▼第十五章
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モラトリアム。 勿論、この状態はリツコが意図したものだ。 アスカは、今や国内では有数の実力を持ったピアニストであるのは衆目の一致するところだ。 一方で、本来なら未だ音楽家の修行の途上で研鑽に努めるべき年頃でもあり、日本の国法上は成年とは見なされず、権利に於いて多いに制限されるところの歳でもあった。 だから、リツコは本物のプロとも、修行中の音楽学生とも言えぬ曖昧な位置にアスカを置き続けて来た。 通常、アスカ程の才能をもった者なら、早くから海外に留学させ、殆んど日本人とは言えぬ生活をさせた挙げ句に、プロデビューというのが、日本の音楽界の通例であった。 このようにして生まれた、辛うじて子供っぽい日本語が話せるだけの、東洋人音楽家が、多く海外で活躍している。「西洋」音楽であるのだから、骨の随まで西洋文化に育った人間こそ、その音楽の表現者として相応しいという、根強い信念のもと、日本人の音楽教育者は百年程の間、性懲りもなく、自らが西洋音楽に魅せられたという「音楽の普遍性」の実例をも裏切る所業に耽って来たのである。 ドイツ系アメリカ人とのハーフというアスカだからこそ、リツコは日本人の音楽家として大成して欲しかった。 日本人である以上、日本という場に身を置き、その良い所の好運なる享受も、また悪い所の不運も全て受け入れていて欲しかった。 そこで、最小限の場合を除き、アスカには学業を先ず優先し、その上で国内での演奏活動中心に仕事をこなさせて来たのである。 無論、その一方で芸大の某教授のレッスンは欠かさず続けていた。 仕事で評価を勝ち得なければ、忘れ去られる業界で、このようなコントロールは綱渡りにもにた危ういものであったが、乗り切れるだけの辣腕がリツコには備わっていたが、母の代から受け継がれた人脈の力にも大いに預っていた。 だが、もうそろそろその苦労も終る時が近付いていた。 子供達は、もう高校3年生になっていた。 |
「何で、父さんがそんなことを決めるんだよ!」 シンジは立ち上がり、震える拳を懸命に押えようとしていた。 眼前にはソファにゆったりと座った父が、物珍しそうな、とでも言えそうな表情でシンジの顔を見つめている。 「別に決めては居ない。最終的に決定するのはお前自身だ。ただ、私は普通の大学に進学するがよかろうと言ったまでだ」 「なんで!! 父さんは、僕の何を知っていると言うんだ!! これまで殆んど何も聞かなかった、何も言わなかったじゃないか」 「必要が無いことを聞くこともないし、必要の無いことを言うまでもない」 「じゃ、それって言う必要があるの?」 シンジは皮肉そうに口の端を歪めて言う。 だが、ゲンドウは平然と受け流した。 「ああ」 「僕にはさっぱりわからないよ! 僕は、ずっとチェロをやっていくんだ!」 「それは結構な事だ。だが、進学と何の関係がある?」 「そ、そんな!! 音楽の勉強したいからに決まってるだろう!」 「勉強なら自分ですることだ。学校に行くからと言って、出来るようなものでもあるまい? それに、いずれにせよ、芸大に行ってもチェロは冬月に習うだけのこと。今とどう違うというのだ」 「目茶苦茶だよ、父さんっ! じゃ、なんでピアノの練習もしろって言ったの? 受験があるからじゃなかったの?」 するとゲンドウは立ち上がり、ゆっくりとシンジに近付いた。 無表情ながら、その目はシンジの顔を見据えている。 そしていきなり、頬を張った。 「っ!! 何するんだよ!」 「そんなつもりでピアノを習っていたのなら、お前は私の想像以上に馬鹿だったということだ」 「どうしてだよ、殴られなきゃならないような事は何も無いよ」 バシッ。 もう一度、頬が鳴った。 「そんな奴に音楽をする資格はない」 「くっ」 「お前には失望した」 ゲンドウはそういうと、シンジに背を向け去って行った。 リビングを出た後で、玄関の扉が開く音がした。どうやら出掛けたようだった。 久しぶりに帰国した父との会話は、こんなふうに終った。 |
