▼第十六章

 それは高校生になったばかりの頃のことだ。
 アスカは、ある放送局の番組で偶然、碇ゲンドウと共演することになった。
 現在注目される日本人演奏家として、チェロの碇ゲンドウ、バイオリンの時田史郎、それにアスカが取り上げられ、各々のインタビューと演奏、そして最後に3人でピアノトリオの演奏という構成の番組だった。
 既に円熟した演奏家であるゲンドウと時田が取り上げられるのは分かるとして、ピアノについてはアスカが選ばれたのは、一見真剣に作られているようにに見えるものの、その実企画の狙いがやはり、その一年でもっともマスコミへの露出度の高い演奏家の人気目当てであることを露呈してしまっている。

 最初から格が違うのは分かっていたので、アスカが臆するところは微塵も無かった。
 収録自体も各人毎のテイクが殆んどだったから、収録期間中、放送局で出会っても挨拶を交わす程度のことでしか無い。
 真の名演奏家の例に洩れず(不思議なほどこれは例外の少い法則であると言える。 年齢や見掛け等に惑わされる程度の耳では所詮大成しないということか。)、ゲンドウも時田も、決してアスカを子供と見て軽く扱う事は無く、むしろ一人前の演奏家として遇してくれたことは有りがたかった。

 だが、いざ共演となってアスカは自分の経験の浅さを思い知らされることになった。
 ハイドンのピアノ三重奏という極めて、ありがちな(とはいえ、この編成で比較的ポピュラーな、と言えばこの程度しか無いのだが)選曲。
 しかも、リハーサルに一時間程度で即収録という慌ただしさだったから、敢えて言えば即興のジャムセッションに近いものになる。
 こういう時には、当たり障り無く流しておく、と言うのも手ではあるし、その程度の演奏で普通の音楽ファンの耳を誤魔化す程度のことならアスカも十分可能だった。
 むしろアスカは、ゲンドウ達もそう出て来るだろうと嵩を括っていたところすらあった。
 アスカ自身は、そんな「お仕事」を嫌っては居たものの、曲がりなりにも演奏を(中途半端ながらも)生業として来た経験が、彼女にも摺れた習慣を何時の間にか身に着けさせて仕舞っていたのである。

 リハーサル室で始めての三人の合わせ。
 アスカも何度か他の奏者と演奏したことがある曲だから、楽譜は頭に入っていた。
 やはり、最初の通しは、そっけなく表面をなぞるように演奏されただけだった。
 ……今回も、この程度で終るのかな。
 せっかくの共演者なのに、勿体ない気もしたけれど、この時間では致し方ないだろうと諦めのため息を付いた時、ゲンドウが言った。

「本番は、互いに仕掛け合うからポイントだけは決めておくべきだな」

 心得たとばかりに、時田が返事をする。

「そうですね。まぁ、互いのリードの箇所は分かってますから、アコーギクの入る部分のカウント出しとか、は決めときますか」

「……」

 少し意外な気はしたものの、まぁ、技術的な申し合わせだろうとアスカも話に加わる。
 ゲンドウは、てきぱきと仕切るので打合せはものの数分で終った。

「どうする、ちょっと互いに手を明かしてみようか」とゲンドウ。

「ええ、いいですね。惣流さんもいいですよね?」と時田。

「あ、は、はい……」


 それは恐ろしい経験だった。
 アスカなりに、表現のしどころは押えてあったつもりだし、自分なりの表現をもしたつもりだった。
 だが、他の二人、特にゲンドウの演奏には圧倒され尽くした。
 最初、シンジの演奏に近い息の合い方に、懐かしくも血は争えないものと思っていた。
 が、その先に待っていたのは、遥かに深く広大は流れだった。


