▼第二十章

「どうしたの、シンジ君」

「はい?」

「やる気無いんだったら今日は止めましょう」

「いえ、そんな……」

「だめ。まるで心ここに非ず、だもん。時間の無駄よ」

 シンジは、俯き赤面する。

「すみません」

 それから楽器を片付け始める。

「何かあったの?」

「いえ、そうじゃないです」

 マヤは溜息をついた。
 シンジが意地っ張りなのは重々承知なので、言う気が無い以上、追求しても無駄だろう。
 それに無理強いして、嫌がられるのもマヤは嫌だったのだ。
 彼女は、楽器を仕舞っているシンジをじっと見詰めていた。
 女性的な細い顎は相変わらずだったが、この三年の間に随分と男っぽくなった。
 決してがっしりした体格とはいえない。
 けれど、手首や首筋など、あちこちに男を感じさせるようになってきていた。
 レッスン室の高い窓から射す陽射しがシンジの白い顔を輝かせている。
 マヤは、ついその顔をうっとりと見詰めてしまう。美しい少年。
 この少年の時間を自分が占有している事、それがマヤの密やかな悦びだった。
 ふと気が付くと、シンジがこちらを振り返ってみている。
 目が合ってしまって、マヤは同様を隠そうとするが、あっという間に頬に血が上るのが分かる。

「あっ、あのあの……」

 そんなうろたえるマヤに、シンジは微笑みで返す。こんな奇矯な反応をマヤには、シンジは慣れっこになっている。だからシンジにすれば、またマヤさんらしい、と思っているに過ぎない。
 今や、マヤはシンジにとって師であり、姉であって、彼女無しのチェロは考えられなかった。最近では彼女の所属する弦楽八重奏団に一緒に参加させて貰う機会が何度かあり(ただし慎重に学校の休みの時期のスケジュールのみが割り当てられた)、ささやかでは歩けれど演奏家としての活動の現場で貴重な指導も受けている。仕事の上での頼もしい先輩でもあった。

 一方で、マヤの日常生活での粗忽振りは相変わらずで、一緒に仕事(八重奏団)に行く時などは、移動時にシンジがリードしているくらいだった。
 アンサンブルの仲間達が、マヤのショタコン趣味を揶揄することもあったけれど(そして馬鹿正直に、マヤは赤面しまくるのだが)、それもシンジには楽しい冗談にしか受け取れなかった。

「マヤさん」

「な、何?」

「マヤさんはどうして音楽をやろうと思ったんですか?」

「え? えーっと……」

「答えて下さい」

「……そうね。何かドラマチックな逸話だとか、あればいいんでしょうけど……ごめんなさいね。あんまりそういうのは無いの。やりたいことを次々追いかけて行ったら、何時の間にか……て感じかな」

「でも……進学するときは? やっぱり普通の大学に行くのとは違うでしょう?」

「そうね。確かに、そうも考えられるわね。でも、例えば大学で日本文学を専攻するとして、そのまま普通の会社員になってもおかしくないでしょう?」

「ええ」

「だったら、音楽大学で音楽をやっていたからって特別ってことも無いと思わない?」

「それはそうですが……」

 それはシンジが聞きたい答えでは全然無い。

「そっか、シンジ君もそろそろ進路決めなきゃいけないんだ」

「ええ。そうなんですけど……マヤさんは何も聞いていないんですか?」

「えっ。何を?」

「そうですか……」

 という事は父の計画にとってはマヤは計算外ということだった。そのことはむしろシンジにとって有り難かった。

「父が……」

「お父さんに何か言われたの?」

「ええ……」

 言い始めたものの、何となくシンジは後ろめたいものを感じる。

「実は、父は普通の大学に行くようにと言うんです」

「……そう。シンジくんは、どうなの?」

「はい?」

「シンジくん、あなたどうしたいの?」

「…………」

 それが問題なのだった。

「あたしは、別に音楽大学行く事だけが道じゃないと思う。そりゃ、オーケストラのオーディションとかで、書類選考には有利だけど……それだけって言うのは言い過ぎかもしれないけど、本当にやりたいようにやってみるのが一番だと思う」

「マヤさん……」

「リスクは多いわよ。音楽大学という制度自体、それが便利だからあるんだし。もしリスクが少ない道を進みたいなら、今ここで迷う必要は無いわ。だってどう転んでも音楽に関わって居たいと考えるなら、良い方法だもの。でも、もっと広い観点で見て、それが本当にしたいことと言えないんだったら……」

