▼第十九章

 黒い髪を後ろに縛っている浅黒い肌の男は、大使の後ろにぴたりと付いて歩いている。
サングラスをかけた眼は外から伺うことは出来無いが、四方に神経を張り巡らせているに違いなかった。
 東洋的な顔立ちではあるけれど、肌の色から恐らくはインディオの血が濃いことを思わせる。肩書きは武官。A国大使館付き武官としてつい先日新大使とともに着任したばかりである。
 その彼らの周りをフランス警察のSPが警護している。
 それにしても、伝統的にラテン、メスティゾ系と他との差別が強いA国でインディオ系の武官とは珍しい。とは言えそうした異例も、この無名の小国のこととなれば、然程の関心を惹くものでもないようだ。市内のホテルでの記者会見時、記者の一人から武官に関する質問が飛び出たくらい。
 そして大使は事も無げに質問を、武官に振り、新任の一等武官ロドリゲス・トルヒーヨは、彼が極めてアメリカナイズされた生活を送っている事をそれとなく匂わせて見せた。
 確かに記者達に配られた資料にある彼の経歴には、不遇のインディオ層から這い上がった成り上がりの軌跡は微塵も無い。
 父親は、地方都市の市会議員を四期連続で務めている。高校から大学まではアメリカに留学し、コロンビア大学で政治学を学んでいる。その後、軍に入り士官学校を卒業し、参謀本部に勤務した後、今回の着任となる。
 努力すればインディオでも政府の要職に付ける国なのだと、彼の存在自体が演出してみせる。それが真実かどうかは、ここに集った記者の殆んどには見定める事は不可能だった。ラテンアメリカはヨーロッパからは遠い。特にそれが複雑な政争の歴史を持つ一小国ともなれば。
 こうして、ロドリゲスのパリデビューは、A国の解放の進展振りを大いに強調して終わった。少なくとも、好意的な記事が何誌かの紙面に登場し、アンテーヌドゥでも短いコメントが添えられれば、大成功だと言えた。
 SPに促されて大使と武官は車に乗った。

「なかなかの演技だったな」

 と新任の大使トマゾ・グンデマーロが言った。後部座席と運転席の間には防弾ガラスがあり、こちらからインターホンのスイッチを入れない限り、運転手と助手席に座っているSPには聞えない。それに恐らく彼らはスペイン語は分かるまい。

「よしてくれ。俺は、すっかり本気だからな」

「ははは、そうだったな。この調子で一つよろしく頼むよ」

「まぁ、何とかなりそうだがな」

 ロドリゲスはサングラスを外した。
 黒い瞳。精悍な顔付きは、とても留学帰りの金持ちのおぼっちゃまとは見えない。
 それは何度も死地を潜り抜けてきた人間のみが持つ、不吉な匂いを感じさせた。

「それはそうと、ウェストポイント出身とでもした方が軍人としては箔が付いたかね」

「それは無理だろう。さすがに出身者の記憶をごまかせないさ」

「そうだな、ま、役に立つ程度でありさえすればいいんだが」

 グンデマーロはその姓に関わらず、母方のドイツ系の血を強く受け継いでおり、金髪に白い肌、そして酷薄そうな薄い唇の持ち主だった。周辺の国と同様に、A国でも権力者の肥満の傾向の多分に漏れず、でっぷりと太って、その指の関節は肉に窪んで見える有様だった。しかし見かけに拠らず、怜悧で油断のならない男であることをロドリゲスは知っていた。いずれにせよA国では地位が高いというのは、何らかの血で血を洗う闘争の勝利者であることを意味していたのだから、彼が今の地位に辿り着くまでに手を染めた犯罪行為の数は片手に余るに違いない。
 車のライトは夜のパリ市街を舐めていく。不意に建物の壁に白い服を来た少女の大きな写真が浮かび上がる。Aska soryu。日本人ピアニストの公演を知らせるポスターだった。 まだ公演日は、二ケ月も先なのに気の早い話だ。

