▼第九章

「アスカ、ほら、シンジ君に会いに行くわよ」

 客席灯が点いていた。全ての奏者の演奏が終り、審査の為の休憩に入っていたのだ。

「・・・・あたし・・・行かない」

「どうして」

 リツコが怪訝そうにアスカの顔を覗き込もうとする。思い詰めた顔の少女は、それを払い除けるようにして身をかわし、言った。

「ほっといて!」

「な、何を怒ってるのよ」

「なんでもないわよ。
 気分が良くないの。
 だから、ほっといて。
 シンジにはリツコから良く言っておいて」

「アスカ・・・・・・」

 毎度の事ながら、アスカのこの気性には手を焼かされるとため息をついていると、背後から声をかけられた。

「あなたが、惣流アスカさんね」

 声の主を振り返ると、そこには先程の青い髪の少女が立っていた。

「綾波レイ」

 そう言って青い髪の少女は右手を差し出した。

「な、なんなのよ」

 憮然とするアスカ。

「アスカ!!」

 リツコはすかさずアスカを嗜めると、レイに向き直って言った。

「シンジ君の伴奏、素敵だったわ」

「ありがとう」

 礼を言ったものの、その口調は明らかにリツコはお呼びでないと告げていた。
 しかし、少々のことでひるむリツコでは無かった。

「どこかのコンクールで御目にかかったりしてないかしら?」

「いいえ」

 これほどの力量がありながら、これまでリツコの耳には届いて居ない事が不思議だったのだ。

「じゃ、どなたについてらっしゃるの?」

 レイはうるさく尋ねられることに不快な表情を滲ませながらも、丁寧に答えた。この秋からなのだが、と言って挙げたのは、とある芸大の教授の名前だった。その人物はリツコも何度か面識があったし、弟子の何人かのプロモートも手掛けた事があった。

「あら、凄いわね」

「はい」

 レイの反応は余りに正直すぎるものだった。

「シンジ君の御親戚?」

「ええ、従妹です」

「そう」

 一体、碇家というのはどれだけの才能を隠し持っているのだろうかと、リツコはいささか呆れてしまう。
 リツコの質問が途切れたと見て取るや、レイは再びアスカに声をかける。

「よろしく」

 そういって右手を差し出す。
 アスカは、仕方無く握手をかわした。華奢で冷たい手だった。

「それより、どうしてあたし達がここに居るって分かったの?」

 これまで一面識も無い筈のレイが、どうしてここに現れたのかと思ったのだ。

「シンジが見てたから」

「えっ?」

「シンジが演奏中にあなた達に気が付いたの。
 だからどんな人達か見てみたいと思って」

「あなたはそれを演奏中に気付いたの?」

「ええ」

「呆れた」

「それにあたし、あなたを知っている」

「知っているって?」

 どうせTVで見たとか言うんじゃないだろうか、とうんざりしながらアスカは答えた。

「ええ。
 この秋からあたし、あなたと同じ学校だもの」

 アスカはようやく思いだした。そう言えば先日、隣のクラス転校生が来たとクラスメートが噂していたのだ。

「クラスは違うけどね?」

「でも、同じ学年だわ」

 なんとなく、話しにくい、とアスカは思った。
 それに、本当なら今はレイに会いたくなかった。どう押えても、アスカはレイに対し刺々しい態度をとってしまう。こうして彼女がわざわざ会いに来た事自体、そんなことは有り得ないのだが、まるでレイがアスカに対し勝ち誇りに来たかのように思えてしまう。
 そんな勝負など無いと分かって居ながら、今のアスカはレイに気負けしていた。
 更にレイは言葉を続ける。

「もちろん、あなたは有名だから」

 こういう言葉は、いつもアスカを当惑させる。

「だから、何?」

「あなたの演奏、何回か聴かせてもらったわ」

「そう」

「最近、低調ね」

「!!」

 かっと頬が紅くなるのが自分でもはっきりと分かった。
 そんなこと言われなくても、自分が良く分かってる。一方で、それを面と向かって彼女に指摘したものは居なかったのだ。
 『誰も本当の事を言わない』と呟いたのは彼女自身だ。だが、いざ言われる事を酷く恐れてもいたのだ。レイの一言は、そんなアスカの心の弱味を全てさらけ出させてしまう。

