▼第二十八章
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「碇、この失敗は高く付くぞ」 「問題無い。 もとより、こうなることは予想がついた」 「承知の上で、か。 君は、それでは、キョウコ君すら否定することになるんだぞ!!」 「言うな、冬月!!」 電話の向こうのゲンドウがどんな表情をしているのか、冬月には想像も付かなかった。 いずれにせよ、事態の展開は冬月にとっては苦々しい限りだった。恐れていた通りのことが起こっている。 確かにリツコが打った手はレイの事が無ければ正解だったろう。リツコは高畑については、ナオコの悔悟だけを聞かされていたようだから、その死に取材が及んでも、事務所が槍玉に上るだけのことだと考えていたに違いない。 敢えて教えなかった冬月とゲンドウにも落度があったと言わざるを得ない。幸い、何故か記事ではレイの家庭環境については触れていなかった。未成年であり被害者側であるレイに配慮してのことか?。 マスコミがその程度のことでネタを見送るはずは無い。単に「順番」なだけだ。 「だが、いずれにせよマスコミはレイのところまで押しかけるだろう。 産まれたときの事情が知れるのだって時間の問題だ」 「分っている」 分っていたところで、今一体何が出来るのか、冬月にもさっぱり見当が付かない。 冬月は嘆息して言葉を繋ぐ。 「それにこの記事を書いた奴の名前で気付いたんだが」 「なんだ」 「庵原を覚えているよな?」 「ああ、庵原の関係者なのか?」 「さぁ、未だ分らん。 だが奴の子なら今ごろ三十過ぎの筈だ」 「そうか・・・・」 「因果だな」 「いや」 「いや?」 「むしろ好運だったのかもしれんな」 「どういうことだ」 「それが本当に庵原の息子だったのなら、な」 「何故、そう思う?。 怨んでいて当然ではないのか」 「お前は親友の音楽を信じていないと見える」 「な、何を・・・」 「冬月。 庵原の息子なら、彼の中に庵原が生きている筈だ。 私はそれを信じる」 「・・・・そうだな。 そうでなければ、奴も浮かばれまい」 |
ロックコンサートよりはかなり控え目ながら演奏会の終幕後、出て来る演奏者を楽屋口で待ち受ける多くファン達が居た。 その群衆に混じって、無精髭に髣髪、擦り切れて汚れたコートの東洋人の男が小さな女の子の手を引いて立っている。 警備員はその姿に最初から警戒していた。 うつろな、それでいてどこかに憑かれたような意志の強さを思わせる目付き。ストーカー犯罪者にありがちな風貌。何かをしでかすに違いない、そう思った彼は警察に警護を要請した。 三十分後、楽屋口からガードマンとマネージャに守られるようにして惣流キョウコと碇ゲンドウが現れた。連絡を受けた警官二名が到着したのは丁度その時だった。 突然、ストーカーらしき男は、奇声を発した。 警官は反射的に銃に手をかける。男は右手をコートの懐に入れたまま、左手を前に突き出し、掴み掛かるようにして惣流キョウコめがけて走り出した。 『そいつを止めろ!』 警備員が叫ぶ。 驚いて振り返る惣流キョウコ。駆け寄って来る男の姿に恐怖にかられ、その口から悲鳴があがる。 『助けて!!』 その瞬間、銃声響いた。 警官が撃った3発の銃弾は背中から入り、心臓を抉って肋骨で停止した。何かを掴むように左手を差し出しながら男は、夕方雨が降って未だ塗れている舗道に倒れた。 男が走って来た方角を見ると、そこに凍ったように立ちすくむ小さな女の子が、泣きもせずじっとこちらを見詰めて立っていた。 |
背中に開いた小さな穴から、どす黒い、血が細い蛇のように飛び出して来る。その体が向こうへと倒れていった、その先に彼女は居た。 『アスカ?』 *** 気が付くとレイは、ぐっしょりと寝汗をかいていた。枕元の時計は午前4時を告げる。 青い薄明が部屋を浸している。世界はまだ眠っていた。 もう何度も見た光景。 父親が、人から物へと変貌して行く瞬間の記憶。ここ暫くは殆ど見なくなっていたのに。 堪えても、自然に喉の奥から嗚咽が洩れる。泣きじゃくっている自分をレイは押えることが出来なかった。 |
"高畑健児は、中学生で単身、東欧に渡りレオニード・シュッツの薫陶を受けた。彼はシュッツ門下では一番の逸材と謳われていた。 ところが政変によりシュッツ近辺が不穏になってきた事から、十八になると帰国し、芸大に入学。そこで、碇(当時は六分儀)ゲンドウ、アスカの母親である惣流キョウコ、そしてシンジの母である碇ユイ、その妹の舞に出会った。 五人は出会ってすぐに意気投合し、互いに良い刺激を与え合う友人となった。当時の芸大では、彼らは抜きん出た才能だった。特にチェロの六分儀、ピアノの高畑、惣流の三人は、何時デビューしてもおかしくないと言われていた。 一方、碇家の姉妹は、どちらかと言えば控え目で才能に恵まれてはいたものの、演奏家として必要な覇気には乏しく、三人について行くことだけで満足していた。 