 例えて言うなら、アスカとシンジはせいぜい、自分の一通りの考えを最初から最後まで破綻無く述べる事が出来る、とするなら、ゲンドウは、複数の全く異なる考えを同時にしかも、刻一刻と枝分かれさせながら、不思議な秘術を使ってか、矛盾を呑み込む程の力で併存させているようなものだ。
 シンジが、一人の人間の言葉であるならば、ゲンドウには、街路の雑踏の持つ猥雑さと、にも関らず自然と生まれて来る街としての雰囲気・色彩が備わっているのだ。
 どんなに懸命に仕掛けてみようとも、それは大きな自然のうねりに呑み込まれてしまう。
 それでいてゲンドウの演奏は奔放でもあり、揺るぎないものでもある。
 最後の方では、アスカは必死に付いて行くのが精いっぱいだった。
 だが、時田は平然とゲンドウの懐に、甘えてみたりあるいは、かわして見せる程に余裕があった。
 どちらかと言うと、ストイックなこの音楽家のスタイルにとっては、ゲンドウの行き方は、豊暁に過ぎるのだろう。だが、それならば逆にその乖離を愉しむだけのウィットに時田は恵まれていた。
 いや、ゲンドウは最初から時田がそう来ることを見越していたのかも知れない。
 いずれにせよ、時田は、やや即物的にも聞こえるけれど、まるで音で描いた、ゲンドウの演奏に対する批評とでも言うべき音列を紬だして見せた。
 演奏が終り、アスカは無力感に膝が震える程打ちのめされていた。
 これが、本当のプロの演奏なのだ。

「では、本番はよろしく」

 ゲンドウは平然と言った。
 そして二人は何事も無かったかのように楽器をしまい、リハーサル室を出て言った。
 本収録は30分後だ。


「勘弁してよ。敵うわけ無いじゃない……」

 遺されたアスカは、唇を噛みしめていた。
 彼らはあれを、即興で出来るのだ。
 何時でも、あれだけの音楽を汲み出せる程のものを持っているというのか?
 悔しさが、彼女の顔を蒼白にしていた。


 アスカは本収録を殆んど覚えていない。
 パニックは収まったものの、ただ死に物狂いに半ば恐怖に駆られながら弾き通したのだ。

 逃げはしなかった。
 だが、それだけのこと。


 こんな状態での演奏も、傍目には破綻も無く、3人の名演奏家の遊び心溢れる演奏と聞こえないことも無かった。どうせ編集でどうにでもされる演奏ではあるのだ。
 にも関らず、ゲンドウも時田も、少しも手を抜くことは無かった。
 アスカは知っていた。
 結局、彼らはアスカの死に物狂いの演奏に辻褄を合わせたのだ、ということを。


「あらあら、お姫様でも落ち込むのね」

 たった一人、スタジオのピアノの前に項垂れていたアスカの背後に何時の間にかリツコが来ていた。

「うるさいわね、ほっといてよ」

「あら、恐い。でも、そろそろ帰るわよ。それとも一人で帰る?」

「…………」

 アスカは答えられなかった。答えない事が、アスカの最早ぼろきれのようになったプライドを支えている。
 ばかげた事だ。何の意味も無い。
 突然リツコは、アスカの肩を掴み、自分の方に向き直らせる。

「いい加減にしなさいっ!」

 虚を衝かれたアスカは、ただ唖然としてリツコを見つめるしかなかった。
 怒りの表情。
 その瞳の奥に、悲しい色。
 知っていた。アスカはずっと前から、リツコの瞳の奥に秘めた悲しげな色を。
 それが何なのか分からない。
 アスカに対する憐憫では無い。そんなちっぽけな物差しでは到底計り得ない深い悲しみの色。
 それは決して泣き出さないだろう。涙となって流れ出ることは無いのだ。
 だが、リツコがアスカを見るとき、必ずその瞳の奥にはこの色があった。

「……リツコ……」

「あのねぇ、普通なら、アスカの歳じゃ当然の事なの」

「……」

「御不満?」

 アスカは頭を振った。

「まだまだ……よね?」

 と言ってアスカの表情を伺うリツコの瞳をアスカは、見詰める。
 はりつめていたもの、心の奥に凍っていたものは何時の間にか消え去っていた。
 最初からそうだったのだ。単にそれに今気付いただけだ。
 アスカは体から力が抜けていくのを感じていた。それはどこか心地よいものだあった。
 リツコの手から優しく身体を振りほどくと、アスカは、立ち上がって伸びをした。

