▼第三十章

 夏の夕暮れの重く紅い光が、車窓に映る山の木々を染めていた。

『馬鹿よね、あたし』

 アスカは、先程から何度と無く同じ言葉を呟いていた。帽子とサングラスをした栗色の髪の少女はどこへ行っても目立った。本人は変装のつもりなのだが、却って逆効果にしかなっていない。それでも、彼女が誰からもサインを求められたり話し掛けられたりしなかったのは、彼女の発する近寄りがたい雰囲気のせいだったのだろうか。
 自分の軽率な行動が引き起こした騒ぎ、それを粉塗する為に打ったリツコの作戦が、更に母達の過去を暴露する結果になってしまった。
 全ては最初の自分の馬鹿げた行為の結果なのだ。
 実を言うとアスカは、母が高畑の死に責任の一端があるかのような、あの記事については、あまり気に止んではない。全ては運命の巡り合わせのようなもので、母のせいだと言うのは、あまりにこじつけに過ぎる。
 だが、この事件を知ってしまってからは、レイにどんな顔をして会えるのか想像も付かなかった。弁解する?。冗談じゃないわ。別に私も母さんも悪いことをした訳じゃない。だから謝るなんてとんでもない。
 それでも父の死と言う事実はレイとアスカの間に無視できない溝を作ってしまうだろう。その溝を埋める自信は今のアスカには全く無かった。


 あの記事以来、夕食時の二人は不機嫌だった。シンジもレイの組合せでは機嫌が悪いと言っても喧嘩になる訳ではない。ただむっつりと唖黙って、各々が自分の思考の中に閉じこもっているだけだ。
 二人に対するマスコミの取材と言っても、赤木音楽事務所に対するもの程酷くは無かった。マンションにまで押しかけて来た記者は居なかったし、電話も2、3本あったに留まる。予備校や夏期講習会場で、一、二度記者が張っていてインタビューを申し込まれたことも大した問題では無かった。それよりも、うんざりさせられたのは周囲の好奇心に満ちた眼差しだった。
 シンジの方はと言えば先日のアスカの乱入以来、"とんでもない彼女持ち"と目され、その彼女の所属事務所のスキャンダルという報道に、周囲は興味津々という有り様だった。単刀直入に聞いて来る者は居なかったけれど、何気ない風を装って近寄って来る者が途切れることは無かった。そもそも学校でも目立たない方であるシンジは、予備校でもトウジ以外には、親しい者も居なかった。それがこの数日、誰もがシンジになれなれしく近寄って来るのである。
 鬱とおしい事この上無い。

『まぁ、暫くの辛抱やでぇ。文化祭ん時の騒ぎやって、そのうち収まったやろ?』

 とトウジは慰めにかかるものの、そのトウジですら事件の推移に興味が無い訳ではないのである。それに文化祭の時とは事件の質が違い過ぎる。
 それにも増して深刻なのはレイの方だろう。
 例によって夏期講習では、レイは皆の攻撃の的となっていた。そこにもってきてこの事件である。アスカとの共演と言う、この場の殆どの者にとって夢でしか無いチャンスを掴んで居ること、父親が天才ピアニストであったということ、どちらも周囲の嫉視を煽るだけだ。その上で、父親の悲劇的な最後。とりわけ皆の関心を惹いたのは、報道では触れられていない、レイの出生の事情だった。高畑健児の子なのに、綾波姓なのは何故か?。それに何故、碇ゲンドウの姪なのか?。複雑そうな家庭環境がほの見える。そしてレイへの嫉妬は、無遠慮な質問も正当化させてしまう。

『あんた、なんで綾波って名乗ってんのよ?
 変じゃないの?。
 だってあんたの親父結婚してなかったんでしょ?』
『そうよ、変よ』

 休み時間に数人で徒党を組んでレイを取り囲む少女達の意地悪そうな顔つき。

『ひょっとして、不倫ってやつ?』

 数人がくすくす笑う。

『えー、きゃーいやー、ふけつー』
『きゃー、きゃー。
 不倫の子よー』

 くすくす笑いは、何時の間にか刺すような高笑いに変わっている。

『ちょっと、何よその目付き』
『そうよ、なによ、不倫の子のくせに』
『なんか言ったらどうなの』
『なんか言いなさいよ』
『黙ってれば何とかなると思ってんでしょ』
『いやねぇ。
 ふけつなお生まれの方って』

 そしてまた笑う。
 レイは、何を言われようと、平然と本を読んでいる。

『ふんっ!!
 あんた!!
 親父の話で、惣流さん脅迫したんちゃうん?
 せやなかったら、あんたみたいんが共演できる訳無いやん』

 眼鏡をかけた、意地の悪そうな少女が詰る。周囲の子から「委員長」と呼ばれていた少女だ。

『そうよそうよ、脅迫したのよ』
『わ、ずっるーい』
『ね、あんた、辞退しなさいよ』
『そうよ、どんな手使ったのか知らないけど、あんたなんか、惣流さんと共演するのが間違いなのよ』
『そうよ、そうよ』

 それまで黙って本を読んでいたレイが、急に立ち上がる。
 まわりを取り囲んでいる少女達は、驚いて後退った。

『な、なによ。
 やろうっての?』

 少女達のリーダー格と思しき子が後退りながら、レイを睨み付ける。
 レイはまるで道端の石でも見るかのように、その少女に一瞥を投げると、すっと横をすり抜ける。

『ちょっと!!
 逃げる気?』

 レイはその言葉にゆっくりと振り返る。

『トイレよ』

 それから何事もなかったかのように教室を出た。
 実のところ、いかにレイとは言え何事も無い訳でもないのだ。レベルの低い言いがかりに過ぎないものの、彼女も内心堪えているのである。しかし、いつものレイなら、この程度の攻撃でも、一言で黙らせてしまうような殺し文句を返していた筈だ。
 それが今回ばかりは、言い返せなかったのである。

