▼第三十六章
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「せんぱーい、あんまりですぅ」 久しぶりに電話の向こうから情けない声。 「どうしてシンジ君、一人で行かしちゃったんですかぁ・・ぅぅぅ」 「あのねぇ、別にそういう目的で行ったんじゃないし、 分るでしょう?。 彼、そんな子じゃないことくらい」 「だ、だって・・・きっと今頃、・・ 傷心のアスカちゃんを慰めている内に気持が高まって・・・あんなことや・・・こんなことしてるんだわ・・・ あたしのシンジ君じゃなくなっちゃったんだわ・・・」 「マヤ! いい加減にしないと怒るわよ。 第一、一体何時『あなたの』シンジ君になったって言うのよ。 もう、忙しいから切るわよ」 「あ、せんぱーい、酷いですぅ・・・・ぅぅぅぅ。 あたし、シンジ君がアスカちゃんの後を追って行ったって聞いてから、食事も喉を通らなくて・・・」 「何言ってんのよ、その話し聞いたのって今朝じゃない」 「だから朝ご飯とお昼ご飯ですよぉ」 リツコは、頭が痛くなって来る。 この大馬鹿者が三十過ぎの、国内でも指折の優秀なチェリストだなんて一体誰が信じられるだろうか。 「あのね、さっき夜には着くって連絡あったから、多分一日絶食するだけで済むわよ」 「わーん、そんなことが心配なんじゃないですぅ」 「じゃ、何が心配なのよ」 「ひどーい、せんぱい非常識ですよぉ。高校生の男女を二人だけで外泊させるなんて・・・そういう関係になっちゃえって言ってるみたいなもんじゃないですかぁ」 『だって、とてもそう言う関係とは無縁そうなんだもん、シンジ君』とは思ったが、そんな事を言えば、認識不足なのを詰られるだけだ、と言葉を呑み込んだ。 「で、何時なんですか?」 「はい?」 「だからシンジ君帰って来る時間ですよぉ」 「そうね、7時迄には帰るって言ってたから・・・」 そう言いながらリツコは腕時計を見る。午後5時を少し回った所だ。 「分りました。 これからそちらへ行って待たしてもらいます」 「え?」 「そういう事なのでよろしく」 「ち、ちょっとマヤ、マヤ?」 電話は既に切れていた。 リツコは向こうから切られたことが少し悔しかった。 *** 「だから、何でここで待つのよ」 「いいじゃないですか。何か困ることでもあるんですか?」 午後6時半。 赤木家のリビングには二人の女。 赤木リツコと伊吹マヤ。 リツコは、マヤの目が吊り上がっているような気がして仕方が無かった。 こうなると最早ストーカー一歩手前というのだろうか。 「第一、シンジ君多分、そのまま自宅に帰るわよ」 「ええ、だからこそです」 「はい?」 「アスカちゃんの様子を見れば何かあったのか分りますから」 シンジを見たほうが一目瞭然だと思ったがリツコは敢えて指摘しなかった。口論するだけ無駄と言うものだ。 「遅いですね」 「あのねぇ、予定時刻には後30分もあるのよ」 「そうですけど・・・・」 気まずい。 何が嫌かと言って、目の前のマヤは、リツコと世間話をして待とうと言うような余裕が全く感じられない事だ。ただ妙に目の吊り上がった顔で、にこにこと(ニタニタと表現した方が近いかもしれないが)薄気味悪い笑顔で座っているだけなのだ。 リツコは溜め息を吐く。この数日って一体何なんだろう、よほど運が悪いとしか言いようが無い。 *** 「ただいまー」 玄関のドアが開くや否や元気な声が響く。 とたとたとスリッパの音がして、アスカがリビングに入って来た。 「今回の事は、ごめんなさい!」 入って来るなりアスカは勢い良く頭を下げた。 そして身を起こした所でマヤと目が会う。 「あら?。 いらっしゃい、珍しいわね」 「アスカちゃんお帰りなさい」 と言いながらマヤの目は笑っていない。 「おかえり、アスカ」 リツコは暖かい笑顔で迎える。 「どうだった、あっちは?」 「庵原さん、って言う人に会ったわ」 「庵原?」 「ええ、○○スポーツにあたしの記事を書いちゃった人。 でレイのお父さんの事件の記事も書いた人」 リツコは、慌てた。 「ま、まさか、それでまた記事にするとか言われたんじゃ・・・」 「いいえ、どうも違うみたいよ。 なんでも彼のお父さん、有名なチェリストだったんだって?」 リツコは記憶を手繰る。そう言えば・・・ 「庵原義彦さん?」 「そうそう、そんな名前だったわ。 それでシンジが良く知ってたのね。 