▼第三十七章 |
1 |
手は喉に、喉は声に、声は想いになっていた。 |
それは”自由”だ。本当の意味での。 心と体の全き一致。一切の運動への制約の無い。 その腕は広く世界を隅なく統べ、声は天高くも、地深くも届き、全ての風が喉を通り過ぎて行く快楽。想いは遥かに星空を翔けて、最早目に映ろうものは全て己が内面をゆくりもなく実現している。 時間は風になり、空間は彩りに変わり果てる。 演奏は全てを自由にする。過去も未来もなく、この今一点に集約され、想うものと想われるものとは消え、後にのこるのは単に”運動”。 |
不意に、自分の内に潜む者の影に気付く。いや、既に喉は彼の歌を歌い、手は目を脅かして不思議な印を結んだ。 恐慌にかられて叫ぼうとするが、声は聞いたこともない者の音色を響かせる。全てが私であって私でない。 全てが全てであって全てでない。 |
突然、アスカは低く唸り続ける音の中に放りだされる。驚いて薄暗い周囲を見回す。想わず立ち上がろうとして足元に落ちる毛布。ようやく自分が置かれた状況を思い出す。 「ふぅっ、一体今はどの辺なんだろう」 丸い窓のシャッタを上げてみるが、その向うはただ漆黒の中に、薄ぼんやりと映るアスカの顔。空調の音がかき消してはいるけれど、低く飛行機の轟音は続いている。それは止むことはない。後十数時間は。そう想うと何だかとてもやり切れない気分がしてくる。 アスカは時計に目をやる。 シンジと別れてから僅か5時間程しか過ぎていない。だだっ広い空港のロビーで他の人々の目や声に何故か、無用な気を使わされながら、アスカはその時、シンジに何を言ったのか、どうにもはっきりとは思い出せなかった。気忙しさもあったけれど、ひょっとしてこみ上げてくるかも知れない切なさを恐れてアスカは、きっと思いっきり素気無かったに違いない。 シンジの曖昧な笑顔だけが、しきりに思い出された。 アスカは無意識に右手を何度も握ったり緩めたりしていることに気付く。それはシンジが良くやる癖だったけれど、何故自分がそんなことをしているのか、彼女には良く分かっていた。別に彼の癖が感染ったのではない。 そうではなくて、あの最後の一瞬の感覚を思い出していた。 「あれは私じゃない」 終楽章の最後の、まるで長い旅路を回想するかのような、シンジのソロが終ろうとした時、何気なくはじめたオブリガートが突然、歌いはじめたあの瞬間。手はアスカの意志を離れていた。いや、アスカの全身が既にアスカの意志ではなかった。それどころか、アスカの意志そのものすら、アスカを離れていた。だが、ピアノは歌い続けている。それは確かにアスカが歌っている。その自覚があるのに、それはアスカでは無い。 信じ難い思いで鍵盤の上を滑る手を彼女は見つめるしかなかった。チェロはその時、低い持続音を奏でているに過ぎないのに、彼女が紬だす音ははっきりとチェロに寄り添うように進んでいた。彼女の思いもよらぬ仕方で。思わず向いのレイを見ると彼女の顔にもはっきりと驚きの色が浮んでいた。彼女も異変に気付いていたのだ。 しかしシンジの方に目をやったとき、アスカは背筋に冷いものを覚えた。困ったような、だが曖昧で捉えどころのない笑みとも言えぬ表情。哀しみ、あるいは自嘲、なにかどうにもならない痛みを受け入れてしまったものの微笑み。だがそれよりも恐しかったのは、その目だ。 冷い感情を全く感じさせない瞳。真昼の海辺に置かれた白い石像の瞳のように。 いや、舞台でそこまで見えた筈は無い。それなのにアスカは確かにシンジの瞳を見たように思った。 |
