▼第十章
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綾波レイ。 母は、シンジの母である碇ユイの1つ違いの妹。 父は綾波という名の男であることくらいしか分からない。既にレイが生まれたときには父親は死んでいたらしい。レイを生んだ翌年、母親も亡くなっていた。 その後、碇ゲンドウが親権者になっているものの、まだ乳児だったレイがどこでどう過ごしていたのかを明らかにする資料は何もない。分かっているのは三年前、都内の小学校に転校してきたことだけ。 ところがどこの学校から転校したのかを示す記録が存在しないのだ。 『こんなことってあるかしら・・・・』 少くとも、この時点以降、彼女は都内のとあるマンションに暮らしていることになっている。その間、碇ゲンドウ氏の住所はシンジの住んでいるマンションになっているので、ずっと独り暮らしだった訳だ。これも不可解だ。レイを引き取ったのなら、なぜそのころから一緒に暮らさなかったのか?。 なぜ、中学生になって突然同居させることにしたのか?。 しかも、この間、ピアノは一体誰に付いて習っていたのか?。 『ちょっとこれは骨だわね』 一筋縄では行かないようだ。時計を見る。 予定の時間まではまだ一時間半ある。車で行けば20分で着くだろうから、あと一時間程は時間がある。 リツコは、暫くディスプレイを眺めながら考えてから、新聞記事データベースにログインした。 古い記事は、プライバシー保護の為、一般人の実名が全て伏せられているから、検索には知恵を絞らなければならない。取り敢えず、レイの出生の時期の前後の記事が対象になるだろう。 記事沙汰になるような事件があると言う保証は無かった。しかしなんとなくリツコには、何かがみつかる筈だという確信めいたものがあった。 |
「おや、精が出るねぇ」 聴き馴染んだ声を背後に聞き、リツコは跳び上がらんばかりに驚いた。 「な、ど、どうしてここにいるのよ!!」 「マンションの鍵ってのは、どうしてこう無個性なのかな」 「ば、馬鹿なこと言わないで!」 「ねぇ。そう思わないかい」 無精髭をきれいに剃り落とし加持は、宅配便の配達員の制服を着ていた。 憔悴しているかと思っていたが、元気そうで、血色も良い。 「ここへは来ないで欲しかったわ」 「警察の眼が困る?。 スキャンダルになるから?」 「ええ、そうよ」 「つれない」 「何とでも言ってよ。 あなただって姪が自分のせいで不幸になっても平気なの?」 「そりゃ、やっぱり困るだろうな」 「ぬけぬけと・・・」 「大丈夫だ、心配するなよ」 「どこに安心できる材料があるって言うのよ」 「捜査本部は昨日解散された」 「え?」 「つまり、A国大統領襲撃事件は、もう既に捜査されないんだ」 「ど、どうして?」 「それは、まぁ一言で言えば政治決着したということさ」 「どういうことよ」 「日本国政府と致しましては、このまま未解決で終る方が国益上望ましいと判断したのさ」 「・・・・」 「心配無い。この事はアメリカも同意を与えている。 日本はA国から感謝されこそすれ、怨まれることは無い。 アメリカとしても、今回の事で日本が果たしてくれた役割に十分報いる用意があるのさ」 「まさか・・・」 「その、まさかさ。 俺達は正義の味方だった訳だ。 アメリカとA国と日本にとって最も外交上、必要な仕事だったという次第」 「それのどこがテロリストなの?」 「へっ?。政府がテロしちゃいけないって事も無いだろう?」 「そんなことって有り得ないわ」 「外交の場に於いて有り得ないことなんて何もないさ」 「そんな手を使ってまでしてやっていい事なんて・・・」 「しょっちゅうあるけどね」 「じゃ、何?。 あなた達は、いつのまにやら犬に成り下がっていたってこと?」 「全部じゃないけどね。 生き延びるにはビジネスも必要ってことだね」 「革命が聞いて呆れるわ」 「革命はA国がするのさ。俺たちの担当範囲じゃない」 「そんなことの為にミサトは・・・」 「何事も犠牲はつきものだよ」 「何の犠牲?。