▼第二十二章

「しっかし、赤木音楽事務所もなんか、タコ部屋っぽくない? 行って早々に演奏会の、しかもリサイタルの予定なんか入れる、普通?」

 事務所のリツコの部屋。
 アスカは応接セットのソファにふんぞりかえって、口を尖らせて言った。
 もっとも言葉の割に語気はそう荒立っていない。
 デスクに座ったまま、リツコはにこやかな表情を崩さない。

「いいでしょ? まさか出来無いなんて言わないわよね?」

「ええ。出来無いなんて言わない。でも、今からプログラム考える方の身になってよね、ちょっとは。要するに、いきなり行って大勝負かけるんでしょ。やっぱりプレッシャーよね」

「あら、プレッシャーなんて珍しい。アスカがそんな弱音吐くなんて」

「よ、弱音じゃないわよ。ちょっと言って見ただけでしょう? それに、何時の間にかコンセルバトワールの聴講生になってたりするし……」

「ああ、それね。それはシュッツ先生の計らいだわ。せっかく来たんだから気楽にいろいろなコース見て御覧なさいって。それはそうと、フランス語の方は大丈夫? 先生、英語はあんまりみたいだから。日本語は多少できるみたいだけど、あんまり甘えてちゃまずいでしょう」

「ま、そっちは心配しなくても大丈夫よ。あたし語学得意なのリツコだって知ってるでしょ?」

 アスカは留学に備えてフランス語の勉強もしていた、とは言え、もともと英語・ドイツ語が流暢に話せる以上、然程心配も要らないのだが。

「それにしても、なんだって日本語が少々出来ちゃったりする訳?」

「ああ、奥さんが日本語の先生だったんだって」

「へぇ〜、そうなんだ。で、今奥さんは?」

「お気の毒に、亡命する時にお亡くなりになられたそうよ」

「そう……」

「そんな深刻な顔しない。ちょっと気を付けて上げるだけでいいんだから。先生は随分気さくな方みたいだから」

「そうなの……」

「で、相談なんだけど……」

「なあに、またなんか企んでる?」

「人聞きの悪い事言わないでよ。あなたのマネージャとして色々とやってるだけでしょ」

「分かってます、分かってますって。で、何? 話って」

「再来月の終わりに渡仏前最後のリサイタルがあるわよね? そこで、シンジ君やレイちゃんと共演してみない?」

「え?」

 思わず、アスカは体を起こして、リツコの顔をしげしげと見詰める。

「嫌かしら?」

「嫌ってことないけど……あ、でも広報用に、もう曲目は渡しちゃったんじゃない? 間に合わないわよ?」

「それなら、多分大丈夫」

「って、一体何をやるのよ?」

「そうね。多分、アスカやシンジ君には思い出深い曲だと思うけど…………」

「って、もしかして」

「そう、そのもしかして……」

「だって、あれは……」

「そう。オーケストラの代わりにピアノ伴奏……だけだったら、レイちゃんの出番は無いんだけど」

「じゃ、どうやって……」

「あるのよ、ちゃんと。伴奏部分を二台のピアノに編曲した楽譜が。これ、実は、あなたのお母さんにも縁のあるものなんだけど……」

 母親が、と言われアスカの顔に怪訝そうな色が浮かぶ。
 リツコは、やや黄ばんだ分厚い紙の束を机から取り出してアスカの方に差し出した。
 手書きの楽譜。
 総譜は、恐らく編曲者自身の手によるものらしい。
 一方、パート譜は手馴れた写譜屋によるものだろう。
 総譜とパート譜三部ともなると相当の厚さになる。
 アスカは一番上に置かれていた総譜を手に取ってめくり始めた。

「一体、なんだってこんな楽譜が……」

「多分、それを演奏する機会自体に母も関係してたからじゃないかしら。ただ、一体どの演奏会でそんなものを演奏したのか記録が見当たらないんだけど……」

「ずっと事務所で保管してた訳?」

「ええ。ちょっと面白いでしょ? そう、そのスコアの表紙裏みて欲しいんだけど」

「……!!! どういうこと、これ?!」

 言われるままに、扉裏を返してみて、アスカは驚きの声を上げる。
 そこには、arranged by に続けて三人の名前が書かれていた。一つはkyoko soryu。つまりアスカの母親のもの。
 もう一人は、Gendou Rokubungi 。
 そしてもう一人は、 Kenji Takahata 。

