▼第二十一章

 今日の食事の当番はシンジだったけれど、夕食の支度はとうに済ませてしまった。


 シンジとレイの二人の生活では、夕食は7時位だった。
 特に理由はないがレッスンなどで帰りがその位になることもあり、また特に何も無い時は学校から帰ってからの練習が丁度一区切り付くのがその時刻だったからである。
 食事の当番に当っている方は、その間に支度を済ませておくのである。
 レイもシンジもぎりぎりになって準備するのは嫌いな方だったので、勢い、先に支度を済ませてから練習ということになり勝ちだった。


 レイは今頃音楽室で練習しているだろう。
 同居を始めて以来、すっかり音楽室はレイに占有されてしまっている。
 ピアノがそこにあるからなので、仕方が無い。
 それに自室で、というのもそれなりに落ち着けるのでシンジに特に不満はない。
 しかし今日は、シンジは、机の横に置かれたチェロをぼんやりと眺めているだけだった。
 それを手に取れば、自分の思いはすぐさま、音となって表れる。これまでそう思っていた。だが、「これ」はどうやっても音にはならずに心に燻り続けている。
 だとすれば、音楽とは一体何になるというのだろう。
 アスカのレコーディングから帰った日、シンジは憑かれたようにチェロを弾いた。
 強い感情の波が、出口を求めてチェロの音となって迸り出る。そうして次第にシンジの中で沈静化していく。
 しかし、それは一時の事でしかなかった。
 幾ら音にしてみても、この感情は決して解決することは無かった。
 何日かの虚しい足掻きの後で、シンジはそんな風にチェロに掴みかかることに疲れてしまっていた。今や、楽器そのものが、触ると痛む腫れ物のようにさえ感じられる。
 どうしたというのだろう。
 これまでシンジにとって自分よりも音楽の方が遥かに大きかったのだ。
 そこに入らないものは無い。悲しみも喜びも全て、音楽の中に相応するものを見出すことができた。
 しかし今は音楽に容れるられぬものを胸に抱いている為に、音楽から取り残されてしまっている。
 心細く、惨めな気分だ。
 先日のレッスンで、シンジはマヤに「憐れまれた」のだと思っていた。
 マヤだからこそ、音楽から弾き出されたシンジを憐れむことができたのだと。
 それに気付くと、いたたまれない思いだった。
 だから、何も言わず飛び出した。
 さすがに後で謝罪の意味も含め次のレッスンの日程の電話を入れたものの、次に会うのは気が重かった。
 大したことは無いのだ、と言ってみる。
 そう。
 ちょっと風邪気味になった程度のこと。また暫くすれば元に戻る?。


 シンジは携帯に手を伸ばした。

「あ。こんな時間にごめん……ちょっと話があるんだけど……会えないかな……ま、まさか、そんなんじゃないよ……うん、分かった。じゃ」

 電話を切ると、微かに後悔しはじめている。殆ど衝動的な行動だった。
 机の上に置かれた時計は19時を指している。
 シンジは意を決して部屋を出る。丁度、音楽室から出て来た綾波に夕食は先に済ませるように言うと、足早に家を出る。
 行動することが、少し痛みを和らげているように感じられた。


「せんせから、なんて偉い珍しいな」

「うん……トウジは食事済んだの?」

「ああ、済んだでぇ。うちはいつも早い時間やしな」

「そうなんだ」

「ああ。なんやまさか晩飯の献立の話とか言うオチやないやろな」

「そ、そんなことないよ」

 この時間ともなると公団住宅の中の公園にはすっかり人影は見られない。
 公園の周囲に植えられた木々の黒い陰の向うに高層住宅の窓灯りの群れが見えている。
シンジの会っている相手は、鈴原トウジ。
 同級生の中では比較的良く話をする相手である。
 もっとも、良く話をするようになったのは高校に入ってからである。トウジの弁によれば、シンジは陰気でいけすかん奴だったのである。ところが実際に高校になって同じクラスになってみると、シンジも、そう悪くない奴、に格上げされることになったそうである。
 とは言え、チェロに多くの時間を割かねばならないシンジは決して付き合いが良いとは言えない。トウジとの付き合いは、休み時間と時折の登下校の僅かな時間だけの付き合いと言い切ってよい。
 にも関らず、シンジは今話したい相手としてトウジしか思い付かなかった。

