夏の終わりのコンチェルト 第三部
written by しのぱ

▼第二十三章

 その週の土曜、三人は合わせてみることにした。携帯を耳に当て、レイと話すアスカは嬉しそうだ。

「いい?。じゃ一時に私の家ね。
 バカシンジには、遅れないように良く言っておいてね!」

 こういう事はレイに頼んでおくものだと、アスカは決めてかかっている。無論、シンジだとて、約束に遅れることは先ず無い(大抵、待ち合わせに遅れるのはアスカの方だ)。しかし、信頼感がまるで違う。
 多分、シンジは直接連絡されなかったことにいじけるだろうが、それを適当にあしらえる自信はあった。
 それに、この曲を合わせると言う魅力に勝てる訳が無いだろう?。

「あ、レイ、それと、どっちのピアノパート弾くかだけど・・・え?、2nd?。
 いいわよ、別に。
 あたし?。
 あたしはもしレイさえ良ければ、1st弾かせてもらおうと思ってたもん。
 やっぱりって・・・ああ、そうなの?。
 そうかも。
 じゃ、・・・・土曜日はよろしくね!」

 実はアスカには、土曜の夕方5時には会場入りしなければならない演奏会の予定があったので、リツコは良い顔はしなかった。

「大丈夫?。一通り通したら長いし、疲れるわよ?」
「平気よ。
 私だってプロのはしくれ、適当にペース配分は考えるわ」
「だってアスカ、シンジ君相手に手を抜けるの?」
「うっ・・・それは・・・」

 リツコはため息を吐く。

「仕方無いわね。
 じゃ、あたしも練習に立ち会うから。
 もし無理があるようだったら容赦無く止めるわよ。
 いいわね?。
 それで、レイちゃんとは何を話してたの?」

 リツコが珍しく詮索めいたことを聞いた。

「え?。
 別に。
 レイが2ndで私が1st弾くって決めてただけ」
「そう?」
「ええ。レイが言うには1stがあたしにぴったりだって。
 多分、お母さんが弾いたパートじゃないかって」
「そう」

 リツコは微笑んだ。

「何か知ってるの?。
 本当に、お母さんが弾いたの?」
「さぁ。あたしも詳しい事は知らないから・・・」

 リツコは適当にはぐらかしている。とは言え、何か問題があるようにも思えなかったので、アスカはそれ以上追求しなかった。


 その日の朝食の席で、シンジは思わず従妹の様子に声をかけてしまう。

「綾波、嬉しそうだね」

 レイは傍目から見ても、どこか嬉しそうに見えた。日頃、余りに感情が顔に現れる事が無かったので、シンジは少々驚いている。

「そ、そう?」

 この応答自体、既にいつものレイではない。ここ数日の事を思い浮かべてみたけれど、シンジには思い当たることは無かった。確かに、ドボルザークの件は嬉しくないことは無かったけれど、それが原因だとはシンジには、とても思えなかったのだ。
 レイは努めて、何事もない風を装っている。が、装っている事がそれとなく、分かってしまう。
 シンジは頭を振る。どう考えても、こうなることの原因が思い浮かばない。別に悪いことでは無い(といいな、と思う)。ちょっと馴れないだけのことだ、と自分に言い聞かせる。それに・・・。
 『こうしてみると綾波って・・・・』
 いつもの無表情とは異り、そこには様々な感情が息づいている、少女の面立ちがあった。もともと美しい顔立ちなだけに、生き生きと表情が表れて来ると、はっと息を呑む程に魅力的なのだ。
 ふとシンジはレイの横顔を見詰めてしまっている自分に気付いて、赤くなった。

「いよいよ、明日が初回の合わせね」

 唐突に、しかもシンジの方を向かずにレイが言った。

「あ、ああ、うん」
「楽しみね」

 その言葉にも感情が籠もっているのをシンジは、聞き逃さなかった。


 この楽譜の初演を実はリツコは知っていた。
 音楽大学の学園祭。
 これはそんなささやかな舞台で演奏されたものだ。
 リツコは当時まだ中学生になったばかり。働く母の、生き生きとした様子を心強く思っていた頃だ。父親は居ず、母は忙しかったので、リツコは祖母に面倒を見てもらっていたけれど、決して寂しかったり不幸に思った記憶は無い。と言うことは、例え一緒に過ごす時間は少くても、母がどれほどの愛情を注いでいてくれたのかが今なら良く分かる。同級生の子供達の家庭とは随分違っていたけれど、その事を羨んだりした事は無かった。
 一体何が、きっかけで母とすれ違い始めたのだろう?
 
