▼第三十一章

 玄関のドアには鍵は掛かっていなかった。

「あら、レイちゃん、来てくれたの」

 ダイニングのテーブルには沢山のビールの空き缶が転がっていた。饐えたアルコールの匂が鼻を衝く。
 頬は赤く目は幾分充血しているとは言え、リツコはあまり酔えていない様子だった。

「みっともないでしょ。
 普段、格好付けてたから、これで正体ばれちゃったわね」

 手にした缶を煽るようにして飲み干すと、リツコはもう一本の缶に手を伸ばす。

「おいしい?」
「まさか」
「なら、やめればいいのに」
「そうね。正しい判断だわ」
「・・・・」
「酔っ払っていないわよ。
 酔えないのよ。何本飲んでも・・・・
 嫌になっちゃう。
 こんなことなら・・・・」

 ミサトなら、ビールをがんがん飲んで、それなりに酔って憂さを晴らせていたのだろうか。学生の頃はどうしていたっけ?。こんなにアルコールに強かっただろうか?。
 何時もミサトと同じくらいに酔っていた筈だ。

「大丈夫よ。
 そんなに悩んじゃいないから」
「でも、辛そう」
「ええ、辛いわ。
 でもお酒じゃ紛れない」

 ここまでやってきて、今更自己嫌悪に陥ったり、それまでの自分を否定的に感じたりするのは卑怯だ、とリツコは思っていた。だから彼女は自分の心に刻まれた傷を実際には見詰めることが出来無いでいる。

「悲しいの?」
「な、何が?」

 レイの質問は唐突に過ぎて、答えられない。

「どっちなの?」

 リツコは困惑する。

「分らないわ」

 レイは、ゆっくり、はっきりともう一度問い直す。

「辛いの?。悲しいの?」

 リツコにとっては、はっきり言い直して貰ったところで、意味ある答えなど思い付かない。この娘は何を聞きたいというのだろう?。

「そのどちらかだとして・・・・
 私にとっては何の意味もないわ」

 レイはゆっくりと目を伏せる。

「そう。
 なら聞かないわ」

 それからレイは辺りを見回す。

「座らせてもらって良い?」
「ええ、どうぞ」

 時折、レイは奇妙に律義な言動をすることがある。これなども、その一例なのだが。
 レイはリツコの向かいの椅子に座る。
 そのまま俯いたきり黙ったままになる。
 これには、さすがにリツコも苦笑した。一体何なのだろう、この娘は。
 と気が付けば、自分の気が紛れていることに気付いた。こういう慰め方ってあるんだろうか。

「聞かないんですか?」

 レイが唐突に言った。

「何を?」
「私のこと。父の事を黙ってたこと」
「・・・・どう聞けばいいっていうのよ。
 私は知らなかった。
 迂闊な事にね。
 うちの事務所は、高畑さんに対して、あなたに対しても負い目がある。
 それは知っていたわ。
 でも、それは無理なスケジュールと、使い捨てのような扱いのせいだと思ってた。
 キョウコおばさんとのこと、あたしは情けない事に知らなかった。
 だから、それは私の落度。
 良く調べておけば良かったのにね。
 でも、今となっては詳しい話はどうでもいいことだわ」
「もう過去のことだから?」
「・・・そうね。
 もう済んだこと。
 過去の傷をほじくり返す必要なんてどこにも無いわ」
「・・それは違うと思う」
「え?」

 リツコは、思わずレイの顔を見詰め返した。だが、レイは相変わらず俯いてテーブルの上に視線を止めたままだった。

「忘れて欲しくない。
 過去はみんなそう思っているもの。
 忘れて欲しいって言う人も、
 本当は忘れて欲しくないと思ってる。
 強く思う余りに、絶望して言うの。
『忘れて』って。
 それは無理な望みだと分っていながら」
「レイちゃん?」
「だから、私、別に過去の事聞かれても構わない。
 どんな風にだって、覚えていて欲しいから」

