▼第三十二章

 食事が終ると、アスカは少し眠るからと言って、シンジに入室を許さずと言い渡し寝室を占拠した。実際、朝食の終り頃になると、食べながら時折うとうとしかける程だったので、よほど眠かったのに違いない。仕方が無いと、アスカが寝室に入ったのを見届けてから、シンジは朝食の後かたづけをした。
 そして何もすることが無くなって、そう言えばアスカは電話をしていないことに気付いた。今起こせば、無傷で済みそうに無かったので、仕方無くシンジからリツコに電話することにした。

 ***

「あ、リツコさん、僕です」
「シンジ君?
 今、どこなの?」
「うちのロッジです」
「で、アスカは?」
「居ますよ。今寝てます。どうも夕べ余り寝てないみたいで」
「そう。会社の別荘の方には行ってなかったみたいだけど、あの子、どこにいたの?」
「ここです」
「えっ?」
「そうなんです。どうも誰も居ないので軒下で過ごしてたみたいです」
「ふぅー、まったく何考えてるのかしらね。
 でも、まあ良かったわ」

 シンジは、リツコの声に張りが戻っていることに気付いた。

「そう言えば、リツコさんも元気になったみたいですね」
「あら、
 そうね。心配かけちゃったわね。
 で、どうするの?、これから」
「さぁ、アスカ次第、ですね。
 でも元気そうだったし、心配は要らないと思うんです。
 で、アスカは最低でも何時までに帰らなきゃならないんですか?」
「え?。
 あ、仕事のこと?。
 そうね、明後日の夜の本番には間に合って欲しいけど」
「分りました」
「えっ、なに?。今日はそっちに泊まる気でいるの?」
「さぁ、あ、でも会社の別荘の方に行くかも。
 なんせうち、ピアノが無いんで」
「いえ、そういうことじゃなくて・・・」

『若い男女が二人切りで・・・』といいかけて、リツコは止めた。
 どうにもシンジ相手では、説得力が無い。

「ふぅ。分ったわ。無茶はしないようにね」
「はい、心得てます」
「いえ、シンジ君じゃなくて、アスカに言っておいてね」
「はぁ」
「あ、それと今日の6時にお父さんが記者会見を開くわよ」
「え?」
「今回の事件のことに付いてみたいだけど。
 お蔭で、こっちはもう静かなものよ」
「じゃ、日本に帰って来てるんだ」
「ええ」

 相変わらず連絡の悪い親子だ、とリツコは苦笑する。

「じゃ、アスカのことお願いね」
「はい、わかりました」

 電話を切ったところで、シンジは背後に人の気配を感じる、と思った瞬間、後ろから首をしめられた。

「シーンージー、なに勝手に電話してるー!」
「あ、アスカ・・・
 く、苦しいよ・・・だ・って、寝てたから・・・」
「あたしが電話するって言ってたのにぃー」
「あ、ごめん、悪かった、悪かったから・・・くっ!」
「問答無用!!」

 ますます首は強く絞められて行く。
 シンジはだんだんと意識が朦朧となっていく。視界が昏くなって・・・・

 ***

 気が付けば、目の前にシンジの顔を見下ろす(見下ろす?、何故)アスカの顔。
 頭は何か軟らかくて暖かいものの上に乗せられている。

「ごめん、大丈夫だった?
 ちょっとふざけたつもりだったのに」

 はっと気付いてシンジは慌てて起き上がる。

「きゃっ、何よ」

 どうやら、シンジはアスカの膝枕で寝ていたようだ。

「あ、え、えっと・・・僕どうしたの」
「気を失っちゃてたみたい・・・なの・・・」
「え・・・」
「あたしが首を絞めすぎたから・・・」

 下手すれば死んでたのか。
『凶暴』というニ文字が脳裏をよぎる、がシンジは慌ててその言葉を消し去る。それを言ったら、間違いなく明日の朝日は見れなくなるだろう。

「シンジ?
 大丈夫、かな?」
「え、どうして」
「だってぼーっとしてるし、ひょっとしたら脳に酸素が行かなくなって後遺症が・・」
「・・・・」

 シンジは溜め息をついた。

 ***

「さて、今日はこれからどうする?」
「さぁ、シンジはどうするの?」
「アスカに合わせるよ」
「駄目」
「え?」
「今日は、シンジが決めて」
「僕は、べつに・・・」

 と言いかけて、アスカの目が何時になく真剣なのに気付く。思わず、シンジは見詰め返してしまう。しばしの沈黙の後に、アスカは頬を染めて目を逸した。
『あれ?』
 どうにもいつもとは調子が違う。
 アスカは横を向いたまま、呟く。

「来て・・・くれたんだよね・・・」
「え?。何か言った?」

 アスカは正面に向き直ると、シンジを叱り飛ばした。ただし頬は上気したままだ。

「何でもない!!。
 ええぃ、優柔不断男め!。
 自分では決められないっていうの?!」
「あ、いえ、はい・・・その・・・」
「ま、いいわ。
 今日は特別にあたしが決めて上げる。
 じゃ、出発よ」
「え、もう?」
「何言ってるの?
 まさか、何か用があるって言うんじゃないでしょうね。
 だいたい、これからどうするって言ったのあんたでしょう?」
「それはそうだけど・・・」
「分ればよろしい!!
 では出発!!」