「あのさ……」

 言いにくそうにシンジは切り出す。

「進学のことか?」

 とトウジはすぐに切り込んでくる。

「え? ……ああ、まぁ、そんなものかな……」

「せんせ、ほんまアカンでぇ」

「へ?」

「いや、シンジはほっとんど、今なーんもしとらんやろ? 志望校決めとらん言うとったやないけ。そもそも、センター試験受けられるよう選択とっとんのかいな」

 シンジの通う学校では、殆んどの授業が本人の選択となっており、当然、履修にあたってその結果が志望の大学の入試に適しているかどうかも、当人の判断に任されている。
 文系コースの場合、必修となっている科目は精々のところ英語程度であり、他は選択制なのである。
 それにしても、トウジはどうやら、シンジの悩みは受験対策に後手に回っていることだと決め込んでしまったようだ。

「こないだも、どないしょうるんやろちゅうて、みなで言うとったんや。シンジは、塾も行っとらんみたいやし、あんまり選択で顔合わさへんもんなぁ。それに、夏期講習とかの申し込みしとるんかいな?」

「いや、別に……その……」

「で、どこ行きたいか決めたんか?」

「いや、まだだけど…………」

「あかんでぇ、そりゃ。決めんと何も決まらんやろう」

「トウジはどうなの?」

「わいか? 体育の教師になりたいんや」

 そう言って、トウジは幾つかの大学名を挙げた。

「トウジ…………」

「なんや?」

「それってまさか、いつもジャージ着てられるからじゃ……」

「な、ななな……ええやろそんなもん、どうでも」

 明らかにうろたえるトウジ。どうやら図星だったらしい。
 トウジはわざとらしい咳払いをしてから話を戻す。

「で、シンジは学部はどこにしよう思うとんのや?」

「いや……その……」

 トウジは全くシンジが音楽の道に進むとは考えていないのだ。日頃の自分を見ていれば、何となく分かってくれているかと思っていただけに、シンジは少しショックだった。

「もー、ほんま何も決っとらんのやなぁ。かなわんな。それ」

「決まってない訳じゃないよ……」

「ほな、言うてみ」

「うっ……それは……」

「言われへんのやないけ」

「そんな……言うよ。言うから」

「ああ、言うてみ」

「笑うなよ」

「ああ、笑わん」

 ブランコのそばに立てられた水銀灯の灯りで、奇妙に白く見えるトウジの顔。
 シンジは大きく息を付く。

「音楽だよ」

「……ああ、そうか……分かった」

「分かったって?」

「音楽の大学行きたいんやろ? せやったら、別にわいらとおんなじする必要もないっちゅう訳や。実技の試験とかあるんやろ? そうなるとわしにもよーアドバイスでけへんもんな」

「別にそのことでアドバイスしてもらおうとは思ってなかったよ」

「なんや、人呼び出しといてその言い草は。勝手なやつやな」

「トウジが勝手に、話を先走ってってるだけじゃないか」

「お、そう言えばそうかもしれんな」

「そうだよ」

「そか、そりゃすまん、すまん」

「何だか、話す気が失せて来ちゃったな」

「ま、そう言わんと」

 シンジは苦笑してしまう。この人懐さ故に、シンジはトウジに話してみようと思ったのだ。勿論、トウジに迷惑なことは承知の上で。本当に嫌ならトウジなら、正直にそう言う。だからこそ、気兼ね無くこちらも正直に接することができる。

「じゃ、話すよ」

 そしてシンジは話し始めた。
 父との諍いのこと。
 アスカのレコーディングを見て感じたこと。
 レイのこと。その他周りの人々のこと。
 何に悩んでいるかもはっきりしない。だからシンジは極力、起こったことに沿って、淡々と語った。そうして想起しながら自分の心に起こった想いを再度確かめて行く。
 何かが分かった訳ではないけれど、話していく内に、自分の中にあったもやもやとした気持がゆっくりとほぐれて行く気がした。