「僕は何も無いです……」

「シンジ君?」

「この間、アスカのレコーディングを見たんです」

「…………」

「それを見ていたら、自分には何にも無いなって……」

「無ければ……いいじゃない。見つければ」

「それができれば……」

「そうね。言うほど楽じゃない。でもそうしなきゃいけないんだし、それが分かってればいいんじゃない?」

「でも、このままじゃ駄目なんです!」

「で、何が出来るの?」

「それは……どうしたらいいかと」

「どうしようもないわね」

「そんな……」

「焦らないで。今すぐどうにでもなるような事なら、大した問題じゃないわ。今どうにも出来無いというのは、今焦っちゃ駄目ってこと」

「でも……」

 項垂れるシンジをマヤは途方に暮れて眺める。自分が偉そうに諭せる事は殆んど無い。
 結局、彼が納得するやり方でなければどうにもならないのだ。
 チェロの力量は、もうプロの域まであと一歩の水準に来ているのに、シンジはそれ以外はまるで幼いのだ。
 こうした「天才児」を、無理やりにプロに仕立てることも良く為される。というよりも、十代で世に出る少年少女は、別段自分の進路を深く考える事も無く、その才能の導くままに表舞台に引き出され、そして運がよければ、立派に演奏家として大成することもある。だが、それは彼や彼女が選んだ人生と言い得ない場合の方が多いのだ。
 そして途中で挫折して行く多くの嘗ての天才児達。
 その意味では、この世界はあまりに非人間的な神が支配する。ただ才能だけが商品として取引され、人間はそれにただ翻弄されるばかり。

「シンジ君…………」

 マヤは立ち上がり、シンジをそっと抱きしめる。

「マ、マヤさん?……」

「大丈夫、大丈夫だから……」

 マヤは自分が思いがけない行動を取ったことに驚いていた。
 自分の胸にシンジの細い体を包み込んでいることに暖かな満足を感じている。
 姉としての抱擁。の筈だったけれど、乳房がシンジの体に押し当てられる感触に、思いがけず快感を覚えていた。もっと強く抱きしめたい。そんな衝動を辛うじてマヤは抑えていた。
 しばらくして、マヤが体を離した。

「ごめんなさい……」

「いいんです。僕帰ります!」

「あっ……」


「せんぱぁ〜い、どうしましょう、あたしぃ〜」

 電話の向うで情けない声を上げているマヤにリツコは、溜息を付く。
 シンジのコンクールの時以来、どうもマヤには懐かれてしまっている。
 「いつでも電話していい」と確かに言った。マヤは、事務所としても注目しているアーティストだったし、個人的付き合いがあっても悪くは無い。なんせ、冬月やシンジ、ゲンドウに繋がる重要なコネでもある。
 しかし、何時の間にか「せんぱい」扱いにされ、しかも女学生の相談事のような電話をしょっちゅう架けられると流石に、リツコも閉口気味だった。とは言え、駄目と言って切ってしまえないのである。実を言うとリツコ自身もマヤに甘えられるのが、結構嬉しかったりしている。

「で、あなたは一体どっちを悩んでるの? シンジの君の進路? それとも抱きついちゃったこと?」

「いやぁ〜、はっきり言わないで下さいよぅ」

「はぁ〜。あんたねぇ、人に相談しといてその態度は無いでしょう」

「だってぇ〜」

「で、どうだった、シンジ君に抱きついたご感想は?」

「……よ、よかったです……わ、な、何言ってるんだろうあたし。きゃ〜、聞かなかったことにして下さいぃ〜」

「聞えてるわよ。しっかり。じゃ良かったじゃない。で、嫌われたんじゃないかって?」

「え〜、どうしたらいいんでしょう、シンジ君が来なくなっちゃったらあたし……えぐぅ、えぐぅ、うう……」

 どうやら泣き出したらしい。

「あのねぇ、もう切るわよ、馬鹿馬鹿しい」

「そんなぁ。せんぱい、酷いですぅ」

「だって、次のレッスンの日取りも電話あったんでしょ?」

「そうなんですけどぉ……どんな顔してあったらいいか」

「そんなの自分で考えなさい。身から出た錆なんだから」

「うわぁ〜ん、どうしましょ、あたし……」

「で? あんた本気で好きなの? シンジ君のこと?」

「……はい」

「男として?」

「はい?」

「だから……あんたの場合好みが特殊だから。シンジ君も男の子だからね。彼自身のこと考えたら、可愛いだけじゃすまないでしょ」

「うぐぅ〜」

 (最近、別のキャラが混入してない? この娘)