だから二人で、庵原さんのお父さんに縁の深いショパンのチェロソナタを弾いて聴かせたわ」 「あ、あたし知ってますぅ。 冬月先生と仲良かった人ですよね。 石動さんと庵原さんと冬月先生で、当時芸大チェロ三羽鴉って言われてたって先生が」 リツコは思い出した。 確かアスカの母との演奏会の後、ぷっつりと一線から姿を消してしまった演奏家だ。 「それで、どうしたの?」 「うん?。 どうもしないわよ。ありがとうって言って帰って行っただけ」 「そ、それだけ?」 「そうよ。 何かシンジは一人で納得してたけど、あたしは良く分らなかったな」 「それでシンジ君は?」 「直接家に帰るって言ってたんで東京駅で別れたけど」 「そうなの」 「それで、どうだった? 二人切りの休暇は」 「良かったわよー」 アスカは全く屈託が無い。これならマヤが心配するような事は何も無かったのが一目瞭然だろう。 「そう」 と答えるリツコの声も自然と明るいものになる。 ところが 「あたし決心したわ」 とアスカが言った途端、リツコは嫌な予感がした。 「シンジをあたしの恋人にするわ」 「駄目ーっ!!」 突然、マヤが立ち上がって叫ぶ。 「やっぱり。 こんなことじゃやないかと思って来て良かったわ」 「な、なんでマヤが首突っ込んで来るのよ」 「好きだからです」 「あたしを?」 そんな訳はあるまい。 「まさか。シンジ君に決まってるでしょ」 リツコはすかさず割って入る。 「ちょ、ちょっと待って、アスカ。 シンジ君の方はどうなの?」 「シンジ?。 何も」 「何もって?」 「だから、まだシンジには何も言ってないわ」 「じゃ何で・・・」 「今度の事で分ったのよね。 あたし、シンジが居れば大抵の事は立ち直れるみたいなのよね。 それにシンジの音楽も好きだし。 だからあたし専属にしようと」 「ちょ、ちょっとアスカ。そういうことは本人の意志も聞かず決めれることじゃないのよ?」 「本人の意図なんて・・・異義ある分けないじゃない」 「あーっ!」 大人しく聞いていたマヤが叫ぶ。 「じゃあ、やっちゃったのね、あたしのシンジ君をやっちゃったのね」 リツコは本当に頭が痛み始めたのをはっきりと自覚した。 「あ、あのね、マヤ・・・」 「何言ってるの、このおばさん」 「ひ、ひどーい、あたしおばさんじゃないもん」 「だってあたしの倍位の歳じゃない」 「あ、あ、あ、酷い侮辱。 あたしアスカちゃんの倍よりも若いですぅ、だ」 「ば・・・・・・・っかじゃないの、あんた」 「うぐぅ」 「それになによ、やっちゃうだなんて下品ね」 「でもね」 とリツコがおろおろして尋ねる。万が一と言うことだってありえる。 「何よ、リツコ。あんたまで疑うの? 残念だけど、やってません。 というか、そもそもシンジなんて手も握ろうとしないし」 『残念』だった訳?。 「やったー!!!」 再び、マヤが叫ぶ。 「あんた、うるさいっ!」 アスカが小躍りしているマヤを叱りつけた。 「平気だもーんだ。 じゃ、あたし帰りますね」 と言うが早いか、マヤはスキップしながら出て行った。 「何なの、あの変なのは」 アスカは呆れて呟く。 「そういうアスカもね。 とにかく恋人宣言っていうのはちょっと」 「そう? あたしは別にどうでもいいんだけど。 とにかくシンジには何時も側に居て欲しいの」 「じゃあフランスに行くときも、連れてくっていうんじゃないでしょう?」 「そうなのよねぇ、そこが問題なのよ。 最初から遠距離恋愛って難易度大」 「そういう問題とちょっと違うんだけど・・・」 リツコの頭痛は収まりそうに無かった。 *** それからは全てが順調に回りだした。 翌日は、アスカの仕事場にレイが尋ねて行って、アスカを大いに感激させた。 練習も、最初の頃の難渋が嘘のように三人の息が合うようになった。 リツコが予想した通り、ゲンドウの記者会見は記事にはならなかったし、放送もされなかった。その代わり、高畑健児や惣流親娘の話も、メディアを賑わすことは無くなった。 万事は収まるところに収まったかの感があった。 *** 「で、どないすんねな、進学は」 昼休み、予備校の教室で気怠そうにトウジが言う。 「うん、実際のところ嫌がる理由も、従う理由も無いしね」 「なんや、そのふにゃふにゃな」 「だから、進学するよ」 「ほ、よー分らんが肚は決まったようやな」 「うん、僕はもう少し色々経験した方がいいみたいだし」 「そか。しっかしそうやとすると、もうちっと頑張らんとな」 「はははは、はぁー」 志望校の合否判定ではC判定だ。