『あらあら、やるわね』
 リツコは、レイの一言がアスカの急所を突いたのを見てほくそ笑む。今日はただ来ただけじゃない。

「あら、指摘されるの嫌だった?」

「な、な・・・・くっ」

 何を答えられよう。全て図星だ。
 アスカは横を向いてただ耐えるしかなかった。
 レイの表情には彼女を嘲笑ったりさげすんだりするものは何もなかった。
 淡々と、思ったことを言う、ただそれだけ。その屈託の無さは不気味とさえ見えた。

「聴いて」

 レイはまだアスカを解放しなかった。

「・・・何よ」

「明日と明後日ピアノ部門があるわ」

「・・・」

「あたしの予選は明日の午前中。明後日は本選」

「で?」

「あたしの演奏を聴いて欲しい」

「へ?」

「だめかしら」

 アスカには、レイの意図が図りかねていた。

「あら、いいじゃない。あたしもあなたのピアノ聴いてみたいわぁ」

 とリツコが割って入る。これ以上はアスカには薬が効きすぎる。

「リツコ!」

「いいでしょ、アスカも」

「え・・だって・・・」

「じゃ、綾波さん、明日がんばって」

「はい、ありがとうございます」

 レイは一礼する。
 その時、聞きお覚えのある少年の声。

「綾波!!
 ここにいたんだ。
 随分探しちゃったよ」

 その声に、アスカは思わず背を向けた。

「まって下さいよ、シンジくん、綾波さんも。
 もーどんどん行っちゃうんですもの。
 あたし、冬月先生に怒られちゃいますぅ〜」

 シンジの後ろから着いて来たのは、小柄でショートカットの女性。

「あ、リツコさん、お久しぶりです」

 演奏後の昂揚がまだ残った表情でシンジが挨拶した。

「まぁ、シンジ君、素敵だったわよ」

「え、そうですか」

 素直に赤面するシンジ。

「あ、ああの、あの、もしかして」

 後ろから着いて来た女性がリツコに話し掛けた。

「はい?」

「あ、の、あの、あ、赤木音楽事務所の赤木リツコさんですよね」

「ええ、そうですけど」

「は、始めまして、私、伊吹マヤと申します。
 お会い出来て感激ですぅ」

 伊吹マヤという名前は知っていた。冬月の若手の弟子の中ではかなり優秀な演奏家だ。
 もっとも、余り活動はしておらず、リツコが聞いたことがあるのはN放送のオーディションの録音だけだ。折を見て仕事を持ちかけてみようと考えていた演奏家の一人である。

「あら、あなたが伊吹マヤさんね。御噂はかねがね伺っているわ」

「嫌ですぅ、どんなこと言われてるか。
 ボケだとか、おっちょこちょいだとか、ショタだとか・・・
 キャー、シンジ君、嫌ー!!。
 今のは嘘よ、ほんとじゃないのよ・・・
 いや、あたし何言ってるのかしら」

 一人で自滅しているマヤに、リツコは呆れていた。確かに噂には聞いていたが、これほどとは。

「今日はどうして?」

「冬月センセに、シンジ君の付き添い仰せつかったんです」

「そうなの」

 冬月にレッスンを受け、新進の伊吹マヤに付き添ってもらうとは、また豪勢な。

「先帰るわ」

 アスカは小声で言うと、さっと駆け出した。

「あ、アスカ!!」

 驚いて呼び止めるシンジの声を振り切るようにして会場を飛び出して行く。

「アスカ・・・どうしたんですか。
 僕、嫌われてるのかな」

 気の毒なほどがっくりきているシンジの肩に手をかけて言った。

「ちょっとまた最近、落ち込んでるの。
 気にしないで」

「そうなんですか?」

「大丈夫」

 突然、割って入ったのはレイだった。

「綾波・・・」

「彼女、明日、あたしの演奏を聞きにくるわ」

「どうして・・・」

 レイは確信があるようだった。
 そこでリツコは引き取って言った。

「そうね。
 明日連れてくるわ」

 その言葉にレイは頷くと、シンジの手を取って言う。

「だから、シンジも」

「あ、ああ、うん」

 リツコのオフィスのあるビルは、区の条例で、一定戸数の住宅を併設していなければならなかったので最上階から下3階分が高級マンションとなっていた。
 その一室にリツコとアスカは住んでいた。
 5LDK。リビングは10畳分。音楽室もグランドピアノとオーディオ設備を収容してなお余裕がある。もちろん、深夜の練習も可能なよう防音設備は完璧だった。

