▼第十一章

 もうとっくに夏は終ったと言うのに、その日は暑かった。
エアコンはどうやら効いていないようだ。

 加持はロビーで買って来た朝刊を読みながら、朝食を取っていた。
 三面の小さな記事が、今年のM学生音楽コンクールピアノ部門の第一位は、綾波レイと言う名前の中学生であると伝えていた。
 その傍らに同日の夕方、地下鉄での事故の報道。

 これも因縁か。

 加持は自嘲的な笑みを浮かべた。

 携帯の着信音が鳴る。

「はい、加持ですが。
 ・・・・・・。
 はい。
 分かりました。
 それでは2日後に」

 携帯を切ると、残っていたコーヒーを飲み干し立ち上がる。
 感傷に耽っている余裕は無さそうだ。

 ホテルのチェックアウトを済ませ、通りに出る。
 初秋の残暑の残る日射しの中を歩く。地下鉄で行けば2駅のところだが急ぐ訳でもないので、徒歩で行くことにした。

 午前9時過ぎ。

 オフィス街にホテルはあった。
 通勤途中のサラリーマン達がぞろぞろと歩く舗道を加持は、人の波に逆行して行く。
 舗道一杯にサラリーマン達は広がっているので、当然向かいから来る加持を避けなければならない事になる。多くのものは、そんなとき、少し眉を顰めはするものの仕方無く道を譲るのだが、人によっては、無理に加持を押し退けようとする者もいる。
 悲しげにさえ見える、その不機嫌な顔を加持は憎んだ。ちっぽけな自分の心の疵すら直視出来ず他人に攻撃的に表現する以外なす術も知らぬ馬鹿者。
 くたびれた男女達の群れ。この人々を殺戮しつくしても加持は決して、罪とは思わなかった。
 死んでいるもの。死んでいることに気が付かぬ者。そうして自分の周囲の人々をも生きながらの死に巻き込んで行くもの。その度し難い鈍感さと、愚劣な善良さ。
 自らの思考を放棄して、なお自らの正義を疑わない。とっくに奴隷の状態に身を売り渡し、他の奴隷を求めている。こんな連中に主権など与えるのは愚の骨頂だ。この国は、そう決めたときから没落を運命づけられていたに違いない。もっともそう決める前に、既に愚昧でない者を生み出す能力なぞ、この国には無かったのだが。
 この国は亡びるべきだ。そう加持は思った。全世界の為に屠殺用の家畜となればよい。止みがたい殺戮の欲求の昇華の為の生贄としてなら、この国の連中にも存続の意味はある。

