▼第十七章

 今日は遅くなる。多分外で食べてくるから。
 そうシンジが出掛けに言っていたので、待っている必要は無かった。
 しかし、レイは何となく、八時を過ぎても食事に手を付けずに居た。
 もしシンジが外で食べてくるのなら、全くの無駄に終わる。
 だが、今日は何となく今の時間まで、無聊に時を過ごしていた。
 テレビもラジオも付けないので、部屋の中には空調の低い唸りと、時計の音だけ。
 シンジもレイも、強い照明は苦手な方だったので、リビングの灯りは全て間接照明だったのだが、今灯っているのはダイニングのテーブルの上の灯りだけだ。


 先日のゲンドウとの衝突以来、シンジはやはり落ち込んでいるように見える。
 実はレイ自身もゲンドウと同じ意見だったので一度は取り成ししようとも思ったが、シンジの気性からすれば、ただ態度を硬化させるだけに終わるので、レイは手を全く出さない気でいた。

 それにしても、何故、シンジは気が付かないのだろう?。
 いや、無理からぬところなのかもしれない。
 最初に会ったときから、レイには、シンジはてんで頼りない子供に見えていた。
 その印象は、今も変わっていない。
 チェロを抜かしたら、シンジは、単に受身で場当たり的な行動しか取れぬ何の取り得も無い男だった。
 今でも、シンジの不得意なことへの対処指針とは「やりすごす」ことだ。
 周到に結果を見積もり、しかるべき準備をするレイには、そうしたシンジの行動は悉く愚かしいものに思えた。
 とは言え、レイはシンジを別に軽蔑も、軽視もしていない。
 彼女にとっては、単にそういう個性の少年でしかない。その人物への好悪の判断材料にはならないのだ。
 という事は、レイにとってシンジを見放したりすることも出来無い、という結果になる。

 ……結局、みんな本当は碇君に振り回されている。
 レイは苦笑する。
 そういう人には、そういうめぐり合わせが付いて回るのだ。
 妬ましい?。
 レイには妬む権利くらいはある。
 ただしシンジを妬むくらい惨めなことも他に無さそうだ。
 それも彼の幸せなめぐり合わせの一つなのかもしれない。
 時計が九時を告げる。
 何の事は無い。
 レイは漫然と、シンジへの中途半端な心配に時間を無駄に潰しただけだった。
 レイはため息を付くと、いやな仕事を片付けようとでも言うように、食事に取り掛かった。


 食事を終え、レイがキッチンで食器を洗っている間にシンジが帰ってきた。
 流しで洗い物をするレイの背後で、玄関からリビングへのドアが開くのが聞えた。

「……ただいま」

 独特の、聞いた相手にどこか感情的しこりを負わせる声色でシンジがレイに声をかけた。
 レイは、振り返らず、そのままの姿勢で言う。

「おかえりなさい」

 だがシンジは、そのままドアを閉じてしまった。
 どうやら自分の部屋に行ったようだ。
 手早く洗った食器を拭き、いまいましげに布巾を置く。
 それからレイはシンジの部屋へと向かう。

「碇くん?」

 部屋の前で、そっと呼んでみる。
 チェロの音がドアから漏れてきている。
 レイはため息を付いた。
 一体、何なのだ。
 それとともに腹も立ってきた。毎度の事ながら、シンジがこうした自分で処理し切れない感情を、周囲に撒き散らす風に、一番の迷惑を蒙っているのはレイに他ならない。
 逆にレイだからこそ、シンジも過度に甘えることなく、またレイ自身もその弊に潰されることなく共同生活がなりたっていたと言っても良い。
 しかし、だ。
 流石に、ここ数日レイは彼を案じていたのだから、この仕打ちには腹に据えかねるものを感じたとしても仕方は無い。
 レイの呼びかけにシンジが気が付いた様子はない。
 一心不乱に弾いているのだろう。それはよく分かったが、どうにも頂けない演奏だった。土台、本人が何かから逃れるように弾く演奏に良いものは滅多に無いものだ。なにがしか不自然な感情の抑制が、どうしてもバランスを欠いた表現を産む。
 そして、基礎練習ならまだしも、曲をそんな調子で弾くのでは、練習にもならない時間の無駄だ。
 こんな風にチェロを逃げ道にするように、一体何時頃からなってしまったのだろう。
 同居を始めた頃は、そうではなかったと言い切れる。
 何しろ、シンジには、このように逃げ出したいと思えるほどの生活すら無かったのだから。それはそれで、一種の成長とも言える。
 とは言え肯定できるものでは無い。