 ドアを開ける。

 部屋の中は暗かった。
 階下から見た時、窓に灯は見えなかったので予想していた事だったのだが。

「アスカ?。帰ってるんでしょ?」

 リツコは暗闇の中に声をかける。
 ベランダ側の窓から外の街灯の青白い光が入って来る。
 その光に照らされて、アスカは窓際に椅子を置き、窓の外を眺めていた。

「どうだった?。シンジ」

「もちろん、1位よ・・・と言いたいところだけど」

「な、なんであれで1位じゃないのよ!!」

「1位無し、2位ってやつ」

「あ、・・・・審査員ばっかじゃないの!!
 どこに耳付けてんのよ!!!」

 暗くて見えないが、リツコはアスカが頬を真っ赤に染めて怒っているのが分かった。
 1位無し、2位。
 この何とも歯切れの悪い結果は、しばしば審査員達の微妙なニュアンスを伝えるものだ。
 無論、本当に1位に値するものが居ない為2位、という場合もある。が、しばしば、圧倒的力量は認めざるを得ないけれど、審査員達の価値観からはどうしても承伏しがたいものがある、という意志表示に使われることがあるのだ。

 今回のシンジの場合が正しく、それだ。

『勝手な解釈でありすぎる』
 というのが審査員達の意見だった。

 古典期の楽曲は、往々にして、出版される事を念頭に書かれては居ないのである。大抵は貴族の舞踏会や音楽会等の機会の為に作曲され、演奏するのもお抱えの楽士達であった。そこでは敢えて書かなくても通じる暗黙の了解事項があった。とはいえ、こうした音楽家達は、より有利な機会を求めて諸家を渡り歩いたから、西ヨーロッパ全域でこうした「ジャーゴン」のある程度の均一化は見られたのだが。
 このような楽譜である以上、その記述はしばしば、演奏家に注意を促すためのものしかなく、強弱記号が全く書かれてない楽譜が非常に多く見られるのだ。
 更に、混乱を増しているのは、楽譜が用いられた機会毎に異版が存在していることである。その時々の演奏の際、演奏家の顔ぶれが違い、また聴き手の好みも異なるとあれば、楽長でもあった作曲家達は楽譜に手直しを加えるに躊躇無かった。
 このような楽譜を使っての演奏とは、作曲家の本来の意図に忠実であれ、という規準と同時に、楽譜を信用してはならないという規準に従わねばならないのである。
 とはいえ、各種の文献と、その曲の楽譜以外の手がかりが無いのであれば解釈の可能性は無限にあることになる。その恣意性を解消するものとして存在するのが、いわば伝統なのである。
 何も文献によらずとも、一方で、古典期以来、演奏家達は師子相承して生の演奏を伝えて来ているのである。古典期の作品の演奏が今日確立した姿を保って居る背景には、こうした長い伝統の力があるのだ。

 しかし、一方でその伝統そのものにも疑いの眼を向ける事が可能だ。

 特に18〜19世紀のロマン派の主観的演奏スタイルの時代を経て、古典派の楽曲の解釈は本来古典期にそうであったものよりも、かなりロマン派的な夾雑物が混入していた。
 20世紀に入っての一連の演奏スタイルの革新は、古典派の演奏スタイルに混入したこれら古き良き時代の過剰な感傷を排除したことに負っている。