それで得たものは何?。 汚いお金じゃない?」 詰るリツコに対し、加持は不気味に無表情だった。 「ほぅ、リツコちゃん、綺麗なお金を見たことがあるのかな」 「な、また蒸し返す気?」 「ふっ、察しがいいな。 でもそれじゃあ苛めがいが無い」 「あたし・・・・・ あなたはミサトのこと愛してるのかと思ってた」 「・・・・少なくともミサトはそうじゃなかったけどね」 「嘘」 「嘘かどうかを知る術はもう無くなったよ。 綺麗さっぱりね」 加持は部屋の中を歩き回り、棚やデスクの上にある置物の類を手にとってみたりした。 「相変わらず猫好きは変わらないようだね」 「・・・・何しにきたのよ」 「別に。 単に君たちには、危険が及ぶ心配は無くなったってこと。 まぁ、心配もしてなかったかもしれないがね。 俺以外に君たちに教えそうな奴は居なかったもんでね」 それから加持は、しばらくリツコの顔を見詰めた。 澄んだ瞳。 リツコはそれを見ると虚を撞かれた想いだった。 澄んだ深い湖のように、曇りのない、底知れぬ深みを秘めた色。 「最初からミサトは死ぬつもりだったのね・・・」 加持の表情が一瞬微かに曇ったように見えたのは光の加減だったのだろうか? 「さぁね。俺はもう行くよ」 「ばかね」 「そうだな。 もう十分分かってる積りだったんだが」 |
気が付くと残された時間は30分を切っていた。 リツコはため息を付くと身支度を始めた。 会場できっと、アスカはシンジと落ち合っている筈だから心配は無いだろうが・・・・。 『?』 その時、突然、リツコはあることに気付いた。 アスカ、シンジ、レイ・・・・・ 何故?。 この3人の間の符丁は一体・・・・ 「まさか、ね」 そういうと、リツコは身支度もそこそこにパソコンのキーボードを叩き始めた。 |
精密機械のように正確で、空虚な演奏。 レイが始めたのはそういう演奏だった。 もっとも、予選の課題自体が、どうやら基礎技術の確認に主眼が置かれているものの様で、どの参加者も要するにそういう弾き方をしているのだ。 従ってレイの演奏も、その方向にわざと沿って演奏しているのだ。 アスカは少し腹が立ってきた。こんな演奏を態々聞きに来いと言っていたのか?。 バッハの平均率クラーヴィア曲集から、審査員が指定した曲を所見演奏。その後で、古典期の作品のうち審査側からあらかじめ指定されていた幾つかの曲のうち、どれか一つを演奏する。 ただこれだけのことだ。 にも関わらず、演奏解釈上問題を多分に含んだ作品ばかりである。 ということは、本気で取り組めば、各演奏家の個性を十分盛り込んだ音楽を生み出すことも可能な筈だ。しかし、誰もそんな冒険は犯そうとはしないものだ。 レイもそうだったのか?。 アスカは少しがっかりはしたが、これもコンクールというもののせいだ、と思うことにした。 だが、これはわざわざ聞くようなものでは無い。 ところがやがて、アスカの耳はレイの演奏に違和感を感じ始める。 「?」 違う。 これは、審査員好みのスタイルに大人しく従っているのではない。 これは、そのスタイルのカリカチュアだ。 正確さは鋭角性を帯び、行儀の良い「歌い方」はわざとらしいパターンにされた。 その上で、却ってそうした特性を、素材のように使って音楽は構築されると、非常に知性的で批判性を帯びたものに変貌しているのだ。 今弾いているバッハ(審査員は嬰へ長調のプレリュードとフーガを指定した)は、そう、まるで作曲者バッハ自身が、が現代における自作の取扱を知って、それを逆手に取り新たに作ったパロディ作品のように聞こえるのだ。 アスカは、客席中央付近に陣取った審査員達の方に眼を走らせる。気付いていないのだろうか?。 人知れぬ悪事を目撃してしまったかのようにアスカは恐れた。しかしどうやら彼らは気付きもしていないようだ。というよりも、他の参加者の水準を遥かに超えたタッチの正確さに仰天し、他の事に気が回らないというのが本当のところらしい。 隣に居るシンジを見る。 アスカはようやく安心する。シンジにはどうやら分かっているらしい。