「そうかぁ。シンジにも色々あんねんな」

「なんだかね。これまで、何にも考えて来なかったみたいな気がしてさ」

「そらそうや。必要な時以外に考えたらあかん」

「あかん?」

「ああ。そんな無駄なことする暇があったら体動かせばええんや」

「……そうかもな」

「で?」

「で? とは?」

「だから、シンジはどないすんねんな」

「それが分からないから、こうして話してるんじゃないか」

「ふ〜ん」

「トウジはどう思う?」

「……そやな」

 それまでブランコの前の手摺に座っていたトウジは、立ち上がると伸びをした。

「わしやったら…………どっちゃでもええな」

「どうして?」

「はっきり言ってよー分からん。あ、別に人事だからだとかとはちゃうねんけどな。おやじさんがそう言うなら、何か考えがあるんやろ。それに乗ってみてもええ。せやけど、こっちは行きたいとこへ行くんや。せやし音楽大学行くんも、悪うはない。どっち転んでも、ただでは起きん気で居ったら何とかなるもんや」

「トウジらしいな」

「そうか?」

「でもな、シンジ。プロの演奏家になりたいんやろ?」

「う、うん……」

「どうなんや。ほんまのところは。さっきシンジは音楽はやりたい、とは言うたけど、音楽でメシ喰いたいとは言わへんかったもんな。その二つは大違いやと思うけどな」

「多分、僕が分からなくなるのは、そこのところなんだと思う」

「なるほどな」

「うん。多分そうなんだ」

「そうしたら、そこを考えてみたらええんちゃうか。それと……」

「それと?」

「やっぱりよー分かれへんねんけど、プロになるっちゅうのと音楽の学校でるちゅうのの関係がな。いまいちピンとは来んなぁ」

「…………」

 実を言えば、シンジも余り考えたことは無かった。身近にアスカが居たことが、逆にプロには「なる」ものだ、とさほど意識することなく今まですごして来ていたのだ。
 自ら「なろう」とするにはどうしたら良いのだろうか。

「しかし、せんせ」

 とトウジがまた話し掛けて来た。

「うん?」

「普通の大学行くんやったら、今の成績で大丈夫なん?」

「うっ」

 目下のところそれも大問題ということか。


「さ、入って」

 事務所のドアを開けて、唖然としているシンジに、部屋の奥からリツコが声をかけた。
 午後6時を少し回っている。来意は既に電話で伝えてあった。
 この時間だから事務所には社員が多少残っているだろうと思い少々緊張しながらドアを叩いたのだが、拍子抜けした。

「皆さん、御早いんですね」

 と閑散とした事務室内を見まわしてシンジは言った。

「今日は、担当の本番があるから、みんな出払ってるのよ。会社に居なくても夜十時くらいまでは仕事ね」

「そうなんですか」

「さ、そんなところに突っ立ってないで」

 リツコに促されて、社長室に入る。そこには簡単な応接セットがあった。
 ソファに座るように言われて暫く待っているとリツコがお茶を持って戻って来た。
 シンジに茶を勧めると、シンジの向かい側のソファに座る。

「で? 折り入って相談、て何?」

 言葉はそっけないが、目が悪戯っ子のように輝いている。

「僕がプロになるには、どうすればいいんですか?」

 リツコは微笑んだ。
 はっきりと大胆に、しかし不用意に発せられた質問だ。
 しかし、今のシンジにはこれしか表現のしようが無いだろうことも良く分かっていた。

「うちの事務所と契約する?」

「え?」

「仕事をしてお金が貰えればプロ。それ以外に難しい定義なんて無いわ」

「でも……」

「シンジ君、あなたのなりたいのはプロなの?」

「はい?」

「うちは何時でも歓迎だわ。もっともあなたの場合、今は、お父様の承諾が必要だけど」

 父親のことを持ち出されて、シンジの顔が曇る。

「父さんは……」

「って、こんなこと聞きたいんじゃないわね。普通、プロになるっていうけど実はそんなに、ちゃんとした決まりがある訳じゃないわ。コンスタントに仕事が取れるようになっていれば、一応プロって事にはなるけど」

「はぁ」

「とにかく仕事をって言うんなら、例えばスタジオミュージシャンとか、どこかの演奏団体に入るっていうことになるわね。いずれもオーディションを受けて合格すれば、晴れてプロの仲間入りって訳ね。難しいのはソリストでやって行こうって場合よね。まずいきなり始めても、誰も聴きたいとは思わないでしょう。だから、みんなコンクールに出て名前を売りたいと思う。後は、マスコミ受けのする話題性を持ってるかでしょうけど」