「あら、ずいぶんとやられちゃったみたいね」 近所の買物から帰ったレイが、赤く腫れたシンジの頬を見ながら行った。 「冷やしたほうがいい。それ」 買物袋の中身を手早く冷蔵庫にしまいながら、レイは淡々と言う。 「いいよ、そんなの、どうでも」 シンジは、俯いている。 酷く疲れた感じがした。興奮した後の脱力。 一体、あれは何だったのか。打たれた頬がじんじんとする。 何故、ゲンドウが打ったのか分かっていた。 分かっていたからこそ、悔しくて情けなくなる。 その感情が行き場を失って、シンジ自身を責め苛む。 だから、レイにも当たりたくなる。 「そう?」 レイはしまう手を一瞬止めて、シンジの様子を伺う。 だがレイの表情は余り変わらなかった。 それよりも彼女はさっさと片付けを済ませて仕舞った。 「っ!」 ぼんやりと床を眺めていたシンジは、頬にあてられた冷たい感触に思わず声を上げる。 「痛いの?」 振り向くと、レイの顔が至近距離にあった。 右手で、固く絞ったタオルをシンジの頬に宛がっている。 抜けるように白い。 そんな陳腐な表現も、レイを目の当たりにするとまるで写実性の高い表現だと思えてしまう。 中学生の頃にあった、あどけなさは疾うに消えていた。 その代わりに、そこには苛責の無いまでに整って美しい顔立ちがあった。 シンジは、むしろそこに近寄りがたい、にも関らず触れずには居られない矛盾した感情に因われる。 だが今は、レイに顔を覗き込まれるのは辛かった。 「いいよ、大丈夫だから」 と多少邪慳に、レイの手を押し返す。 「良くない!!」 思いがけない強い語気に、シンジははっとしてレイの顔を見詰めてしまう。 「だから、じっとしてて」 再びレイはタオルをシンジの頬に宛てがった。 |
10分程、レイは黙ってシンジの頬にタオルを宛てていた。 時々はタオルを折り返して、宛てる面を変えたりもしていたが、その間一言も口を聞かなかった。 以前から、こうした事への集中力は変わらないものがあった。 シンジからは、既に気恥ずかしい気持は消えていた。 そうして、この美しい従妹に介抱されているのが心地よかった。 3年半前に出会ってから、ずっと一緒に生活してきた。 別段、男女同士の感情が芽生えるでもなく、またレイは必要なこと以外は一切喋らない性格だったこともあって、そう親密な時を過ごしたことは無かったけれど、シンジにとっては何時の間にか、彼女の存在が大きくなっていた。 少くともシンジにとって、家族として暮らしたのはレイしか居なかった。 「あ、ありがとう」 「……別に」 レイは立ち上がると、キッチンへ行き、タオルを濡らし直した。 戻って来ると、何事も無かったように、再びシンジの頬に宛てる。 再び、二人の間を沈黙が支配する。 やがて、シンジは言った。 「僕には父さんが何を考えているか分からない」 「……そう?」 「なんで、僕が芸大を受けるのを反対するんだ」 「……私も反対よ」 「!! 綾波まで!」 「私には何故、碇くんが芸大に行きたいのか分からない」 「綾波はどうなんだよ」 「私には、計画があるから」 「計画?」 「ええ」 レイはそれ以上は答えず、じっとシンジの瞳を見詰め続けるだけ。 「もう、腫れも引いたみたいね」 レイはすっと立ち上がると、リビングから出て行った。 「……何なんだよ、みんな!……」 シンジは呟くが、一人残された部屋には、その声がやけに大きく響いて聴こえた。 |
『あのね、実は今度留学するんだ……』 何度も心の中で練習してみる。 でも、何度やっても心の中でさえ、その明るく取り繕った声が空ぞらしく聴こえる。 一歩毎に、気が重くなる。 あの角を曲がると、待ち合わせの駅前ロータリーは目の前だ。 あたし達って何なんだろう………… アスカは答えの出ない問に迷い込む。 恋人? 全然違う。それははっきり言えた。 少くとも、アスカはシンジにときめいたりなどしない。 会うと嬉しい。だがそれは同性の友人とでも同じ感情だった。 確かに、あの苦しかった年の夏、アスカは危うく精神のバランスを崩しそうになるまで、シンジに会いたいと切実に思ったことがある。だが、それはシンジだから、ではなくそこまで追い詰められたアスカの方に理由があっただけのこと。 親友? そうだったら良い、と思った。 だが、普通の友人とは異なり、二人の間には音楽のことしかなかった。 それ以外の事については、互いに相手のことを、未だに殆んど知らないのだ。 にも関らず、アスカには、シンジ程、自分を理解し得ている人間は居ないという確信があった。 逆に、あの無口な従妹を除けば(それはアスカ自身悔しいながら認めざるを得なかったのだが)、自分程シンジを良く分かっている者は居ないと思っていた。 本当? いや、全く本当ではない。 何故、こんなにまでして言い出しそびれたのか、シンジには分からないだろう。またその言い出しそびれた事柄を、何故アスカはしたいと思っているのかも、シンジは知らなかったに違いない。 一方で、自分が何故、それを告げることに恐れを抱いているのかと言えば、結局のところ、シンジが何と言うか分からなかったからだ。 ということは、結局、お互い相手の音楽のことしか理解していない、という事ではないか。 