「どうした? 国が恋しくなったか」

「いや。もう忘れたよ」

「ま、当分は諦めてくれ。そのうち、日本大使館のポストが回ってくるかも知れん」

「さすがにアメリカさんも騙されないだろう」

「どうかな。今は情勢が違う。敢えて事を荒立てる愚は彼らも犯すまい」

「そうかな」

「そう、心配するな。うまく行くさ。ま、後は明日の晩餐会だな。これをクリアすれば後は活動に専念できるだろう。しかし、君の奥方役が居ないのがちと残念だな」

「しょうがないさ」

「しょうがないもんか、本国を出るときに、こちらで用意するといったのを断りおって」

「……駄目なんだ。俺はそういうのは」

「ミサトのことに拘っているのか」

 ロドリゲスの目が一瞬険しくなる。

「いや。もっとも、あいつじゃ晩餐会はもともと無理だったな。あのガサツさじゃ」

「そうか……ま、我々としても気の毒には思うが……」

「いいさ。済んだことだ」

 そして、死者はこの世には居ないのだ。

「ま、今日はぐっすり寝て明日に備えてくれ。心配ない。正義は我々にある」

「ああ」

 ロドリゲスは憂鬱そうに答えた。
 正義。
 ならず者が正義を勝ち取る為の戦いを行う。それがA国の現状だった。
 そして、その正義とは必ずしも国際社会の中では正義として通らないのだ。
 国内、長年にわたる複雑な利害の絡み合いから、既に何が民衆にとっての正義かを計り知れるものは誰も居ない。
 都市労働者と農民は互いに憎しみ合い、山間部のインディオと平地のメスティゾ農民とはしばしば殺し合う。闘争黒人奴隷を先祖として持つ幾つかの村は周囲から孤立して常に周辺と武装闘争を繰り返す。そして唯一安定していたのが海外(主として米国資本)多国籍企業の資本による大規模農場とそこで雇用される低賃金労働者だった。
 一方、国内の残余の土地も数家族の大地主に分割支配され、彼らも多国籍企業のやり方を真似た農園経営を行っていた。
 こんな国が、国民の全ての生活水準を向上させる施策を打つのは至難の業だ。
 そして、これが延々とクーデタと内戦、都市ゲリラの収まらぬ下地となっている。
 今、A国政府は二つの矛盾する政策を同時に進めることを考えていたのだった。
 一つは多国籍企業の経済支配の打破。これなくしては国内経済が生み出す利益の海外流出は防げない。一方で、大地主制の廃止。国内市場の脆弱さはプランテーション農業以外の産業の成立を極端に困難にしていた。輸出に頼るしか、十分な需要は存在せず、勢い唯一競争力のある一次産品に経済は特化してしまう。
 その結果は国民の大多数を隷農状態に縛りつづけることになる。
 これを打破するには、中間層を創出して行かざるを得ない。となれば土地制度を改革し自作農階層を育てなければならない。
 しかし、自作農が成立しえるにはやはり、大農場制でと同様の作物の生産と輸出は不可欠だ。多国籍企業の経済支配の打破は、こうした輸出体制を根幹から覆す事になる。だからこのシナリオは自殺的な結末しか生み出しようが無い。
 既に中南米の多くの国がこのシナリオを絶望的な状況まで推し進め、自壊していった。
 同じ轍を踏まない策。そんなものがありえるのだろうか?