異変は一瞬にして終って、出し抜けにアスカ自身がコントロールをしている感覚が甦る。そこから先は己が迷いを振り払うようにして、無我夢中で弾いた。 『何だったんだろう、あれは?』 演奏会は成功のうちに終った。舞台の上の三人以外に気付いたものは居なかった。それどころか、異変は音楽的には最も優れた個所だった。 だが、アスカの心は晴れなかった。 自分の演奏会で、チェロの協奏曲を演奏するのは確かに気妙な企画ではあったけれど、アスカには、アンサンブルを主催できるだけの力があることを、聴衆に強く印象付けられたのも確かだ。総じて言うならば、リーダシップを取っていたのはアスカだし、彼女自身もそういう自覚を持っていた。 それがあの瞬間粉々に打ち砕かれたように感じられたのだ。あの音楽は素晴しかった。悔しいけれどアスカには、あんな風に演奏することは全く思い付かなかった。だから確実にアスカの音楽では無い。演奏会の最良の瞬間が、自分の音楽的なリーディングの至らなさをはっきり示すものなのだ。しかも、それはシンジがやったことなのかもしれない。いや、もし自分の目で見たものを信じるなら、それは正しくシンジが引き起こしたものに違いない。 あのシンジが自分に対って牙を剥く? 本当に? どうやって? そもそも一体何が起ったと言うのだろう? だが何度考えても、答えは見えてきそうには無かった。 アスカはまるで記憶を全て振り捨ててでもしそうな勢いで首を振ってから、言い聞かせる。こんなことを考えている場合じゃない。後十数時間後には、フランスに居ることになるのだ。いつまでも悩んでないで、とにかく前を見よう。ずり落ちた毛布を拾うとアスカは膝にかけ目を閉じた。 だが眠気は訪れない。 あの演奏会の後、アスカは異変のことをレイやシンジに訊ねたりはしなかった。それどころか何も気付かなかった振りをした。二人も同様に何事もなかったかのように振る舞っていた。 そのことが三人の間にぎくしゃくとしたものを齎していることを知りながら、アスカは訊ねることを躊躇った。特にシンジには努めて、親しげに振る舞ったものだ。その陰でアスカの心は痛み続けていた。 この後に及んでこんな気持ちで日本を離れることになろうとは、しかもその原因がシンジであろうとは、と忌々しく思われならない。シンジに対して怒りは覚えない。むしろ、あの安易な恋人宣言以来、正体の分からぬ後ろめたさを不意に突き付けられたような不快感。誰にもその想いは知られる筈がないにも関わらず、自分の心がすっかり裸にされてしまっているような心細さ。 こうしてフランスへと離れるのは却って好都合とも思ってしまう自分にも嫌気が差す。「前を見よう」などと言っても内実はこんなものだ。 きっと今ピアノを弾いても錆びたブリキのような音がするに違いない。 |
2 |
「やはり始まっていたな」 長い沈黙の後、ようやく冬月は一言つぶやいた。 来訪者は腕を組んだまま、何も答えない。もとより冬月の言葉は不要なのだ。このような会見が来ることを、二人は予見していたし、実際にその時が到来したからこうして会っているだけのことだ。 ここに居ることは、一つのシナリオのチェックポイントを確認することでしかない。だが、そうだとしても語ることは、なにがしかの効用を持っている。 冬月は湯飲みに残った冷めた番茶を飲み干すと、窓の外の欝とおしい曇空を見やった。朝から今にも降りそうなのに、午後三時を過ぎても一向に降りはじめる気配の無い、厚く不満気に垂れ込めた雲。 「アスカ君は気付いていたのかな?」 「気付かぬことはあり得ない。 惣流キョウコの娘なのだから」 「ふっ、だが皮肉なものだ。今度は碇の息子にとはな」 黒い服の来客者はさっきの姿勢のまま、口の端を笑顔のように歪めて見せた。 「罰があたったのさ」 「お前が自分を責めることはあるまい?」 「責めてはいない。第一責める者はとっくにこの世を去っているから」 窓ガラスに、雨滴が筋を残しはじめる。 「降るようだな」 「ああ」 この場で語られるべき事はとうに決まっており、それは口にする必要すらなかったので、碇ゲンドウはゆっくりと立ち上がる。 「これからが難儀だな」 冬月はそんなゲンドウに振り返りもせず言う。 「ああ、予定通りだ」 いつものようにそうつぶやくと、ゲンドウは部屋を出ていった。そっけない、どこか疲れた感じのするゲンドウの声の向うに、深い哀しみが刻み込まれている事を冬月は知っていた。 |