「アスカ……」

 リツコの声には未だ少し心配そうな色を残した。

「……大丈夫よ」

 自分の声が掠れているのに、アスカは少し驚く。

「そうか……まだまだよねぇ」

 少し力を込めて言って見た声が不思議にアスカにはしっくりと行って感じられた。
 半信半疑で発している言葉なのに、その声色に自分が励まされている。

「ええ、そうよ」

 リツコの言葉には落ち着いた力が感じられたので、思わずアスカは彼女の方を向いた。
 確信しているのだ。この女性は、自分が未だ何者でも無いときからずっと…………

「そうね」

 二人は微笑みを交わす。

「何にせよ……することがあるのは良い事だわ」

 とリツコは言った。
 そう。
 今のままでは、もう限界に来ている。
 だから、踏み出そう。


「あ、待ってよ、アスカ。ちょっと早いよ!!」

 後ろからシンジが追いすがって来るのを敢えて、アスカは無視した。
 あのゲンドウの息子が、そこに居る。

「早いよ。アスカ」

 ようやく追い付いたシンジがアスカの横に並んで言った。

「追い付いたじゃない」

「そんなぁ」

 少し、すねて見せるシンジの顔をアスカはじっと見詰める。
 一体、シンジは自分の父親が何れ程深い音楽を内に秘めているか知っているのだろうか、と。
 予定は変更することにした。

「あのね、シンジ。あたし、9月からフランスに行っちゃうから」

「へっ?」

 シンジは怪訝そうだ。
 アスカの場合、仕事で行くのなら『9月から』などという言い方はしない。学校を考慮してリツコが余り長期の日程は組まないからだ。
 だから、シンジは、アスカの物言いに、すぐさま不穏なものを感じた。

「……どうして……」

「留学するのよ。と言っても半分は向こうで仕事もする」

「えっ?」

「何よ、そんなに意外?」

「だって……」

 確かに、未だ世に出ていない音楽学生なら『留学』という言葉もしっくり来る。
 だがアスカは、仮にも周囲から一目置かれているプロの演奏家なのである。

「あたしだって、もっともっと伸びたいのよ……」

「!!」

 シンジは胸を衝かれる思いがする。

『もっと伸びたい』

 シンジが今感じていることをアスカ自身も感じているとは、思わなかった。と同時にアスカの気持が突然すごく分かった気がした。

「そうなんだ……」

 シンジはややうつろな表情で、俯く。
 どんな表情をしていいか分からない、と思った。

「どう思う?」

 アスカが顔を下から覗き込むようにして言う。
 にこやかな笑顔、と思った瞬間、シンジはアスカの瞳の奥に、脅えたような不安の色を読み取る。

「どうって…………」

 シンジは、おめでとうと言うのも白々しい気がしていた。先程から胸に支えている、この重苦しい気分。こんな気持のままでは、素直に言葉が出そうに無かった。

「……よ、よかったじゃない……」

 そっけない言葉。
 だが声が少し震えていた。

「うん」

 アスカは、踵を返し再び歩き始めた。その後を、シンジがとぼとぼと付いて行く。
 それからは殆んど会話らしい会話は無かった。


 レコーディングは、都内のとある教会で行われた。
 クラッシックの場合、アコースティックな楽器に見合う残響を採る為にしばしば演奏会場や教会が使用されることが多い。そうした会場は確かに素晴らしい音響効果を誇っているものの、意外な程雑音も多いのである。特に、車の音を完全に遮断する事は非常に難しいのだ。
 幸いにして、この教会の場合、周囲は高級住宅街ということもあり、比較的雑音レベルは低かった。
 それでも、レコーディングエンジニア達は設営作業で朝から現場に入っている筈だ。
 ピアノの調律に、機材のセッティングと調整。するべき事は山程ある。
 しかし、これからアスカがスタジオ入りすると即録音開始、とはならない。
 今度はアスカがこの場所の響きを掴む為のリハーサルをする。エンジニア達は、その間に昼食を取るのだろう。
 だから二人が到着した時、礼拝堂内には林立するマイクスタンドや、訳の分からない機器類とケーブルの山だけが残されていた。

 祭壇の上に組まれた壇上にピアノが置かれ、その周りをマイクスタンドが何本か。そして床一面に貼られたケーブル。
 最前列席にはコンソール類が置かれている。マイクスタンドはピアノ周辺だけでなく、二階回廊や、聖歌隊の席にまで進出している。