 それからリツコはシンジの顔を少し窺う。そしてまた言葉を続けた。

「シンジ君は話題性は十分あるわ。だから本当は今、その話題性を活かして世に出ることもできるのよ?」

「ぼ、ぼくがですか?」

「ええ。レイちゃんもね。でも、あんまりお勧めはしないわ」

「どうしてです?」

「そのうち、世間は飽きるでしょうね。所詮、物珍しさだけの人気ですものね。その時に本当に実力があるかどうかが試される。でも、話題性だけで世に出てしまった人の多くは、乗り切ることが出来ずに消えさって行くわ」

「僕もそうなると?」

「可能性は多いにあるわ。現に、大きな国際コンクールでの優勝者で、その後潰れてしまう人だって居たんだから」

 シンジが息をのむ音がする。
 シンジは思い切って訊ねてみる。

「父さん達が、僕にコンクールの出場を止めるのも、そのせいですか? リツコさんは、父さんたちの計画に従っているんじゃ……」

 その言葉にリツコの表情が険しくなる。

「見くびられたものね。確かに、正直に言えば、あたしはあなたのお父様がどんなことを考えているのか知ってたわ。でもそれと、あたしの意志は関係ない」

「でも……」

「信じられない?」

「……そういう訳じゃないですが」

「いいわ。確かにあたしは、アスカをデビューさせてしまった。それに、あなた達二人も以前は、すぐにデビューさせようと思ってたもの。それを今になって、こんな事を言うのは随分なことだものね」

「…………」

「デビューしたい?」

「わかりません。それが本当にしたいことなのかどうか」

「そう。はっきり言って、レイちゃんはもう、確実にデビューして大丈夫。もっとも、本人にはその気は無いみたいだけど」

「僕は……駄目ですか?」

「才能も技術も申し分無いでしょうね。その気になれば、ビッグタイトルのコンクールで上位入賞は可能だと思うわ」

「なら……」

「ねぇ、そうなら、一体何? コンクールに出る? デビューする? それで一体、シンジ君は何が得られるの? それで何をしたいの?」

「それは…………」

「ごめんなさい。言いすぎたわね。でも、悪いけど、今のシンジ君がデビューするのは全く薦められないわ。いいわ。分かるかどうか、分からないけど言ってあげましょう。あなたはね、あなたの途方もない能力に見合うだけの人間にはなっていないの。碇シンジって人格抜きでも、あなたの才能、技量は相当の価値はあるわ。いえ、むしろ今のあなたなら、あなたの人格無しの方がどれほどましか分からないわ。だから、単純にビジネスだけの話なら、あなたがどんなに馬鹿やキチガイでもデビューさせて儲けることは可能よ。現にそういう天才少年はこれまでにも一杯いたわ。そうしてみんな消えて行った? 何故だと思う?」

「……わかりません」

「そう。素直な答えね。じゃ、別の質問。ねぇ、あなたは何故音楽するの?」

「それは……」

「答えられるはずはないわね。いえ、今答えが出来たとしても、それは、あたしは違うと言うわ」

「うっ……」

 赤くなって俯いている少年を、リツコは我が子を見るように愛しげに見つめる。
 だが、声の強さは変わらない。

「さ、もうそろそろ帰ってくれないかな。あたしも仕事に戻らないと……」

 シンジは慌てた様子で立ち上がる。

「あ、すみませんでした。今日はどうもありがとうございました」

 そう言うと逃げるように部屋を出て行った。


 シンジが帰った後、がらんとしたオフィスの中で、リツコはタバコに火を付けた。
 社員が居る時間だと、社員に咎められるし、家に帰ればアスカに嫌な顔をされる。
 今なら、誰にも気兼ねすることは無い。
 一口吸って、紫煙を胸につかえたもののように、吐き出す。
 徐々に心と体が弛緩して、心地よい疲れが支配しはじめる。

『リツコさんなら、今の碇君にわざと辛く当ると思って』

 レイの言葉が思い出された。
 読まれてるわねぇ。
 リツコは苦笑した。
 今日明日でどうにでもなる問題ではない。
 却って、シンジが放り出してくれているほうが正解なのだ。
 が、それが出来る子なら、こんなことで悩みはしない。
 (少し、外に出させてみましょうか。アスカとシンジ君の仲直りにもなりそうだし)
 リツコは先日、家の書庫から、母の残したものの中に見付けた楽譜のことを思い出した。風変わりではあるけれど、あれをやるならこの機会しか無い。

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