▼第十三章

 シンジにとっても夏からこちらの生活は激変と言っても良いものだった。

 もっとも、その殆んどはアスカとレイによってもたらされたものだ。シンジ自らの行動と呼べるものは何も無かった。以前のシンジならそれも気にもしなかっただろう。しかし、今は、自分の何も無さにもどかしさを覚えていた。

 何かをしたい。

 これと呼べる何かを全身全霊を込めて。

 無論、シンジにはどうやら並外れたチェロの才能があるらしい。ところがこれまでは、それすら他人事でしかなかった。その腕は、シンジが自ら掴み取ったという意識が全く無かった。毎日の厳しい練習も、だからといってシンジ自ら、どこかへ向かおうとして行ったものではない。ただ決められていた所作をこなしただけ。
 鋭敏な感性を持つ耳が、楽譜の中に音楽を探り当てていく喜びはあったけれど、その先に何があるのか、いや、何があって欲しいのかなど一つも思い浮かびはしなかった。
 コンクールでの入賞も、何時の間にか取らされていた、という感覚しかない。

 それでは駄目なのだ。

 気付いてみると、その想いは、いてもたってもいられない程、シンジの胸を締め付ける。アスカやレイの演奏を聴けば聴くほどに、シンジは自分の中から沸き起こる感情をどうにかして外に現してみたくなるのだ。

 シンジは初めて、自分からチェロを弾こうとし始めていた。


「シンジ君。
 どうだ、暫く、本当に伊吹君の弟子になる気は無いか?」

 ある日のレッスンの後、冬月は突然、切り出した。

「はぁ」

 シンジは困惑する。冬月の意図が分からなかったからだ。確かに冬月の弟子の中では最も優秀だったけれど、だからと言って冬月にレッスンを受けているシンジが今教えを請わねばならない教師であるとは思えなかった。
 普通の弟子なら、この発言は愛想尽かしと受け取られかねないだろうが、シンジはそこまで気は回らない。”暫く”というのだから、暫くの間だけのことだろう。断る理由が見当たらない。

「どうだい?。
 伊吹君もそろそろ弟子を取った方がいいんだが、あの性格だ。
 実を言うとね、君に弟子の練習台になってほしいんだよ」

「そうですか、僕でよければ喜んで」

 半ば困惑しながらもシンジは承諾した。

「あ、あの、あの、あの、ああ、あの・・・」

 最初のレッスンから、マヤはすっかり舞い上がっていた。
 実を言うと、誰かにレッスンをつけるという事を一度もやった事が無い。生来内気な性格と経験不足がプレッシャーとなってマヤは今にも倒れそうだった。

