▼第二十四章

 大使官邸は、とある聖女に因んだ小さな教会の脇に建って居た。13世紀に建てられたというその教会はゴチックというよりはロマネスク様式に近い。しかも黒ずんだ石はどれも角が丸く、あまりにみすぼらしく見えた。
 その隣にある大使官邸も立派とはお世辞にも言えない代物だ。
 確かに大きさから言えば、A国のような弱小国には不似合いのものだ。曾ては19世紀の株仲買人の屋敷だったというこの官邸は、50年前の独裁者アルバレトスが戦後のどさくさに紛れて、買い叩いた代物だった。
 安物の偽ルネサンス様式。
 石を使わずに、しっくいとコンクリートで偽装したコルヌコピアの彫刻が如何にも安っぽい。それは、中南米の多くの国が持つ、屈折したヨーロッパへの思いに見合ったものだ。
 19世紀から20世紀にかけて分離独立した国はいずれも、自分達がヨーロッパの文化と地続きだという事を懸命に装う努力をした。殆どの国の首都の建築物はそれが既に植民地時代から強烈に染み込んだものであることを証明している。
 だが、支配層と言えど既に、純血のヨーロッパ人は居ない。
 ラテンアメリカとは余りに少数の植民者が、インディオの社会を崩壊させ、更にアフリカ黒人奴隷を導入して出来た世界だ。いずれのコミュニティも自らの純血を維持する能力を奪われていた。殺陵された者達の血が、虐殺者達の血に混じりあって出来た怪物のような混希。支配層は自分達のアイデンティティをヨーロッパに求めざるを得ず、そうして求めれば求める程に、自分達の非純血性を思い知らされるという倒錯。

 ***

 午前10時。
 武官とはいえ、仕事は何も無い。少くとも表向きに出来ることは。
 ロドリゲスは、ベッドに横たわったまま、ベッド脇の机に置かれたノートPCを起動させる。
 それから物憂げに片手でキーボードを操作すると、とあるIMAPメールサーバへアクセスする。もっともそれだけの操作で、幾つかのサーバを経由している。このルートはインターネット内に散財する管理のずさんなマシンに仕組んだバックドアを使っている。またメールアカウント自体は、ある日本人の実際のメールアカウントに結びつけられているが、無論本人は気付いていない。これで肢が付く可能性は殆ど無い。
 日本のPCユーザは極めて不用心な為、容易に侵入が可能な状態でインターネットに接続している。ロドリゲスはそういう不注意なユーザのストックを常時欠かしたことはない。いずれのPCにも特性のバックドアが仕掛けてあり接続している限り、一定の時間々隔でハートビートパケットを送ってくるようになっている。それを受信するサーバ自体は某大学内のサーバに仕掛けたバックドアサーバになっている。
 さて、メールボックスにはメールが一通。
 PGP暗号化されている。
 ロドリゲスはメーラへのPGPのプラグインは信用していなかったので、メッセージをディスクに保存すると手動で複合化する。鍵フォルダファイル自体、更に別途暗号化しているので、若干の手間はかかるが、こうしておけば例えPCを盗まれても、読まれる可能性は低くなる。
 メッセージを読んだ後で、ロドリゲスは複合化したメッセージのファイルを消し、更に特殊なユーティリティを使ってファイルがあったディスク領域にランダムパターンを書き込む。
 しかし恐らく大使官邸のネットワークは監視されている。
 ただしフランス当局がどこまで本気でA国の通信を監視しているのかは不明だ。だが、途中経路を暗号化しているとはいえ、恐らく本気になれば、この程度の暗号は数日以内に解読出来る。所詮ゲリラ戦術には限界があると言うことだ。
 ロドリゲスはPCの電源を落してから立ち上がり、着替え始める。
 A国陸軍の軍服。

 ***

 大使の執務室のやや大きすぎる扉をロドリゲスは黙って開ける。グンデマーロはデスクの向こうの、大きすぎる背凭れの椅子に、奥の窓に向かって座っていた。
「どうした」グンデマーロは振り返らずに言う。
「餌に食いついた」そう言うと、ロドリゲスはデスクに歩み寄りデスクの上に置かれた葉巻入れから一本抜きだして火を着けた。