絶望的では無いものの、落ちても文句は言えない。 「ま、志望校が高過ぎるんもあかんのや。 なんで、またこんなとこ受ける気になっとるんや?」 「うん、オーケストラがね・・・って駄目?」 「いや、呆れただけや」 「うーん、他に選択の基準無いし」 「ま、シンジらしいけど・・・」 「そう?」 「ああ、思いっきりやったらええ。 わいはホンマは、シンジと同じ学校やったらうれしけどな」 「無理だよ、トウジの志望校って体育大学だよ」 「せやから今から鍛えればええねん」 「そんな無茶苦茶な」 *** 夏も終り。 暑い日々が続くものの、夕暮れには秋の気配が忍び込む。 残暑が厳しければ厳しい程、この時間の紅い空気の濃厚さは、より一層秋を思わせる。 「いよいよ来月ね、本番」 河辺をコンクリートで塗固めただけの「親水公園」ではあったけれど、ビルだらけの周囲の空間との対比には、それなりの風情はあった。レイは、夕陽を反射する川面をまぶしそうに見詰めている。 「うん」 シンジは、いささか気の無い返事だ。 これからアスカのマンションに二人で赴くところ。平日ではあったけれど、今週は週末がアスカの都合で時間を取れないのだ。しかも、ついでに一緒にお食事を、とのリツコの誘いは食事当番を交替で行っている二人には魅力的過ぎた。 「寂しい?」 「え?」 「だって彼女がフランスに行っちゃうから」 レイは、アスカの恋人宣言を完全に真に受けている。シンジには、半ば親しみを込めた冗談としか思えないのだが。 『レイ、あたし達恋人になったから』 別荘から帰った最初の練習で、アスカは薮から棒に宣言をしたものだ。シンジは全く聞いていなかったので思わず、 『えっ、誰が?』 と声を上げ、思いっきり腹に肘打ちを喰らわされた。ところが、レイと来たら、真剣な顔で 『そう、よかったわね。 そうなればいいと思ってた』 と言ったものである。 さすがに、その場で否定しようものなら殺されそうだったので、帰ってからレイの誤解を解こうと何度か試みたものの、その効果は全く無かったのである。 「うーん、どうかな。 実はまだピンと来ないんだ」 レイは何も答えない。 始めて彼女の留学を聞いたときのシンジの動揺振りを覚えていたから。シンジの方はと言えば、そんなことなど疾うに忘れているようだ。 あれは半分冗談なのだ、とシンジが言う都度、レイは哀しそうな顔をする。レイから見れば、アスカははっきりとシンジを彼氏として遇していると見える。 どんなに忙しくても、毎日の電話は欠かさない。本番の直前しか時間が取れなくても、アスカは宣言して以降、忘れずにシンジに電話をかけて来るのだ。勿論、家の電話にではなく、携帯の方にかけている。にも関らず、シンジはいつも自分の携帯を、その辺に無造作に置いているので、結局アスカからの電話は全てレイに知られるところとなってしまう。 レイの見るところ、シンジはアスカにとってどんなに大変な事かを全く分っていない。シンジとて、電話を受けてとても嬉しそうにしているのに、どうしてそんな態度が取れるのか理解に苦しむ。 「自信が無いのね」 と、唐突だが核心をずばりついた一言にシンジは驚かされた。 「な、何?」 「いいえ、いいの」 少しレイはすねていた。 |
一ヵ月後。 *** ○○新聞演奏会時評 『かつて、バロックのベルティオーソ達は、全く楽器の指定されていない楽譜を使って、彼らの音楽的才能を余すところ無く聴衆に示した。各声部に楽器の個性を割り付けるのは作曲家の仕事ではなく、演奏家の裁量に属したのである。それゆえ、バロック時代のトリオソナタという形式は、演奏の都度全く異った新しい魅力を引き出せる万華鏡のような"道具"となっていった。 しかし次第に作曲家の個性が前面に出るようになると、演奏家の領域は極めて限られたものに後退して行くことになった。この分業は確かに、もっと深い人間的個性を追求させる契機となる一方、演奏家の技術向上にも資することにはなったものの、演奏家と作曲家の精神世界の溝は深まる一方となった。 だが今日作曲と呼ばれる仕事の中には、本当は音が産まれる瞬間にこそ相応しいものも潜んでいる。 今回のこの三人の若手による試みは、音楽の構造が楽器法という形を取る瞬間を追体験し演奏家の手に取り戻そうとするものでは無いだろうか?。作曲家の個性という商品とそれを享受する市場が成熟の域に達した時代の作品である、ドボルザークのチェロコンチェルトを題材としているが、これはこうした試みが決して時代に左右されるものでは無いことを示している。