「よろしくお願いします」

 シンジがしゃべったので、マヤの緊張は最高潮に達し、ますますしどろもどろになった。

「は、はい、は、はい、
 よ、よ、よ、よろ、よろしくお願いします」

 やっとの思いでマヤはそう言った後は完全にグロッキーだ。

「何をすればよいですか?」

 マヤはそう尋ねられると、ますます頬を紅くし立ち往生してしまう。

「じゃ、ハイドンの協奏曲弾きますね」

 先日のコンクールで弾いた曲だ。

 一楽章が弾き終わるとシンジは、顔を上げ、マヤを見た。

「どうですか?」

 と質問したところで、シンジははっとなる。さっきまでのおどおどした頼りない表情は消え、厳しい表情に変わっていた。

「シンジくん、そのアーティキュレーションは自己流?」

「はい?」

 そうだとも言えるし、そうでないとも言える。
 その形を選び取ったのは、シンジ自身の耳の依るものとは言え、一方で冬月の検証も受けているからだ。

「それから、ここのモルデントは、例えば、こう弾くのはどうかしら」

 そいういって、マヤは自分の楽器を取り上げ、一節弾き出した。
 それは、シンジの弾いたものが、スマートなものだとすれば、むしろ不器用そうにも見え、素朴な感じのするものだ。そして、そのモルデントが挟み込まれた旋律は、シンジの演奏には無い典雅な趣があった。
 だが、そうだとすると・・・・。
 シンジは困惑してしまう。というのも、そこまで持って来る運びが、うまく継らない。
 いや、そもそもそこでそういう音がすること自体、思いがけなかった。
 その逡巡を見て取ったのか、マヤは最初から弾き始めた。
 普通と言えば、普通の演奏。シンジの弾き方の持つ意外さや、はっとするような鋭い美しさは無い。
 が、マヤの演奏では、決して音楽は聴く人を驚かせず、やさしく包み込む。落ち着いて地味ではあるけれど、それは古い家具が部屋にしっくり馴染むにもにている。
 と、先程のモルデントの箇所にさしかかり、なるほど、この流れにそれは如何にもぴったりとあっているのが分かる。

「どうしてこんなことが・・・」

 マヤはにっこり笑って言う。

「あのね、私シンジ君程に、湧き出るような才能は無いの。
 でもね、演奏って人から人に伝えられて来ているものでもあるのよ。
 例えば、このハイドンの二長調のコンチェルトも、何人もの人が弾いて、そして弟子達に受け継いで来たものだわ。だから、代々の人が見付けて付け加えて来た色々なものがあるの。
 ハイドン自身も、決して何もないところから作曲をしたんじゃないの。
 それより前の人達のいろんな工夫の成果を受け取って作っている。
 そういうものを知る事で、もっと音楽は色々な魅力を惹き出せるわ。
 わたしみたいに、そんなに才能があるわけじゃなくてもね」

 なるほど、冬月もそうしたものをシンジに教えなかったわけではない。しかし彼は、むしろシンジの個性が開花するのを待って、シンジの思い通りの演奏を促すよう心掛けていたのである。だからマヤのような視点は、これまでのシンジには全く欠けているものだった。シンジにとってはマーラーもハイドンもバッハも、その時代やスタイルの差など、これまではどうでも良いものだった。何よりもまず、音が掘り出されねばならない楽譜であって、楽譜が導いて現れる音が全てだった。
 それはシンジの個性でもあり、同時に弱点なのだ。スタイルにはそれを受容する、社会的コンテクストがある。常に革命的なだけでは音楽は受容されないのである。

「どう?」

 マヤは少しはにかみながら、シンジに問いかける。
 シンジは、眼の醒めるような思いを味わっていた。別にこれまで困っていたとか、分からなかった、という訳ではない。だが、ふと顔を上げた時、自分がとても眺望の良い場所に立っていた事に気付いた時のような、すがすがしい驚きだった。

「マヤさん!!。
 僕に教えて下さい!!」

「ええ、喜んで」

 学ぶ事、知るべき事がまだまだ一杯ある。シンジは武者震いにも似た興奮を覚えていた。

 冬月の意図は当たったというべきだろう。

 レイと二人だけの生活は、実のところ余りにそっけないものだった。
 朝食はシンジが用意し、一緒に食べる。
 二人とも一言も口をきかない。
 別に険悪なのではない。何度かシンジも話を向けようとするのだが、レイはそっけない答えを返すばかりなので、とうとう、諦めてしまったのだ。
 食事が終ると、レイは「ごちそうさま、おいしかったわ」と判で押したように言い、自室に帰ってしまう。次に出て来るときは、学校に出掛けるときなのだ。

 そして、レイは夕方学校から帰ると、レッスンの無い日は、すぐに音楽室にこもり練習をする。
 練習は、食事の時刻が来るまで続く。
 夕食も、また会話の殆んどない時間だ。
 レイは練習している曲のことを考えているのだろうか、心ここにあらずと言う感じで、シンジが何を言っても上の空で聞いている。もっとも真剣に聞いたとしても、シンジが望むような反応は示さないだろうことは分かっていた。食事が済むとレイは、自分の食器だけは自分で洗う。
 それからまた音楽室に入って練習を始めるのだ。
 一日当たりの練習は平日の場合、凡そ5〜6時間になる。