 何にせよ、古典派の音楽を演奏するとは、こうしたことを下敷にせねばならぬ。これがオーソドキシーの立場である。審査員達はここに拘ったのである。
 シンジの演奏は、そうは言っても冬月の一定の指導の影響を被っている以上、完全に伝統から切り放たれたものではない。むしろシンジの鋭敏な耳は、伝統が取っておいた最良の点を正しく吸収していたのである。決して伝統は無意味に守旧にかまけているのではないのだ。
 とはいえ、シンジは一方で伝統的スタイルが取り出せないでいた魅力を引き出す事に何の躊躇も無かった。

 これが『勝手な解釈』の実態だった。

 学生音楽コンクールとは、優秀な音楽学生を顕彰するものであって、決して優秀な演奏家の演奏を顕彰するものではない。審査員とすれば、こう言いたかったであろう。
 もし演奏そのものを世に問うのであれば、このようなコンクールにではなく、アスカがそうしたようにプロの為のコンクールに出れば良い。それを、わざわざ学生音楽コンクールに出ると言うのは、小手調べや、場数の為のトレーニングと受け取られても仕方が無かった。
 しかも、これほどの力量である。それをここまでどこにも出さず育てて来ていたのだ、とすれば、学生音楽コンクール出場は、どう考えてもウォーミングアップのように見えてしまうのは当然だった。
 審査員達は、そこに碇ゲンドウが、このコンクールをどう考えているかを読み取ってしまった。
 そして反発した。

 シンジの才能について、審査員達の中で疑うものは誰一人居なかった。
 しかし、それにどういう賞を与えるかは、コンクールの、ひいては審査員一人一人の立場を根本的に問う試金石になってしまうのだ。
 賞はメッセージである。

 そうして彼らは正しくメッセージを発したのだ。

「ま、碇なら、こう言うだろうな。
 "予定通りだ。問題無い"とな」

 結果発表のとき、リツコの後ろの席には何時の間にか冬月がやってきていた。

「予定通り?」

「ああ、何もかも奴の思惑通りだ。
 わしが今日ここに来ているのも含め。
 石動め、あれで一矢報いているつもりだろうが」

 冬月はさも愉快そうに声を潜めて笑った。

「わたしにそんなことを話してもよろしいんですか?」

「ああ、君にも役が回って来るんでね」

「どういうことです?」

「すぐ、分かる、とわしが言えば、それが嘘でない事も信じられるだろう?」

 確かに。

「でもあなたは気に入らなかったんでしょう?」

 リツコは優しく問いかける。

「うん、本当はね」

「あなたなら、違っていた?」

「分からない。
 多分、違ってたと思うけど・・・。
 シンジが完全に力を現していたら、あたしはそれをどうにかできるとはとても思えない。
 でも、あれは違う。
 確かに凄い演奏だったと思うけど、あたしがシンジから聴きたい音じゃなかった」

「でも、綾波さんは違ったのね」

「・・・・」

「悔しい?」

「・・・・うん。
 やっぱりね。
 でも、あたしはこのところ、何にも努力してなかったから・・
 今のあたしじゃ、反論出来ないわね」

「アスカ・・・・」

「という事!!。
 うじうじ悩んでもしょーがないの!!。
 音にしなきゃね!!」

 アスカはさっと立ち上がると、リツコに笑顔を向ける。

「さぁ、明日はレイの演奏聞いてやるわ!。
 お手並み拝見と行こうじゃない。
 じゃ、あたしもう寝るね」

 そう言うと、アスカは自室に走り去った。

『やれやれ、何とかなったかなぁ。
 でも、疲れるわねぇ、毎度の事ながら』
 リツコは苦笑いしながら、タバコに火を付けた。アスカには再三、止めろと言われているのだが、今は吸う権利が十分あると思った。