「あれは何だったんだろう」 練習の手を休めるとシンジはじっと自分の右手を見つめる。 自分の中の自分でないもの。だがそれでも相変わらず意識を繋いでいる。その何者かは、息使いと息使いの狭間を狙っている。 「いや、きっと気のせいだ……」 と自分に言い聞かせてみるのだが、演奏が終了した直後のアスカの顔が、はっきりと目に浮かんでは消える。その確かな記憶が、気のせいではなかった事を証拠立ててしまう。 あの演奏会からずっと、アスカとの間には何か余所余所しいものが入りこんでしまっていた。アスカはシンジを責める事はない。それどころか以前より一層、恋人らしく演出しようとすらした。だがシンジは、アスカの上機嫌の裏側に隠されている感情に気付かぬ訳には行かなかった。 恐れ。 アスカが恐れているものと、シンジが恐れているものとは恐らく同じものだろう。余りに微かな兆候でしかないものをシンジはシンジで気のせいだと片付けてしまいたかった。そうして「らしく」演じる二人の間を感情は上滑りしていく。 この部屋で初めて交わした口づけは、ただ二人の心に痛みをもたらしただけで終った。だから、それ以上に進む気にはなれなかった。 |
気が付けば、時計はとっくに午前二時を回っている。道理で疲れる筈だった。体全体にどっしりとかかってくる疲労感。まるで練習で得られたものは、この感覚だけであるかのように。 今ごろは機上の人である彼女のことを、恐れとともに思った。余りに心許ない。夜が明けたら全ては夢になってしまっていても、不思議とは思わないだろう。なんと頼りないものしか二人の間には無かったのだろう。 シンジはようやく、アスカのことを実は何も分かっていなかったことに気付く。そもそも見知らぬ人と何の変わるところはないではないか。 光景は、浮かぶのは光景だけでしかないだろう。彼女の面影。しぐさ。そこにはシンジ自身もいる。だがそれは光景でしかない。あったことは体験されたことではないかもしれない。 ひょっとして自分が紡ぐ音楽も、自分には体験出来ない何かでしか無いとしたら……。 それ以上の思考をシンジは耐えられなかった。打ちひしがれて、いやその感情すら明日には余所余所しいものに変わってしまうことを確信しながら、シンジはベッドに横たわった。 |
3 |
UFC。 かつては、殆んどの中南米国家にプランテーションを保有し、世界のフルーツの貿易を支配していた多国籍企業も既に昔日の面影は無かった。 脆弱な経済基盤に穿たれたUFCの巨大な農園は、いずれの国でも、国内産業を根こそぎにし、不安定となった政権へのコントロールをもUFCは手にする事ができた。米国の軍事力ですら、コミュニストへの恐怖を利用し初歩的なロビイスト活動をするだけで、反米勢力の根絶の為に投入することができた。だがやがて脆弱なモノカルチャー経済は末期的な症状を呈し、一度市場の相場が崩れるや、簡単に政権交替を引き起こすようになる。こうしてUFCにとって都合の良かった筈の秩序の維持が、驚くほど金のかかる代物へと変貌していく頃から、米軍はUFCが自由に握れるような道具であることを辞めた。 そうこうしている内に、アグリビジネスの環境は変わってしまった。 自国産業の育成に成功し始めた国は、UFCの競合先として参入してくるし、既に先進国でのフルーツの需要は頭打ちだった。加工用市場は大手食品産業が、これまた寡占市場を形成し、それはUFCにとって旨味のある市場では無かった。 発展途上国を支配してアグリビジネスを仕切っていた他の多国籍企業は、殆んどが市場から姿を消すか、あるいは別系統の資本系列に呑み込まれていってしまった。それに既にアグリビジネスとは、化学工業系資本のコントロールするものとなり果てている中、UFCは明らかに時代遅れの代物でしかない。ここまで延命して来れたのは中南米の、米国にとっての政治的価値からに他ならない。 だが、その役割も終りを告げようとしている。 |
