▼第三十四章
|
音楽室に入ると、アスカはピアノの前に座り、シンジも楽器の支度を始める。 弓を張り、調弦を始めるシンジをアスカは黙って見詰めていたが、やがて意を決したように言った。 「あたしが黙っているのは、やっぱり卑怯よね」 「え? 何のこと?」 「こうしてここまで逃げて来たってこと」 「・・・別に・・・」 「でもあたしだって良く分らない。 今、もしレイに会ったら、もう今までと同じには付き合えないかもしれない。 一緒に演奏だって・・・」 「・・・・」 シンジは何と言って良いか分らない。『大丈夫だよ』という月並な言葉くらいしか思い付かない。 「あたしの両親ももう死んじゃったけど・・・・ でも殺されたって思う気持って、どういう気持なんだろう。 私には全然分らない。 しかもずっとその気持を抱えて生きて来たっていうのは、どんな感じなんだろうって。 ねぇ、レイは私と会ってどう思ったかな。 惣流キョウコの娘なのに」 「でも、綾波は知っていても僕等とやって来れた」 シンジは、一瞬でもレイに復讐する気なのかを疑った事を思い出す。そんなシンジに、アスカを慰める資格は無いのかも知れない。 「そうなのかなぁ」 「ああ」 「私にはとても信じられない。 私だったら、誰かを憎めるなら憎んでしまいたいと思うんじゃないかな。 だって、一人になって一人で抱えて生きるのは辛すぎるもの」 「それなら、綾波もアスカを憎んでいるって?」 「そうだとしたら演技賞物よね。 あたしは全く気が付かなかった。 そんなことは無い、と思いたいけど・・・」 「あるわけないよ!」 「シンジにとっては従妹なんだよね」 「そ、それとこれとは・・・」 「ごめん、あたし意地悪いよね」 「アスカ・・・」 「あたしね、誰かに来て欲しかったんだ、本当は。 追いかけて来て欲しかったんだよね。 逃げ出すことよりも、その事の方が大事だったんだ。 情けないよね。 素直じゃないから、本当は不安で、どうしていいか分らないから・・・ それで誰かに助けを求める代わりに、逃げ出したって訳」 「・・・・」 「大丈夫よ。 明日は帰るわ。 ここに居ても何も解決しない。 幸いにしてシンジに来てもらえたし・・・一人占め出来るし」 最後の一言は小声でシンジには聞き取れなかった。そしてアスカは、シンジの答えを待たずに言った。 「さ、やろうか?。 何からやる?」 |
やはり、今日のアスカの演奏は全く冴えなかった。 心のどこかに、凝っているものがあり、それをどうして良いか分らない戸惑いが、演奏からも感じられる。 *** シンジの楽器ケースが重かったのは、実はアスカと演奏する為の楽譜が詰まっていたからでもある。勿論、最初に会った場所だったので、思い出のドボルザークのコンチェルトを、というのも考えないではなかった。しかしそれがレイとの事を思い出させることにもなるため、言い出せなかった。 その代わり、シンジはピアニストが面白いと思いそうなものを慎重に選曲して来ていた。チェロとピアノの組合せは、ピアノが単なる伴奏に終らないもの程面白い、シンジ自身もそう考えていたからだが。 アスカはシンジが示した曲に、異を唱えることなく、素直に従った。そしてどの曲も一度弾き通すと、「次は?」と言うのだった。 音楽の力が何かを起こしてくれる。そんな期待は甘いのかもしれない。だがシンジはただそれだけに望みを繋いでいた。 *** 突然、アスカが悲鳴を上げる。 アスカの視線の先を、シンジが振り返ってみると、山側にある大きな窓(勿論、二重窓になっているのだが)の向こう、中庭に立っている中年の男が居た。 体格の良い男で、年の頃は三十代の後半、いや四十を超えているかもしれない。猪首で、相撲か柔道でもやっていたのではないかと思わせる。太い眉と、厚めの唇が我の強そうな印象を与える。この暑さでも、よれよれになったスーツを脱がないので脇下が汗でぐしょぐしょなのが分る。 シンジも立ち上がり、男に玄関口に回るよう手で合図した。すると男は大きく頷いて、去って行った。 「僕が見て来よう」 シンジが玄関へと向かって行った。 *** 男はシンジに名刺を渡し、○○スポーツの庵原と名乗った。 遂に見付かってしまったかと思い、シンジは身構える。 「こんにちは、碇シンジ君。 惣流アスカさん、いらっしゃいますよね」 庵原の開口一番の質問はこれだった。 「何の御用ですか?」 