「じゃ質問変えるわね」

 それから、リツコは深呼吸する。電話の向うでマヤが息を呑む音がする。

「あなた、シンジ君とセックスしたいと思う?」

「きゃーっ、きゃーっ、きゃーっ、きゃーっ……」

 思わず、リツコは電話機を耳から離す。
 しばらくして声が静まったところで徐に耳に当てて言う。

「まったく。いい加減にしてよね、いい歳なんだからさ」

 (あたしもだわ……やれやれ)

「ご、ごめんなさい」

「で? どうなの?」

「……したいです。きゃーっ、きゃーっ、きゃーっ、きゃーっ!! ……言っちゃった」

「ふぅ〜」

 一体、この馬鹿話に何であたしが付き合っているんだろうと、リツコは情けなくなる。
 これがしかも、今国内一注目株のチェロ奏者だってんだから。

「良かったわね。じゃ切るわよ」

「あ、せんぱ〜い、そんなぁ」

「だって、好きなんでしょ。お幸せに」

「あ、あ、あ、だ、だって……シンジ君アスカちゃんと付き合ってるんでしょ?」

「なんだ、その事か」

「その事かって、だって……」

「ふぅ〜ん、やっぱりマヤはアスカに負けると? まぁ確かに大年増だしねぇ。やっぱ、シンジ君も若い方がいいだろうし」

「やっぱりそうなんだぁー、アアア、シンジくぅ〜ん」

「あのねぇ、誰もそんなこと言ってないでしょ。恋愛は当人同士のことだから、あたしも良く知らないけどね。いいじゃない、好きなんだから。そんなことで挫けてる必要は無いわ」

「じゃ、せんぱいも応援してくれますか?!」

「あたしは中立」

「そんなぁ」

「だってそんなの狡いでしょうが」

「だってぇ……あたしの方がハンデが多いですしぃ」

「……マヤ」

「はい?」

「怒るわよ?」

「ひっ?」

「自分の恋でしょうが。自分で何とかしなさい!! もう切るわよ!!!」

「あああ」

 プチッ。
 リツコは問答無用で切ってしまう。序でに電源も落とす。
 しかし、肝心のシンジの悩みについては全然話せなかった、とリツコは舌打ちした。

 (シンジ君って女難の相があるのかしら・・・)

 まぁ、マヤのことだからあからさまに積極的に出るということは無さそうだったけれど。


 にわか雨。
 確かに朝の天気予報で、所により俄雨が降るとは言っていたけれど、降水確率は十%だった。いつもなら、置き傘をしていなければ必ず傘を持って出ていたのに、今日は何故か、忘れてしまった。
 最近、こんな風にちょっとしたことでのミスが重なっている。
 疲れているのだろうか。
 地下鉄の出口で、薄暗くなった空を見詰めながらレイは立ち尽くす。
 こんな時でも、レイはシンジに電話をして迎えに来てもらうなどとは思いもつかない。
 俄雨だからいつか、止むだろうと待つことに決めている。
 彼女の脇を人々が通り過ぎる。勤め帰りには未だ早い。通り過ぎるのは学生と、後は務めに関係なさそうな婦人や老人達。
 地下鉄の出口で傘を広げる時、何人かは、レイに目をやり声をかけたものかどうか、迷っている。だが彼女の雰囲気に気押されてか、結局誰も声をかけるものは居ない。