 最初は、シンジとても、レイのような美少女と一緒に居る時間は、緊張とともにときめきにも似た感情を覚えたものだけれど、どうにも単に同居しているだけのレイを相手では、そんな気持の持って行きようが無いのである。
 いつのまにか、諦めにも似た心境に達していた。
 一度、レイが入浴中であることに気付かず、風呂に入ってしまった事があったけれど、慌てふためきパニックになっているシンジに、レイは白い美しい裸身を隠そうともせず「お先に」と言って出て行った。その姿が暫く眼に焼き付いて、レイの顔がまともに見れない数日というものはあったにせよ、本人が気にもしていない以上、自分一人が意識することの馬鹿らしさに、疲れてしまったのだ。
 もっとも、今でもレイが入浴しているときなど心騒がぬことも無かった。奥手だったシンジではあったけれど、レイがシンジの関心を目覚めさせている側面もあった。
 とはいえ、それ以上何かをする度胸も無く、またレイと親密になる可能性も全く見込めないのであれば、後はもう馴れる以外無いではないか。

 そんなさ中だったので、マヤから教わる様々な事がありがたかった。
 チェロの練習はもうすっかり自分の部屋でするのが馴れてしまった。
 その自分の部屋で、シンジはマヤに教わったことを、すぐに音にしてみては、自分の耳でそれを確かめる。それを更にバリエーションを加えて応用してみる。
 そうすると、今までさらった事のある楽譜でさえ、全く別の曲のように見えた。
 こうして、レイのお蔭(?)でシンジも練習三昧の日々となって行った。

 マヤのレッスンは精密を究めていた。

 一つのスタイルに関しての研究は、様々な論文や、各演奏家の演奏に当たるのみならず、原典校閲の資料をも参照していた。また手稿についても可能な限り眼を通すという徹底ぶりだった。
 演奏家としてここまでやる必要があるかどうか、と言われれば、疾うにそのレベルを超えてしまっていた。もっとも演奏家としては余計でしかない知識も、教授の為には役に立つこともある。
 文献知識と言いながらも、マヤの場合、スタイルの相違を自ら弾き分けられる能力があるのである。
 単なる文献学者の知識には留まらず、演奏者へ教える上で真に生きた知識になっていると言えよう。
 もっとも必要とされる労力は余りに大きい。従って、マヤが納得行くまで研究出来ているのは、彼女の弁によれば、「バロックの後期、特にドイツプロテスタント圏でのスタイル、とドイツの古典期の音楽だけ」という事になる。特に前者の範囲は、普通の演奏家ならとても一つのスタイルとして見分けないほどに細分化した分類と言わざるを得ない。が、それはマヤが、どれほど、この時代の音楽のスタイルを識別仕分けられるようになっているかの現れでもあった。

