▼第三十八章

「どう? 調子は?」


 幹線道路から離れたこの辺りは、住宅展示場と見紛うような瀟洒な造りの家々が建ち並ぶ。道は二車線程の幅はあるものの、徐行を強要すべく蛇行している。それに沿った舗道には、丁度車道が曲がって、舗道が張り出した部分ごとに花壇がしつらえられていて、簡単なベンチもある。さながら舗道全体が公園のように見える。

 この高級住宅街の中に、芸大の今野教授の家があった。綾波レイが、今野教授のレッスンを辞して玄関を出たところで声をかけてきたのは、良く見知った金髪の女性だった。

「問題ありません」

 レイは無表情に答えると、舗道際に止められた車に寄りかかったリツコの横を通り過ぎていく。ここから歩いて3分程のところにバス停があり、レイは予定通りそれに乗って帰るつもりらしい。

「相変わらずね。乗っていかないの?」

 リツコが呼び止めると、レイはちらと振り返り軽く会釈して答える。

「いえ、別に急ぎませんから……」
「そう。
 じゃ良かった。ちょっと時間くれない? 実は話したいことがあるんだ」

 そういうとリツコは助手席のドアを開けて、レイを促す。しばらくレイはリツコと、開け放たれた助手席のドアを見つめている。

「分かりました」
「ありがとう。助かるわ」


 車は静かに住宅街を抜けて国道に出る。早く帰るだけなら、むしろ駅で下ろして貰った方が良い。この時間帯だと渋滞に巻き込まれて、却って時間がかかるだろう。

「ごめんなさいね。ちょっと遠回りになるけど……」
「いえ」

 国道はまだ順調に車が流れている。この調子なら後一時間もあれば着くだろう。

「なんだったら、シンジ君に電話しておく? 遅くなるからって」
「そうですね」

 レイは気のなさそうな返事をする。

「いいの?」

 リツコは横目でレイの表情を窺いながら、もう一度促してみる。

「何がですか?」
「電話。途中ちょっと一休みするつもりなんだけど」
「そうなんですか」
「ええ、一時間程ね。いい?」
「はい、大丈夫です」

 相変わらず無表情のまま、レイは流れていく窓の外の夕刻の景色を眺めている。

 どうやら、他人が聞いているところで電話をしたくないらしい。リツコはこれ以上促すのは止めにした。レイと携帯電話という組合せがちょっと見たくもあったのだが。

 夕陽は既に国道を挟むようにしている尾根の影に隠れ、その間接光で、風景は曖昧な色合いに染まっている。まだはっきりと明るいのに、どこか時間が止まったような景色。淡いピンクに染まった空に、青黒いちぎれ雲が、何の脈絡もなく、ぽっかり浮かんでいる。

「何か聴く?」

 リツコはカーステレオに手を伸ばす。

「いえ、いいです。今は聴きたくないですから」
「そう?
 そうね、今あんまり御気に召すようなものはないかも知れないわね」

 気を回して水を向けたものの、才能ある演奏者に聴かせるものは何が良いのか、リツコは頭を悩ませていたので、少しほっとする。

 逆に、リツコの答えにレイは少し興味を惹かれたようだ。

「いえ、そんなことないです。
 でも、リツコさんってどんなの聴かれるんですか?」
「あら、あたしの趣味知っても、がっかりするだけよ」
「別に何も期待してないから、がっかりすることも無いです」

 レイは、身も蓋もないことをさらりと言った。リツコはレイのことだから、と聞き流そうとして、ふとレイの表情に気付く。どうやら(極めて分かりにくいが)冗談のつもりのようだ。微かな表情の違いに、どうやら相手の言葉を待っているのが感じられる。

「あらぁ、随分ねぇー」

 とリツコが苦笑いして見せると、レイは、にっこりと笑い返してきた。

 ……わぁ、綺麗な笑顔。

 無表情だった顔が急に笑顔に転じたその鮮やかさ、そして本当に「綺麗」と表現するしかない美しさに、リツコは思わず見惚れてしまう。

「リツコさん!! 前! 前!」
「あっ! ごめんなさい」

 慌ててハンドルに注意を戻すものの、道はまっすぐだし十分車間距離は保っているので、実のところリツコにしてみれば、それほど注意を促されるような状況ではない。

「で、どんなのを聴いてるんですか?」

 どうやら、レイはさっきの質問の答を待っているようだ。

「いいの? こんなこと聞いても面白くないわよ」

 そう言いながら、リツコは現在車に積んでいるテープの類を頭の中で確かめている。

「そおねぇ、ここんとこシンフォニーばっかりねぇ」
「意外ですね、リツコさんだと室内楽かと思ってた」
「商売がらってこと?」
「あ、失礼でしたか?」
「ううん、そんなことないけど」