それだとて、結局、その音楽をどうして行きたいと思っているのか、すら理解し合えていないということではないのか? 何故? 思い当たる節が無い訳ではない。 何時の間にか、二人は音楽のことしか話さなくなっていた。 あの暑い夏のとそれに続く、新しい事ばかり起きた初秋の日々。 あの頃が、二人が一番気持が寄り添っていた様に思えた。 あの時、アスカは感情のより深いところでシンジと出会っていた。 だが決して上っ面の付き合いだったとは言えない。 何しろ、アスカにとってシンジは音楽を人間のものに還してくれる、そんな存在だった。 息が合う。それは確かだった。しかし息が合う共演者なら他にも何人か居た。 息が合うことは、アンサンブルの演奏の質を高める上で非常に重要なファクターだ。しかし、それが全てでは無い。そんなことよりもアスカにとってみれば、シンジだけが演奏を通じて、自分の心の一番深いところ、アスカが演奏者である以前の領域で触れ合えるように感じられる存在だったのだ。 無論、それはアスカの感じ方に過ぎない。 だが、その経験だけが、アスカにとって演奏者であることの意味を回復させてくれるように思えたのだった。しかし本当のところ、シンジがどう感じているか、を問い質すのは躊躇われた。 一方的に、シンジを自分の精神安定剤代わりに利用しているような後ろめたさ。 そのしこりが、何時の間にか、あの頃の心の繋がりを閉ざしてしまったのだろうか? そして、同じ理由がアスカに留学を決心させている………… |
五月も後半ともなれば、爽やかというよりも、汗ばむくらいの暑さの日もあろうというものだ。 陽は照っていたが、空は白い雲の方が多い。熱と湿り気を沢山抱えこんでいる白い塊。 シンジは空を見上げて舗道際に置かれたコンクリの植え込み鉢の傍らに突っ立っていた。 待ち人が時間通りに来たことは滅多に無かった。けれど、シンジが遅れて来ることは決して許さないので、こうして5分前から(というのも、丁度に来ている事だって稀にあるし、そういう時に遅れようものなら、烈火の如くに怒り出すので)待っているのである。 はたから見れば、二人はデートの待ち合わせをしていることになる。 いくら鈍いとは言え、それくらいはシンジとて分かっていた。 特に男子校に通うシンジの同級生達から見れば、シンジは「彼女が居る羨ましい奴」なのだ。 それどころか、「美人の従妹と天才の彼女を天秤にかける不届き者」としてバッシングに会う毎日。 発端は、昨年の文化祭。 実行委員会から引っ張り出されてミニコンサートをやる嵌めになった。 全曲を無伴奏曲で通す訳にも行かず、いや、シンジとしては全曲、バッハの無伴奏チェロ組曲集から選曲しても一向に構わなかったのだが、実行委員からさすがにそれは止めてくれ、もっと一般受けのする曲をと言われたので、ピアノ伴奏者が必要となったのだが、残念なことに引き受けてが見つからなかったので、仕方無くレイに頼む事にした。 これが先ず第一の失敗。 そのことをアスカについ、電話で話してしまったのが第二の失敗。 『ふ〜ん、そうなの』 と妙にいわくあり気なアスカの返答に不安を覚えたのが見事的中した。 当日、シンジからは思いも付かぬ美貌のレイの登場に周囲が騒然となり、やがて演奏会が始まると、何時の間にか客席に現れたアスカが、後半になって突然舞台に登場、如何にも舞台なれした挙措と垢抜けた美しさで万座の注視を集めるや否や、レイと交替して(と言う程平和的なものでは無かった。なにせ、アスカは「どいて」の一言で済ませたのだから)弾き始め場内は熱狂の渦に巻き込まれた。さすがに日頃、クラッシック音楽には無縁な男子高生と言えども、マスコミに半ばアイドル的に取り上げられる事が多くなったアスカのことは知っている者が多かったからである。 かくしてシンジは、全校生徒の羨望と嫉視の的となった。 だが、実のところ、級友達が羨むような事は何一つ無いのだ、とシンジはため息をつく。 なるほど、女性に接する機会こそ恵まれているとは言え、未だアスカとは恋人未満、どころか果たして一般的な意味で友達と言えるのかどうかも怪しい、と思っている。 付き合いは年を追う毎に、益々音楽一辺倒のものになりつつある。 それ以外の話題は、とんと二人の間に交わされることは無くなっている。 そして一方が、それを生業とする者であり、もう一方はようやくその道を志し始めた者である以上、そこには色恋沙汰の雰囲気は無く、真剣勝負ですらあった。 それでも、無味乾燥だ、とか色気が無い、と言う訳ではない。 明日はアスカと会うのだ、と思うと自然に自分の心が浮き立つのをシンジは、はっきりと意識していた。会えること、そのものが嬉しいのだ。 だがそれ以上には何も進展しない。 