「碇くん!」

 すこし声を荒げて、ドアをノックする。
 チェロの音が止み、ドアが開いた。

「あ、綾波……何?」

 レイの目に怒りの表情を読み取って、シンジは臆している。

「碇君。ああいう態度は嫌」

「……ごめん」

「何が嫌だったか分かってる?」

「…………」

 困惑してシンジは曖昧な笑みを浮かべる。
 分かっているようで分かっていない。だから繰り返すのだ。
 レイは嘆息する。

「……綾波……」

「いいわ。で、?」

「へ?」

 シンジはぽかんとレイの顔を見る。

「どうだったの? 今日は」

「どうって……」

 またシンジの表情が曇る。

「アスカと喧嘩でもしたの?」

 シンジの表情が変わる。もっとも言い当てられて狼狽した顔ではない。
 何か別の事を連想しているのだ。

「……あのさ……」

 シンジは言いよどむ。何をレイに話してよいものか、迷っている。
 直接的には、アスカの留学の話ではあるが、本当のところは、自分自身のこと、しかもそれが今ひとつ自分でも掴めていないという事が問題なのだ。
 それをレイに言い募ったところで、あるいはリツコのようにあっさりと、レイもシンジ自身より良く分かってしまうことがありえたとしても、シンジ自身の了解に資する事は無いだろう、と思われた。
 にも関わらず、胸の内にうずまくもやもやとしたものを解消しないことには、居ても立っても居られない気分なのだ。

「いいにくいこと?」

「うん……いやそうじゃないけど……」

「言いたくないならいい」

 レイは踵を返そうとする。

「あ……」

「なに?」

 シンジは、さすがにアスカの留学の話は伝えておこうと思ったのだ。

「アスカ…… 九月からフランスに行っちゃうんだって」

「それで?」

「それでって……演奏旅行じゃないんだ。ずっと向こうに行ってるんだよ」

「ええ」

「ええって……綾波は知ってたの?」

「ごめんなさい。アスカからは口止めされてたのよ」

 と言いながら、レイは少しも悪びれない。

「そうか、僕だけがまた知らされてなかったんだ……」

 考えてみれば、仲の良いレイとアスカの二人の間で、こんな話を隠している筈もなかった。自分の迂闊さに舌打ちすると共に、シンジは所詮アスカにとって自分はその程度のものでしかないのかも、と情けなくなる。

「碇君?」

 レイは、知らされていなかったことがシンジを悩ませているのだ、と誤解してしまう。
 丁度、少し聡くなった子供が、子ども扱いされることに傷付くように。
 そしてそれはあながち誤解でもなかったのだが。

「レイはどこまで知ってるの?」

 シンジの声に責めるような響きを感じて、レイは顔をしかめてしまう。

「……そんなには。習う先生がレオニード・シュッツ先生だってこととか。学校はいやだからプライベートレッスンだけだとか」

「ふ〜ん、そうなんだ」

「…………」

 明らかにシンジの態度に含まれている批難の色に、レイは居たたまれなくなってくる。

「碇くん……あのね……」

「僕にはそんなことは一言も言ってくれなかった」

「アスカは、どうやって碇くんに言おうかって悩んでたわ」

「そんなこと……」

「別に碇君のこと軽く思ってたわけじゃないの。大切に思うから悩んで……」

「僕には御構い無しにね!!」

「……酷い」

 レイはそう言うと、後退る。

「あ……ごめん」

 シンジは慌てて呼び止めようとするが、レイはさっと踵を返し自分の部屋へと入ってしまう。
 誰も居なくなった、廊下に佇んだまま、シンジは呟いた。

「最低だ……」


 レイはレイなりに、アスカの留学を思うにつけ、心に重くのしかかるものがあった。
 アスカが先生に就けば、当然、彼女はレイの過去を知るだろう。
 先生はどこまで話すだろうか?。
 それをアスカはどう思うだろうか?。
 所詮は済んでしまったこと、と思ってくれるだろうか?。