「ふぅ。素敵な職場ね」

 そういうとアスカは手を捏ねるようにして、ほぐし始めた。

「アスカ……」

 そのときシンジは何を言おうと思ったのだろうか。ふと、彼女を呼び停めたくなった。
 アスカはちらりと振り返って微笑む。だが何も言わずピアノの前に座った。
 幾つか、キーを叩いて耳を澄ます。
 調律は申し分無いようだ。
 調律師は、アスカの演奏会にはいつもお願いしている吉原氏が今回も担当している。
 四十過ぎの実直そうな男である。
 余り口数は多くない。ピアノの調律の善し悪しが演奏に与える影響の知識については、如何に天才と言えど経験に優る事は無いのだ。だから、吉原のような経験豊富で且つ、アスカの個性を尊重してくれる有能な調律師が居てくれた事は大変有難い話だった。
 それもまたリツコの周到な手配によるものだったのだ。"惣流アスカ"という演奏家、というのは本当のところ、こうしたスタッフの集合体が作る作品でもあった。
 その中核にアスカ本人が居る。
 アスカは、今更ながらに自分が如何に守られた存在であったかを思っていた。
 多くのピアニストは、それこそ自分一人の力で這い上がる。
 コンクールや、不意の演奏会の出演の機会に自分を売り込み、マネージャを雇い、何度か成功と失敗を々ながら、自分にとって望ましいスタッフとの人脈を作り上げて行く。そんな過程をアスカは、最初から免除されてここまで来ていた。
 だから、今一度始めなければならないのだ。
 アスカは傍らに居るシンジも忘れ、演奏に没頭しはじめた。


 シンジは既にアスカから、"名曲集"という企画に対し選曲は自分への一任を要求したという話を聞いていたので、一筋縄では行かない選曲になることは予想していた。
 しかし、いきなり、スコット・ジョプリンで来るとは、と苦笑する。
 ラグタイム。
 既にクラッシックでは無いと言えば言える。
 しかし、彼はピアノ譜を発表したのだ。
 ピアニストならちょっと弾いてみたくなるような魅力に溢れた小品。
 正直、シンジはラグタイムからスイングそしてジャズにと連なるアメリカ音楽の系譜には昏い。
 アスカがそうした系統の音楽をやると言う事すら知らなかった。
 だが、なるほどアスカがどうしてこれを演奏したいと思ったのかが良く分かる。
 "ピアノ"で遊ぶ。"ピアノ"で鼻歌を歌う。
 その喜びそのものであるような音楽。
 お次ぎは、ビアソラだ。
 (と思う。この当たりもシンジは疎いので曲が何なのかまでは分からない)
 恐らくは原曲はタンゴバンド用。しかしビアソラの鋭敏な耳は、ピアノの持つオクターブの独特の響きの魅力を存分に引き出している。だから、ピアノの音が好きなら是非この音を弾いてみたくなる筈。
 アスカの演奏はそう言っているようだった。
 次いで、曲はいきなり奇妙な響きの、そして不思議に古典的な形式感の音楽に変わる。
 これはシンジも知っていた。ビラ・ロボスだ。
 子供のための小品集から。即物的なひびきの寄せ木細工が、具象をする、と思いきや、近代フランスの詩のように瀟洒な小歌に化ける。いや、歌うのではない。ピアノという楽器の音そのものに純粋に戯れるだけ。
 モンポウの小品を幾つか弾き始めたときには、シンジはもう驚かなくなっていた。
 アスカが何を考え曲を選んだかが見えて来た。
 "クラシック"を聞かせるのではなく、"ピアノ"そのものを聞かせたいのだ。