 大手の音楽事務所とは言え、やはり、リツコのところで扱っているのは小編成の団体や、独奏などが多い。それに逸材を発掘する能力を誇っている以上、若手のソリストのマネジメントが多くなる。更に言えば、最近では海外のオーケストラやオペラなどの公演は大抵スポンサー付きで、「呼び屋」としての腕のみせどころが少ないことから、赤木音楽事務所は余り積極的に扱ってはいない。

「ちょっと拝見して良いですか」

 と言いながら、レイはテープを漁り始める。

 リツコは少し意外な気がしていた。マイペースであるという点に変わりは無いものの、こうした積極的な面がレイにもあるのだ。いつもはアスカや、シンジと一緒だとどうしても、引っ込んでしまうのだが。

「あ、これ、良い」

 そう言ってレイが取り出したテープは、ベルリオーズの幻想交響曲だった。

「あ、それね」

 結構通俗的な曲なのだが、リツコは好きなので、レイがそれを選んでくれたことに、安堵する。こういう時に流す曲としても過度に深刻でないところが(それどころか軽薄すれすれなのだが)却って良い。

「レイちゃん、これ好き?」
「ええ」
「良かった、実は私もなんだ」

 レイはテープをデッキに挿入するとPLAYボタンを押した。ppで奏でられる木管の三連符が始まり、やがて弦楽器の、すすり泣くようなメロディーが車内を満たす。

 幻想交響曲。

 狂おしい恋に悩む青年が阿片によって見た幻想。

 実際に、作曲者は失恋の痛手を音楽の中で不実な恋人への意趣返しという形で解消したという、実にロマン派的な主題と、曲の成立ち。

 一楽章には特に恋のもたらす煩悶と喜びの不安定な交錯が、単なる描写としてだけでなく見事に音楽となって表現されている。描写音楽にあり勝ちな形式的不自然さが無く、耳にする印象と違って、実は驚くほど古典的ソナタ形式である。均整というものを美学の中心に据えているこの形式が、恋する青年の心情というおよそ均整とは相容れないものを表現している不思議。

 レイにも、この音楽は「分かる」。そしてこれが恋愛というものを表現しているということも十分に納得できる。だが、これがシンジ達の今の心情なのだろうか? レイはそんなことを思っていた。


 この曲は4楽章から堕落するという点で、二人の意見は一致した。これぞ、ベルリオーズが音楽的に行なった恋人の処刑シーンなのだが、意趣返しの子どもっぽさが鼻について、どうしても楽しめない。そしてその先は三流の恐怖映画みたいだ、と言うのだ。

 リツコは都内に入ったところで(丁度テープは三楽章終りの遠雷の部分を演奏していた)、道路沿いのファミリーレストランの駐車場に車を入れた。

 本当はもっと洒落た感じのところにして上げたかったのだが、そういう場所にすると却ってレイが臆しそうな気がしたのだ。もっとも「ファミレスなんて」とリツコのセンスを疑われるなら疑われるで、それも構わない。


 案の定、車から降りるとレイは駐車場の隅に走っていき、そこでシンジに電話をした。いとこ同士という微妙な関係が、二人にとってどういうものであろうか、とリツコにも詮索めいた気持ちがない訳ではない。しかも現在、従兄弟は他の女性と恋人同士であるという状況が一体、二人の関係をどう変化させているのだろう、と。そんな思いもあって、レイが家に電話をするところを見てみたかったのだが。


 食事は家に帰ってすると、レイが言ったので飲物だけを注文した。

「今日はシンジ君が食事当番って訳ね」
「ええ」
「なんか不思議だわ。でも結構似合ってるかも」
「碇君はわたしより上手です」
「へぇ、そうなの」
「ええ、わたし不器用ですから」

 それにしてもレイは相変わらず、いやシンジも相変わらずで、二人して互いに碇君、綾波と呼び交わしている。三年も一つ屋根の下に暮らしながら、いささか他人行儀な気がしないでもない。

「どうして」
「はい?」
「シンジ君のこと”碇くん”って呼ぶのかしら?」
「変ですか?」
「変って訳じゃないけど……でも、アスカはシンジって呼び捨てでしょう」
「でも、わたしもアスカって呼び捨てですけど」
「そうなんだけどね」

 レイらしい躱し方なのだが。

「リツコさん、お話って」
「ああ、それは……」

 いざ話そうとすると、リツコは言い澱んでしまう。確信をもっていた筈なのだが、レイの目に見つめられると、自信が揺らぐ。そんな心を見透かすように、レイが言う。

「こないだの演奏会のことですよね」
「あ、えーっと……そう……」
「あれは碇くんです」
「え?」

 リツコはぽかんと口を開けて、レイの顔に見入ってしまう。

「そのことが聞きたいんでしょう?」
「え? ええ……というか、一体何が起きたの?」
「……起きかかったんです」
「起きかかった?」
「ええ、それは完全には発動しませんでしたから」
「どういうことなの?」