 リツコは、レイの真意を図り兼ねていた、が彼女の言葉の力に気押されていた。

「わたしが綾波を名乗っている理由も知ってる?」
「ええ、それは一応調べたわ。
 あなたのお母さん、あなたを産んだとき綾波さんと結婚されていたのね。
 で、結局綾波さんの元に戻って、綾波さんが事情を知りながら御自分の子として引き取られて・・・」
「そう。
 父さんは、あたしが産まれたすぐ後に、母さんとあたしを捨てたの」
「!!
 レイ・・・ちゃん」
「本当よ。
 死ぬ前、ずっと一緒だったから何時も聞いてたもの。
 あたしと母さんを、恐くなって父さんは逃げたんだって」
「・・・・」
「あたし、綾波の父の記憶は無い。
 だって物心付く前だったから。
 母さんの記憶も無い。
 覚えているのは父さんだけ」
「・・・ずっとシュッツ先生に預けられていたのかと思っていたわ」
「父さんが死んでからわね。
 母さんが死んでから、父さんが死ぬまでの間、あたしは父さんとずっと一緒だった」
「・・・・」
「母さんが死んだ時、父さんがあたしを綾波の家から連れ出したの」
「それって・・・」
「ええ、誘拐みたいなもの。
 でも、綾波の家の人は何もしなかったわ。
 捜索願いは一応出してあったけど・・・一年経って死亡認定を申しでて・・・。
 おじ様が、父さんと一緒に居ることを連絡して、死んだことにはならなかったけど」
「碇さんは知ってらしたのね?」
「何時から知ってたかは分らないわ。
 でも時々来てくれる鬚のおじさま、だった。
 父さんは、しょっちゅう住む場所を変えてたから、おじ様もそう頻繁には来れなかったみたい。というより、父さんは引っ越すとき、どこへ行くかを連絡していなかったんだと思うわ」
「辛い思いをしたのね」
「さぁ、あたしは父さんと一緒で幸せだった。
 父さんは良く、バーみたいな所でピアノを弾いていたわ。
 あたしはお店の隅で、それをじっと聞いているの。
 薄暗いお店の中は、海の底みたいで、その中をふわふわ漂いながら、父さんの弾くピアノを聞くのはとっても素敵だった。
 それから朝までピアノを弾いて、いつも途中で寝ているあたしを父さんは背負って家に帰る。
 それから昼過ぎまで寝て、起きると父さんはあたしにピアノを教えてくれる」
「・・・」
「あたしには何も足りないものは無かった。
 でも、父さんには足りないものが一杯あった。
 だからいつも悲しそうで、あたしには何が悲しいのか分らなかったけど・・・」
「・・・・あの日、あなたもあそこに居たの?」
「・・・ええ。
 撃たれた時、あたしは父さんのすぐ隣にいたもの」
「レイちゃん・・・・」


「あたしは、何故父さんが駆けて行ったのか分らない。
 今でも何も分らない」
「・・・」
「ええ、キョウコさんへの怨みかもしれない。
 でも、それはあたし、違うと思う」
「え?」
「アスカと会って驚いたわ」
「どういうこと?」
「父さんってどんな人だか知ってる?」
「いいえ。
 お会いしたこともないし・・・」
「アスカとそっくりだわ。
 わがままで、お調子もので、
 喜怒哀楽が激しくて、そのくせ寂しがり。
 子供みたいなところばっかり。
 でも音楽になると突然、大人になる」

 リツコは意外な思いで聞く。なんとなく高畑健児をレイの性格から推し量っていたからだ。

「だから・・・・
 父さん、どんな演奏会でも楽しんでたと思う。
 失踪したとき、何を考えていたか分らないけど・・・
 キョウコさんを怨みっこないと思うもの。
 演奏のプレッシャーで潰れるような人じゃない。
 何か、本当にそうしなければならない理由があったんだと思うの」
「レイ・・」
「おかしいでしょう?。
 何の証拠もない。
 聞いた訳でもない。
 単なる娘の思い込みかも知れない。
 でも、あたしの知っている父さんは、人を怨んだり出来るような人じゃない」