「ごめんね、シンジ君、あたしこれだけしか教えられないから・・・」

「いいんですよ。
 だって、全部教えてもらっちゃったら、僕の考えるもの無くなっちゃいますから。
 その先は自分でやってみなくちゃ、ですよね」

「そう言って貰うと嬉しいような、悲しいような・・・」

「そうですか?」

 そこで、シンジは、まずハイドンのコンチェルト、及びベートーベンのチェロの為のソナタの幾か、その次はバッハの無伴奏チェロ組曲、と進む事にした。いずれもマヤ自身が一番吟味してある範囲なのだ。
 既に、技術的な課題は一度済ませてある曲ばかりだ。
 レッスンは楽章毎に行われた。
 最初に先ず、シンジが一度、自分でこれだと思う弾き方で演奏する。
 続いて、楽譜を前にマヤが、シンジの演奏の各部分についてシンジ自身の所見を問い質し、幾つかの問題点を指摘する。そして、その問題点の解決方法について二人で話合いながら幾つかの方法を試してみる。このように最初に先ずシンジの弾き方を尊重するのは、マヤ自身、ある弾き方が「正しい/間違っている」という区分けを嫌っていることからだ。先ずはシンジ自身が意図した事を100%表現出来るところまで進ませてしまうのだ。
 それからようやく、その時代のスタイルや、それ以降に発展した様々なスタイルにちついての吟味があり、レッスンの課題の曲への反映を試みてみる。これはマヤが弾いて見せる場合もあればシンジが弾く場合もある。
 この段階までくると、前半で行ったシンジの演奏の上での問題は、過去のスタイルと密接に関連していた事が分かるのである。この経験はシンジには良い薬となった。
 過去のスタイルは、そのようにシンジの今の問題に引き当てられて提示されると俄に身近なものに感じられるのである。
 最後に応用を、と言うことになるのだが、いざやってみるとこれが一番難しい事に気付く。
 伝統の演奏スタイルを取り入れつつ、なお個性的であること。
 なるほど、冬月は、余りこうしたスタイルに関する事を教えなかったのは良く分かる。
 もし最初からこのようなことを知っていれば、それに引きずられて現在のようなシンジの個性は生まれなかっただろう。
 しかし、知らずに先に進む事も最早出来ないのである。

「う〜ん、どうもうまく行かないですねぇ」

「そりゃそうよ。それが出来たらプロだってば」

「そうなんですけどね・・・・」

 と言いつつも内心、シンジはプロがどうと言われてもという気持でいた。
「プロ/アマ」の区分けを最初から気にしたことはないのだから。純粋に弾けない事が悔しい。
 それだけのことなのだ。
 でも、とにかくこれは克服したい。もう少しで出来そうな気がするのだ。
 喉のところまで出掛かっている。そんな感じがする。だからもどかしい。

 ・・・・アスカは、こういう事は克服しているんだろうか?

 もうとっくにプロの世界に足を踏み入れている彼女が、出来ない訳は無いだろう。
 それを考えると、焦燥感すら覚えるのだった。

「でも、不思議ね」

 ある日のレッスンが終ったときマヤは言った。

「何がですか?」

「以前のシンジ君って、すごっく不思議な少年だったのに」

「不思議な少年・・・ですか」

「うん、だって、チェロ以外何んも関心が無かったし、
 そのチェロだって、もの凄い上手なんだけど、どこかどーでもいいって感じだったし。
 なんか、こんな事言うと怒られちゃうかもだけど、生きた人間じゃないみたいだったしゃない?」

「・・いや、・・じゃない?って言われても本人、自覚無いから」

「あら、ごめんなさい。
 でもね、最近はちょっと違って来たわね」

「そうですか?」

「だってねぇ。
 ちゃんと悔しがるし、野心だってありそうだし。
 シンジ君が、他人に関心見せるなんて、あたし信じられなかったけど。
 なーんか、ふつーの男の子になっちゃったねぇ」

「ふつーですか」

「うん、いい感じよ。
 いい。とってもかわいい」

「・・・・・」

 シンジはマヤのショタコンという噂を思い出して、身を固くした。

「やあね、何引いてんのよ。
 ねぇ、シンジ君って恋してる?」

「な、なななな、、なな
 馬鹿なこと言わないで下さいよ」

「レイちゃん・・・・じゃないわね。
 シンジ君は、レイちゃんに恐くて手出せそうにないもんねぇ」

(・・・・そんなことは・・・あるか、やっぱり)
 確かに、今の状態ではそうした方向に発展する余地は全く無い。

「とすると、アスカちゃん?」

「・・・・違います」

 しかし、その答えを言うのに要した時間と、紅くなった頬がシンジの願望を現してしまっていた。

「うん、うん、
 シンジ君、分かりやすくなったわよ。とっても」

 シンジは、マヤにまで言われると少しショックだったりした。

 だが、本当のところどうなのだろうか。

 アスカには、ニュースのあった日に電話(しかもリツコさんにだが)したきりだ。
 どう接していいか、分からない。
 会いたいのなら、どうしたらいいかはさて置き、先ず会う事が先決だ、と言う風にはシンジは考えない。
 彼女は今どう感じているだろう、と案じては見るものの、一向にその先が分からない。
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