背後の巨大な窓から差し込む夕陽に照らされた、会長室のデスクの表面は、そこかしこが擦り切れている。もう何年も家具や調度を更新していないのだ。じり貧の企業には体面としても最早会長室の体裁を取り繕う必要すらない。それに既に、UFC会長とは、この国ではVIPではないのだ。 マイケル・ハートフォードは分厚い営業報告書のページを、所在なげに繰っている。が、視線は徒に宙を浮いているに過ぎない。変わり映えのしない内容。いつもと同じ。そして少しづつの変化。だがそれが長い年月をかけて、ここまで事態を悪化させてしまった。 緩慢な死。 そう表現して良いだろう。この状況に対して会社が打ってきた方策とは撤退、売却、レイオフでしかない。巨大な蓄積は財務体質の改善という「小手先の技」で問題を先送りすることを許してきた。無論、市場はとっくにそんな事情を折込済だ。この動きの鈍い大企業に見合ってゆっくりと低落する株価を、会社はただ黙って見続けるだけ。定期的に実行される財務体質改善毎に、その効果に見合って株価が跳ね上がり、そしてゆっくりと低下を始める。ただし市場は、この企業の政治的特質を評価して安定的な値付けを行なっている。この特質が株価の下落時にはパッシブポートフォリオ構成に際してリスクプロフィールの丁度良い調整剤となることから、システム売買での買い需要も安定的に存在している。 要するに、企業としての業績や計画とは関係なく、ただその図体の大きさを利用されるだけの銘柄になり果てている。それはそれで酷く、今の会社に似つかわしい。 ハートフォードは、濁った目を窓の外に向けた。落日。なんと丁度良く、また陳腐。 この会長室に収まって、もはや何の手を打つことも出来ないのだ。意味あることをなすことが出来ない時、一体人はどうやって生きれば良いというのだろうか。会長は立ち上がると、伸びをする。 背中の古傷が痛んだが、それはいつものことだ。 役員会の殆んどの役員は、会社の汚い仕事を全く知らない「おぼっちゃま」ばかりだ。だがお上品に他国を治めることなど最初から無理な相談だ。だから、一方で影の仕事をこなす連中がどうしても必要だった。 ハートフォードは、そうした裏の役目を忠実にこなしてきたタイプだった。最初は某国の農園の保安部だった。要するに私設警察兼軍隊だった。もっとも軍隊に暗殺まで行なう組織があるかどうかは別だが。そこでは部員は全員武器の携行を認められていたし、また逮捕・監禁の権利を持っていた。そして不穏分子の現地農民を監視し、必要とあれば「然るべき処置」をとる。 そんな裏の世界を歩いてきた彼が、今や会長まで上り詰めた時、既に会社は、ただ臨終の時を待つ瀕死の老人になっているとは…… |
ベトナム帰りの行く宛もない身の上だった。 除隊後、もとの小隊長に誘われたのは半ば非合法の傭兵隊もどきの代物だ。その仕事の殆んどは政情不安な中南米に事業所を持つ米国企業の要人警護及び、現地の”治安維持”だ。そして幾つかの任地を経てUFCのA国におけるプランテーションの保安部に助っ人に派遣されたのだ。 それまでのクライアントは、ハートフォードらのようなダーティージョブを自社の社員に行なわせることはない。だからこそ傭兵隊に一括請け負わせることになる。ところがUFCの場合には、現地に密接に利害を持ち自社員の手を汚すことを厭わなかった。といってもそうした社員は、一般の社員とは区別された身分だったのだが。 ハートフォードの属する傭兵隊に要請された業務は、要員の供給及び指導だった。あくまでも保安部の指揮権はUFCの社員である保安部長が握っている。最初は気乗りのしない仕事だった。とは言えすぐに、それまでのクライアントと異なり、UFCはこの仕事に”マジ”なことに気が付いた。応援を要請したとは言え、社員はダーティジョブだとしても、会社の仕事として取り組んでいるのだ。 それまでのクライアントは、殆どが「よきに計らえ」式に、ハートフォードたちがどんな危険な任務に付いていようと、仕事の内容に関心を持つことは無かった。ドライな関係どころか、互いに軽蔑しあっていたのだ。それでも傭兵たちが仕事をしていたのは、かなり高額なギャラの為だけでなく、本当に”ぶっぱなせる”からこそだった。