▼第十四章
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きっかけを作ったのはレイだった。 夕食の時、珍しくレイの方から話を切り出したのだ。 「今日、アスカから碇君どうしてるかって聞かれたわ」 シンジは、思いがけない名前に、ぎくっとするが、そう言えばレイはアスカと同じ学校に通っていたのだと思い出す。余りに話をしないので、レイが日中どんなことをしているかすら、忘れてしまっていた。 「どう・・・だったかな。 元気そうだった?」 「ええ」 レイの答えはそれだけだったから、シンジは困ってしまう。 「で、なんて答えたの?」 「いつもどおりの生活をしている、と答えておいたわ」 突然、シンジは思い出した。そう言えばアスカにはレイと同居している話はしたことがない。 レイに尋ねたというのはどういうことなのだろうか?。 「それで・・・・?」 「それで?。 そうね。アスカの答えはこう。 『なんで、あんたがそんなこと知ってんのよ!!!』」 「そ、そうなんだ。あははは・・・・」 思わず笑いが引き攣ってしまう。 「ちょっと失礼な言い方だと思う」 良くは分からないが、レイは怒っているらしい。 「それで綾波はなんて言ったの?」 「別に。 ただ、一緒に住んでいるからだ、って答えただけ」 「えっ!!」 「何か変?」 「い、いや。いいんだ。あはは、いいんだ。別に」 アスカがどういう誤解をしていかを想像すると暗くなってしまう。 しかし、それでもアスカは確かに元気そうだ。 「で」 とレイが再び口を開く。 「何?」 「アスカから伝言。 『どういうことか一度お話を聞かせにいらして下さらない』 以上」 「・・・・・あはは。そ、そう・・・・」 「繰り返す?」 「いや、いい」 レイは、もう用は済んだとばかりに、黙って食事を続けている。 悲しいような、嬉しいような気分だ。確かに会った時のアスカを考えると気が重くなるのだが、それでも会えると思うと気が浮き立つ感じがする。 |
次の土曜日の午後、シンジはアスカの家にやってきた。楽器を担いで来たのは、ひょっとしたらと思ったからだ。人混みの中を楽器をハードケースで運ぶのは非常に疲れる。特にシンジは撫で肩なので、肩で担ぐのが苦手だったから一層、苦しく感じられる。 部屋まで会いに行く前に、先にリツコの事務所に顔を出す事にする。一応挨拶はしておかないと。 念の行ったことに実は、午前中、電話で連絡は入れてあった。シンジは世間知らずな割に、こういう事には妙に気が回るのだ。 「こんにちは」 扉を開けると、シンジは自信無さそうな挨拶をする。 幸いにしてリツコは、丁度事務所に居てすぐに気付いてくれた。 「あら、シンジ君、いらっしゃい」 「こんにちは。お久しぶりです」 「アスカね。上にいるわよ。 待ってる筈だから」 「はぁ?。待ってるって・・・」 「約束してたんじゃないの?。今日あたり来る筈だからって言ってたけど」 「あ、そうです、そうですけど・・・」 「どうぞ、気にせず会いに行ってやって」 「はい」 シンジは、リツコの明るさを意外な思いで見ていた。 |
ドア横のインターホンのベルを押す。 「はい」 すぐに聞き覚えのある声が答える。 「碇ですけど・・・」 「・・・何勿体ぶった事言ってんの。 さっさと入って。 鍵開いてるから」 「あ、ごめん」 「玄関先で訳分かんない謝罪しないで!!」 「あ、」 ごめんと言おうとして言葉を呑み込んだ。 ドアを開けると、すぐそこにアスカが居た。 「ぼさっとしてないで。 さ、入った入った」 どうみても、確かにアスカは元気だった。 空元気などには見えない。正真正銘、元気なのだ。 リビングに通され、着席させられる。アスカはそのままキッチンへ姿を消した。 お悔やみを言うべきかどうか、シンジは迷う。 アスカの様子にから、どう見てもその言葉は不似合いだ。 やがてアスカがキッチンから戻って来て、シンジの前に茶の入った湯飲みを置く。 「ごめんなさいね。 あたし、こう見えても家事は全然だめだから、お茶くらいしか出せなくて」 「いいよ。