 晩餐会は予想通り退屈なものだった。
 大使館内に集まったのは各国の大使、及びフランス政府の外務官僚、及びA国に関連の深い企業の役員達だった。こうした会は極めて儀礼的なものなので、喜んで参加するというような人物は稀なのだ。
 食事が終わり、ホールで談笑する人々を、ロドリゲスは窓際に立って眺めていた。
 ホールの片隅では、弦楽四重奏が演奏されている。
 もっとも踊るものも無く、人々の声で音はかき消されて何を演奏しているのかわからない。
 ここでは音楽は本質的には不要のものだった。

「やあ、どうした」

 グンデマーロが近づいてくる。

「別に」

「ま、愛想が悪いのも武官らしくて良いがな」

「そもそも、歩兵しかいない陸軍の国がどうして武官を置く必要があるのかね」

「おっと、そりゃ本質的すぎるかな」

「すまない、つまらなすぎるな」

「ああ、ワインに酔ったんだろうさ」

「そういうことにしておこう」

 その時、一人の白髪の男が近づいてきた。
 といっても歳は四十前後だろう。蝶ネクタイが滑稽な感じがする小男だ。

「これは、どうも大使」

 英語。
 フランスで、スペイン語圏の人間に英語で話し掛けて来る。アメリカ人のようだ。

「私、UFCのパリ支社長のロバート・バリモアです」

「ほう、それはどうも」

「わが社とお国は密接な関係がありますからな。今後もよろしく」

 UFCは主に果実類を中心に扱う巨大な多国籍企業だった。A国のプランテーションの多くもこの会社のものであり、またA国の鉄道の権利の半分も握っている上、実はA国にはトラックによる陸運会社はUFCの子会社しか存在しないのだ。新規に参入しようにも、会社の経営が成立するほどの仕事はUFCの仕事しか存在しないのであり、そこに子会社が存在する以上、国内の企業家に出番は無かった。

「実は、私は十六年前にお国に居た事がありまして」

「そうなんですか」

「いい国ですな。人々はみんな純朴で。自然は素晴らしいし」

「ほう、そりゃ良かったですな」

「ええ、楽しい赴任生活でした。懐かしいですよ。当時一緒に仕事をしていた人達に今でも会いたいと良く思います」

 この男は決して、社交辞令でも嫌味で言っているわけでもないようだ。
 というよりも、UFCの社員の一般的な態度だといえる。驚くほどの鈍感さとお気楽ぶりだといえる。殆んどをUFCの会社の敷地内で暮らす彼らには、A国の現実は見えていないし、一方で、彼らの身勝手な善意は、確かに現地に学校や図書館などの成果を齎しているのだ。そして彼らは自分達がこの国に貢献しているのだという確信を失うことなく数年で本国に帰って行く。この認識の擦れ違いが、どれほど多くの改革を阻んでいるかについては、彼らが理解することは永遠にない。
 バリモアは暫く談笑してから歩み去って行った。