「ちょっとお話をさせて頂きたくてね」 「今取り込んでいるんで、後にしてもらえますか」 シンジは、自分の声が硬くこわばっているのが気になっている。相手は、穏やかで余裕たっぷりなのに。相手を拒否したい、そう思えば思う程、このまま相手に取り込まれそうな感じがするのだ。 「どれくらいかかります?。 私の方は待てますんでね。 それに多分、私の方がすぐ済むと思いますよ?」 「あなたの御要望に添いたくない、と言ったら?」 「つれないですな」 男はふっと笑う。 シンジは額に汗が滲んで来るのを感じた。 「では、あの予備校の事件の記事を書いたのは私だと言ったら?」 「あ、あんたっ!!」 「おっとぉ、そんなに怒りなさんな。 あれは事実だった。 違うか?」 男は突然、言葉を荒げた。 「うっ・・・・・。 じゃあ、なんで綾波の父さんの話を蒸し返したりしたんだ!!」 「なんで?。 じゃあ聞くが、赤木音楽事務所は隠してたりしたんだ?」 「そ、それは・・・・」 「俺は、高畑健児というピアニストを忘れさせたく無かった。 それだけのことだ」 「そんな事を言って、じゃあ最初の記事は何だったんだ?。 あんたは最初からアスカを攻撃しようとしてたんじゃないか?」 「ふんっ、そう思いたければそう思えばいい。 では、折角だから教えて置こうか。 今のあんた達二人を記事にしたらどうなるかね?」 「ば、馬鹿な。 書かれて困るような事は何も無い」 「そうかな?。 世間はそうは考えまいよ。 高原の別荘に、人目を忍んで二人っ切り。 それだけの情報で人々は勝手に取り沙汰すものだよ。 こっちは単に事実を書くだけさ」 「き、貴様ぁ」 「いいわよ、話を聞かせてもらおうじゃないの」 「あ、アスカ」 気が付くと、アスカも玄関先に来ていたのだ。 「いや、どうも恐れ入ります」 「アスカ、こんな奴!!」 「いいじゃない。 ただじゃ引き下がりそうに無いし」 「こんな、脅迫するような奴・・・」 「いいわよ、別に。 記事にすればいいじゃない。 勿論、記事に事実と違う事があれば遠慮なく訴えさせてもらうけど」 「ははは、さすがですな」 「で?」 「はい」 「どうするの?。 こんなところで立ち話もなんでしょ。 どうぞ」 アスカは、顎で居間の方を指す。 「できれば、音楽室の方がよろしいのですがね」 アスカは怪訝そうに庵原の顔を見詰めた。 「そう、別に構わないけど」 「ありがとうございます」 アスカに対しては言葉遣いから態度まで露骨に変えて居る、庵原に不快感を隠せなかったが、仕方無く二人の後をついていくしかなかった。 |
「ほう、練習なさってたんですか」 部屋の中の様子を見るなり、庵原はそう言った。 「まぁ、ね」 と言いながらも、アスカは、それがお前に何の関係があるのだ、と言わんばかりだった。 しかし庵原は意に介する風もなく、部屋の隅から一脚の椅子を運んで、ピアノとチェロの間に置くと、腰を降ろした。 「さて」 と言ってから庵原は、シンジとアスカを交互に見、それからにっこり笑った。 「あたし前置き長いのは嫌だからね」 アスカはピアノの前に当然のように座る。シンジもしぶしぶ、さっきまで座っていた椅子の腰かけた。 *** 「実は、高畑さんの話の続編ですがね。 没になりましてね。あの企画自体中止ですよ」 「そんなの当り前だ」 シンジが叫んだ。 庵原は、意地悪そうな目でシンジを睨む。 「そうですかねぇ。 じゃあ一体なんで中止になるのが当り前なんですかねぇ」 「それは・・・」 「もう、高校生ともなれば、発言にも行動にもそれなりの責任を持たねばなりませんな。 何の根拠も示せず、激昂するだけ、というのは果たして責任ある態度と言えますかな」 「!!」 「怒りの感情は、間違いではありません。 が、怒りには真実を見極める能力は無い」 シンジには言い返せなかった。 「で、今日は何しに来たわけ?」 「おお、そうですね。 こんな物語はどうです」 「物語?」 「ええ、物語です」 *** 庵原は、あるチェリストとピアニストの話として父の最後となったリサイタルの話をした。 そしてそのチェリストの最後についても。 シンジとアスカは、唐突に持ち出された話に面食らわざるを得なかった。 「そんな話をあたし達に聞かせたかったの」 「『そんな話』じゃあないですよ。 これは本当に起こったことなんです」 「それが僕等と何の関係が・・・」 「どう思われますか?」 