僕、お茶のみたかったし」 「そう、じゃ良かった」 アスカはシンジの向かいに座るとニコニコしながら、シンジが茶をのむのをじっとみている。 予想外の様子にシンジは動揺している。今までのところ、アスカはレイの事について尋ねて来ない。 ひょっとしたら、気にしていないかも、とシンジは甘い期待を抱いてしまう。 と安心しているところで、アスカはずばり聞いて来た。 「レイと同棲してるの?」 「ぶはっ・・・あちっ」 丁度、一口茶を飲んだところだったので、シンジはむせてしまった。 「ど、どどどど、どど、ど、どどど・・・・」 「同棲?」 「そうそう、どうどう、どう、どどう」 「してるんだ・・・・」 「そ、そうじゃなくて・・・・えーと、その」 「一緒には住んでるんでしょ?」 「そ、それは・・・」 頭に血が上って何を答えればいいか分からない。 「うろたえなくていいよ。別にあんたとレイが何かあるなんて思ってないから」 ほっとする余り、シンジは肩が落ち、ため息をつく。 「でも!!」 「は、はいっ!!」 「あたしに黙っていたのは許せない!!」 「ごめんなさい!!!」 思わず、シンジは跳び上がって答える。 「それと!!」 「まだ、何かあるの?」 「どうしてリツコに電話したのに、あたしには何の連絡も無いのよ!!」 「い、いやその・・・ははは」 「笑ってごまかすな!!」 「ごめん」 アスカの顔は本気で怒っていた。 シンジはすっかり落ち込んでしまう。 「だって、なんて言ったらいいか分かんないから」 「ばかね。 誰もあんたの下手くそな慰めなんか期待してないから、安心して。 いい。そんなことよりも会いに来てくれた方がよっぽど嬉しい。 あんたがどんなにばかげた事言ったとしても、それでも、 何にも音沙汰ないよりはずっとましよ」 「ごめん」 シンジは項垂れて本当に泣いてしまいそうだった。 「あたしも見くびられたもんね。 慰め方が下手なくらいで、友達見捨てるほど嫌な奴に見えた?。 いい?。 本当に相手を信頼してるんなら、あんたの馬鹿さ加減も受け入れてもらいなさいよ。 しょうがないじゃない。馬鹿なんだから。 付け焼き刃でかっこ付けたってしょうがないの。 相手だって最初から、あんたが馬鹿だって見抜けないくらい馬鹿だったら、 いいじゃない、そんな奴と手を切っちゃえば」 「・・・・」 「あたしね、あんたがそんな風に考えてたの、結構傷付いてんだからね。 そんな表面的な事で人嫌いになったりする人間に見られてたって。 ショックでしょ、あんたが逆の立場だったら」 「ごめんね、ごめんね・・・」 とうとう、シンジは泣き出してしまう。 アスカは肩をすくめた。 「もうっ。 そんなこと位で泣かない!!。 あたし、もう怒ってないから。 ほらほら、泪ふいて」 「あ、ありがと」 差し出されたティッシュでシンジは不器用そうに泪を拭った。 「覚えといて。 あたしは、最初からあんたの馬鹿さが分かってるからね。 恰好つけるな!!。 いい?」 「分かった」 泣きはらした顔で、女の子に御説教を喰らっているのは余りに、みっともない光景だったが、シンジはなんとなく幸せな気分だった。 |
意を決してシンジは言った。 「加持さんのこと・・・・・。 残念だったね・・・・」 アスカは立ち上がると、シンジに背を向けた。 その顔の表情は見えなかった。 「・・・いいのよ・・・」 苦しそうに呟く。 その肩が小刻みに震えているのを見て、シンジはうろたえる。 「ご、ごめん、言っちゃいけなかったよね。 嫌な事思い出させちゃって、ごめん。 もう言わないから。 ねぇ。大丈夫? アスカ、アスカってば」 アスカの肩の震えがますます大きくなる。 そして・・・・ 「あ、ははははは。 もう駄目、我慢出来ない。ひぅー可笑しすぎるぅ」 「ア、アスカ?」 笑いころげるアスカに、シンジは呆然とした。 「ひひひ、はははは。 可笑しいぃ。 はははははは」 アスカの笑いは止まりそうにない。 「もう黙っていらんない。 いい、あんただから話すんだからね。 分かった」 「うん、分かった」 「あのね、大丈夫だったのよ。生きてるの」 シンジはアスカが悲しみの余り、おかしくなってしまったのかと怖れた。 「アスカ・・・・」 ようやく、笑いが収まったアスカは、先日のメールの一件についての話をしてくれた。 「そうなんだ。良かったぁ」 この数日の重たい気分が晴れて、シンジは本心からそう言った。 「うん」 アスカも、シンジの言葉に嬉しそうに頷いた。 |