「そうか。
 ・・・・・・
 本物だと思うか?」
「恐らくは、な」
「そうか」
「どうでもいいみたいだな」

 グンデマーロは、その言葉に振り返った。

「その葉巻高いんだぞ」
「ふっ。随分ケチ臭いことを言うじゃないか」
「そうさ。
 どんなに出世して偉そうにしてたとしても、俺はそう感じちまうんだ」

 ロドリゲスは、じっとグンデマーロの顔を見つめる。

「何が言いたい?」
「何も言うべきことは無い」
「勿体ぶるなよ」
「ハイテクの国の生まれのお前には分かるまい」
「恐いのか」
「ああ、俺以上に俺たちの国の連中はそうだと思うんだ」
「・・・・ここまで来て・・・」

 グンデマーロは突然破顔して言った。

「気にするな、忘れてくれ。
 時には、人間弱気を吐きたくなることもあるさ。
 予定通り進めてくれ」
「分かった・・・・」
「だが、言っておくが、お前が窮地に陥った時、俺は助けることはできん」
「ああ、承知の上だ」

 そんな風にミサトも殺したのだから、と口に出掛かったが、ロドリゲスはその言葉を呑み込む。グンデマーロ達に罪は無い。
 その代わりとでも言うようにロドリゲスは、疲れの色を見せているグンデマーロに言った。

「ところで、そっちの方こそどうなんだ」

 物憂そうに顔を上げるグンデマーロ。

「心配するな。
 肝心のものさえあれば、連中を束ねるのは訳無い」

 そう言ってニヤリと笑う。


 どんな最先端技術もいつかはジャンク技術に取って代わられる。
 原爆はそれこそカップ麺の容器で流し台の中で組み立てられ、鉄壁を誇る筈のセキュリティシステムはロシアのどこかで旧式のコンソールを駆けるハッカー達によってズタズタにされる。遺伝子の組み換えはとうの昔に、どこかの大学からの、曾ての最先端実験装置の払い下げによって怪しげな下宿でこっそり行う事が可能になった。巨大な遺伝子プールの解析にはなるほど、組織と資本を必要としたものの、そうして苦労して入手した知識の流出は何時でも起こり得る。知的所有権も、それが通じる相手は多少の遵法意識がある連中に限られ
るのだ。
 このようにして、アングラ化された「知」は随分前から、如何なる国の政府によっても統制しようのない化け物になっている。
 もっともそうした知が商品という形で結実し、貨幣へと姿を変えるには更にひねりが必要だ。
 例えば、もしロドリゲス達がどこかで、新種の種苗を手に入れたとしよう。それが遺伝子組み換え作物であるとすれば、当然その安全性が問題となる。となれば、その作物が流通するには公的にお墨付きを貰わざるを得ない。つまりは市民権を得なければ流通することが出来ないのである。
 それ故にアングラがアングラから脱却するのは容易な事ではない。最終的に商品に結び付かなければ意味が無いのだ。
 その為にはかなり大がかりな仕掛けが必要になる。逆に一度出来た仕掛けは回り続けなければならない。つまりは最新テクノロジーによる商品は継続的介入を必要と"しなければならない"のだ。
 公式にはR&Dの成果である輝かしいテクノロジーはライセンス供与を核とした水平・垂直の企業官学ネットワークを形作る。しかしこの光のネットワークに隠れて、商品サイクルに乗れないままに消えて行くジャンク技術は数知れず存在する。
 生き残れるかどうかの基準はその技術の有用性ではない。
 その技術がどれだけ商品サイクルを回し続けられるか、なのである。こうした運動は必然的に排他的技術ライセンスによる寡占へと進む。
 だからこそ、その運動に弾き飛ばされる勢力も出て来る。それらの勢力が更にネットワークを形成し、挑戦する。これが再び市場を撹乱し独特のダイナミズムが産まれる。
 ロドリゲス達が狙うのはこの動きを利用することだ。
 しかしそれは危うい賭けだ。新しい技術が市場を求めて勃興する時期ならばベンチャー企業に優位性がある。少い資本と高度な技術力が資本のネットワークのコアとなるチャンスが存在する。しかし今やバイオテクノロジーの応用領域全域に渡って、数少ない巨大多国籍企業を中心とするネットワークが覆い尽くそうとしている時期なのだ。


