▼第十八章

 レオニード・シュッツ。
 現在はコンセルバトワールのピアノ教授となっている。
 アスカが教えを受けに行くのは、彼のもとである。
 といっても、コンセルバトワールに入学する訳では無い。
 言わば私的なレッスンを受ける、と言うことだ。それ以外は向こうで演奏活動を行う。
 現地のアスカのサポートは赤木音楽事務所の駐在員事務所が行う。
 実は、これでも海外何箇所かに拠点を持っている。とは言ってもあくまでも連絡業務が主であるので職員は現地に留学している音楽学生のアルバイトの場合が多い。
 また都市によっては提携しているエージェントが看板だけを掲げているところもある。
 それも、こうした海外拠点の設置の大部分は、リツコが経営を引き継いでからの成果である。
 期間はどれ程になるか分からない。
 従って高校は中退せざるを得ない。これはリツコの方針とは相容れないものだったが、アスカの意志が固いこと、それに貴重な時間を無駄にはしたくない、との事から認めることにしたのだ。
 ただしコンセルバトワールへの入学は勿論可能であり、その点はリツコも強く勧めたのだが、アスカは無駄なことはしたくない、と言うので沙汰止みになっている。勿論、既にリーズのコンクールでの優勝を果たした東洋からの留学生が歓迎される見込みは全く無いのだから、これもリツコは認めざるを得なかった。
 それにしても、シュッツ教授を、と言い出したのはアスカだったので、リツコは意外な思いをしたものだ。
 伝説の人物である。東欧の今は四分五裂してしまった国の出身。
 十代の後半で主要なコンクールを総なめにして注目を浴び、当時の共産党政権の、特に独裁者に気に入られた事から、広告塔として活躍した十年の後、ひょんなことから件の独裁者の癇気に触れ(どうやら、海外での演奏旅行時に、本国に断り無くアメリカの放送局の特集番組に出演したことが発端らしい)、突然海外での演奏活動が一切禁止された。

 もっとも、それでも当初十年間は国内の音楽院で教鞭をとる傍ら、現地のレーベルからのレコードのリリースもあり、彼の演奏を聴きに現地に詣でる音楽ファンも多かった。
 この時期に彼の教えを受けて世に出た名演奏家も多く、間接的に世界の音楽シーンに大きな影響を与えた。
 なお、この時期でも、彼の国内での扱いは独裁者の寵児だった頃と変わりは無く、と言うことは国民には彼が常に独裁者のお気に入りで居るように思い込まされていた訳である。活動は制限されていたとはいえ、彼の豪邸は首都の観光名所となるほど豪壮なもので、当時次第に悪化しつつあった国内経済の中で貧困に喘ぐ国民達の羨望と嫉視の的となっていた。
 その後反体制的な作品で政府から睨まれている作家との交友を始めるに及び、終に当局は彼自身も危険人物として遇するに至った。
 音楽院の教授職を解かれ、首都での演奏活動の機会は全て失われた彼は、願い出て、豪邸を売却し、南部の地方都市の一つに移っていった。
 こうして西側では彼の消息は殆んど入手出来無い数年が続いた。この時期の彼がどういう生活をしていたかを知る者は少ない。一説には出版社からの楽譜の校閲や、近在の住民への個人ピアノレッスンで糊口をしのいでいたと言う。

 嘗て彼に教えを受けた演奏家達は、みな大成し、既に中堅演奏家としての地位を築いていた事もあり、シュッツ救済の運動がマスコミを巻き込んで展開されたが、それは却って当局の態度を硬化させる結果にしかならないことが分かり、次第に尻すぼみになっていった。
 実は、この時期に、東洋から引取った少女を彼は育てている。
 何度か地方の子供のピアノコンクールに出場させても居た事が後日知られる。
 優勝した少女は、全国大会への出場資格は貰えなかった。何故ならそれはシュッツを中央に引出す事になったから。それまで大会規定にはなかった国籍資格を急遽書き加えて主催者は少女の優勝を剥奪した。


 共産党政権の崩壊は内戦を齎した。
 そして、民族主義で凝り固まっていく国の中で、体制の犠牲者としての十年よりも、その前の共産党政権の広告塔としてのシュッツのイメージと、彼がユダヤ人家系の出身であることがクローズアップされ、彼は「国民の敵」となった。
 こうして彼は国を喪った。
 一緒に居た東洋の少女がどうなったのかは分からない。
 彼は単身パリに移り、そこで嘗ての弟子たちに迎えられ、コンセルバトワールの教授に納まる。
 彼が、亡命する前の生活を語ることは無かった。