 それから二人は、アスカの気まぐれに任せて、湖周辺をあちらこちらへと巡って歩いた。とは言っても、リゾートとしては地味なこの街で行く場所がそうある訳ではない。駅前から始まる商店街をひやかして回り、次いで街外れにある、大手リゾートホテルの経営する美術館へ行った。シンジは絵が全く分らなかったので、アスカが美術にも造詣が深いことに驚いていた。これだけ会っているのに、あれほど忙しい毎日を送っているのに、一体何時、こんなことを身に付ける時間を取っているのか、想像も付かなかった。美術館を出ると丁度、昼食時となったので、そのホテルのレストランで食事を取り(何故かアスカが気前良くおごると言い出したので。そうでなければ、こんな高価な昼食は取らなかったろう)、ついてホテルのロビーで一休みした。いや、正確には外の暑さに、冷房の効いた建物から出る気になれなかっただけだが。
 それから湖で泳ごうと言い出したアスカを辛うじて説得し(というのも、情けないことにシンジは泳げなかったので)、再び駅周辺を散策。だが高原とは言え真昼の暑さに堪えがたく、やがて一軒の洒落たイギリスの田舎屋を模した喫茶店に落ち着いた。
 さすがに少々疲れているのか、アスカは物憂そうに、窓から湖面を眺めている。余り風は吹いていなかったが、ウィンドサーフィンの帆が数本、湖面を滑べって行くのが見える。

「あーあ、いいなぁ、あたしもあれ、やりたい」
「アスカ、出来るの?」
「何よ、失礼な」
「出来るんだ。
 凄いな」
「冗談じゃないわ。
 自慢じゃないけどね。
 やったことなんて一回も無いわよ、ウィンドサーフィンなんて!。
 一体、いつそんなことする時間があるって言うのよ」
「あ、そうなんだ」
「何よ、その言い方」
「だって・・・」
「いいのよ、やったことなくたって。
 出来なくたってやってみることが面白いんだもん」

 そういうところが、アスカらしい、と思いながらシンジはアイスコーヒーが半分残っているグラスの中をストローで、二、三度かき回した。
 店内は、低く唸るクーラーの音、それに有線放送だろうか、モーツァルトのディベルティメント(如何にも喫茶店向きの選曲)が流れている。
 客は少く、話し声は殆ど聞こえなかった。
 その演奏は、御世辞にも上手いとは言えない代物だった。恐らくは廉価版の屑カットだろう。まるで楽譜をなぞるだけのような、ぎこち無い演奏、気の無さそうな節回し。
 しかし、にも関らず、あるいはだからこそ、と言うべきか、モーツァルトが描き出したかった音の世界が生のままで見えて来る興趣があった。いや、演奏者を嘲笑うように、モーツァルトの才のみがそこに際だっている。
 音として聞こえて来るものの不思議と残酷がそこにあった。
 こんな時、彼ら二人は聴き流しておくことが出来ないのだ。会話が途絶えているのは、どちらも無意識に音楽の先を探っているのだ。まるで自分が演奏に参加しているかのように。
 やがてアスカが言った。

「リツコの別荘へ行こうっか」
「え?」
「あ、その前にシンジの楽器取りに行かなきゃね」
「ああ、そうだね」
 シンジは、ほっとして嬉しそうに笑った。

 ***

 さっき嬉しそうに笑ったことをシンジは後悔していた。
 始めて会った時のように、湖畔の砂浜をどんどんシンジに構うことなく歩いて行くアスカを、ハードケース入りのチェロ(さすがに夜行で移動する時にソフトケースを使う勇気は無かったので)を肩にかけ、息を切らせながら追っている。西に傾きかけたとは言え、日射しはまだ強く、背中に汗でシャツがびっしり貼り付くのが気持ち悪い。

「シンジは聞かないのね」
「えっ、何を?」
「あたしが、逃げ出したこと」
「・・・うん」

 アスカは振り向かず歩いている。

「そっか」

 アスカの歩調が少し緩んだ。そしてシンジが横に並ぶまで追い付くと、言った。

「レイは、どう?」
「綾波?」
「うん。
 何か言ってた?」
「いや、特には」
「そう・・・」

 またアスカの足並みが早くなる。安心して歩を緩めていたシンジは慌てて追いかけるが、チェロの重さで肩が痛くなる。

「彼女、最初から知ってたんだよね」
「えっ?」
「あたしたち知らなかったのに、レイは最初から知ってたんだよね」
「・・・そう・・みたいだね」
「あーあ、嫌になっちゃうなぁ」

 そういうとアスカは再び、シンジにお構い無しにどんどん先へ行ってしまう。
 息を切らせながらシンジは、歩きにくい砂地の上を急いだ。

 ***

 別荘の管理人は朝から待機していたと見え、呼び輪を鳴らすとすぐにドアを開けてシンジ達を招き入れた。
 管理人は五十過ぎの、実直そうな男だった。

「それでは鍵をお預けしますので」

 そういうと、玄関口で丁寧におじぎをして、帰って行った。管理人にすれば、これで一仕事終ったと言うことなのだろうか。
 屋内はクーラーが効かせてあったので、生き返った気がする程気持良かった。
 玄関のロビーにあるアールデコ調のベンチ(これは以前に来たときには無かったものだ)に、シンジはへたり込む。疲れが足から登って来るのが感じられる。

「嫌ね。
 もう疲れたの?。
 ちょっとなまってるんじゃない?」
「そんな事言ったって、さすがにきついよ」
「あら、あたしなんて、全々平気よ!」

 そりゃあそうだ、と思いつつも、返り討ちに会うからシンジは口にはしない。

「あ、あんた、今良からぬこと考えたでしょ」
「え?」

 図星をさされて狼狽える。この三年程の付き合いで、こうした攻撃の間合いは見切っていたつもりだったが、疲労がシンジの注意力を殺いでいるのだろう。

「やっぱり。
 シーンージー・・・」
「あ、ごめん、ごめん、・・・あ、いや、やめて、やめろってば・・・」

 シンジはそのわずか5秒後に今日二度目の失神をした。

↑prev
←index
↓next

△Reprinting old workへ戻る
▲SOS INDEXへ戻る