そんな均衡の中で、惣流と高畑は自然に愛し合うようになって行った。 やがてゲンドウはチャイコフスキーコンクールに優勝し、一足先に、ソリストとしての第一歩を踏み出した。ところが不思議なことに高畑、惣流ともに様々なコンクールに出場し本選までは行くものの、入賞を逃し続けていた。 ゲンドウは芸大を中退し、演奏活動を開始、と同時に、碇ユイと周囲が唖然とするのを後目に電撃結婚。 この頃、高畑、惣流らを誘って様々な形態の室内楽のコンサートを企画して成功させている。どうやらドボルザークのコンチェルトは、その頃編曲したものらしい。 やがて、高畑、惣流の二人にチャンスが到来した。 クライバーン・ピアノコンクールの本選に二人とも残ることになったのだ。 既にファイナル前で、最早優勝はこの二人のどちらか、という呼び声の高い中、緊迫した決勝を制したのは高畑だった。 調子を崩した惣流キョウコは6位に留まった。 だが、この頃から二人の関係には亀裂が入り始める" 庵原は、ディスプレイから目を放すと、肩をほぐすように回した。窓の外が白んでいる。 今までに書いた部分を読んでみる。 うまく書けているとは言えない。どうにも、筆が乗らないのを感じている。 『・・一体、何をやっているのかな、俺は』 何ももたらさない営為。結局、人々の間に不和と諍いしか産まないだろう。こんなことを書いても、結局本当に忘れられて欲しくない人の想い出には届かない。そしてその為に、罪もない少女達を苦しめるのだろう。 それを承知で庵原は、なお書かずには居られなかった。 隣の部屋から、うめき声が聞こえた。 うなされているのだろうか。 だが、それもいつもの事だ。 妻の容態は良くなる気配は無い。 今の所、鬱の状態には程遠い。だから、ひとまず庵原は安心していられた。 だが、それは絶え間ない諍いを意味する。 妻との生活は、躁状態の時期の庵原への常軌を逸した攻撃の連続と、鬱の時期の、何時起こるとも限らない暴発を恐れる時間の交替だった。 求めて始めたのだ。 これは、庵原自身が望んで。 償いではない。決っして償いではない。 庵原は、想いを振り払うように頭を振ると、再び原稿に向かって行った。 |
『リッちゃん、大丈夫かい』 リツコは思わず耳を疑った。プライベートの携帯にかかってきたのは加持からだった。 「さすがに、耳が早いわね」 「まぁね。こう見えてもマメなほうなんだ」 「そうよね。昔から」 「ああ・・・ しかし安心したよ。 どうやら、リッちゃんは大丈夫そうだから」 リツコは、思わず『今どこに居るの?』と尋ねてしまいそうになる。だが、加持はそれには答えることは出来ない筈だ。 「私よりアスカの方を心配するべきなんじゃない?」 「ああ・・・分っている。 だから、こうしてかけている」 「・・・・酷い人ね」 「すまない」 リツコは、胸にかすかな痛みを覚える。そこで、意地悪な問いを投げかけることにした。 「・・・・ ね、今度何時会える?」 「リッちゃんらしくないな」 「あら、そう?。 でも、初めて会った時から、私はあなたに夢中だったわ」 「今日は意地悪だね」 「いいえ、ずーっと意地悪だったのよ」 窓の外の明け始めた朝の光景が、リツコの目には滲んで見える。 「ずっと。 私は真剣に意地悪してたのに・・・」 「リッちゃん」 「安心して。 私達は何とか乗り切るから。 だからもう切るわね」 「ああ、頼むよ」 加持が言い終るか終らないか、というところで、リツコは接続を切ってしまう。荒い息をつきながら、怒りにも似た震えが体を走る。はらはらと涙は流れ、携帯のディスプレイに落ちた。 *** 気持が落ち着くのを待ってから、リツコは朝食の準備を始めた。 今日も対応に追われる一日になるろうと思うと、気持が萎えそうになる。各社とも、何かしら新たな事実と新たな誤解に基づいた記事を流す筈だ。飽きられるまで、ひたすら乗り切るしかない。 そんなことを考えながらも、朝食の準備は着々と進んで行く。 *** 昨夜、事務所から帰った時、アスカは何も言わず、何も尋ねなかった。リツコに気の無さそうな『お休みなさい』を言うと、会話を避けるように自室に入ってしまったのだ。 何事も無かったかのように、繕っているその心のうちで、一体何を考えているのかリツコには分りかねていた。 *** やがて朝食の準備が出来たので、リツコはアスカの部屋へ呼びにいく。 「アスカ、朝御飯にするわよ。寝ちゃわないで、食べてくれる?」 返事は無かった。 「アスカ?!。 寝てるの?!!」 返事は再び無しだ。 それに部屋の中に人の居る気配は無い。 「アスカ?。 入るわよ。いいわね?」 リツコはドアを開けた。 *** アスカは居なかった。机の上に置き手紙があった。 『少し考える時間を下さい』 |
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