▼第三十三章

 庵原が、アスカの"家出"に気付いたのは、その日の朝、碇家がもぬけのからだったことからだ。これで終りにしよう、そう思ってから、彼は一度、シンジやレイ、そして出来ればアスカに会って話をしてみたかったのだ。ゲンドウの記者会見へ素直に行くのは余り気が進まなかった。終りなら終りとすっぱり諦めてしまいたい。
 そして、自分の理不尽とも言うべき暴走で、迷惑を被ったであろう彼らと、謝罪では無く、思うがままに言葉を交わしてみたいと思ったのである。
 そこで彼はシンジ達のマンションを、単独訪れたのである。
 ところが、何度呼び出しても、室内から返事は無かった。
 アポも取らずに押しかけた以上、相手が留守であっても文句を言える筋合いは無い。だが庵原は何かがおかしい事に気付いた。
 碇家を張っていた後輩の記者から、彼らは9時半頃出かける事を聞いていたのだが、現在午前9時少し前。とっくに目覚めている時間であり、且つ出かけるまでには間がある。今日は予備校は休みなのか、とも思ったが、携帯でネットを検索すると、今日も授業があることがすぐに分った。とすると何かが起こったのだろうか?。
 不審に思い、音楽雑誌記者を装って赤木音楽事務所に電話をかけてみたところ、今日はまだ出社していない、という。
 これは何を意味するのか?。

 ***

 庵原は、アスカが家を出て行ったのではないか、と思い付く。
 今回の報道で、シンジは確かに驚くだろうが、それ以上に悩むことは全く無い筈だ。一方、レイは最初から知っている話なのである。また、これまでの取材で知っている彼女の性格から考えて、思い悩んで何かをするとは到底考えられない。
 となれば、出て行ったのはアスカ以外には考えられない。
 そして、シンジとレイが留守なのは、アスカを追って行ったからでは無いだろうか?。だとすれば、シンジまたはレイが、心当たりの場所だろう。
 もっともここまでは、あくまでも推測に過ぎない。何か決め手が欲しい、と思った。
 今日の夕刻、碇ゲンドウの記者会見を取材するよう編集長からは言い渡されていた。だが、庵原は早くも、編集長の命令を無視する気になっている。

 ***

 取り敢えずは、赤木音楽事務所を張る事にした。午前9時半には、事務所、そして赤木リツコとアスカの住む部屋のあるマンションの前に到着した。1階から3階までが事務スペースになっている為、エントランスロビーには受付が有り、そこで誰何される仕組みになっている。それとは別に、4階から上の住民の為の玄関があるが、そちらはオートロック式で、ちょっと入れそうに無い。
 庵原はエントランスロビー前で、連れの待ち合わせをしているサラリーマンを装って立っていた。うまく受付の目をくぐり抜けられれば、少くとも赤木事務所の様子を生で窺うことが出来る筈だ。こういうビルは中から出て行く者のチェックは甘いのが常だ。だから肝心なのは入り込むことなのである。
 とは言え、始業後のこの時間、出社する社員も無く、来客にもいささか早すぎる。もぐり込めそうな人の行き来にはなりそうにない。
 考えあぐねていると、ロビー奥のエレベータが開き、髪の蒼い色白の少女があらわれた。綾波レイだ。そのすぐ後から、赤木リツコ本人。
 庵原は慌てて、後ろを向く。記者会見のときに顔を見られている。もっとも一記者の顔を覚えていそうには無いが。

「じゃ、レイちゃん。
 どうもありがとう」
「いえ。いいんです。
 私も話を聞いてもらえて良かった」
「こんな日でも夏期講習に行くのね」
「ええ。
 おかしいですか?」
「ううん、いいのよ。
 気にしないで」
「碇君は・・・」
「あら?。
 心配?」
「い、いえ」
「大丈夫よ、管理人さんも居るし。
 アスカも大丈夫そうだし。
 明日には元気に戻ってくるわ」
「・・・そうですね。
 では」

 レイは軽く会釈して出て行った。
 去って行くレイの後ろ姿を見ながら、リツコはレイの中に変化が兆しているのを感じていた。
 庵原は、リツコが再びエレベータに乗り込むのを待って、そこを離れた。
 レイに言葉をかけたい気もしたが、それよりもアスカとシンジ達の行方の方が気にかかったのだ。

 ***

 彼らの居る場所。
 それは:
 一.管理人が居る場所である。リツコの口調から考えて、リツコ自身も知っている管理人である筈だ。例えばリツコも良く利用する施設、あるいは事務所の施設等。
 二.一泊して元気に戻って来る場所である。
 三.リツコの様子から考えて,今の状況でリツコ自身が安心して置いておける場所である。
 乏しい情報ながら、これら条件を満たす場所と言うと案外、少い気がした。
 管理人が居る以上、何らかの施設であり、宿泊出来るのだから、それは宿泊施設だ、ということになる。話の感じからすれば、恐らくはリゾート地にあるのだと推測出来た。更に、リツコが安心出来るとなると・・・・。
 赤木音楽事務所の会社保有ないしは契約保養施設。
 これならば、全てに辻褄が合う。
 後は、その条件で調べるだけだ。