シンジは返答に困ってしまう。 「そこまで隠されてしまうと、本当のところ、どうだったかは分らないけど・・・ 本当に誠実な人だった、と思うわ、そのチェリスト」 アスカはシンジよりも話に感銘を受けたかのようだった。 庵原は、ちょっと困った顔をして言った。 「実を言うと、私には分らない。 なぜ、彼は己を放棄するまでにいたったのか。 どうして、彼がそんな目に会わなければならないのか。 だって・・・これは悲劇ではないでしょうか」 「ええ、悲劇よね。 でも、私はその人みたいになりたい・・・」 「アスカ?!」 シンジは驚いてしまう。 「どうして?」 「そんなに驚かなくってもいいわよ」 庵原も、しかし驚いているようだった。 「何故です?。 私にも理解できませんよ」 「そのチェリストは、きっと追い求めていた音に辿り着いてしまったんだわ。 彼の意志ではなく、彼自身は全く感知しないやり方で。 本当にその音が鳴っている時、彼には最早何もすることが残っていなかった。 そうね。きっと幸せと悲しみ。 でも失望は無かったと思うわ」 「でも、彼のその後は悲惨そのものですよ」 庵原は何故か、しつこく食い下がる。 「ええ。 彼に取っては、最早後の時間は全て付け足しでしかなかったのかも」 「私は嫌だ・・・」 庵原は突然、暗い唸り声のような声を上げた。 「好きも嫌いも彼には選べなかった。 それは悲劇だわ。 でも・・・・彼は辿り着けたのよ。 その後はどれほど悲惨であろうとも・・・・音楽家であるってそういう人生を歩む事を受け入れた人間のことだと思う」 「では、あなたもそういう運命なら受け入れると言うのか?」 庵原は、何故か今にも泣き出さんばかりの様子だった。 「ええ、私は受け入れたいと思っている。 でも・・・・」 「でも?」 庵原は縋るような目でアスカを見詰めた。 「迷い無しには行かないわね」 そういうとアスカは、微笑んだ。哀しみを含んだ笑みだ。 シンジは、ずっとやりとりを横で見ている内にあることに気が付いた。 「ひょっとして、庵原さんっておしゃいましたよね」 「え?、ええ」 「あなた庵原義彦さんってご存知ですか?」 庵原は虚を衝かれて、ぽかんとシンジの顔を見る。 「あ、え、ええ」 「ひょっとして、ひょっとしてですよ。 あなた、庵原義彦さんの息子さんですか?」 庵原は観念したように呻いた。 「・・・ええ」 そうか、そうだとしたら・・・・。 「今の話、お父様の事です、よね」 「そうです。 あなたは、どうして義彦の事をご存知なんですか」 その言葉遣いに、シンジは庵原の本当の人間性を見たような気がする。 細やかな神経と深い精神を持った分別のある人物。 それが彼のこれまでの人生の中で、含羞と怨みとによって複雑にカモフラージュされて来たのだ。 シンジは答えた。 「父のCDのコレクションの中で見付けたんですよ。 もっとも父は殆ど家に居ないんで、コレクションと呼べる程も無かったんですけど。 本当にチェロのCDなんて数枚しかないくらいで。 庵原義彦さんのCDで持っているのは、ショパンのト短調のチェロソナタや、ラフマニノフのソナタの入ってる奴でした」 そう答えながら、シンジは自分の演奏スタイルの中に、庵原義彦の影響とも呼べるものがあることに思い至る。 シンジはCDに納められていた庵原の演奏の細かいところまで正確に覚えていたから。 「そうですか」 庵原は深い溜め息を吐く。 「父は・・・、庵原義彦とはどういう演奏家でしたか?」 「お聴きになりますか?」 「は?」 「僕は余り口で説明するのは得意ではないんで・・・ あなた自身は、お父様の演奏を聴いて育ったのでしょう?」 「いや、私は・・・父に反発ばっかりしてましてね。 そのせいか、スポーツはやってましたが、音楽の方はからきし駄目で。 CDの一枚も持っていないんですよ」 「そうですか、じゃあ、うまく行くかどうか分らないけれど、是非聴いて下さい」 「聴いて下さいって、何をするんですか?」 シンジはその問いには答えず、楽器ケースから一束の楽譜を取り出し、ピアノ譜をアスカに手渡す。 「本当はこんな物マネ見たいなものを聴くよりも、本物を聴いてもらった方がいいんですけど・・・・。 僕、頑張って弾きますから。 じゃ、アスカ、いいかな」 「え?、あ、いいわよ」 そして曲が始まった。 |
↑prev ←index ↓next |