 オフィス街に接しているにも関らず、そこは高い木立に囲まれた不思議な空間を作っていた。
 玉砂利の道の先に相手は立っていた。

「神社の境内とは恐れ入ったな」

 相手の男は流暢な日本語で言った。
 見るからに中近東系の浅黒い肌の長身の男は、ザリという通称で知られていた。

「俺は信心深いんでね」

「ほう、それは初耳」

「軽口はいい。注文のものはどうした?」

「やれやれ、ワーカホリックね」

「ガキどもを食わしてやらにゃならんもんでね」

「うそうそ」

 そういうとザリは足元のアタッシュケースを抱え上げ、少し開いて中を見せた。

「OK、代金だ」

 加持はポケットから無造作に札束を掴み出すとザリに渡した。

「今度は、どこの依頼?」

「おまえ、そういう事を訊いて頭を吹っ飛ばされたいのか」

「NO、NO、それは困るよ」

「じゃあな」

「毎度あり。またのご利用」

 加持はアタッシュケースを持って、入って来たのとは別の通路から境内を抜けた。

 要人の暗殺。
 2日後の都内。

 日本に居られるのは、それまでだ。

 その前日。

 本選だというのに、その日はアスカは結果発表の時まで会場には来なかった。

「聴くまでもないでしょう。
 でも、表彰式でレイがどんな顔するかは見たいから行くわ」

 前日の電話で、そう宣言したのだ。
 その代わり、

「でもレイがショパンや、バルトークをどう弾くかには興味があるから・・・」

 という事で本選に出かける前にアスカのマンションに行き、アスカの前で演奏することになった。

「いい。
 ウォーミングアップになるから」

 とレイは平気のようだったけれど、さすがにシンジも、このアスカの強引さには怯んでしまった。

「でも碇くんも来て」

「えっ?」

 アスカの所にはレイ一人で行くものだとなんとなく思っていたので、感情がストレートに顔に出てしまう。

「嫌?」

「あ、いやじゃないよ、ははは」

「本当?」

「・・・・・うん」

「そう。良かった」

「あの・・・・・」

「何?」

「でも、僕行ってもいいのかな」

「どうして?」

「行っても何か役に立つわけじゃないし、アスカは綾波にって言ったんだし」

「あたしが連れてくの」

「?」

「何されるか分からないから」

「そんなことは・・・・たはは」

「いいでしょ?」

「・・・・・はい」

 シンジはため息をついた。

 午前7時半。

 アスカは音楽室で待っていた。

「うわぁー、僕んちのよりも広いや」

 シンジが感心するのも無理は無い。グランドピアノが2台。アップライトが2台。それに巨大な楽譜棚(各棚が移動式で、書庫に使うような代物だ)。

「こう見えてもあたしはプロだからね」

 とアスカ。

「うわー」

 シンジは感嘆の声を上げて、あちこちのぞき込んだり触ってみたりしている。
 レイはと言えば、別に何の感慨も無さそうに立っているだけだ。

「さ、シンジはもういいでしょ」

「え?」

「ここから先はあたしとレイと二人っ切りにして。
 だから出てってよ」

「ええええ、聴いてちゃいけないの?」

「だーめ」

「大人しくしてるから」

 こういう事を真顔で言うシンジの幼さに、アスカは少し驚く。

「あのねぇ、乙女の恥ずかしいところは見られたくないの」

「碇くん、あたしは大丈夫だから」

「ちょっと、レイ、あたしが何かするっての?」

「ごめんなさい。
 万が一ってことがあるから」

「あんたねぇー。
 まぁいいわ。
 そういう訳だから、シンジ、あっち、あっち。
 外でリツコの相手でもしてて」

「えええ?、そんなー」

「大丈夫よ。
 リツコってああ見えても、若い男の子大好きだから」

「あのねぇ!」

 結局、シンジは音楽室の外に追い出されてしまう。

「あらあら、追い出されちゃったの?」

 リツコがやってきて声をかける。

「はぁ」

 項垂れるシンジ。

「じゃ、あっちでお茶でものまない。本選前だもの30分もすれば出て来るわよ」

「はぁ」

 その間、アスカとレイの間にどういうやりとりがあったのか分からない。

 時間が無いので、レイとシンジは、そのまますぐ会場に向う。

 残されたアスカにリツコは声をかける。

「どうだった?。彼女の演奏は」

 アスカの表情は複雑だった。

「彼女、あたしには敵わないものを一杯持ってるわ。
 勿論、あたしの方が断然いいところもある。
 でもね、それよりも・・・・」

「それよりも?」

「ううん、何でもない。
 ま、あれなら大丈夫でしょうね。どんな、かぼちゃ頭の審査員でも絶対聴き損なうことないでしょ」

「そう」

 リツコはアスカの言い澱んだ事が気に懸かったが、追求しても答えてくれそうには無かった。

 会場への道中、シンジはレイに尋ねた。

「どうだったの?」

「何が?」

「さっき、あの・・・音楽室で」

「何もされてないわ」

「・・・・そういう事じゃなくて」

「あたしが弾いて、それについてアスカがアドバイスして。
 それからアスカが弾いてみせてくれた」

「で、どうだったの?」

「・・・・
 彼女、あたしには敵わないものを一杯持ってる。
 それに、彼女とあたしとでは音楽が根本的に違うの。
 でも・・・・」

「でも?」

「でも、本当はあたし達ものすごく近いのかも知れない」

「?」

「あんた、ほんとに愛想ない娘ねぇ」

「何が?」

「優勝者が仏頂面してたら、二位以下、立場無いじゃない」

「なんで?」

「あんたが喜べないなら、それより下はどうすればいいのよ?」

「そう?。
 あたしがどう感じようと構わないじゃない」

「ま、あんたらしいけど」

 コンクールが終り、結果は予想通りのレイが一位となった。とは言え、所詮は学生のコンクール故、優勝者がマスコミ関係者にもみくちゃにされ、などという事は無かった。また参加者の殆んどが未成年ということから、表彰式のあとはレセプション、などということも無く、三々五々帰るのである。