 ***

 あっと言う間に調べは付いた。
 赤木音楽事務所は、別荘を○○高原に持っている。
 これだ。これに違いない。


 ただ波紋を投げかけただけの、自分でも意味不明になってしまった行為。
 それが終りになった時、自分の言葉で彼らに話し掛けてみたかった。
 それだけの筈だった。
 しかし庵原は今、再びネタを追う狩人の気持になっていた。
 想像が正しければ、「傷心」のアスカを慰めるべくシンジは追って行ったのだから、二人きりの筈だ。これに尾鰭を付けて記事にすれば、前の記事よりも致命的なスキャンダルになる。リツコが安心しているのはまさか芸能人でも無い二人に、しかも碇ゲンドウ御大の記者会見まで用意されている今、○○高原まで追って行く記者など居ない、むしろ都内に居るよりも、余程安心だ、と考えているからに違いない。
 考えれば考える程、自分の推測が正しい事が確信されてくる。
 そうなると、真相を自分の目で確かめてみたくなる。
 確かに、このネタならば編集長を説得できる可能性はある。
 だが庵原にとっては、記事にする事など、どうでも良い。何時だって、そうだ。記事にすることは単におまけで付いて来る義務に過ぎない。取材は、つまらない日常に穿たれた穴なのだ。ある真実の姿が見えそうになる時、無意味で退屈な世界が、突然輝き始める。それがどんな意義があるのかなどどうでも良い。いや、意味という概念自体が退屈な日常の側のものだ。
 本当の世界では意味すら不要だ。なぜなら事物はそれ自身により輝いて見える。刻はその瞬間で全て充ち足りる。人が意味を求めるのは、衰弱の始まりだ。本当の人生は意味などの力を借りずとも、「意味深い」。
 車窓を流れる風景を、庵原は焦燥と期待に胸が詰まるような興奮を感じつつ眺めて居た。予定では、午後3時には○○高原駅に付くはずだ。赤木音楽事務所の別荘は、そこから10分程歩けば着くだろう。
 彼らに会ったとき、何をするかは全く考えていなかった。多分、会う事が全てで、その時何をするかは自ずと分る筈だ。

 ***

 今朝、家を出た時の妻の寝顔を思い出した。
 それは久しぶりに見た穏やかな顔だった。寝顔でしか見ることのできない顔。

 ***

 周囲の反対を押し切って結婚した。医師は、彼女の退院を勧めなかった。とはいえ、本人の意志を無視してまで入院させるには程遠い程度の症状だった。
 そして庵原自身にも意外だったことに、彼女自身が強く結婚を望んだ。

 ***

 良くなっていた筈だった。
 気を付けて生活すれば、不幸な記憶を封印して生きて行ける筈だった。
 そう庵原も妻も信じていた。

 ***

 結婚して三ヶ月が過ぎた頃から、突然症状が現われ始めた。フラッシュバックによる引き付けを起こしたのだ。
 昏倒し文字通り口から泡を吹いて痙攣し続ける妻に、庵原は呆然とするばかりだった。意識を失いながらもなお、動く"それ"を何と呼べば良いのだろう。
 彼女ではない。だがそれは紛れもない彼女なのだ。

 ***

 庵原は、慎重にチェロに関するものを一切、彼女に触れさせないようにして来た。父親に関する事柄もだ。二人切りで、乗り切ろう。そう誓い合った。彼女のためを想い、彼女から要求しない限り手にも触れないようにした。始めて体を重ねた時には、結婚して2ヶ月経っていた。
 行為を終えた時、二人は彼女が治ったと確信した。

 ***

 最初の発作から、妻の症状は坂を転げ落ちるように悪化して行った。躁鬱症に酷似した症状。
 だが、彼女の場合、躁の時は庵原を攻撃するのだ。悪態を付き、つねる、蹴る、あるいは物を投げつける等の暴力。無理難題を要求して困らせる等。優しかった顔つきは、症状の進行と共に、嫌らしく険しいものに変わって行った。
 一人では外に出れなくなった彼女は衣服も着替えなくなり、何日も風呂にすら入らないこともあった。庵原が着替えさせようとすると火が付いたように泣き叫び、暴れて手が付けられなくなるので、部屋の中は汗と排泄物の猛烈な匂がした。

 ***

 躁の時期が過ぎ、鬱へ移行するわずかの時間、彼女は本来の性格を取り戻す。だがこの時期になると徐々に体がなるくなり、何をするのも辛い為、床に伏せることが多くなって行く。
 そしてやがて本当の鬱になる。
 何も言わず、何もする気にもなれず、何にも関心を示さない。暴れはしないが、自分からは着替えもしないので、庵原が着替えから下の世話までしなければならない。
 そして突然、自殺を図るのだ。
 最初はナイフで喉を突いた。勤めから帰った庵原を待っていたのは、血の海に倒れ臥した彼女の姿だった。幸い傷は浅かったものの、それから退院の日まで庵原は仕事を休んで、彼女の側を離れなかった。何時また自殺するとも限らなかったからだ。
 それ以降も鬱になると何度も突発的に自殺を図った。
 庵原は妻の世話と、それから逃れるようにのめり込んで行く仕事との両立に引き裂かれそうになりながら、辛うじて今日まで生き延びて来たのだ。
 躁の時期になると、一緒に居るのは耐えがたい苦痛の連続だったが、まだ安心していられる。自殺する恐れは無いからだ。

 ***

『これが終ったら・・・』
 何も起こる筈はない。だが庵原は、どこかで何かが、二人の地獄のような日々に何かが起こるような気がしてならなかった。
 そう。
 これも、二人の発端の物語に繋がっているのだから。


 目的の別荘に辿り着いた時には、午後3時半を少し回っていた。
 門柱のインターフォンを押してみた。しかし誰も出る気配は無い。居ないのだろうか?。
 外から見る限り、居るのか居ないのかを示すものは何も無かった。
 まだ窓に灯りがともる時間では無い。レースのカーテンのかかる窓の中を窺うことは出来ない。
 庵原は意を決して、門扉を開いて敷地内に入って行った。
 建物の周囲を回って、どこからか中を窺えないか見ることにした。
 今もし誰かに見付かれば警察に突き出されても文句は言えないだろう。
 そして、建物の裏手、丁度音楽室と思しき部屋の大きな窓の向こうに二人は居た。


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