 
 ***
 
 この曲は幸せな時代の最後の想い出の一つだ。
 当時既に、赤木ナオコは、アスカの母やシンジの父、それにこの曲のもう一人の共演者である高畑健児に目を付けていた。三人とも無名だった。若いうちからコンクールで名を馳せるような事もなかった。勿論、その実力は充分あった。ふとしたことから彼らの才能を認めて以来、事有る都度、赤木ナオコは三人の演奏をチェックするようになっていたのだ。その三人の学園祭での演奏に、ナオコはリツコを連れて行ったのである。
 リツコ自身も小さい頃からピアノのレッスンは受けていたけれど、ナオコは早々に、リツコの音楽的才能には見切りを付けていた。そもそも自分の娘だけに、その音楽的才能については期待していなかったので、特段失望はしなかった。第一、ナオコの仕事を引き継ぐには優秀なプレーヤである必要は更々無い。要は、確かな耳を持っていれば良い。だからピアノのレッスンもその為にある。そうして、良い演奏を聞く機会は多ければ多い程良いのだ。
 リツコは小さな講堂(そこが演奏会場だった)の入口で渡されたプログラムを見ながら、ナオコが顔をしかめるのを見ていた。母は余り、このようなアレンジものには良い顔はしなかった。

『あらあら、信じられないことするわね』

 確かそんな事を呟いていた筈だ。リツコはちょっとだけ悲しくなる。別に演奏者を知っていた訳ではないから、演奏者に同情した訳ではない。
 冷徹なプロの耳は、時にリツコにとって余りに非人間的なものを感じさせた。切って捨てるその言葉。一方で捨てられたものに投じられていた筈の沢山の努力と涙とを思うと、リツコは落ち着かない気持にさせられるのだ。
 だが、実際の演奏は、そんな些細な事件を忘れさせてしまう程のものだった。
 演奏が終った瞬間、場内は(200人程の聴衆を収める程のものだったけれど)、しんと静まり返っていた。全員が、たった今終った音の体験を信じられないとでも言うような。そして突然、割れんばかりの拍手と歓声。

『おかあさん!、おかあさん!。
 凄かったね!、ね!?』
『ええ!!。ええ!!』

 リツコは懸命に母に語りかけ、そして母も力強く答えてくれた。
 それがリツコには何よりも嬉しかった。容赦の無い母の耳。それはきっとリツコにとって本当は、母の見たくない部分だったのかもしれない。演奏は、その耳を螺伏せ、人々を感動させ、そしてリツコと母の間にも心を通わせてくれた。
 音楽は。
 その瞬間の音楽は正しく幸福の記憶の結晶。


「ふぅー。なかなか難儀ね、やっぱり」
 アスカは椅子の背凭れに寄りかかって天井を仰いで言う。
 一回の通しに三十分。今、その最初の一回が終ったところだ。
「うーん、歌い合うってのがこんなに難しいとは」

 シンジも少々困惑の体だ。
 
 ***
 
 どうにかこうにか、三楽章の最後まで弾き切ったものの、とても順調とは言えない結果だった。オーケストラでのコンチェルトや、ピアノ伴奏の場合には、主従の関係がはっきりしている。例え、どんなに伴奏が自己主張をしようとも、ソリストに逆らってまで主導権を握ることは先ず無い。いや出来ない相談だ。もしそんな事をすれば、音楽は死んでしまう。
 コンチェルトとはそういう風に出来上がっているものだ。ましてや、チェロのコンチェルトの名曲中の名曲である、ドボルザークのコンチェルトでは、確かにオーケトスラ部分の音楽の主張の強さに特徴はあるものの、一方で大オーケストラのバック自体を飽くまでバックとして処理仕切っているのである。その辺に作曲家自身の腕の冴えがある。
 しかしこのアレンジは、ドボルザークの筆致がオーケストラの中に行儀良く収まるように押え込んだ歌を、まったく解放してしまう。演奏家は作曲家が正に曲を書き上げている最中に起こった、この旋律の調教をその場でこなさなければならない。謂わば、オーケストレーションの思考を演奏の瞬間に追体験するようなものだ。
 この難点は、恐らく演奏者が強い個性とそれを表現仕切れるだけの力量があればある程、強まるだろう。そして今ここに集まった歳若き演奏家達は正しくそのような三人なのだ。