シンジには、自分がアスカとそういう関係になりたいかどうか分からなかった。 いや、それよりも先ず自分が、ひとかどの何かでなければならないのだ、と固く信じていた。 そうでなければ、何も進められない。 だから、シンジにとっては、アスカと演奏することは完全に真剣勝負だった。 『勝負』と言ってもアスカに勝つか負けるか、という勝負ではない。自分の持っているものを全て表現しつくせるかどうか、その上でそこに現れたもの、即ちそのときのシンジ自身の全て、への審美的判断に服すること。 アスカの前でなら、シンジは自由に、試みに全力を投入出来る気がするのだった。それが冬月やマヤのレッスン以上にシンジにとって意味があるように思えたのだ。 だが、それゆえにこそ、シンジにとっては何時まで経ってもアスカは追い付くべき目標であり続ける結果となる。 それにしても、そろそろ自分の力量が世間でどの程度のものか、ということにも気付かない訳では無い。そう、はっきり言って、いい加減、国際的なコンクールに参加して世に自分の音楽を問うても良い筈。 それが実現すれば形の上では、アスカに伍したことになる。 だが不思議な事にゲンドウは(そしてゲンドウの意を受けた冬月は)、あのコンクール以降、一切コンクールへの参加には首を縦には振らないのだ。と言っても全くプロの世界へ足を突っ込むことは禁止されている訳では無い。 マヤの所属する室内楽の団体の演奏会には数回既に出演している。それはそれで立派にプロの演奏活動だと言えた。しかしはっきりしているのは、シンジに脚光が当る形での活動は一切NOなのである。 それでもシンジは、これまで然程不満には感じなかった。 形の上で例え、アスカに対等な立場に立ったとしても、それは形でしかないことを十分承知していた。特に、相手(アスカ)自身が形には決して騙されない以上、形に拘る意味は感じられないからだ。 ところが、いざ進学の段になってまで、反対されることになると、さすがにシンジも、それまでの不可解な扱いへの不満が噴出すことになる。 |
「あ、待った?」 明るい声でアスカ。 「ううん、そんなには」 と曖昧な微笑みを浮かべてシンジが答える。 『全然』とは言えない所がシンジらしい。 そんなささやかな抵抗をアスカはあっさり無視してしまう。 「そ。じゃ行きましょ」 待たせた事に何の弁明も無く、アスカはさっさと先に立って歩き始めた。 |
リツコのスケジュールのポリシー上、アスカの仕事は週末に入ることが多かった。 この為、二人が会うのは、月に一度程度だ。しかも大抵はシンジが楽器を持参でアスカを訪ねるのである。午後の演奏会の前に、小一時間程、シンジのソロの伴奏を弾く。 普通ならその日のレパートリーを攫う方が良いのだが、リツコも、シンジと演奏した後のアスカの方が本番で確実に良い演奏することが分かっていたので、黙認といったところだ。 しかし、今日は久しぶりに外で待ち合わせ、となった。 今、アスカはレコーディングの仕事をしていた。 企画はレコード会社から持ち込まれたもので、話題性のある演奏家による、ポピュラーな名曲集という有り勝ちな企画だった。 最初、リツコから提示されたとき、アスカは嫌がった。 当然、通俗に堕すのを嫌うリツコ故、アスカはリツコも当然この話を断るものと思っていたのだが、意外にもリツコは、この仕事だけは引き受けるようにアスカに言い渡したのだ。 ただし、収録曲についての決定権はアスカが最終判断するという条件は付けてくれたのだが。 少々強引に押しつけられた観のあるこの仕事に、アスカは憤慨しつつも、収録曲は自分が決めるという点に惹かれて、それなりに闘士を燃やしつつあった。 そんな話をシンジにしたところ、「レコーディングしてるところ、見てみたいなぁ」と言うので見学させることにしたのである。 シンジの先に立って歩くのも当然ではあった。 |
スタジオ入り(と言っても本当は録音スタジオではなかった)の時刻までは後1時間半程あった。 言い出すのなら今のうちだ。 一度仕事が始まれば、遅くまでシンジの相手は出来ない。 むしろ、シンジに告げる時間が欲しくて、いささか早すぎる時間に待ち合わせにしたのである。 だが、言い出さなくてはと焦る気持と裏腹に、アスカはシンジの方を振り返りもせず、先に立ってどんどん歩いていってしまう。 「あ、待ってよ、アスカ。ちょっと早いよ!!」 さすがにシンジがたまりかねて声をかけたので、アスカは心持ちゆっくり歩く事にした。 確かに、スタジオ入りする前にどこかで二人で昼食をとるのに、こんなに慌てて歩く必要はない。 |
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