 ……わたしも逃げてる?。

 既に、ずっと指導にあたってくれている芸大の教授は、幾つかのコンクールへの参加を薦めている。進学することに反対ではないものの、むしろ留学するか、デビューするか、より広い世界に出て行くことを再三に渡りレイに説こうとしている。
 アスカにも何度か強い調子で言われたことがある。

『あんたみたいなのが、そのまま埋もれてるなんて、あたし我慢できないからね!』

 とは言え、レイが頑固なことは百も承知なので無理強いはされない。もっとも何時か必ずデビューすると言質を取られたのも事実だが。
 その時のことを想いだしてレイは心が暖かくなるのを覚えた。

 親友。
 と呼んで良いのならアスカは正しく、レイにとって唯一無二の親友だった。
 失うことを恐れている。それは、はっきりしていた。
 しかし、だから前に進むことを躊躇っているとは思いたく無かった。
 レイは、今デビューしないのは、自分の中に熟しないものがあるからだと思っていた。 その思いに偽りは無い。
 今世に出ても、決してアスカと互角にはなれない。
 それでは何のためにデビューするのか分からない。
 レイは今では心底、デビューしたいと思っていた。
 最早、父のことは、疾うにレイの中で決着は付いている。
 今そう思うのは、純粋にレイ自身の気持からだ。
 その為には例え親友の強い要請とはいえ、自分を曲げる気にはなれない。

『まだ、アスカには及ばないのよ』

 ただ一つ悲しいことがあるとすれば、アスカが自分を買いかぶっていて、何がレイに欠けているのかを理解してくれないことだけだった。
 その些細な行き違いが、レイを躊躇わせているのかもしれない。


 その日のレコーディングが終わったのは二十四時を回っていた。アスカが未成年のため、このようなスケジュールは本来まずいのだが、実は難航したのではなく、思いも懸けず全てが好調に進んだのである。
 日程が短縮されればそれだけ、コストが浮く。録音場所を借りているだけに、こうしたことは企画の死活問題とも言える。聊かみみっちい話ではあるが、そも歌謡曲などのように大当たりが見込めないクラッシックのレコードの場合には、こうした細かな計算の狂いが企画の運命を決めてしまうのだ。
 また、演奏者自身の調子も非常に微妙である。常に確実なセカンドベストを安定的に出しつづけるのがプロだと言えど、クラッシックのレコーディングの場合には、演奏家側にもそれなりに本人の芸術を賭けたものがある。ましてや「演奏家」なのである。一回の演奏そのものにどれだけのことが出来るかで決まるのだから、勢い、ベストを目指すことにもなる。

 それだけに、体調や精神状態の管理には本人も周囲も気を使う。もし今が好調ならば、今こそ出来る限りのことをやっておきたいと思うのが人情だろう。
 そして、この日の好調さは、アスカにも意外なくらいだった。
 恐らくは、シンジに告げるべきことを告げて、心の重荷が減った事が一番だったのだろう。そして、シンジが聴きに来ていたことも大いに預かっている。
 「分かる」人間が居る、と言う思いにアスカは敏感に反応するのだ。その心強さが、彼女に音楽の中に踏み込んでいく勇気を与える。
 そして一度踏み込んでしまえば、彼女は音楽そのものになる。
 その完全な触媒になり得ているのは、残念ながら今の彼女にはシンジしか居ない。
 レイなら、アスカの演奏を深く理解してくれることは分かっていた。けれどもそれでもシンジとは違うのだ。その差が何に由来するのかを彼女自身正確には見定め兼ねている。 親友には済まないとは思うけれど、有り体に言えばそういう次第なのである。


 曲の採りが順調に進んでいくうちに、彼女はシンジの存在を忘れている。
 きっかけさえ掴めれば、後は音楽が彼女を導いていく。言い換えれば、シンジは、その程度の存在で済んでいる。つまりは決定的な弱点ではないのだ。
 だからこそ、そのことでアスカには不安は無い。
 そうして、高揚した精神状態の中で演奏に没頭する彼女は、シンジが何時帰ったかについても気がつかなかった。


 録音が終わった時、心地よい疲労間の中で、シンジは九時頃帰ったと聞かされた時、アスカは心配しなくても、ちゃんとシンジが帰っていることで却って安心しさえしていた。

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