「しかし、あっけないわよね」

「仕方が無いわ。
 これはプロの為のコンクールじゃないんだし。
 アスカには物足りないでしょうけど」

「なんか、刺があるわね、その言い方」

「別に。だってあなたはそういうコンクールで優勝したのは事実でしょ?」

「うっ・・・まぁそれはそうだけど」

 シンジは二人の会話をはらはらして聞きながら、後をついて歩いていた。

 それにしても、本日の優勝者は、昨日の弦楽器部門の2位と、リーズ国際コンクールの優勝者とともにこれから地下鉄で帰るのだ。平日の夕方であったため、地下鉄のホームは混んでいた。一本乗り過ごしてならんだので、最前列になっては居たが、乗車口以外のホームの端まで人並が並んでいたので、次の列車でも乗り込むには苦労しそうだった。
 レイとアスカはずっと他愛も無い会話を続けていた。話の継ぎ穂が無いなどと、へき易していたアスカだったが、何時の間にかレイとの会話のペースが出来ている。あぶれたシンジは、その後ろで手持ち無沙汰に突っ立っているしかなかった。
 やがてホームに電車が入って来た。

 急に、レイがすっと体を横に移動させた。

 さっきまで、レイの体が立っていたところから一人の少女がまるで吸い込まれるようにホームを飛び出し、線路に落ちた。

「ばかな人」

 シンジは、その瞬間、レイがそういうのを聞いたような気がした。
 叫び声は、落ちた少女から、では無く、それを見ていた人波から上がった。
 少女には叫ぶ暇も無かった。

 列車は急停車しようが無かった。既にスピードは可能な限り落していたのである。
 落ちた少女の上を車輪は通過し、止まった。
 血の匂が地下のホームに漂い始めていた。

 騒然とする人々をかき分け、レイはどんどんと出ていく。

「あ、待って」

 シンジとアスカは後を追った。

「待って、綾波、どこへ行くんだ」

レイは歩みを止めず振り返って言った。

「見たでしょ。
 暫くは無理よ。
 ここにいても無駄」

「そ、そりゃそうだけど」

 レイが止まる様子が無いので仕方無くついて行くしかなかった。
 最前列で事故を見てしまったアスカは青ざめ、気分が悪そうだった。

 地上へ出た。
 何故か、急に呼吸が楽になったように感じた。
 救急車のサイレンが近付いて来る。
 あたりはもう暮れ懸かり、街灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。

「レイ・・・・。
 どういうことよ」

 アスカはレイを問い詰める。

 気分が悪くなったアスカを気遣って、三人は会場近くの神社の境内で休むことにした。
その場所を翌日、アスカの叔父が待ち合わせ場所に使うとは勿論知らなかった。

「知ってるんでしょ?。
 さっきの娘」

「ええ」

「誰よ」

「六位入賞者」

「えっ?」

「良くあるのよ。
 ホームから突き落すのって。
 でも、コンクールでの前ならともかく、後はあまり聞いたことが無いけど」

 平然と言い放つレイ。

「それじゃ彼女は・・・」

「ええ、あたしを突き落そうとしてた。
 言ったでしょ。
 必死な人は何をするか分からないって」

「随分、平然としていられるわね」

「あなた、昨日もそれ言ったわ」

「あのねぇ、あたしだって記憶力くらいあるわよ。
 だけど・・・」

「そう。なら良かった。
 あたしも繰り返し言ってあげなくても済むから」

「冷たくない?!。死んだのよ、彼女!!」

「あら、まだ断定は出来ないわ。重傷なだけかもしれないじゃない」

「どうして、そう済ましてられるのよ!!」

「殺されるよりマシだわ」

「・・・狂ってる」

「そう?
 なら覚えておくといいわ。
 あなたはずっとリツコさん達に守られてて気が付かなかったかも知れないけど、この世界ではやられた方が悪いのよ。
 あなたは、あなたの優勝の影で何人の人が潰れてしまったか知らないでしょう?」