 翌日、アスカは一人で行くと言ったので、リツコは好きにさせることにした。
 もっとも、リツコ自身も後から行くつもりだったが。なんせ綾波レイと言う少女は、昨日のいきさつが無くても大いに気になる。
 純粋にビジネスベースで考えても、これは『おいしい』話になりえるのだ。
 と、こうリツコが考えている以上、他の同業者達も同じように算盤を弾いているにちがいない。となれば、今圧倒的に優位にいるのはリツコだと断言出来た。とはいえ、それはほんの僅かの差でしかない。
 だが、決定的な差とは決定的タイミングに、僅かな差を生かし切る事で生まれるのだという事をリツコは良く知っていた。
 そこで、会場に行く前の時間を綾波レイに関する情報を集める事に費すこととしたのだ。もっとも実は昨日の内に、会場から即、事務所に手配は済ませていたので、基本的な情報は粗方集まっている。
 つまりここまでは他社でもどうように捕まえられる情報ということになる。
 だが、これ以上の情報はリツコが昨日、シンジや冬月、あるいはレイ自身の言葉から集めた断片の有無がモノを言う。
 こそこそと、探るよりも素直に交渉を始めれば良い、と言う場合もある。
 しかしこれまでの経験上、事前のこうした情報の詰めが最終的にモノを言うということを痛い程知っている。まして相手は、あの碇ゲンドウなのだから。

 アスカは、会場までの道中、電車の中で勤め人風の男が広げている新聞を盗み見しながら、昨日の事が殆んどニュースになっていないことにがっかりした。
 三面のほんの片隅に、そっけなくチェロ部門の入賞者の名前が出ただけ。事前の情報では、話題性のある参加者も無いことから、最初からマスコミも、さほど力を入れて取材などしていないのだ。恐らく記者を実際に会場に派遣していたところはホンの2〜3社に過ぎまい。
 それこそ『信じられない』事がそこで起こっていた事を知っているのは、あの場に居合わせたもの達だけということだ。無論、居合わせた人々は、クラッシック音楽界の関係者だったので業界には名が知れ渡ったに違いない。しかも、世間一般には無名でいるという。
 それは、ある意味で理想的な売り込み方だと言える。
 アスカ自身が骨身に染みている事だった。まだ駆け出しに過ぎない音楽家にとって、過分の世間からの好奇心がどれほどの負担になるかを。演奏することも未だ修行の一つでしかない時期に、それ以外の要請にも答えねばならない。一分一秒でも惜しい時期なだけに、下手をすると音楽家生命そのものを脅かし兼ねないものなのである。
 幸い、リツコの周到な配慮によって可能な限り、そうした負担から守られていたとは言え、さすがにリーズのコンクール優勝直後の状況は恐ろしいものだった。ホテルのロビーは記者が張り込み、空港までも付け回された。それも殆んどの記者はコンクールで彼女が弾いた曲すらロクに聞いたことの無い手合いだったのである。帰国しても、連日マンションは記者達の訪問を受けた。
 あらたな「美少女アイドル」の出現。マスコミの狙いはそこにあったから、リツコは極力アスカ自身の直接の露出は避け、仕事を注意深く選択して行くことで対処した。ビジュアルなネタが一定ペースで供給されなくなれば、次第に彼らの関心は別の事に向かうだろうとの読みからだった。
 最初は、その秘密主義が更なる関心を呼んだ面もあったが、そうは言っても憶測の文章のみで記事を構成し続ける訳にも行かず、また芸能界とは異なる市場であるクラッシック音楽界であることも幸いした。そうでなければマスコミは、芸能界で干すぞ、というあからさまな恫喝にでる可能性もあったからだ。
 とはいえ、アスカにとってはあの数週間は心の休まる暇の無い辛い時間だったのだ。

 しかし、シンジとレイは、そんな心配をする必要が無いのだ。

 今日は予選会なので、レイの演奏だけを聞いたらすぐ帰ろうと思っていたのだが、思ったより早く着いてしまった。レイの番が来るまでまだ一時間ほどもある。
 アスカはホールロビーのソファに座り、どうしようかと迷っていた。
 ロビー内は、参加者の関係者や、落ち着かない顔の参加者が十数人程居るばかりだった。
 恐らく、純粋な聴衆は殆んど居ないだろう。多分、いま客席に座っているのは参加者の先生か、親や親戚、そして自分の番までの時間を潰す気でいる参加者と言ったところだろう。
 ロビーにはホールの音がスピーカーを通じて流されていたけれど、アスカはわざわざ、客席で聴く気になれるような演奏とは思えなかったのだ。