クライアントから提示された許容範囲内であれば、どれほど実弾を撒き散らそうが、何体死体を転がそうがやりたい放題だった。戦地で最早自分を危地に追い込むことと人を殺すこと以外の行為に意味を見出せなくなってしまった戦争ジャンキーたちには、堪えられない仕事だったのだ。 UFCの仕事では、最早そうした役得は味わえなかった。何故なら保安部隊が無用な殺人を犯すことは会社として望むところではなかったからだが、それよりもハートフォードら傭兵にとって新鮮だったのは、そもそもの仕事を会社にとって意味のある仕事と位置付けていることだった。ハートフォードは、除隊して初めて己の為ではない”意味”を持った行為を見出したのだ。 ハートフォードは他の傭兵よりも熱心に仕事に打ち込んだ。そして何よりも会社にとっての価値を身に付けることに熱心だった。UFC社員よりも社員意識の高い傭兵。その勤務振りに、保安部長はついにハートフォードを正式の社員としてスカウトする決心をした。折しもハートフォードの属する傭兵部隊は、リーダである元上官が引退することとなって(もっとも元上官は結局、引退を果たすことなく最後の任務で殺されてしまったが)解散することになっていた為、ハートフォードにとって保安部長からの誘いは渡りに舟だった。 |
気が付くと窓の外は日も落ちている。青い薄明が寒々しく室内を満たしている。 ハートフォードは、壁に掲げられた歴代会長の肖像画に目をやった。前会長はあの時の保安部長だった。すっかり暗くなって肖像はぼんやりと輪郭が見えるだけだったが、何年も眺めてきたその絵の隅々まで克明に覚えている。 『この会社を率いるという仕事は、我々のような経験をしてきた者にしかできないんだ』 引退した前会長が、ハートフォードに会長就任を迫った時の言葉が思い出された。 デスクの上の旧式のインターフォンが鳴って、秘書の声が言った。 「会長。Mr.バリモアからです」 「分かった」 ハートフォードは、デスクトップの上の旧式なテレビを思わせるディスプレイの電源を入れる。実のところ一見レトロなガラクタに見えるこの箱は、デスクの下に収められているワークステーションのスクリーンとなっている。 もっとも、コンピュータの嫌いなハートフォードがこのマシンを使用するのは、テレビ会議システムくらいである。メールの殆んども、秘書に処理させているので、ハートフォードのマシンは、TV会議専用にセットアップされている。 パリは今ごろ午後十一時を回ったところだろう。 スクリーンに銀髪の中年男の顔が浮かぶ。首元のスカーフが嫌味なまでに自然な感じで、おしゃれに気を使う人間であることを物語っている。 ロバート・バリモア。 パリ支社長だが、ハートフォードから見れば、「おぼっちゃま」の一人に過ぎない。それも、話にしか知らない筈の「裏」の事情すら「心得ております」などと訳知り顔で片付ける手合いの、度し難いほどおめでたいタイプの男だ。だが、どうしたものか会社の中では彼のようなタイプの方が出世するものだ。ハートフォードにとっては、出来ることならつき合いたくないタイプの男なのだが、それなりに使い様では重宝することもあるのだ。特に今回の仕事のような場合は。 「会長、お久しぶりです。お元気ですか」 「下らない挨拶は良いから、さっさと報告しろ」 ハートフォードは不機嫌にうなる。バリモアは臆することなく話始めた。 「では、単刀直入に言います。連中の交渉相手はパドルーです」 パドルーSAは、フランスで、最近急速に業績を延ばしている化学薬品・バイオ関連の企業だ。幾つかの遺伝子治療薬で特許を持っており、そのライセンス契約だけでもかなりの売上になっている。もっとも特許にのみ依存したベンチャー企業からの脱却を図って、海外でも様々な投資を行なっている。これまでのところ、種子や農産物遺伝子改良などでは実績は無い。 ハートフォードは鼻を鳴らす。 「パドルーだと?」 「ええ。間違いありません。グンデマーロは、既に三回程、パドルーの会長と会っています」 「分からんな。 A国の連中にとってのメリットが」 「ええ。 手を結ぼうとしている相手先としては随分と異色ですな」 ハートフォードは、バリモアの訳知りそうな笑顔が気に食わなかった。 |