「このゲンドウって、まさか……」

「そうよ。シンジ君のお父様。結婚前の名前ね。たしか碇の家に入り婿になった訳だから」

「でも、このタカハタさんって?」

 その問に、リツコは曖昧な笑みを浮かべる。

「さぁ? 私も良く知らないの。でも、見た感じでは、かなり二台のピアノとも、おもしろそうじゃない?」

「ふぅ〜ん?」

 アスカは、そう言われるまでもなく既に譜読みの状態に入っていた。
 リツコの言葉にも上の空で、無意識に手が動かしながら、ページを繰っている。
 (取り敢えず、アスカの説得は成功ね。シンジくんは大丈夫として……やっぱり大御所には了解得ないとまずいわね)


「どこに行ったかと思っていたが、赤木さんのところにあったとはねぇ」

 冬月は、傍らのゲンドウに一瞥を与えながら、渋い顔をして言った。

「私もつい最近、見付けたんですけど」

 とリツコは言いながら、向いに座ったゲンドウの方を窺う。
 ゲンドウは先程から、腕を組み押し黙っている。サングラスの奥で眼を瞑っているようだ。


 いささか神出鬼没の観のあるゲンドウではあるが、さすがにリツコにとっては、その気にさえなれば予定を押えることは造作も無いことだった。
 折良く、では実はなく、この時期にゲンドウが帰国していること、そして今日この日に、冬月を訪ねるであろうことを押えた上で会見を申し込んでいたのだ。

「で、どうでしょう?」

「もう私の手は離れている。それに、他の二人は、もうこの世には居ない。演奏する上で問題は無いですよ」

 ゲンドウは静かに言った。

「無論、著作権料の遺族への支払等は必要ですが、その辺は赤木さんの方が御詳しい筈だ」

「では、演奏については御了解頂けると……」

「碇、いいのか? 本当に」

「うむ……」

 暫くの沈黙の後、ゲンドウは言った。

「仕方あるまい」

 これは冬月への返答だ。
 そして、リツコに向かって言う。

「あなたは当然、承知して居られる?」

「綾波レイさんのことですね? 高畑健児さんのお嬢さんだ、という事ですよね。この楽譜の編曲にも参加されてる」

「ええ」

 ゲンドウは曖昧に答えて、リツコの目をじっと見る。
 もっともサングラスの奥の瞳はリツコからは窺えないのだけれど。

「彼がどういう最後を遂げたかはご存知ですか?」

「一応は当時ニュースにもなりましたし。母も関係ない訳では無かったのですから……」

 ゲンドウは、リツコの表情をやはり試すかのように窺っている。

「私は反対だ」

 と冬月が言う。

「何もよりによって、三人で衆目を集めるなどもっての他だ。赤木さんは、その結果について本当に責任が取れるとお考えですかな?」

 リツコは、冬月から思いがけず強い口調が出たことに驚く。

「冬月、よせ」

「だが……」

「赤木さん」

 ゲンドウは冬月を制すると、穏やかな口調で話し始める。

「うちのシンジとレイにはお話しになりましたか?」

「いえ。まず、こちらで御了解を得てからと思っていましたので」

「そうですか。ご配慮ありがとうございます」

「いえ」

「分かりました。いいでしょう。この楽譜も、このまま眠り続けるより良いのかもしれない」

「碇!」

「いいんだ、冬月」

「…………」

 二人の男のやりとりにリツコは戸惑っている。

「二人には後で私からも言っておきますが…………」

「そうですか。でも出来たら、これからお邪魔して直接お渡しして来ようかと思っているんですけど……」

「ええ、構いませんよ」

 冬月はゲンドウの後ろで苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 居心地が悪いものを感じて、リツコは早々に退散することにした。

「じゃ、お忙しい所、どうもありがとうございました。あ、それと遅くなりましたが、シュッツ先生にお執り成し頂きまして、どうもありがとうございました。本当ならアスカ本人にもお礼をさせるところなんですが」