「さて、と」 とアスカ。 「わざわざ重たい楽器を持って来たってことは、そのつもりだったんでしょ? 行きましょ」 そういうとアスカは、音楽室の方へ行ってしまう。 「あ、待ってよ」 慌てて、ケースを担ぎ上げるとシンジは後を追った。 「ちょっとは進歩してるんでしょうね」 「少しは、ね」 シンジは、はにかんで言う。自信たっぷりに言えないところが残念だ。 だが、まだ正直、あの問題は納得行く解決方法が見付からないのだ。 「じゃあ、今日は何やろっか。 楽譜は何もってきたの?」 シンジが持って来ていたのは、ハイドンのニ長調のコンチェルト他、古典ものが数曲だった。 「あら」 アスカはハイドンのコンチェルトの楽譜を手に取って、少し顔をしかめる。 「これ、コンクールの時にやった曲よね」 「うん」 「十八番を御披露って事かな」 「違うんだ。 どうも、あの時のって今考えると、あれじゃ駄目な気がしてる。 だけど、今は迷っているから、あんまりうまく弾けないと思う」 「じゃ、どうしてこれを?」 「・・・・・・・ アスカだとどうするか聴いて見たかったんだ」 「そうなんだ・・・・ってあたしこと試そうとしてる?」 「と、とんでもない!!!」 「まぁ、いいわ。 じゃ、これにしましょ」 アスカの弾き始めた序奏を聴いて、シンジは嬉しくなる。 かなりオーソドックスな(と言うことはマヤのレッスンを受けるようになって、漸く分かって来たことなのだが)解釈であるけれど、それでも確かにはっきりとアスカらしい息吹が感じられる。 どうやったら、こういう芸当が出来るのだろうか、シンジは羨ましくなる。 とはいえ、ソロパートが始まるので、余り他のことに気を取られている訳にいかない。 今は、余り衒うような事は出来ない。 それよりも、先ずシンジは、マヤのレッスンで習ったことに専念することにした。 不思議なほど、うまく行っている。 アスカの伴奏にのせてみると、あれ程納得仕切れなかったのが、嘘のようだ。 と同時に、シンジは自分が今この曲の中で『自由』であると感じていた。マヤから教わった様々な伝統的解釈を守りながら、それでもなお、自分が自由に動けるような感覚がするのだ。 どうやら、解決の糸口が見えて来たようだ。 |
「どう、かな?」 「うん、大部、良くなった」 「そう?」 「うん。 でも、もっと練習しないとね」 「あ、やっぱり?」 「そりゃそうよ。 何も無しにはうまくなりゃしないわ」 「今日はね、本当はアスカに聞きに来たんだ」 「さっきも何かそんなこと言ってたわね。 何?」 「あのさ、最近、マヤさんにレッスン受けてて、色々と教わってるんだけど」 「え、あのボケた人って、チェロ教える人だったんだ?」 「うん、日常生活は、ちょっとね。 だけど、とっても面白いんだ。 今までの人達がどんな弾き方をしてたか、だとかハイドンの時代にはどういう風に弾いてたか、とか」 「そう。 それでなんだ」 「何が?」 「何でもない。 話続けて」 「うん、 でさ。 教わった事を練習して身に付けるのはいいんだ。 でもね、いざ、じゃあ自分のスタイルで演奏してみたいと思うと・・・・ うまくいかないんだ。 どうしても教わったことに引っ張られたり、逆に、せっかく教わったものが全然使えてなかったりとか」 「なるほどね」 「分かる?」 「まぁね。 焦ることはないわ。 だって今、うまく行ってたでしょ?」 「うん」 「どうしてだと思う?」 「良く分からない。 でも多分、教わったことに専念してみようとしてたから、かな?」 「う〜ん、ちょっと違うけど、ま、いいでしょ。 種明かしをしちゃうとね、あたしの場合、『自分のスタイルで』なんて気負い無いもん。 夏の時のシンジも同じ。ちょっと個性が強すぎるけど、あの時も自分のスタイルなんて何にも考えてなかったでしょ?」 「うん」 「一体、シンジがいつから、そんな自分のスタイルなんて意識しはじめたのかしらね。 