逆に自分が今耳にしているものが自分だけの錯覚でないと分かり安心する。 なるほど、聞きに来いというだけのことはある。と同時に、その音楽が結局のところ攻撃でしかない事が悲しくなる。すくなくともアスカ自身はそんな風に音楽を扱うなど思いも依らないことだったので。 やがて、課題曲のもう一つとしてレイはハイドンの40番のソナタの1楽章を演奏した。この課題曲の設定は審査側のちょっとした茶目っ気を感じさせる。というのもこの曲はソナタ形式が全く用いられていない。ソナタとは、要するにソナタ形式の楽曲を中心に据えた組曲形式の楽曲と言う定義には全く当てはまらない。 昨日シンジの伴奏でハイドンをやっている以上、その音楽も、あの演奏と同様の傾向を帯びるのかと予想して、見事に裏切られる。 この曲の一楽章は、テクニック的には、そう難しいものではない。あるいはこのコンクールに出場する参加者にすればむしろ易しいと言える。しかし問題は、白痴的とさえ言える、余りに手放しの長調の単純極まりないモチーフと、ロンド形式による無造作とも言える展開にある。 しかし、単純に見える楽譜を鳴らしてみると、極めて良く考えられ美しく響く音の配備であることも確かなのだ。 あるいは小学生のソナチネ演奏よろしく無邪気にやってみせるのも手ではある。がそれだけではどうしても回収仕切れていない音楽が残っている感じがするのである。 最初アスカは、昨日と同様に、かなり幻想的に読み込んでデモーニッシュなものを引き出すという方向を予想していた。 だがレイは、ややゆっくり目のテンポを取りながら、微妙なタッチの差異を探り出しつつ、むしろすっかり力の抜けた、そう、中年の男の鼻歌のような音楽を作りだした。が、ロンドが展開するに連れ、その単純なラインがいつしか微妙な隠された内声を聞かせ始め、歌の外側にもっと大きな姿を垣間見せ始めた。そうして何時しかピアノ的と言うよりもシンフォニックな響きへと転じていった。 アスカは心中で唸らざるを得ない。 先程のバッハは結局のところ審査員を揶揄するだけの攻撃的な音でしかないとすれば、こちらは完全に音から生まれ音の中から更に成長して生まれ出された音楽であった。 そう、まさしく音楽なのだ。 だが、唯一、アスカがそうであるところと違うのは、ここにはどこか聴く人を拒否するところがある。 いや、最初からそんなものの入る余地は無い。 音は、人を待たずに完成していた。 |
「凄かったね」 とシンジが言った。 「一時はどうなるかと思っちゃった」 「バッハでしょ?」 「うん」 「あのときは審査員の人が怒らないかなと心配になっちゃったからね」 「いつもあんな調子?」 「綾波のこと?」 「他に誰がいるのよ」 「ごめん。 でも、僕も良く分からないよ。 綾波の演奏聴いたのって最近のことだもん」 「え?」 「うん、夏休み終った頃に父さんが連れて来たんだ。 それまで殆んど会ったこと無かったし」 「へええ」 感心するようなことでは無かったけれど、シンジとレイに、どこか長年親しんで来た親戚同士のような雰囲気を感じていただけに、意外に思えたのだ。 「彼女、誰に就いてるって言ってたっけ?」 するとシンジは昨日、レイが答えていたことを繰り返した。 「違う、違う、その先生に就く前よ」 「あ、そうか。 でも僕は知らないんだ」 「知らないの?」 「うん、全然。 そんなこと教えてくれなかったし」 「実は訊いてもみてないんでしょ」 「うっ」 図星である。疑問も感じなかったのだ。 「ま、いいわ。 今度本人に訊いてみよう」 「教えないわよ」 いきなり肩越しから話し掛けて来たのはレイだった。 「あら、ご苦労さま」と返して、アスカは随分間の抜けた返事をしてしまったと内心舌打ちした。 「来てくれてどうもありがとう」 「いいのよ、暇だったし」 「・・・・・仕事無いの?」 「あのね、無いんじゃなくて、断ってるの」 「どうして?」 「・・・・・どうしてもこうしても無く、今は仕事はお休みなの!」 「ふーん」 いちいち気に障ることを言う。 