙が落ちた。

 演奏が終ったとき、一瞬の静寂の後、場内は熱狂的な拍手と歓声に包まれた。

 コンクール。

 それは何度も同じ曲の演奏を容赦無く聞かされるものだ。
 各プレーヤーの個性を聞き比べる愉しみはあるものの、最早演奏を聞いて愉しむというには程遠い。
 そんな疲れた耳の聴取達が熱狂した。
 確かに、大きな国際コンクールの歴史の中で、そう言う奇蹟の例が無い訳ではない。時として、神はそんな驚異的天才を人の世に現す事もあるのだ。
 いずれにせよ、会場の人々は、困惑した顔でおじぎをするステージ上の少年と、その後ろにひっそりと佇む青い髪の少女の天才を疑わなかった。


 彼らは、ここで「事件」を見たのだ。
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