本当はそんな意識なんて要らないのにね。 いつのものように、そのフレーズが、どんな風になるべきかを考えて弾くだけ。 そうでしょ?」 「そうなんだけど・・・・」 「そうすると、教わった事が生きないような気がする?」 「うん」 「今はどうだった?」 「そう言えば・・・・」 言われてみれば、ただマヤに教わった様々なことを、その通りに弾こうと単純にしていた訳では無かった。ただ、そう言う風に聴こえて欲しいものをやろうとしていたのだ。 「もうとっくに、習ったことは、シンジの一部になっているのよ。 だから、後は自分を信頼してやるしかないの」 「そうか」 「これまで、シンジって自分の中にあるものだけでやってたから。 それはそれで、凄いんだけどね。 今ようやく色々なものを知って、幅が広がって来たってとこかな。 でも、それは決して、自分を否定するもんじゃないからね。 要は、新しいことを知った後の自分は、それだけでもう前の自分じゃないってこと。 後は練習あるのみよ!!」 「アスカは、こないだのコンクールでの演奏ってあんまり好きじゃなかった?」 「・・・・そうね。 あれは、本当は嫌だな。 今の方がずっと好き。 でも、あれだとコンクール落ちちゃってたかも」 「えええ?」 「嘘よ。でも分かんない。 そんなの気にしてたら、演奏できないでしょ?」 |
「やれやれ、克服しちゃったか」 音楽室のドアの外でリツコが呟いた。 中の二人に気付かれぬようにそっと、リビングに戻り、ソファに腰を降ろす。 やわらかな午後の日射しがレースのカーテン越しに物憂げな光を室内に投げかけている。 「なんか、落ち着いたわね」 加持は無事だった。アスカも復調し、シンジは、この様子なら将来確実に注目を集める演奏家になりそうだ。うまくすればシンジも、レイも自分の事務所で契約出来るかもしれない。 何しろ、同業者の中で唯一、コンタクトを取っているのはリツコだけなのだから。 子供達を対象に算盤を弾くことに気が引けないでは無かったが、しかし恐らくは、リツコだけが、彼ら自身の為を考えてマネージメントが出来るのだ、と確信していた。 唯一、気になることと言えば、レイの過去の事だ。 もし、リツコの勘が当たっていれば、少々難しいことになりそうだった。 |
「で、今回も会って行かんのか?」 冬月は、テーブルを挟んで向かいに座っている男に向かって苦々しげに言った。 「ああ。 その必要ない」 答えた男は、サングラスを指で押し上げる。 「お前にはなくてもな、シンジ君やレイちゃんにはあるだろう」 「もう、そんな歳ではないよ。 私には、もうどうにも出来ぬ程大きくなった」 「そうやって、逃げ続けてどうする。 別に彼らだってお前にどうこうしてれくとは要求しておらん。 ただ、会って一言二言、言葉を交わしてやるだけでも構わんのだぞ」 「すまんな。冬月」 冬月はため息をつく。頑固なところは一向に変わらない。 会う度にこの話題になり、そして結論はいつも同じだった。 「コンクールの入賞祝いでもしてやったらどうだ」 「そうだな・・・・」 「な、シンジ君もレイちゃんも頑張ったことだし」 「冬月、頼まれてくれないか」 「馬鹿言うな。お前がやってやらなければ意味無いだろう」 「・・・・」 「分かったよ。 しようがない奴だな、お前も」 「すまない」 「で、知ってるのか。 惣流アスカ嬢と、二人が付き合っているのは」 「因縁・・・・か」 「どうする?」 「どうする、とは?」 「話すのか?」 「過去をほじくり返してどうなるものでもない」 「いずれは知る事になるぞ」 「構わん。 赤木音楽事務所に依頼することになるのなら、早晩会わざるを得なかった」 「リツコ君は黙っていまいよ」 「致し方なかろう。 その時は私から話す」 冬月は感慨深げに言った。 「もう、10年か」 「たった10年だ」 ゲンドウは、吐き出すように言った。 冬月は哀れむようにゲンドウを見つめた。 この男にとって悪夢は未だ終っていないのだ、と。 |
夏の終わりのコンチェルト 第一部 完 |
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