 リツコは手に握ったビールの缶がすっかりぬるくなっている事に気付いた。もうとても飲める代物じゃない。それにもう飲みたいとは思わなかった。

「本当は、あたし赤木音楽事務所を怨んではいません。
 だって、父さんは別にリツコさんのお母さんのせいで潰れたんじゃないし、キョウコさんのせいでもない。
 結局、未だ父さんが本当に何を望んでいたのか分らないけど・・・
 でも、父さんは父さんのやりたいようにやって、それでああなったけど・・・
 でも、それ良かったんだって思ってます。
 どんなに奇妙に見えたって、それで父さんは良かったんだと。
 だから、忘れないで欲しいんです。
 そうやって生きてたって事を」
「ありがとう・・・」
「いえ。
 演奏家は、忘れられてしまうことが一番恐い。
 だって音は消えてしまう。
 録音をしていたって、それは本当に音が産まれた瞬間の命はもう持っていない。
 消えさってしまうものにしか、託せないんです。
 あたしと父さんは、全く音楽では違うと思うけど、でも、その思いは同じだと思うんです。
 ドボルザークのコンチェルト。
 あたし嬉しかった。
 だって、それは忘れていないって証になるじゃないですか。
 私達は父さん達を忘れていないって。
 本当の音は消え去ったけど、想いは伝えて行っているって思えるもの。
 だから・・・
 だから、誰一人忘れて欲しくない」

 ふとみると、膝に置いたレイの手の甲が濡れていた。
 リツコも、思わず目頭に熱いものを覚えた。立ち上がって、テーブルを周りレイの側に行くと、そっとレイの肩を抱いた。

「わかったわ。
 教えてくれてありがとう」

 レイは声を挙げず、リツコにしがみついて泣き続けた。


 まだ体の節々がこわばっている感じがする。
 夜行列車のなかで無理な姿勢で寝た居たのだから、仕方が無い、がバス停からロッジまでは、湖畔をぐるっとまわって、まだ大部歩かなければならない。
 肩にチェロのハードケースのストラップがきつく食い込んで、足元の砂は足取りを嫌でも重いものにしてくれる。
 今朝、赤木音楽事務所の保養所の管理人に連絡を居れたところ、まだアスカらしき人物は現われていない、とのことだったので、一端、碇家の別荘に落ち着くことにしたのだ。あの管理人の老夫婦は健在だったが、さすがに迎えに来てもらうのは無理そうなので、歩いて行くことにした。もっとも歩き出して数分で、後悔し始めたのだが。
 まだ八時前なので、商店はどこも閉まっている。ようやく見つけたコンビニで、朝食になりそうなものを物色する。それから後は管理人夫婦に世話になれば良い。
 それにしても、とシンジは思う。これから会いにいってどうしようと言うのだろうか。
 慰める?。
 それはどうにも違うだろうと思う。
『時間が欲しい』
 と彼女が言った以上、きっと遅かれ早かれ帰って来る気で居るのだ。だとすれば、ただ待って居さえすれば事足りる。
 確かに綾波の父の話はショックな話だった。しかもマスコミが騒ぎ立てるのは不快極まりない。だが、アスカに何が出来ると言うのだろう。既に事は終っており、アスカの預り知らぬ事件なのである。高畑の死が惣流キョウコにも責任があるかどうか、については他人がとやかく言えるようなものは何も無い。確かに道義的には、多少の負い目を感じるべきなのかもしれないが、他人が口を極めて罵る話ではなく、あの記事は言いがかりとでも呼ぶべき代物だ。
 だが、知ってしまったことでアスカは、綾波との間に溝を感じざるを得なくなるだろう。彼女の悩みはそのことに尽きる筈だ。ならば、時間稼ぎは何の解決にもならない。まず一歩を踏み出さなければならないのはアスカの方だ。
 聰明な彼女がそのことに気付かぬ筈は無い。だとすれば、あのメッセージはその一歩の勇気が持てないこと。そして誰かに助けて欲しいということを意味していないか?。
 その誰か、とはシンジしか居ないではないか。
 とそこまで考えて、シンジは躊躇する。そんな筈はあるまい、と。
 どこかで間違っているに違いない。いや、会いに言って笑い飛ばされるなら、その方がいいのかもしれない。
 しかしその一方で、彼女が待っている、という確信に近い思いがシンジを捉えて離さなかった。