「いえ、いいんですよ。たまたま、丁度居合わせただけですから」

 いかつい顔のゲンドウが照れているのは少々、奇妙なものだった。

「碇……お前……」

 冬月は唖然としていた。


「お前、本当にいいのか?」

 リツコが帰った後、冬月の家の応接間。

「問題無い」

「お前は三人のことを引き受けたのだ、とばかり思っていたのだがな」

「そのとおりだ」

「確かにレイは、もう大丈夫だろう。というよりも、そもそもあの子は知っておるのだろう?」

「ああ。知っているよ。先生のところに引き取られて行った頃は、何も分からなかったろうが……」

「確か目の前で射殺されたんだったな」

「ああ。レイも覚えているかもしれん」

「アスカ君は……」

「冬月。あの子達は、もう腫れ物を触るようにしてやる歳でも無い。赤木くんは、これまで良く育ててくれたと感謝している。だから、私は信頼することにしたのだ」

「そうは言ってもな。リスクは大きいぞ」

「分かっている。だが決して独りではない」

「楽観的すぎるのではないか」

「私は運命論者でないだけだ」


 リツコは、ゲンドウとの会見の後、その足でシンジ達のマンションを訪ねた。
 彼女が、冬月の家でゲンドウと話したことを伝えるとシンジは言った。

「あ、帰ってるんですか」

 驚く、という訳ではない。馴れているのだ。
 さすがにシンジが不憫に思えてくる。

「でも、いいんですか?」

 とシンジが心配そうに尋ねた。

「何が?」

「だってアスカのリサイタルですよ」

「ええ、いいのよ。本当にいい演奏会になりさえすればいいんだから。それとも、出たくない?」

「いえ、喜んでやらせてもらいます」

 やや興奮気味のシンジの横でレイだけは、沈んで見えた。

「どう? レイちゃん、お願いできるかしら」

 レイは総譜のコピーの裏表紙(こんなところまでコピーさせたのである)にある名前を、見詰めていた。

「急なお願いすぎたかな」

「いえ……これ……」

 それから、レイはリツコの顔を見上げる。

「どう?」

 と言いながらリツコは(大丈夫?)と目で問い掛ける。

「ありがとうございます」

 レイの顔に嬉しそうな笑みが浮かんだ。


 リツコが帰ると、シンジとレイは早速二人で、スコア(総譜)の点検を始めた。

「あれっ、これ父さん?」

「ええ、これはアスカのお母さんね」

「タカハタって誰?」

「さあ?」

 とレイは答えたが、どこか嬉しそうだ。

「うわあ、これチェロも結構、変えてある」


 ドボルザークの管弦楽曲は、民謡に取材した親しみやすいメロディーと、明解な構成、そして色彩感溢れるオーケストレーションで親しまれている。特に最後の2つのシンフォニーは大変ポピュラーだ。にも関らず、オーケストレーションは非常に薄いのである。
 どういうことか?。
 実は、ドボルザークの管弦楽曲では、同時に進行する声部の数は少いのだ。内声は必要最低限のものに止められ、むしろ各楽器は同じ旋律線を重ねて奏される。この楽器の組合せの妙が色彩感溢れる響きを産み、一見単調にも思われるユニゾンの多用は、却って旋律線を明確にすることに役立っている。と言うことは、しばしば管弦楽曲のピアノ編曲で行われるように、声部の再現だけで事足れりとするなら、実に貧しい響きのものになってしまう。
 しかしオーケストラ譜のユニゾンを(それはオクターブを重ねているものが多いのだが)完全に再現しようとすれば逆にピアノでの演奏が不可能になってしまう。
 とすれば、チェロコンチェルトも、ピアノ一台の伴奏譜に納めようとすれば、それは妥協の産物以外では有り得ない。(興味深い事に、古典の名曲については、この事情は逆になる。
 例えば、ベートーベンの八番のシンフォニーは、一見、ドボルザークのシンフォニーに比べればこじんまりとした印象を与える。ところがその声部の複雑は精緻を究め、声部を完全再現したピアノ譜を弾くには相当のヴィルティオーソの力量を要するのだ。若き日のメンデルスゾーンがベートーベンのシンフォニーをしばしばピアノで演奏した事が知られているが、これは当時、技量の冴えを示す絶好の素材だったからである。)

 二台のピアノによるこの楽譜は妥協を極力廃し、単純だが力強い各声部が、歌謡的な性格を徹底的に追求出来るように工夫されていた。
 互いに絡まり合う旋律線は、2つのピアノに分配され、互いの旋律の性格を本当に対話的に進行させることが出来る。
 そうすることで、独奏対伴奏という二項に潰れることなく、ドボルザークのオーケストレーションに内在していたオーケストラそのものの弁証法的エレメントが前面に現れてくるのだ。
 チェロ譜の変更は独奏部に、では無く、本来なら独奏チェロが休みの部分で、オーケストラの声部の一部として参加させられるようになされているものだった。
要するに、この編曲では、チェロは休み無く弾かなければならない。しかも独奏は、独奏として全体の前面へ主役として登場し、オーケストラ内の声部の部分が来れば、素早く一声部として対等の位置まで下がらねばならない。
 単一の楽器の線で、なお十分な色彩の変化を表現できねばならないのである。
 とは、本来のコンチェルトよりも、なお一層のテクニックと音楽性を要求されるに等しい。
 二人は楽譜を無言で繰って行った。
 最後のアッコードが鳴り響くのを読み終えて二人は異口同音に行った。

「うわー難しい」

 それは嬉しさの現れでもあった

夏の終わりのコンチェルト

第二部 完
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