「入ってく?」

 ふと差し出された傘。
 差し出したのは、金に髪を染めた女性。

「いいんですか? 私、家に帰るだけですけど」

「ええ、送るわ」

「そうですか」

 何故、とはレイは聞かない。そも関心が無い。聞かなくても重要な事なら相手の方から言うだろうから。

「すっかり大きくなったわね」

「そうですか?」

「ええ。始めてあった頃は、あなた私の方くらいまでしかなかったでしょ。今じゃ、殆んど同じくらいだもの」

「…………」

 リツコは、ちらりとレイの表情を伺う。無愛想な訳では無い。
 単に何と答えていいか分からないだけのようだ。

「最近は、どう?」

「碇君……ですか?」

 リツコは苦笑いする。

「鋭いわね」

「リツコさんも……なんですね」

「何が?」

「碇君に振り回される人」

 リツコはすこしたじろぐ。なるほど、そう言われればそうかもしれない。

「あなたはどうなの?」

「わたしですか……わたしもそうみたいです」

「意外だわ」

「そうですか?」

「ええ」

「そうかもしれないですね」

「嬉しそうね」

 レイは暫く考えてから答える。

「そう……そうかもしれません。多分、振り回されることを喜んでるかも」

「何故?」

「わかりません」

「そう……」

 雨雲の為、暗くなった歩道を早くも該当の灯が照らしている。
 シンジとレイのマンションまでの数分の道を、二人はゆっくりと歩いている。

「リツコさんは、何を気にしているんですか?」

「うん……ちょっとね」

「こないだの……アスカのレコーディングの日のことで気にしてるんですか?」

「……お見通しってわけ」

「何となく。だって、きっと叔父様、リツコさんに話しちゃったんでしょう?」

「知ってたのね」

「いえ、ただ何となくそんな感じがしてたから」

「で?」

「リツコさんなら、今の碇君にわざと辛く当ると思って」

 リツコは肩をすくめる。

「完敗ね。その通りだわ」

「気にしてもしょうがないです」

「え?」

「効果なら、多分、リツコさんの計算通りです。だから、気弱にならない方がいいですよ」

「…………」

「どちらに転んでも、これで何も得られなくても、それでも最後には碇くんは、自分で何とかしますから」

「やれやれ……そこまで見抜かれちゃうとねぇ……分かった。もう気にしないことにする」

「それがいいです」

「強いわね」

「…………」

「シュッツ先生仕込み?」

「先生とお話されたんですか?」

「ううん。電話でちょっとだけ。レイちゃんのこと気にしてた」

「そうですか」

 そっけない答えにリツコは、レイが嫌がっているのかと思い、表情を窺ってみる。
 レイは俯き加減ではあるけれど、心無しか口の端に微笑みが浮かんでいるようだ。

「シュッツ先生ってどんな人?」

「…………」

 レイは、何か言おうとしするが、言葉を捜しあぐねるかのように、眉間に皺を寄せて考え込む。

「そうですね…………音楽のために何も犠牲にしなかった人……でしょうか?」

 良く分からない答えが返ってきた。

「どういうこと?」

 レイは聞き返されて、更に困惑しているように見える。

「例えば、普通の人なら、『今日は練習があるから』と言って諦めることをしないんです。生活を楽しむんです。音楽のためだと言って、毎日の生活を犠牲にするなんて先生には、信じられないみたいです」

 レイは一言一言、懐かしむように言う。リツコは、それでもレイにとっては幸せな時間であったのか、と少し重荷が降りたように感じた。

「あたしのこと、アスカは知ってるんですか」

「どうして?」

「……いいえ、いいんです」

「やっぱり高畑さんのお嬢さんだったのね」

「ええ」

 重苦しい沈黙が訪れる。
 二人は殺風景な住宅街を通りぬけていく。一通りの殆ど無い死んだような街路。

「でも、どうして言ってくれなかったの」

「わたし……赤木事務所を憎むだけの理由があります」

「ええ、分かってる。あなた達ご家族には償ないようの無いことを……」

「だからってどうするんですか? 私に償ってくれる? 何をもって? それに、このことにはリツコさんは、何も関っていないです。そんな人に償ってもらいたいとは思わない」

「レイちゃん……」

「済んだこと。もう、済んだことなんです」

 リツコはため息をつく。

「そう……」

 何と言葉を続けて良いのだろう。
 レイの拒絶によってリツコとの間に引かれた線。
 それはリツコには絶対に越えられないものなのだ。

「私、今が好き。アスカや碇君と巡り合えて……今こうやって過ごせていることが嬉しい。それで十分」

 まっすぐリツコを見詰める瞳は、澄んで深い紅。

「私、ようやくここまで来れたんです。だから……」

「…………レイちゃん」

「あ、着きました。ここで結構です」

「……そうね。じゃあ」

「失礼します」

 マンションのエントランスホールを入って行くレイの後姿をリツコは黙って見送っていた。

「強い娘ね……」

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