 アスカがシュッツの演奏に接したのは母のCDライブラリを整理していた時だった。
 プロコフィエフのピアノソナタ。
 瑞々しい痛みが硬質なナイフのように煌いている。
 この演奏家は深い悲しみを抱いている。即物的なモダニズムによるこの音楽が、これほどに叙情的で、心の深いところに触れてくる経験にアスカは戦慄した。
 そして母のアルバムから、母も彼から極短い期間だが教えを受けている事を知った。
いずれにせよ、彼女にとって、シュッツの演奏ほどに琴線に触れる演奏にはその後であった事は無い。
 そのシュッツが今、パリに居る。


 アスカの望みとは言え、リツコは困惑した。
 実を言うとシュッツと赤木音楽事務所にはまんざら、関係が無い訳では無い。
 海外演奏が略禁止状態になっていた時期、実は一度だけ日本公演が実現している。
 母が当時どんな手段を使ったのかは分からない。だが、その奇跡の公演は、まさしく赤木音楽事務所が行ったものだ。
 とは言え、伝え聞く話では、シュッツはかなり気難しい老人になっているという。
 演奏活動は一切断っていて、プライベートな弟子は採っていない。
 学校では、所定のレッスンを受け持ってはいるが、同僚とも滅多に話をせず、時折訊ねてくる弟子達とだけは談笑することもあると言う。
 亡命する際に、彼は長年連れ添った妻を亡くしているらしい。これも本人が語らないので詳しい事は全く分からない。
 果たして、そんな彼が受け入れてくれるのかどうか……
 案の定、駐在事務所の職員からは、にべも無い返事を受け取ることになる。

『嘗ての日本公演での御厚意には深く感謝しておりますが、既に私も老いました。今はこれ以上は手一杯です。申し訳ありませんが、どうかこの年寄りにこれ以上の無理はご容赦のほどを』


 援軍は意外なところから現れた。
 その日の夜、突然、プライベートの方の携帯電話が鳴り始める。

「はい、赤木ですが」

「あ、えーと、そちらでは夜分遅く恐れ入ります、ということになるんでしょうね」

「はい?」

 どこかで聴いた事のある男性の声。

「いや、突然ですみません。碇です」

「えっ、あ、あのどうも……」

 プライベートの方の番号は余り多くの人には教えていない。ゲンドウが知っているのは、恐らくシンジからだろうか、いずれにせよこんな時間に電話を貰うこと自体思いがけない事だったので、リツコはしどろもどろになってしまう。

「早速ですが、アスカ君のプライベートレッスンの件……」

「はい、え、どうしてご存知なんですか?」

「いえ、今シュッツ先生とご一緒でして……」

「いま、パリなんですか?!」

「ええ、それでね、アスカ君だとは先生も思わなかったそうで、それなら是非に、とおっしゃられておりましてね」

「えっ? それじゃ……」

「ええ。ええと赤木さんはフランス語は大丈夫ですよね」

「ええ、まぁ」

「じゃ、直接先生とお話頂いた方がいいですよね。代わりますよ」

 くぐもった雑音の後で、しわがれたフランス語の声が聞えてきた。

『赤木さんの娘さんですね?』

『はい、始めまして。リツコと申します。生前は母がお世話になりまして』

『いや、こちらこそ。あの公演は良い思い出ですよ』

『そう言って頂けると嬉しいです』

『で、早速ですが、キョウコ君の御嬢さんの件、是非お預かりさせて下さい』

『あ、ありがとうございます』

『いえいえ、こちらもうっかりしてましてね。ゲンドウくんに言われるまで、すっかり気がつきませんで』

『はぁ』

『あ、それと……レイは元気にしてますか?』

『はい? ええと綾波レイさん……ですか?』

『ええ、レイには可哀相なことをしたと思ってます。今も音楽を続けていると良いといつも思っていました。ゲンドウ君が引取っている事は知ってましたが、ほれ、そのゲンドウ君に聞いても、どんな暮らし振りなのかさーっぱり分かりませんでねぇ。はっはっはっは』