「ああ言う手合いは…………」

 グンデマーロは苦々しげに吐き捨てる。

「俺の親はUFCの農場で働いていたんでね」

 この場合、UFCの農場内の村に住んでいたことも意味する。確かにUFC農園での賃金は外の一般の農民が受け取るものよりは、遥かに良いものだった。
 また園内にはやはり、普通の公立校よりも充実した設備の小学校があって、農園では未成年の労働は禁じられていたから、全員就学させられていたのである。
 その意味では、グンデマーロは恵まれていたと言える。
 ただし、それは屈辱的な環境だった。
 国際相場に左右される農産物なだけに、UFCは現地の雇用も、通常の雇用政策同様に扱った。即ち景気の動向に応じ、しばしばレイオフを繰り返しているのである。
 しかもそれはA国国内経済ではなく、あくまでもUFCの経営状況によっているのであって、多くの農民が寝耳に水の状況で解雇されてしまう。
 そうして、UFCの解雇はしばしば解雇された農民の死を意味した。
 UFCの農園を放り出されれば、農民に行く場所は無い。故郷に帰ったところで、それまで特権的な生活を享受していた彼が、受け入れられる筈も無い。当然、どこかの農園で小作で雇われる可能性は少ないので彼は季節労働者の群れに身を投じる事になる。
 収穫期の労働をこの国の農業は大量の季節労働者に依存していた。機械化をするよりも低賃金の労働力を使用するほうが安上がりだったから、A国農業の近代化は一向に進まない。UFCですら、収穫期には季節労働者を雇い入れるのである。
 だが季節労働者、とは呪われた階級である。
 収穫期以外には仕事は無く、多くの場合都市部へ出て日雇い仕事(が得られれば)で身をやしない、翌年まで生き残っていれば再び収穫期の農場へ移動する。
 一般に、季節労働者の翌年までの生存率は五十パーセントと言われていた。半数は餓死、凍死などで消えて行くのである。
 解雇反対の運動が起きないでは無かったが、農民達の組合はA国の法律では違法だったため、反対運動は軍隊によって躊躇無く鎮圧された。もう一つ、A国にはとんでも無い法律があって、大地主は所有地の保全のためには、独自の判断で居住民の死刑が可能なのである。この悪法は、都市部出身議員がしばしば攻撃の槍玉に挙げるものであったが、オルガリーキー(大地主)層を慮って法改正が上程されることは実際には皆無だった。
 UFCはこの法に照らせば、大地主となる為、園内の農民の処罰はA国の官憲の手を煩わせることなく勝手に行われている。UFCはこの為に、傭兵を雇い私設警察としていた。ダーティージョブを子飼いの社員に任せる事は無いという訳だ。
 こういう訳でUFCの農園で暮らす農民は何時放り出されるか心配しながら、生活にしがみつこうとする。ほんの少しの上司の顔色の変化も、レイオフの兆候かもしれない。

「懐かしい……か……俺の両親はな、UFCのスパイをやっててな」

 グンデマーロは口の端を歪めて言った。皮肉な笑み、の積りだったのだろうが、その表情は強張り、単なる変形にしか見えなかった。

「農民の中で、よからぬ動きをするものが居たら密告するのさ。共産主義にかぶれてる奴とかさ。息子が大学なんて行こうもんなら要注意だ。労働運動にかぶれて一席ぶった日の翌日一家全員路頭に迷ったなんてのがあったな……」

「珍しく感傷的じゃないか」

 ロドリゲスは興味無さそうに言う。

「ハポネにゃわからねーさ。アメリカ人に尻尾振って満足してる奴らにゃよ」

「言っとけよ」

「俺はアメリカ人を皆殺しにしたい。あの善人面に鉛玉一杯食らわせたい」

「よせ。誰が聞いてるか分からんぞ」

「……すまない。どうかしてたな」

 会話がホールの中で一瞬途切れ、そして情けない感じのバイオリンの音色が、"as time goes by"のメロディーをしつこいくらいの表情を付けて歌う。
 その音にロドリゲスは嫌悪を剥き出しにする。

「嫌いか?」

 グンデマーロは、面白そうに尋ねる。

「ああ。嫌なんだ」

「『アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である』とでも?」

 ロドリゲスは苦笑いをするが、この話題は続けたくなさそうだ。
 だがグンデマーロは、構わず言葉を続けた。

「ま、アドルノ先生にとっちゃそうだったかもしれん。もしお前までそう思うんだったら教えといてやる」

「教えてもらうような事は無い」

「ふん。お前さんもインテリの御仲間だからな。そうやって勝手な感傷で、人類の愚かしさを嘆く手合いだってことだ。だがな、あの糞っ垂れの暑い夏の日でも俺たちは歌を歌ってた。きっとアウシュビッツの中でもな。何が野蛮なものか。虐げられた連中が、それでも歌うってのに野蛮だって? 糞喰らえだ。そんなおセンチ野郎のたわごとを真に受けてるおめぇもおセンチ野郎だ」

「よせ。今日は変だぞ」

「ワインに金を惜しんだせいかな。だがな、人間は歌うもんなんだ」

「俺にはそうは思えない」

 そういうとロドリゲスは顔を背ける。

「今に分かるさ」

↑prev
←index
↓next

△Reprinting old workへ戻る
▲SOS INDEXへ戻る