「そうよ。
 そんなの知らないわ!!」

「良かったわね」

「あたしのせいじゃないもの」

「あなたのせいじゃないわ。
 当然じゃない。
 どこまでいっても、潰れてしまった人が悪いのよ。
 それだけのこと」

「・・・・嫌」

「嫌もなにもないわ。
 あなたは、もうそういう世界の頂点近くに居るのだもの。
 知って損は無い筈よ」

 それからレイはシンジに向き直って言った。

「碇くんも覚えてて。
 あなたは、今回はノーマークだったから何もされなかっただけ。
 これからは自分で身を守らなくちゃならないの」

「ぼ、僕が?」

「そう。もうあなたは無名じゃ済まない。
 誰かに妨害されて、それをかわせなければ、あなたの負けよ。
 誰も同情してくれないわ。
 それで潰されれば、それだけの人だったってこと」

「それだけの人・・・」

「そう。
 人を才能なんてあやふやなもので選別するのよ。
 非情じゃなきゃやってけないでしょう?」

「・・・・」

 境内には大きな街灯が一本だけあり、その水銀灯が青白い強い光で三人を照らしていた。
 周囲の闇はそのため一層、深くなって見えた。

「さ、帰りましょう」

 レイはさっさと歩いて言ってしまう。
 二人は無言のまま、その後を付いて行った。

「そう。
 そんなことがあったの」

 リツコはアスカの話を聞いて、特に驚きはしなかった。

「リツコは驚かないのね?」

「ええ、あらそうかしら」

「ごまかしても駄目」

 アスカの目は真剣だった。
 リツコはため息を吐く。

「わかったわ。正直に言うわね。
 確かにね、殺人まで行くのは少いけど・・・・
 そういうのは珍しいことじゃないのは確かだわ」

「あたしのコンクール優勝の時も?」

「・・・・・
 隠しても仕方が無いから言うわね。
 リーズのコンクールでもそうよ。でもね、さすがに国際コンクールに出て来るような人達になるとね。
 自滅したりする人は少いのよ。
 そんなレベルの低いのはとっくに卒業してしまった人達ばかりだものね」

「生き残った人達・・・って意味よね」

「・・・・ええ、そうね」

「あの時、ガードマンを雇っていたのも、それのせい?」

「そうよ。あなたは未だ自分の身を守れる程強くは無いから」

「やられて潰れるのは潰れる方が悪いってレイが言ってたわ」

「まぁ、そこまで言い切るのはちょっと行き過ぎだとは思うけど、そういう面もあるわね」

「・・・・」

「ショックだったかしら?」

「うん、少しね」

「どう思った?」

 その質問にはアスカも少し面食らったようだった。

「どうと聞かれても・・・」

「この仕事続けるの嫌になったりしない?」

「そうね。
 嫌になったりはしてない・・・かな。
 こんなこと起こるのを見たり、聞いたりするのは嫌だけど。
 ・・・・・
 あ〜あ、あたし何にも知らないでここまで来ちゃったのね。
 そりゃ、レイが怒るのも当たり前かもしれないわね」

「怒られたの?」

「ううん、レイは直接あたしを怒ったりはしてない。
 けど、あたしにもどかしいものを感じてるのは分かったわ。
 なんで、こんな奴が、って思うものね、きっと」

 リツコは、レイとの付き合いが予想以上にアスカにとって良い影響を齎しているのを知って嬉しく思っていた。最初は、シンジの演奏で、アスカを力づけるつもりだったのだが、それ以上にレイとの出会いはアスカに聊か手荒な形であれ、覚悟を決めさせる効果はあったのだ。
 翻って自分は却ってアスカを気遣う余り、ひ弱にしてしまっていたのだなと思わざるを得なかった。
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