A国がパリにグンデマーロを送り込んだ時から、ハートフォードは調査を開始させている。見かけ上の地位はそれほど高いとは言えないグンデマーロが、実は現政権で大きな影響力を持っていることは、既に分かっていた。その大物がわざわざ出向く以上、何かある筈なのだ。 そこで旧保安部(表向き保安部は解体したことになっている)が現地に赴き調査に当たっている。グンデマーロがパドルーの会長と会見したことも、既に直接ハートフォードにも報告が届いていた。ただし、それはグンデマーロの勢力的な活動のほんの一駒に過ぎない。この数カ月彼が往訪した企業の数は五十社を優に越えている。このうち、複数回訪問した先は半数にまで絞られるものの、訪問回数ではパドルー社が一番多い訳ではない。むしろアベンティスなど化学薬品工業への訪問回数の方が際だっている。UFCにも月に一度は顔を出しており、毎回バリモアと十数分程、当たり触りのない会談をして終る。 こうしたファクトのみで何かを判断するのは間違っている、とハートフォードは常々考えている。だからこそ、敢えてバリモアに話を聞こうとしているのだ。嫌な男だが、こうした場合の直観は信用できるだろう。 「何故、グンデマーロの狙いがパドルーだと思う?」 ハートフォードの問に、バリモアは得意満面の笑みを浮かべる。 「第一には直観です、が先ず間違いは無いでしょう」 「おい、その程度のことで……」 「いえ、間接的な証拠があります。 第一にグンデマーロがパドルー社往訪後、最初に訪ねる先が我社なんです」 「うーむ」 「それに、例の武官ですが……」 「武官がどうした?」 「彼が複数回同行しているのはパドルー社だけなんですよ」 ハートフォードは無意識のうちに、手にしたペンの柄で顎をなで始める。そして心のうちで慎重にバリモアの言葉を値踏みする。今のところグンデマーロが各社の訪問でどんな話をしたかまでは掴んでいない。さすがにフランスで非合法な手段に訴える訳にもいかない以上、絶対確実な情報は諦めざるを得ない。とすれば頼るのは直観だけだ。そしてハートフォードはバリモアの報告に何がしかの真実が含まれていることを確信した。 「それにしても狙いが分からん」 「ええ」 涼しげに言い放つバリモアの態度が腹だたしかったが、所詮この男はこの程度でしかない。それよりも、本命のコンタクト先がパドルー社だとして、狙いが分からない以上、後は手の打ちようが無い。 |
A国の歴代の政権は、これまでにもUFC支配のモノカルチャー経済から脱却しようと何度も試みてきている。実は、それはUFCの利害とも一致している。既にUFC自体、A国を始めとした中南米各国を持て余し始めている。ますます悪化する経済情勢の中でUFC支配を継続することは最早不可能だった。 既に先代会長の頃から、UFCは各国のUFC離れを支援と行かないまでも黙認する方向に転じている。 だがそうした試みに成功した例は殆んど無い。 四分五裂した社会の中で民主主義は機能し得べくもない。政権を握るのは従来型の地主層か軍隊か、果てまた犯罪者集団か。改革者としての資格を欠く政権であっても民衆の支持を必要とする以上、最初に掲げる政策目標は正しく経済的自立であることは共通している。その為の手法が共産主義的国有化から、新古典派系のポピュリストのものへと変化しているとは言え、判で押したように同じなのだ。 にも関わらず、どの政権も誕生するや腐敗し始め政治スキャンダルか、あるいは権力内部での内ゲバ、更には反動的恐怖政治などおよそ考え付く限りの悪政に終るのだ。そうしてクーデターが起き、政権が交替し再び稔りの少ない改革と、腐敗が同時に始まるのである。 かつてUFCが未だ力を持っていた頃は親米政権を成立させるべく、米軍を介入させるなど積極的に干渉した時期もあった(ハートフォードが傭兵だったのはそうした時期である)。それは惨めな失敗と、各国民衆のUFCへの深い怨みのみを残した。 だから未だにUFCは悪役なのだ。全ての元凶。人民の敵。 この袋小路を脱出する目処は全く立っていない。今やUFCの経営陣にとって問題は如何にして攻撃をかわすか、でしかない。A国の動向に神経を尖らせるのも、当然そうした関心からだった。 |