「どう、呆れたでしょ」

 何時の間にか傍らにリツコが立っている。
 見るとスタッフがそろそろ戻って来ていた。

「アスカ……フランスに行くって言ってました」

 シンジの口調には幾らか咎めるような刺が含まれてしまう。

「そう、あの娘、話したのね」

 リツコはシンジの感情にまるで取り合わないかのように言う。

「どう、寂しい?」

「寂しくない、と言えば嘘になります。でも……」

「でも?」

「……何と言っていいのか分からないけど……」

 何と言えば良いのだろうか?
 単純に会えなくなる事が寂しいのでは無いのだ、とリツコに伝えようとして言葉を探しあぐねる。
 取り残されるような心細さ、とでも言えば良いのだろうか。
 そう思うこと自体がふがいないような気がして来て、シンジはもう何も言えなくなる。
 リツコは黙ってしまったシンジに微笑んで見せる。

「そろそろ、スタッフと打合せになるわね。今日はどうするの? 随分長くなるわよ」

「ええ、分かってます。適当なところで引き上げますから」

「そう。録音が始まったら話も一切出来ないから気を付けてね。私も多分相手してあげる時間は殆んど無いし」

 相変わらずリツコはこういうことは、はっきり言う。

「分かっています」

 やがてプロデューサと思しき、中年の男がやって来る。
 アスカの傍らに行き、なにやら話し始める。既に互いに面識があるようだ。

「そう言えば……」

 とリツコがシンジの方を振り返る。

「シンジ君、進路決まった?」

「はぁ」

 シンジは困惑して曖昧な返事をしてしまう。
 それが目下の最大の問題なのだけれど。
 リツコはそんなシンジをからかうような口調で切り出した。

「普通の大学行くんでしょ? 学部は何?」

「ど、どうしてそれを……」

 と訊きかけて、シンジははっと腑に落ちる。
 とっくに冬月もリツコも、父と申し合わせ済みなのだ。

「リツコさんも、父に賛成するんですか……」

 怒りがこみ上げ来る。そして思い当たることに気付く。
 そう、リツコもこれまでのゲンドウの奇妙な方針を了解済みなのだ。
 確か、高等部に上がる頃までは、盛んにシンジにコンクールの参加を吹き込んだリツコが、ある時期を境にぴったりとその話に触れなくなった。その時は、聊か鬱陶しかったリツコの薦めがなくなった事の安堵の方が大きかったので、却って嬉しかった。
 だが、今考えれば、それはゲンドウに何らかの因果を含められていたに相違無い。
 大人達は何を画策しているのだ。

「賛成よ」

 リツコは平然と言い放つ。

「一体、僕をどうしたいんですか」

「甘ったれないでね」

「!」

「あなたを誰かがどうにかできると思ってるなら、そういう人にしかならないでしょうね」

「な、何を……」

「アスカはね、自分で考えて決めたの。もしあなたが寂しいと思うなら、その辺のところも考えて欲しいわね。じゃ、あたし行くから。くれぐれも録音の邪魔にならないようにね」

「くっ……」


 邪魔もの。
 ここでは、なるほどシンジは邪魔者になるか、道端の石ころほどにも注意を引かないものになるしかない。
 誰も、シンジを構う余裕などない。
 何度も打ち合わせと録音が重ねられる。
 採った音を編集すれば、商品としては傷の無いものが出来る。
 だが流れは止まってしまう。
 どうやら、今回の企画のプロデューサもアスカ達も、そんな死んだ演奏にはする気がないらしい。となれば時間の許す限り、何度でも挑む他はない。
 そして、シンジは彼女の体力と集中力に驚かされた。
 途中、6時頃食事を兼ねた休憩をとったものの、それ以外はずっとレコーディングに
かかり切りだ。
 (流石に、ラウンドの合間のボクサーのような状態のアスカにかける言葉をシンジは持たなかった。)
 こんな世界に彼女は居る。
 今までもに何度か、シンジとのあまりの差を見せ付けられ、沈む思いをしたことはある。
 だが先ほどのリツコとの会話や、留学話からのショックもあって、今回はシンジには酷く堪えて感じられた。
 今のシンジでは、余りに何者でも無さ過ぎる。
 それよりも、自分は一体どうしたいのだろう。
 "こんな仕事"がしたい、のではあるまい。
 漠然と考えていた事が、自分でも理解出来無い、いやそれどころか何でも無い代物になっている。

 居た堪れなくなってシンジは、7時半頃会場を辞した。

↑prev
←index
↓next

△Reprinting old workへ戻る
▲SOS INDEXへ戻る