 ***

 ようやくロッジにあがる上り口まで辿り着く。これから坂を更に登って行くのだと思うとうんざりするが、それでもシンジは無理矢理自分を奮い立たせて、登り始めた。やがて、高くはりだした別荘のバルコニーが見えて来た。
 そこに、彼女は居た。

 ***

 黄色いノースリーブのワンピース。アスカはバルコニーの手摺に凭れて湖を眺めていた。誰も別荘の鍵を開けていない筈だから、彼女はこの柱をよじのぼって、あそこまで上がったのだと気付いて、シンジはぞっとする。そう言えば最初に会ったときもアスカは、ここをよじ登って来たのだった。
 アスカに気付かれないようにシンジは、そっと坂を登り切って、裏にある別荘の玄関に辿り着いた。鍵は持っていたので、そっと開ける。そしてバルコニーに出るガラス戸を開けた。

「遅かったじゃない」

 アスカは振り返らずに言った。

「そ、そうかな・・・」
「そうよ。
 こんな吹きっさらしな場所にどれだけ待たせたと思ってるのよ!!。
 日焼けしすぎて皮膚癌になったらどう責任とってくれんのよ!!」
「ごめん」
「あのね、あんたに謝られてもどうしょうもないでしょーが!!」
「そ、そうだね・・・あは、あはは」
「面白くないっ!」
「あ、ご、ごめん!」

 とそこまで来て、シンジははっと我に返る。
 そうして、アスカの顔を見詰めた。
 多少疲れては見えるけれど、生気に満ちている。いつものアスカだ。
 シンジはにっこり笑って言った。

「朝御飯にしようか」

 そういうと支度をする為に、部屋に戻ろうとする。

「ちょっと待って。
 その前に、シャワー浴びさせてよ。
 こんなに汗臭くっちゃ、食事どころの騒ぎじゃないわ」
「分った。
 じゃ、その間に支度済ませておくから」

 ***

 支度と言っても大したものは買って来なかったので、ものの数分で終ってしまった。
 トーストにベーコンエッグ、レタスを千切っただけのミニサラダ、オレンジジュース。アスカはコーヒーは苦手なので、紅茶にした。
 まだ日射しは本格的に強くはなっていない。
 部屋の中の空気は涼しく、開け放った窓からも心地よい風が入って来る。
 この別荘では、ダイニングのテーブルからも、バルコニーを見晴かして湖面が見えた。
 白く輝く湖面には、釣人のボートが浮かんでいる。
 ここまで強行軍でやってきたが、こうやって腰を降ろしていると徐々に疲れが足元から這い上がって来る。

「お待たせ。
 あ、おいしそうね」
「たいしたもんは用意できなかった。
 だって急だったから」
「はいはい、すみませんねぇ。
 全ては拙者惣流アスカの不徳の致すところ」

 そういいながら、アスカはトーストを頬張った。

「食事終ったら・・・」
「うん?」
「リツコさんに電話してよね」

 シンジは携帯をアスカの前に置く。

「いいわよ。あたしのあるから」
「そう」

 シンジは素直に携帯を引っ込めた。

「あ、チェロ持って来たんだ」
「うん」
「何で?」
「そりゃ、弾こうと思って・・・」
「ふぅーん?」

 アスカは、少し首を傾げ、瞳には何やら悪戯を思い付いたかのような輝きを見せる。しかしそれ以上は何も言わない。
 それから二人は黙って食事に集中した。アスカは昨日から殆ど食べていなかったとの事で、旺盛な食欲を見せていた。というか、シンジの分のベーコンエッグとミニサラダは即刻没収、更に普通の食パンはまずいと文句を宣いながら、更にトースト二枚の追加をシンジに命じたのである。

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