 ***
 
「まぁ、普通の演奏を念頭に置いて大人しく仕上げちゃうってのなら簡単でしょうけど。そんなことはしないわよね?」

 じっと部屋の片隅の椅子に座って聴いていたリツコが言った。

「くっ・・そんなことするわけないでしょ!」

 アスカがちょっと気色ばむ。

「そう?。ならいいけど」

 リツコは、相変わらず簡単な挑発に乗ってしまうアスカを可愛く思う。
 確かにリツコの言う通り、御行儀良い演奏をする近道は、オーケストラでのコンチェルトの標準的な動きをなぞって見せることだ。だが、それは同時に折角各プレーヤに割り振ることで救い出された旋律の生命をなにがしか、削る事になる。
 それでは、三人のプレーヤで演奏する意味は無いのだ。

「仕方が無いわ。
 今度はもっとお互いを聴き合ってみましょう」

 とアスカが仕切るものの、それでは駄目なことは三人とも承知していた。
 互いの音を聴き合えば、アンサンブルのコントロールは正確になる。が、それは互いの運動のなにがしかを犠牲にすることを意味する。まるで正反対の方向に歌ってみせよといわんばかりの旋律が、それによって死なないだろうか?。
 このアレンジが救い出して見せた各パートの輝きは、そうすることで消えさってしまいそうに思えるのだ。

 ***

 結局、途中ところどころで止めて点検しながらの2回目の通しが終ったところで、リツコからストップがかかった。時刻は3時を過ぎていた。この後の演奏会を慮っての事だったので、三人に否応も無かった。

「大丈夫よ。
 まだ、始まったばかり。
 今からそんなに頑張りすぎると、後が持たないわよ?」

 リツコはにこやかに微笑んで言った。
 三人とも、納得出来ない顔をしている。このわだかまりは、アスカの今日の演奏にも良い影響をもたらさないだろう。とはいえ、リツコから見ても、到底今日中に解決できるとは思われなかった。

「はぁ・・・そうね。
 悩んでもしょうがないわね。
 じゃ、いい?。みんな次までに、どうしたらいいか各自考えて来ること」

 アスカは、当然のようにリーダーとして振舞っているが、さすがに言葉の調子にはどこか自分に言い聞かせているようなところがある。

「ええ、わかったわ」

 レイの声には、何故か確信に充ちているように感じられたので、シンジは何となく、うまく行きそうな気がしてくる。それはアスカも同様のようで、一瞬レイの顔を驚いたように見詰めたが、先程よりも落ち着いた表情で微笑み返した。

「頑張りましょう」
「ええ」
「うん」

 それからシンジとレイはアスカの家を辞した。
 うまく行かなかったにも関らず、何時の間にか大丈夫だという確信のようなものがシンジの裡に産まれていた。


 後部座席にぐったりと座るアスカ。
 夜更けの高速を走る車の中を、該当の灯りが走り抜けて行く。
 スクリャービンにプロコフィエフ。
 滑べる様に車を走らせながらリツコは、あの信じられない程の微細な音の寄せ木細工を、吐息のような、一節の歌にしてしまえるプレイヤ達の精神を羨ましく感じていた。
 目を閉じているアスカの疲れはきっと心地よいものに違い無い。
 そう思うと嫉妬めいた感情が湧かずには居られなかった。
 
 ***
 
 今日は余り冴えないだろうと、リツコは半ば諦めていた。ところが、あの帰りがけのレイの一言は見事にアスカの心のわだかまりを拭いさってしまっていた。それどころか、ふっきれたかのような演奏。
 アスカとシンジ。
 それが運命的な出会いなのかもしれない、とリツコは考えていた。
 しかし本当はレイを加えた三人であることに意味があるのかも知れない、と不思議な因縁めいたものを感じた。

「気を使わないで、テープ流してもいいわよ」

 寝ていると思っていたアスカが声をかけてきた。

「・・・いいえ、別に気を使っていた訳じゃないわ」
「そう?」

 車内は静かだった。
 夜の高速。
 そのスピードと滑らかな移動。
 時間が特別な流れ方をする。
 ここでしか得られない静寂を、リツコは音楽で消したいとは思わなかった。

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