 ***

 こんな風にして日中を過ごした彼らが、夕方に機嫌が良い訳が無い。その最悪な気分での食事の時間に、突然電話がなった。


「そう、そっちにも行ってないの」

 電話越しに聞く、リツコの声が疲れている。

「ええ、来てませんよ」
「・・・・」
「リツコさん?」
「あ、ごめんなさい。
 ちょっと疲れているかも」
「そのようですね。
 早くお休みになられた方が良いですよ・・・
 と言っても、とても眠れないですよね」
「そうね。
 ちょっと参っているかもしれないわね」
「誰でもこんなときはそうですよ」
「シンジ君はどうなの?
 君のところにも記者が来なかった?」
「ちょっとは来ましたけど。
 でも大して聞かれませんでしたから」
「そう」

 そして溜め息。

「リツコさん、何があったんです?」
「・・・・アスカが置き手紙残して、居なくなったのよ」
「置き手紙?」
「ええ、『時間を下さい』って」
「・・・でもどうやって?」
「そう、不思議なのよね。
 記者が張ってた筈なのに」

 リツコの口調がいつもより緩慢になっている。
 恐らく疲労が、最早リツコの判断力を鈍らせているのだろう。

「リツコさん・・・」
「なに?」
「心当たりなら、僕あります」
「えっ?」


 アスカがマンションを抜け出せたのは不思議でも何でもない。芸能スキャンダルでも無く、疑獄事件でもない。総じて言えば、この程度のネタで夜通しの張り込みをかけるようなマスコミは居なかったのである。そんな事にも気が付かぬ程、リツコが疲労困憊していたと言える。
 そしてアスカが残した手紙の真意についても、リツコは読み誤っている。
 今のリツコの状態では、先に彼女の方が参ってしまうだろう。沈着冷静で、何があっても動じない。それが身上だった筈のリツコが今、思いがけない脆さを曝している。

「リツコさん、お願いがあります」
「な、なに」
「例の、最初に僕達が出会った湖の別荘」
「あ、ええ。覚えているわ」
「あれは確か赤木音楽事務所のものですよね?」
「ええ、最近は私達あまり行っていないけど、保養施設と言うことになっているわ」
「今日は誰か利用している人が居ますか?」
「さぁ、どうだったかしら。
 社員から申請があれば使用を許しているけれど・・・」
「すぐに連絡付きますか?。
 管理人さんか誰かに」
「ええ付くけど・・・ってアスカはそっちに向かっているってこと?」
「多分」
「た、多分ってシンジ君、どうしてアスカがそこだと?」
「説明が難しいんだけど・・・
 でも、彼女が時間が欲しいと言ってる以上、別に身を隠している気は無いんだと思います。別に見付かっても構わない、と考えてる筈です。
 ただ、どこかでじっくり考えたかったんだと」
「それで?」
「後は、何となく勘です。
 あそこには彼女のお母さんの遺品があるんでしょう?」
「あ、ええ。
 楽譜とか、まぁいろいろと」
「それに、彼女が今まで国内で想い出深い場所って、あそこくらいしか無かった筈ですから」
「・・・そうね、多分そうよね。
 分ったわ、早速、これから行ってみ・・・」
「駄目です。
 リツコさんはこっちで待ってて下さい」
「でも・・・」
「今の状態で、リツコさんが行っても何も出来ませんよ」
「・・・・」
「それに今リツコさんに倒れられたら、アスカはどうなるんです」
「シンジ君・・・」
「とにかく、向こうの管理人の方に連絡をとってアスカが着いたらすぐ連絡を貰うようにして下さい。
 これから僕が行きます」
「・・・・」

 リツコはシンジの申し出を暫く考えていた。

「わかったわ。じゃあお願いする」
「分りました。向こうに着いたら電話しますから」
「ええ、そうして頂戴」


「碇くん・・・」

 慌ただしく旅支度を始めたシンジにレイは、おずおずと声をかけた。

「どうするの?」
「これからなら夜行に間に合うから、とにかくすぐに出ようと思って・・」
「あたしは・・・」
「あ・・・綾波は、今は会わない方がいいかも」

 アスカの性格を考えると、本当のところはレイに会わせる顔がない、と言うのが本当のところだろうとシンジは見ていた。それなら、こちらに戻る気になってからの方がいい、そう考えたのである。

「・・・そうね。
 あたしもそう思う」

 レイはこころなしか、寂しそうに答えた。

「その代わりに・・・」
「なに?」
「ちょっとリツコさんの方が心配かな」
「ええ・・・分ったわ。
 私はリツコさんのところへ行くわ」
「そうしてくれると助かるよ」

 レイは、てきぱきと捌いて行くシンジを感慨深く見詰めていた。
 あのおどおどした少年が何時の間にか、自分で考え、自分の意志で行動する青年になっていた。
 スポーツバッグに着替えを押し込んでいるシンジの背中に、レイはすっと寄り添った。

「あ、綾波?!」
「ちょっとだけ・・・
 ちょっとだけこうして居させて」

 レイはシンジの背に耳をあて心臓の鼓動を聞く。背中にぴったりと体を寄り添わせ、彼の体温を感じる。暖かく懐かしい感覚。
 それからすっと身を離した。

「ごめんなさい」
「あ、いいんだよ・・・」

 シンジは耳まで赤くなりながら、そそくさと支度を続けた。
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