それに、A国の現政権とUFCとは微妙な関係にあった。現政権のクーデターの後押しをしたのはUFCと米国政府だったからだ。ところがこの”革命”は国内での反UFC勢力と結び付いているのである。 前政権は元々、反コミュニスト政権としてアメリカの後押しの元で成立した政権だった。当時、オルテガ大統領はウェストポイント出身の親米派軍人であり、左傾化したアルベンス政権をクーデターで倒して政権に就いた。アルベンス政権のもと強制接収により多くの外国企業(と言っても殆んどはUFCの関連会社だったが)が国有化されたが、オルテガ政権は即、これら強制接収の無効を宣言して全ての外国企業に資産を返還した。無論これにはUFCも大きく関与していた。いや、UFCがアメリカ政府へ働きかけオルテガ派に武器の供給と軍事顧問団を派遣していなければ、クーデターが成功する見込みは無かったからだ。 ところが就任後次第に、オルテガ政権は腐敗し始める。親族主義により政府要職はオルテガ大統領の血縁者が独占し、めいめいが利権を追求したから政府は猛回転する搾取機械に転じ、挙げ句にマフィアと組んで麻薬の米国への密輸にまで手を染めるまでになった。そこでアメリカは、日本でのオルテガ大統領の暗殺と、グウンデマーロに担がれたベンテボリ将軍の就任という筋書きを書いたのだ。 いわば現政権の恩人とも言うべきUFCに対し、グンデマーロらは敵対しようとしているのである。 |
「会長、国務長官に連絡しますか?」 「何故だ?」 「ベンテボリ政権は、危険です。いずれ、オルテガに代わる勢力が台頭してくれば、すげかえる予定だった筈。それに、彼らは例の一件が切札になりえると考えている」 にやついた顔の下に、バリモアの本当の顔が浮かび上がる。本質的に謀略を好み冷血な性格。「おぼっちゃま」上がりであっても、冷血漢はのし上がることができるのだ。 だが、バリモアの指摘は当たっている。穏当に済ませたかったUFCとアメリカが選択したのは、国際テロ組織の反抗を装った暗殺だった。密かにアメリカの関与が囁かれては居ても、表向きは無関係の事件なのだ。もし、この一件が公になれば政界のスキャンダルとなるのは火を見るより明らかだった。 ベンテボリ政権がリークしないのは、オルテガ派が未だ陰然たる勢力を維持する中、強固な支持基盤を欠く以上、暗殺への関与の証拠は政権にとって致命傷になるからだった。だが、もしアメリカがベンテボリ政権の支援を打ち切るとしたら……・窮鼠猫を噛む如く、捨て身で切札を切ることはありえる。 「確かに。 だが、それだからこそ確たる証拠もなしに動くことは禁物だ」 「ですが……」 「いや、待て。今に機会は来る。 それよりも、何を交渉しているのかを掴まぬ限り何の手も打てん。 お前はもう少し具体的な交渉内容を調べてくれ」 バリモアは不満そうだ。何を言いたいのかハートフォードには良く分かる。アメリカが慎重に行動をせざるを得ないからこその連中の動きなのだとしたら、確かにUFCは手玉に取られていることになるのだ。それは百も承知だ。だが逆をついたところでグンデマーロなら、当然その場合の手も打っているに違いない。事態は圧倒的にこちらに不利なのだ。 『予め相手の手を奪っておくことだ』 そうグンデマーロに教えたのは、他ならぬハートフォードなのだから。あの時のトマゾ坊やの瞳の強い輝きは、ハートフォードに息を呑ませる程に美しかった。それが今や、彼と彼の守るべき者たちに襲いかかってくる。 |
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