ドボルザークの作品と言えど、音の産まれようには無数の可能性があり、その全ては到底味わいつくせぬ程豊かであったことをこれほどはっきり示した演奏は、私には他に考えられない。 ご存知のように、この編曲は三人の父母が若き日に行ったものだ。その再演を今彼らが果たしたことは、喜ばしいことではあるものの、彼らはそれだけでなく、親達の試みが何を目指したものかを正確に理解し、且つ成し遂げて魅せてくれた。 我々は今日本の音楽界に、際だった個性と技量に加え、音楽をしっかり思考し表現できる天才を三人も得たのである。 ・・・・』 *** どうやら成功裡に終ったようだな、とほっとする。と同時にその演奏に居合わせられなかったのが怨まれてしようが無い。とはいえ、今の自分ではもとより日本に足を踏み入れることは叶わない夢だろう。 「あら、何それ?。 中国か、日本のサイト?」 ディスプレイを後ろから覗き込んだのはミレイユだった。 金髪がロドリゲスの肩にかかり、彼女の体温が頬に感じられるまで近付いている。 「あなた、こんなの読めるの? 意外ねぇ。実は日本人だったりして」 ロドリゲスが、手で追い払おうとした瞬間、ミレイユはさっと身を起こしてしまう。 「どうでもいいだろう。 それより、どうなんだ」 「あっらぁ、ご挨拶ねぇ。 ここはね、あたしの研究室なの。 そのパソコンを勝手に使ってインターネットを見てるのは、あなたなの。 分る?」 「ああ」 ロドリゲスは不機嫌そうに答えた。 *** A国サン・ドミンゴ大学。 この国で唯一まともな大学だった。 この研究室の主ミレイユ・デュボアは両親がフランスからの移民だった。完全な金髪と白い肌。この国ではかなり珍しいタイプだ。 三年前までMITのフェローを務めていたものの、クーデター後のA国政権から請われて帰国した。 専門は分子生物学。 もっとも招聘した者がどれほど彼女の専門の意義を分っていたのかは不明だ。 アグリビジネスへの対抗策としての特許戦略が必要、且つ遺伝子特許が重要、程度の図式しか無かったのでは無いか。 政府としては彼女の所属する学部への予算配分は破格の金額と言うことになるものの、到底、現代の遺伝子特許競争に追い付くには届かない水準であることは否めない。 研究スタッフは彼女を含め、米国留学経験者を中心に30人。もっとも管理統括する体制も無く目標設定もずさんを極めている為、目だった成果は上げられそうにない。 そんな目をおおうべき状況の中で、まだミレイユは多くの(派手ではないが)重要な業績によりA国で最も海外に名の知られた分子生物学者となっていた。 *** 「全く、とんでもないものを持ちこんでくれたもんね」 ミレイユは手にしていたフォルダを勢い良く机に放り出すと、椅子に座り、大きく足を組んだ。 「良くないのか?」 ミレイユは、にやりと笑う。 「逆よ。 一体どうやって作ったの。これ?。 どうやっても選択マーカが編み出せないのよ?。 なのに固定種でしょう?。 もっとも本当にそうかは時間をかけないと分らないけど」 「組み換え法はいらない。 種苗の遺伝子としてのライセンスでありさえすりゃいい」 「分ってるわよ。でもねぇ、あたしとしちゃあ、組み換えベクターの方が燃えるのよ」 「とにかく予定通りやってくれ」 ロドリゲスは突き放すように言った。 「はは、言われちゃった」 「で、何時までに出来る?」 「そんなせかさないでよ。こういう事には時間がかかるんだから」 「それは分っている。 だがこっちにも残されている時間は余り無い」 「ひゅー、全くこれだから・・・」 ミレイユは肩をすくめて見せる。 ロドリゲスは、表情を変えない。 「ひゃー、恐い恐い」 と言いながらミレイユはパソコンのディスプレイに向かった。 こんな計画に彼女を巻き込む事に疑問を感じないでもなかったが、今は他に方法は無い。 「では後はよろしく頼む」 「あらー帰っちゃうのー?。今晩一緒に飲もうと思ってたのに?」 無視しようとしたが、酷く後ろ髪を引かれる思いの自分が居た。 外見は相違しているのに、彼女に似ている。余りにも。 「よっぽどパリには、気に掛かる人が居るのねー」 「下らない事を言ってないで、仕事しろ」 「はいはい、じゃあね」 ミレイユは吐き捨てるように言って背を向けた。 |
夏の終わりのコンチェルト 第三部 完 |
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