▼第二十六章

 シンジは、レイが高畑健児の娘だという事の方に少からずショックを覚えた。

『あれっ、これ父さん?』
『ええ、これはアスカのお母さんね』
『タカハタって誰?』
『さあ?』

 あの夜の会話を思い出してみる。
 今考えれば、レイはとても嬉しそうだった。何故隠していたのだろうか?。
 それに、レイの父親は綾波家の人間だった筈だ。レイの母親は碇家の次女、即ちシンジの母の妹で、だからシンジとレイは従妹同士なのである。では一体、高畑健児はどういうことになるのか?。シンジにはさっぱり分らなかった。
 テレビで放映された記者会見を見ながら、シンジは言った。

「綾波・・・そうだったんだ」
「ええ。
 黙っていてごめんなさい」

 冷静極まりないレイの言葉。
 シンジはその先の言葉を待ったけれど、それ以上の説明は無い。振り返ってレイの様子を見る。取りつく島も無い。シンジはため息を吐く。
 レイは全く説明する気が無いようだった。


 リツコの作戦は当った。
 コンチェルトでの共演は、感動的な美談としてマスコミに取り上げられた。スキャンダル扱いの記事は、もう現われなかった。
 もっともリツコがもっと安堵したのは、マスコミがシンジの詮索をしなかったことだ。リツコにしてみれば、ゲンドウから預っているという意識があった。だからこそアスカの軽率さにも腹が立ったのだが。シンジについては、マスコミもゲンドウの息子であること位は最初から押えている。最初の興味本意の記事を書いた記者とて、当然調べては居ただろう。にも関らず書かなかったのは碇ゲンドウの影響力を恐れての事に違いない。それと多少は赤木音楽事務所の持つ"政治力"も効果を持つだろう。要するに、相手もそれなりの証拠無しには手は出せない。これがリツコの読み筋だった。だからこそ代わりのネタが"交換"になり得ると踏んだのである。
 それにしても碇ゲンドウの人脈は、リツコも舌を巻く。世界的名声を欲しいままにしているとは言っても、所詮は一介の演奏家に過ぎない。にも関らず、与党の執行部クラスの議員との個人的コネクションの他に、財界とも強いパイプを持っていることをリツコは知っていた。
 赤木音楽事務所も母から受け継いだ政治的人脈を持つ。クラッシック音楽界はそうした人脈が育ちやすい土壌だ。芸術は、戦国武将にとっての茶道と同様の効用を現在の政治家にもたらす。その事から有力なプロモータと政界との間には世間が想像する以上に持ちつ持たれつの関係がある。とはいえ、所詮は茶坊主という言葉が有るように、音楽界側からは決定的な影響力は無いのが普通だ。
 ところがゲンドウに関しては、それ以上に個人と個人の信頼関係を築いているのである。いずれにせよ、そんなゲンドウに対して不用意に戦端を開く人間はマスコミには居ないという事だろう。
 だが、いずれにせよレイの素性を始めてマスコミに公開したことになる。リツコの不手際には違いなかった。


「大変申し訳ないことを致しました。
 お詫び申し上げます。
 レイちゃんのこともマスコミに公表してしまいましたし・・・」

 ゲンドウをつかまえることが出来たのは、数日後の事だった。しかも彼は、サンパウロに居て、電話でのコンタクトとならざるを得なかった。
 リツコは受話器を握ったまま深々と頭を下げる。これが滑稽な行為であることぐらい意識している。にも関らず、敢えてする事が声に、口調に全て現われる。そうして伝えることができるものが誠意だ、と心得ていた。

「いや、アスカ君がへこんでなければいいのですが」
「御心配ありがとうございます。
 本人も今度のことについては反省して居ります。
 それにあの子の好きにさせてしまった私自身の責任ですので」
「まぁ、それは言いっこなしにしましょう。
 ・・・
 ですが・・・」
「はい?」
「・・・いや、いいです。
 それよりも、アスカ君には気にしないように言って下さい。
 これからも色々な事が有ると思いますが、今後ともシンジとレイのこと、よろしくお願い致します」
「重ねがさね御丁寧な御言葉、ありがとうございます。
 こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します」