 その日の夕方、一人の日本人観光客が宿を取った。
 車は日本車ではなく、90年型の古ぼけたシトロエン。彼は宿屋の主人に、レンタカー屋がそれしか貸してくれなかったのだと愚痴を言った。
 精悍な面立ちにも関らず、まばらな無精髭。無造作に後ろでしばった黒髪は癖の強い固そうな髪だった。一見、痩せてひ弱そうに見えたものの、袖から突き出された二の腕の筋肉から、鍛えられた肉体であることが見て取れた。やや日に焼けた肌ではあったが、顔つきも身なりも、首からかけたストラップには日本製のデジタルカメラからも、主人には日本人観光客特有の匂が感じられる。
 だが彼の言葉は流暢なフランス語だった。
 今まで会ったどの日本人観光客も、フランス語は下手だった。特に発音はどうしようもなく下手糞だった。語彙は良く勉強して、かなり知性的な言い回しをひけらかす日本人も居たにはいた(もっとも主人からすれば、フランス語の入門テキストの文例のように聞こえないでもなかったのだが)。
 しかしこの男のように、普通のフランス語を話せる観光客は会ったことが無かった。思わず主人はパスポートの入出国スタンプを確認した。不審なところは何も見当たらず、男は1ヶ月前に成田から出国したことが分かっただけだった。
 パスポートにはRYOJI KAJIと言う名前が書かれていた。
『読みにくい名前だな』
 主人は顔をしかめて、その文字列を視線でなぞった。

 ***

 G市の市街にあるホテルに、この時期観光客が来るのは稀だ。
 この町の観光産業の主な掻き入れ時は冬であり、夏場の客は直接山地側のロッジやホテルに宿泊するのが普通だ。冬でさえ、スキー場近くの宿をあぶれた観光客が市街に流れて来るに過ぎない。40年程前の冬期オリンピックの開催地であることには、最早何の集客力も無かった。それに本来この街は、小規模ながらこの一帯の工業・商業の中心であり、これと言った歴史的建造物にも乏しい。
 だが男は古い映画のファンなのだ、と言って主人を喜ばせたものだ。冬期オリンピックの記録映画は感傷的な映画音楽のヒットと相俟って、大いにこの街に世界中から観光客を引き寄せた。冬期オリンピックの時、宿の主人は未だ小学生だったけれど、世界に有名なG市の市民であることを誇らしく思っていたものだ。
『オリンピックが終った後の街の風景が映画の最後に出て来ますよね。僕はあのシーンが好きなんですよ』
 そこで主人は各シーンが撮影された場所を事細かに男に教えたりしたものだ。

 ***

 男は毎日、あちこちを歩き周り写真を取って飽きることが無いようだった。そして一ヶ月程して去って行った。

 ***

 G市郊外には幾つかの政府系研究機関と、ハイテク企業が立地していた。その日、ある研究機関の駐車場で職員の変死体が発見された。


 CvMH205-iは鬼っ子だった。
 生物としてそれは完成体だ。だが産業的にはそれは失敗作だ。
 須らく、新品種作物はハイブリッド種でなければならない。
 ハイブリッド種、即ち一代目には優秀な特性を表すが決して二代目以降は続かない。自らの再生を果たす事が出来ない生物として失敗作。だからこそ継続的に産業資本が再生産過程に介入し続けることが出来る。かくして資本は回り続ける。そうでなければ研究活動自体が図られる事も無く、継続されることも有り得ない。資本の運動の為に技術の方向は歪められ、そして命もたわめられる。
 勿論、固定種作物の遺伝子組み換えによる商品化の例はある。しかしそれは米国の大豆のように、種子の利用ライセンス供与という形で行われ、販売会社からの技術サポート無しには栽培出来ないものである。これもまた資本の継続的介入を引き起こす仕組みだ。だが、固定種商品のビジネスモデルは、利用者との直接契約が利益を産みだし得る程、組織化可能なことが条件となっている。

 ***

 米国の化学産業とアグリビジネスに基本特許を押えられ、DNA特許ではドイツやスイスに大きく水を開けられた格好となったフランスにとって、遺伝子組み換え技術での覇権回復は悲願に近い。しかし唯一化学工業での多国籍企業であったローヌプーランはヘキストに合併され最早国内有力企業は見る影もない有り様だった。AIDSワクチンの先陣争いでパスツール研があれだけ強行に粘ったのもこの文脈を押えずしては理解されないだろう。
 アベンティス(旧ローヌプーラン)基礎化学研究所の第二研究部遺伝子組み換え技術班主任研究員のジョルジュジョフロワが研究していたのは、プロモータ遺伝子と選択マーカの研究だった。この技術の代替が無い限り全てのDNA特許に先だってライセンス供与を受けざるを得ない。多くの企業がこの技術の代替を目指して凌ぎを削っていたものの、有望な代替技術が見付かる気配は無かった。
 彼がこの研究にサトウキビの亜種を用い、ヒトの成長ホルモン生成遺伝子の組み込みを題材に選んだのには大した意味は無かった。植物への動物遺伝子の組み込みはちょっと目先の変わった案件だったからに他ならない。ジョフロワは研究を進めるに当って、組み換えられた遺伝子の発現シミュレーションすらろくに行っては居なかった。既に研究に着手したのは、合併に先立つ7年前、この間に会社は幾つかの遺伝子特許を獲得していた。それらは主として耐除草剤耐性を付加した作物についてであり、世間の一般的農薬/化学産業が競って
出願している特許の一翼を担うものに他ならない。当然の事ながら組み換え技術そのものは基本特許ライセンスの供与を受けている。その間、ジョフロワの研究チームは何一つ成果らしいものを挙げていなかった。自社開発に固執するよりもクロスライセンス契約の方が遥かに実りが大きい。経営陣は、そろそろこの問題に決着を付けるべきだと考え始めていた。
 CvMH205-iが産まれたのはそんな時期だった。