もっとも、無表情なレイの顔からは悪意や敵意は伺えなかった。 「で、どうだった?」 とレイ。 「な、何が?」 「あたしの演奏」 「・・・・・・」 「どうだった?」 どう答えたら良いのかアスカは困ってしまう。 「・・・そう」 言い澱んだ事が気に障ったかと心配したが、レイの表情には変化は見られなかった。 それどころか何事も無かったかのようにこう言ったのだ。 「それより出ない、ここ」 「へ?」 「だって、聴かないんでしょう」 「そ、そうよね」 そうだった。結果は聞くまでも無い。予選は当然通過するだろうし、他の参加者の演奏など聴きたくもない。三人は連れだってロビーに出ることにした。 |
「そう言えばリツコさんは?」 とシンジ。 「後から来るって言ってたけど」 「忙しいんだね、きっと」 「どうかしらね。 ところでレイは、これからどうするの?」 アスカは何時の間にか、「レイ」と呼んでいた。それが自然な感じがしたからだ。 「別に。 何もすることはないわ」 「帰れないの?」 「それは無理。結果発表までは居ないと」 「それもそうね」 レイの会話のテンポにはなれたつもりでは居たが、やはり話しづらいのは変わらない。 なにしろ、レイの会話というのは、聞かれれば聞かれたことだけ答える、また自分の尋ねたいことは前後の文脈無視で尋ねるというスタイルなので、話の継ぎ穂のしようが無いからだ。 シンジは、気を回して話題を繋ぐということなど到底出来そうに無い。 となるとアスカが話をリードせざるを得ないことになる。 「そういえば、何だって、こんなに棄権が多いのよ」 「色々な事が起きるから」 「そりゃ、そうだろうけど・・・」 「リハーサル中に、蓋に手を挟まれて指を怪我するとか。 階段からころげ落ちるとか・・・・」 レイは何気なくとんでもない事を言う。 「な、ちょっと何、そんなの普通じゃないわ。 何だって事故がそんなに起きるのよ」 「みんな足を引っ張りたいから」 「それ、どういうこと?」 「言ったとおりの意味よ」 「じゃ、何?。怪我させるような嫌がらせをしてるってこと?」 レイは一瞬考えてから答える。 「そうね」 「ちょっと! それって酷いんじゃない!!!。 そんなことまでして一体何したいっていうの?!」 「そう?。 競争相手は多いもの。 必死な人は何をするか分からないわ」 「あんたもやってるんじゃないでしょうね?」 「あたしはそんなの必要無いから」 レイは、さらっと言ってのけた。 「じゃ、攻撃されるほう?」 「ええ。 でも気を付けてれば、大抵はふせげるから」 「防ぐって・・・」 「後ろに人が来る時は階段降りない、とか。 ピアノの近くに人が近付いて来たら鍵盤から手を放しておく、とか。 後、鞄に楽譜入れたまま席を立たない、とか」 「嘘でしょ、そんなの・・・」 「アスカには分からないだけ」 「そんなの分かりたくない!!!」 「分からないで済ませられるものね」 「何よ!」 「別に」 「引っかかるのよね、今の発言」 「ちょ、ちょっと二人とも!!」 シンジが慌てて止めに入る。 「ふんっ。まぁ、いいわ。 でも、よく平気で居られるわね」 「さぁ?。 別に被害は被ってないし、そんなことする人達って余り大したこと出来ないから」 まるで天気の話でもするかのように何事もなく答えるレイに、アスカは呆れるばかりだった。 |
「あら、終っちゃったの」 ようやくリツコがやってきた。少し息が切れている。 「おっそーい、何やってたのよ」 「ごめんなさい。ちょっと手がなかなか放せなかったのよ」 「もう用は済んだから、あたし帰る」 「あ、アスカ」 シンジが呼び止める。 「ごめんね。でもレイの演奏は聴いたし、他にすることないでしょ。 だから帰るね」 そう言うとアスカはロビーを飛び出して行った。 「相変わらずねぇ」 とリツコは苦笑した。 シンジはリツコに同情した。 「行動がワンパターンだわ」 レイが、ぼそっと言った。 |
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