 電話を切りながら、リツコはゲンドウが一瞬言い澱んだことが何なのかが気になって仕方がなかった。


 週末の練習の日も、アスカはしおらしかった。さすがに今度の事ではかなり懲りているようだ。
 決して卑屈になったりいじけて居るわけではない。だが、極力無駄話はしない。音楽の事しか口にしようとはしなかった。演奏していない時は、シンジやレイと目を合わせることもしない。だが演奏を始めると、そんなことなぞ無かったかのように真正面を向いて来る。
 音楽には決してウソは付かない。照れ隠しさえしない。そんなアスカの考えに、二人はすぐに気付いた。だから敢えて演奏以外でのアスカの態度にも、何事もないかのように接した。
 音楽に正しく向き合うだけでいい。親しい人間との語らいも、好きな人との心の通い合いさえも、心地良いものではあったが、余計なものでしかない。
 本当に大事なのは音楽だけだ。
 世界に何が起ころうとも、どんなに大事なものを持ち出されても、音楽より大事なものはない。今、ここに産まれ出て来る音以外に真実も、大切なものも存在はしない。
 そんな気持に三人は自然と入り込んで行った。
 アスカの突飛な行動は周り回って、彼らの心から一切のわだかまりを、普通ならわだかまりとは言えないような、日常的な関心すらそぎ落として、音楽だけになることを可能とした。
 ようやく、三人はこの曲を、自分達の"言葉"として紡ぐことが出来るようになり始めた。


「せんぱーい、最近シンジ君って何かありましたぁ?」

 マヤからの久しぶりの電話の開口一番はこれだった。

「なにかあったの?」

 と言いながらリツコは、どうやって電話を切ろうかと算段し始める。

「なんか、最近時々信じられない音楽する瞬間があって・・・・」

 その言葉にリツコは、電話を切ろうとしていたことを忘れる。

「どういうこと?」
「うーん、なんて言っていいのか、良く分んないんですけど・・・
 時々シンジ君じゃない人が憑りついてるんじゃないかって、そんな感じがするんです」
「何、それ?。
 てんで分らないわ」
「えー、あたしだって良く分らないから言ってるのにぃ」

 三十代のブリッコに、リツコもちょっと引く。

「良くないってこと?」
「いいえ、全然。
 というか、逆に凄いんです。
 うん、凄みがあるっていうか、その何だか胸騒ぎがするぐらい、ぐいぐいと来るような時があって・・・
 それに・・・・」
「それに、どうしたの?」
「あの子、それに気が付いてないみたいなんですよね」

 リツコは不意に背筋がゾクっとするのを覚える。何故なのかは分らなかった。


 庵原一樹は気に入らなかった。
 ネット経由で、惣流アスカのネタを仕入れて他社に先駆けて記事に出来たのは良い。
 入手したネタを全部使わなかったのは、第二第三と打ち出す事を狙っていたからだ。だが、編集長に突然このネタの打ちきりを言い渡されたのは、記事が出た翌日の事だ。『お相手』は未だ編集長には言っていなかった。"予備校生A君"として最初の記事では伏せてあった。
 この人物の正体が第二段のスクープになる。そう踏んでいたのだ。そして第二段の記事を見せにいったところ、打ちきり宣告という訳だ。

「庵原!!。
 おまえ、こりゃちょっとまずいよ」
「え、どうしてっすかぁ?」
「だってお前、これ未成年の上に、碇ゲンドウの息子じゃねぇか」
「それがどうしました?
 ネタとしちゃ申し分無いじゃないっすか」
「俺は乗れねぇな。
 やるなら本誌離れてやってくんな。
 その後が恐いから、できるだけ遠くに行ってな」
「なんすか、それ。
 恐いんすか?
 こっちは証拠はちゃんと握っているんだし、ウソは無いっすよ」
「馬鹿野郎!!
 そんでもって社を裁判沙汰に巻き込もうというんか。
 何考えてる。
 駄目に決まっとろうが!!!」
「編集長・・・」
「打ちきり!!。
 とにかく打ち切りだ」
「そんなぁ・・・・・」
「何やってんだ!!こんなところで管巻いてねぇで、さっさと記事拾い行け!!!」