 ***

 それが何故産まれたのか、分からずじまいだった。というのも、選択マーカの生成は結局失敗に終ったからだ。
 当時研究していたのはヒトの免疫細胞から抽出したプロモート遺伝子配列であったが、これがうまく働くためには同時に複数種類のアンチセンス遺伝子を用いる必要があった。その効果のシミュレーションは複雑であった為、実験の結果出来あがった遺伝子については未解析の遺伝子配列を伴ったものになってしまった。しかも不思議なことに、どうやっても通常の遺伝子と組み換えた遺伝子を分離することが出来ず、博打のつもりで培養した組織からは、はっきりと他と違う組織を分離できた。要するに肉眼で以外の方法では分離が出来ない
のである。その上、半ば投げやりな気持から、研究室の菜園で育てられたサトウキビの亜種はすぐに固定種であることが明らかになった。
 ジョフロワは失敗作として上司に報告し、上司も当然の事として廃棄処分を命じた。

 ***

 ジョフロワが、とあるBBS上で、CvMH205-iの話しを洩らしたのは、打ち続く失敗に憂さを晴らしたかったのかも知れない。そこは身分を隠し匿名で技術屋同士が内輪の暴露話を打ち明けあう場だった。どうせ、参加者は一様に会社に、ここでの発言がばれることを恐れていたのだ。だからこそ共犯の意識もあって、先ずそれが悪用される恐れは無かった。
 だがRと名乗る男が遺伝子を買いたいと言って来たとき、ジョフロワは、はっきりと自分の作品に固執したい欲望に駆られていた。彼がそれをどう使おうと構わないが、少くとも買う以上ジョフロワが、それに注ぎ込んだ時間は報われる。実際、ジョフロワ自身は、もう何時解雇されてもおかしくは無いと覚悟を決めていた。
 ならば折角出来たこの品種を売り払って金を手に入れるのに何の不都合があろう。会社は、既にこいつを廃棄したのだ。
 最初にジョフロワは、代金の半額とひきかえにCvMH205-iの遺伝子マップを提供した。すぐに、相手側からは種子も引き取りたい旨の返事が来た。
 そこで交渉の末、販売代金は当初の契約よりも更に30%増しに引き上げることに成功した。


 G市警察は、駐車場で発見された変死体を、研究職員ジョルジュ・ジョフロワであると断定した。発見された遺体の血中からは高濃度のアルコールが検出されていたが、死因は後頭部の強打と診断され、周囲の状況から泥酔したジョフロワが誤って転倒し、駐車場脇の舗石に頭を打ったことによる事故死と発表された。
 アベンティス社によれば、ジョフロワは来週一杯で解雇されることになっており、彼の研究室は既に整理され、失敗に終った研究の記録は一切が焼却されているらしい事が分かった。研究所内の菜園も、全ての育成植物が引き抜かれ焼却されていた。
 また自宅の捜索でも遺書は見付からなかったが、書籍や身の回り品が荷作りされた状態になっていることから解雇後、彼は他の土地へ移る予定だったようだ。なお彼の部屋から発見されたPCは、手続き通り遺された通信記録を詳細に調べられたものの、自殺他殺いずれの線にも結び付きそうな手掛かりは見つからなかった。
 警察は、業績が挙げられぬまま解雇されることの憂さを酒で紛らわそうとして泥酔した上の事故と判断し、捜査は打ち切られた。ドイツ資本に買収されたアベンティス社の、非道な仕打の犠牲者。操作員達はそんな先入観に惑わされていたのかも知れない。
 ジョフロワの死から二週間後、アベンティス社はフランス国内の旧ローヌプーラン全事業所において社員の内60%の人員のレイオフを発表した。

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