『はぁ……』

 想像していたのとは随分違うようだ。電話口の向うにいる男は、気さくそのものに思える。とは言え、突然にレイを名指しされてリツコはいぶかしまざるを得なかった。

『えーっと綾波さんなら、アスカと同級生ですから。元気にしているようですけど』

『そうですか。アスカ君と同級生ですか。ああ言う娘ですからね、友達も出来無いんじゃないかと心配はしてました』

『その辺はご心配要らないようですよ。学校内では、かなり人気があるようですから』

 下級生からの憧れのお姉さま人気が凄いという話は、アスカから聞いていた。

『ほう、それはすばらしい』

『失礼ですが、綾波さんとはどういうご関係ですか』

『あれ、ゲンドウ君は何にも言っておらんのですな。実はあの娘はうちが育ててましたものですからね。家内には良く懐いていました』

 急にリツコはあることを思い出す。もしそうだとしたら…………
 それ以上は電話で聞き出すことは躊躇われたので、後は今後の話へと移っていった。


 間違い無い。
 恐れていたとおり、レイは……
 もっとも本人はどこまで知っているのだろう?
 シュッツの明るい話振りからすれば、余り今のレイについては心配する必要は無いかもしれない。
 それに、ああして本人が引き受けると言っている以上、リツコの心配もいらぬお節介というものであろう。
 それにしても……ゲンドウはどうやら、三人の子供をこれからもずっと陰ながらサポートするつもりで居るようだった。彼が自ら引き受けている荷の重さを思い、リツコは頭の下がる思いだった。と同時に、彼女の内に知らずゲンドウに対する尊敬以上のものが芽生えて始めていた。


「アスカ、決まったわよ!」

「えっ、本当?」

「ええ。昨日の晩ね」

「嘘、昨日までは全然駄目そうだったじゃない!!」

「それがね、レッスンを受けるのが惣流キョウコさんの娘さんだと言うことで急遽」

「なんだ、そうなんだ」

 それはありがたいことだったけれど、釈然とはしない。これも親の七光りというのだろうか。アスカはこうしたことが好きではない。これまでにも何度か惣流キョウコの娘という売り出しのされ方をされて嫌な思いをしている。

「仕方ないでしょ。あなたは惣流キョウコの娘なんだし、シュッツ先生も今はなるべく弟子を採らないようにしているんだもの、そういう理由でもないと、他にお弟子さんになりたくて断られた人達に言い訳が立たないでしょう?」

「うーん、そーなんだけどねぇ」

「素直に喜びなさい。とにかく今は出来ることをするの。ね?」

「うん、分かったわ。ありがとうリツコ」

「いえいえ、これが仕事ですからね……と胸を張って言えたら良かったんだけど。なんかね、棚から牡丹餅みたいで」

「釈然としない?」

「うーん、やっぱりプロとしては」

「なんだ、それならさっきの言葉そのまま返して上げる。素直によろこびなさーい」


「それはそうと、アスカ。あなた、誰かに留学の話した?」

「いえ、だって何にも決まってないし」

「そう……」

「何か、問題? そう言えば、レイには相談したかな…………」

「レイちゃんに?」

「うん、まあ留学するって言うわけじゃないけどね。このままじゃ駄目かなぁって感じで……」

「そう。そんなこと話すんだ」

 リツコは語らい合っている二人を想像して微笑ましくなってしまう。

「ちょ、な、なにリツコにやけて……」

 アスカは少し顔を赤らめて照れる。

「いや、いいなぁって思って」

「そんなんじゃないわよ」

「じゃ、何なのよ。いいじゃない、仲のいい友達で」

 リツコは、凡そ、会話になりそうに無い二人が一体どんな会話をしているのか聞いてみたい気もしていた。

「うーん、あたしの方はね。でも、レイっていまいちよく分かんないのよねぇ」

 相変わらず、アスカは、そこそこ人望は集めるものの、深く付き合う人間が極端に少ないという性格は変わらないようだ。

「良く分からないって?」

「うん、別にレイが冷たいとか、嫌がってるって訳じゃないんだけど。でもね、あたしでも彼女が何考えているか分からないところがね」

「そう? で相談したら、レイちゃんは何て?」

「寂しいって……」

「えっ?」

 リツコは苦笑する。

「あたしが居なくなると寂しいなんて言うんだもん、びっくりしちゃったわよ」

「嬉しいんでしょう」

「ば、ばばばばっばばばか言わないでよ!」

 アスカは真っ赤になる。

「あらあら、相変わらず分かりやすい性格ねぇ。正直に言いなさい? 嬉しかったんでよ」

「リツコこそ、相変わらず意地が悪いわねぇ。そうよ。嬉しかったわよ。いいでしょ、本当に嬉しかったんだから」

「はいはい、仲のおよろしいことで」

「もうっ!」

 リツコは、ゲンドウが関与していることも、シュッツとレイが旧知の仲であることも伏せておいた。どうせいずれは知れる事だ。そしてそれを告げるのは自分の役割ではない。


 かくして、ゲンドウとの出会いが決心を促し、受け入れ先の決定にゲンドウが関与した留学を、アスカはどのようにシンジに告げようと暫く悩むことになったのだった。
 もっともシンジは、全くそうした事情については知らされていなかった。

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