 ***

『圧力がかかった?』
 庵原にはそうとしか思えなかった。腸が煮えくりかえる思いだった。


 薄暗い店内で、カウンターだけが強い光で照らされている。背後のフロアー席のざわめきは照明の昏さの中に曖昧に沈んで聞こえている。

「ほお、だがそりゃ編集長の方がびびったのさ。ゲンドウ自身が圧力かけに動くとは思えんね」

 柳はそういうと、ぬるくなったジョッキの中身を一気に飲み干した。それから、大儀そうにげっぷをした。
 そでをまくりあげた腕は体毛が濃かったが、その上にびっしりと汗をかいている。でっぷりと太った柳は額にも汗を光らせ、カッターの襟も汗をすっている。

「ほう、随分とゲンドウを買ってるんだな」

 庵原は不快そうに言った。

「まぁね。
 俺が見るところ、あいつは正真正銘の人格者ってやつだな」
「そんなもん居るわきゃねーだろーが」

 柳は庵原の大学時代の先輩だった。もっとも庵原は柳に対して敬語を使うことは無い。学生時代から、それは一貫して変わらない。そもそも誰に対してもそういう男なのである。それが柔道部という天然記念物的封建的集団で、どういう反応を招くかは容易に想像出来よう。庵原は、連日のしごきにふてぶてしく耐えた。耐えたところで先輩連中が庵原を受け入れることは無い。両者とも相容れないままだった。ただ柳だけが、そんな庵原に対し、まるで何事も無いかのように接してくれたのである。以来、柳は庵原にとって頼れる友人となっ
ていた。
 そんな柳が現在、都内のプロオーケストラのマネージメントをやっている。
「まぁそうふてくされるなって。
 第一、今回の事件だって、どう考えても、スキャンダルになりそうな要素はないと思うぜ」
「ああ、わかってる」
「じゃなんだって・・・・」
「気にくわねぇんだ。
 惣流アスカには別に怨みはねぇ。
 だけどなぁ、無性に腹が立つんだよ。
 俺たちが、地べた這いずりまわって生きてる間によぉ。
 芸術だ?、音楽だ?。
 へどが出そうだぜ」
「は、ひがみって奴だな」
「ああ、何とでも言えよ」
「悪いとは思わねぇぜ」
「?」

 庵原は不思議そうな顔で、柳を見る。

「まぁ、三十路を過ぎた男のやるにしちゃあ、ガキみてぇな感じもするがよ。
 どうせ、こういうことにどう対処出来るかが、プロの器量ってな。
 ひがみだろうが、何だろうが、それがお前にとって理由のある事なら、やってみりゃいい。
 例え私怨だろうと、な」

 庵原は驚いて柳の顔を見つめる。
『・・・・知っているのか?』
 だが、柳の眼差しは暖かく、全てを認めている目。庵原は敢えて問い質さなかった。いずれいつか話す日が来るだろう。だが今ではない。

「何見つめてんだ。
 照れるじゃないか」
「よせやい」

 小声で言うと、目を逸した。
 柳は、空いたグラスを掲げて店員に示す。
 お代わりを頼んだのだ。それからまるで何事も無かったかのように話し始める。

「それはそうと、お前、あの三人の親の若い頃については調べたんだろうな?」
「いや、一応記事を書くから、一通りのことはな」
「ふーん。
 じゃあ、高畑健児の死んだときの事情は知っているか」
「さぁ?。
 確かニューヨークで客死したんだよな」
「死因は?」
「何か有るのか?」
「いや、ちょっとな。前から不思議に思ってな」
「何だよ、奥歯にものの挟まった言い方だな」
「いや俺も良くわかんねぇ。
 だが、前から何で誰も高畑健児の死因を知らないのかと思ってな。
 当時新聞にも出てなかったんだがな」

 庵原は、聞くでも無くグラスを傾けていた。もっとも、内心、柳の話に酷く興味を覚えていたのだ。
『何かある』
 しかも彼の記者としての勘が、これで一矢報いることだ出来るはずだ、と告げているような気がした。


「非運のピアニスト高畑健児の死の真相に迫る!!---赤木音楽事務所の残酷」

 煽情的な見出しの記事が、とあるスポーツ新聞の一面を飾ったのは、それから数日後の事だった。
 前回の興味本意な記事と異り、この記事はしっかりとした調査を踏まえていた。通常のスポーツ新聞のはったり記事の大仰な表現は一切無く、淡々と調べあげた証拠を組み立てて結論に迫って行く。
 それは紛れもなくスキャンダルだった。
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