「や、やあ、おはよう」

 妙に緊張した感じの挨拶は、シンジだった。
 なぜ、彼はおどおどしているのだろうと、不思議に思い、やがて昨日の自分の仕打を思い返す。
 随分酷い事をしていたのだと思い当たり、アスカは無性に腹が立って来る。もちろん、シンジに対して、のつもりはない。

「どうしたのよ」

「いや、別に・・・」

 もじもじしながら、ただアスカの前に立ちすくむシンジ。

「突っ立ってないで、ここに座りなさいよ」

 そう言って、アスカは自分の隣の椅子を叩いて見せる。

「ありがとう」

 シンジは素直に従った。

「やっぱり、来たんだね」

「何よ!」

「あ、何でもない」

「・・・・・」

 アスカは舌打ちする。本当なら自分から謝るべきところなのだ。

「・・・・昨日はごめんなさいね」

 そっぽを向きながら、辛うじて言ってから頬が熱くなる。言うんじゃなかった・・・。

「いいんだ。
 ・・・その・・・今日も会えたから」

「随分と歯が浮くようなこと言ってくれるじゃない」

「あ、・・・やっぱり・・・」

「分かってて言ったな!!」

「あ、ごめん」

 そこでアスカは吹き出してしまう。
 シンジもようやく、緊張が解けたようだ。

「今日は、あんたの従妹に挑戦されちゃったからね」

「えっ、綾波はそんなこと・・・」

「なーんてね。そのつもりだったかどうか分からないけどね。
 でも、聴いてくれて言われて、それにあんな演奏聴かされたら、
 来たくなるじゃない、ね」

「そうだね」

「夏は、ごめんね」

「えっ?」

「黙って帰っちゃったこと・・・」

「ああ、いいんだ、だって急な用事だったんでしょう。
 リツコさんがそう言ってたし」

「そう・・・・」

 あの夜の会話を思いだし、アスカの表情が沈む。

「シンジ」

「なに?」

「ずいぶん、うまくなったね」

「えっ、そ、そうかな」

「うん」

「あ、あ、ありがとう」

「お礼言うようなことじゃないわよ」

「そうかな」

「そうよ」

「もう一度・・・」

 アスカは、その先を言おうかどうしようか思い惑う。けれど何が自分を惑わせるのか分からない。

「何?」

 意を決してアスカは、シンジの顔を真正面から見据えて言った。

「もう一度、シンジの伴奏したい・・・」

「・・・僕ももう一度一緒に弾いてみたい」

「本当?」

「うん。ずっとそう思ってた」

「でも、レイは?。レイが居るでしょう?」

「それは・・・」

 シンジは言い淀む。それはレイかアスカか、の板挟みになったから、では実は無い。
 レイのことで何か気を使わねばならない事があるのかどうか、分からなかったからである。
 もっともアスカにはそんなところまでは分からない。

「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったの。
 でも、別にレイの代わりになりたいっていうつもりじゃないから。
 それならいいでしょう?」

 シンジにはまたしても、アスカの意図が良く呑み込めない。
 しかし、とにかく一緒に演奏したい、ということは確かなのだからと、肯定の答えを返した。

「勿論!!」

「そう、良かったわ」

「そう言えばレイは?」

「ああ、綾波ならきっと控室にずっと居ると思う」

「そう?」

「あそこの方が闘争心が湧いていいんだって。
 どういうことかな」

 と困ったように笑うシンジ。

「さぁ」

 実を言うとプロを相手のコンクールしか出たことの無いアスカにも何の事だか分からない。

「ちょっと予定よりも早く進んでない?」

 既にレイの3人前の奏者まで進んでいた。

「ああ、綾波も、予定より早くなるはずだって言ってた」

「どうして、そんなことが分かるの?」

「何でも、こういうコンクールって必ず当日になって出れなくなる人が出るからだって」

「へぇ、そうなの?」

 なぜ、本番の土壇場になって棄権するのかアスカには理解出来なかった。
 そんなにお気軽なものなのだろうか?。その割にはロビーに屯する、落ち着かない表情の若者達には切羽詰ったものが感じられるのに。
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