 リツコは演奏会後の打ち上げを思い出す。

 成功裡に終った筈なのに、三人三様に妙に意気の上がらない空気。アスカの場合には、何か不本意なことがあったのだろうと見当がついたものの、シンジはどこか困惑した表情で、レイはレイで敢えてそうした二人の様子に気がつくまいとでも言うように、頑なな表情をしていた。

「リツコさんは、あれをどう聴きました?」

 レイは答の代わりに問を返した。

「どうって……」

 リツコは正直、何がおかしかったのかが分かっていない。アスカにとっては不本意だったのだろうが、どこにもミスは無かったし、それどころか普段の練習よりも良かったくらいだ。唯一あるとすれば、最後も最後、終楽章のコーダへ入る少し前から急に、三人のアンサンブルが更に良くなって聴こえたことぐらいだ。それまでにも十分に息のあった演奏をしてきたのに、更に目に見えて良くなれる事に驚きとともに、将来への頼もしさすら覚えたものの、確かにバランスを欠くと言えないこともない。

「分かりませんでした?」

 レイはどこかリツコを試している風なところがあった。

「正直言って、分かってないわ」

 リツコは嘆息して言う。

「普段よりも更に出来は良かった。これと言ってミスと呼べるようなものは何もなかった。でも、唯一あるとすれば最後のところ。あれが出来るのなら、もっと練習すればもっと凄い演奏になったってことでしょう?」
「そう聴こえるのね……」
「え?」
「もっとあれが出来るようになっていたら、今ごろアスカはフランスには行けなかったかもしれないわ」
「ど、どういうこと?」

 レイはくすっと笑う。

「知らないのね」
「ええ、だって何も教えてくれないじゃない。なんのことだかさっぱりだわ」
「キョウコさん」
「え?」
「本来は、アスカのお母さんに現われていたの」
「どういうこと?」
「ナオコさんからは何も聞いてないのね」

 リツコは次第に苛立ってきていた。

「レイちゃん、いい加減にして!
 そんな風にほのめかされるだけじゃ、何にも分からない。
 確かにわたしは母さんから、そんな話は何も聞かされてない」
「なら、あなたは知るべきだわ」
「教えるつもりは無いと?」
「ええ。
 本当なら、ナオコさんから引き継いだ時に、知っておくべきだった。
 アスカを引き取ったときから知っておくべきだった」
「……」

 リツコは淡々と話しているレイの顔を睨み付ける。

 が、レイはその視線を気付かないふりをしている。

「皮肉なものね。
 今度は碇くんだもの」

 リツコは、両手を挙げて、言う。

「分かったわ。これ以上は無駄なようね。
 ごめんなさい、無駄な時間を取らせたわね」

 と言うとテーブルの上の伝票を持って立ち上がる。


 その後車中では互いに何も話さなかった。

 今日のレイはどうかしている。例の騒動の時の、レイと同一人物とは思えない。いや、それとも自分が彼女を怒らせるようなことでもしたというのだろうか?リツコはハンドルを握りながら、助手席に座るレイの横顔を時折、窺ってみる。が、レイは無表情なまま、車窓の外を流れる闇を見つめているだけだ。

 あの話を始める前の、打ち解けた雰囲気が一転、刺すような皮肉を込めた言葉を返してくるとは予想もしていなかった。

 だが、ふとレイが冗談を言ってみた時の様子を思い出す。何故、攻撃的になったりするのだろう? 苛立っている? それとも……。そこで、リツコはようやく、レイが膝の上で手を硬く握っているのに気付いた。

 怯えている?
 いや、分かりにくいけれど、彼女なりの感情的反応なのだとしたら……
 車は、もう既にレイのマンションの前まで来ている。

「あ、その辺で結構です」

 そうレイが言うので、リツコは車を舗道際に止めた。

「今日はごめんなさい」

 といいながら、レイはリツコの方を振り返らずドアを開けて、車を降りる。そのまま、歩み去ろうとして、何かに気付いたかのように振り向いて言った。

「庵原さんのこと、調べてみたら?」
「庵原って……」

 どこかで聞いた名だ。

「ほら、夏の騒動の記事を書いた……」

 リツコは、はっと思い出す。そう言えばあの記者の父親が、何かキョウコとの因縁があったという話だった。いずれにせよレイが話したくないと言うのなら、彼に当たってみるしかない。それに彼には貸しがある筈だ。



 母がアスカを引き取ったとき、リツコは自分の事で忙しかった。大学を出たてで、母親に対する反発だけから就職口を探し、そこでの扱いに不満ばかりを抱えていた頃だ。それから一年もしない内に母が亡くなった。

 何故、母がアスカを引き取ったのかの経緯は本当のところ、細かいところまで知らない。未だ惣流キョウコは存命だった頃の事だ。「神経を病んで……」と母が言っていた。演奏家としての活動と、子育ての両立はキョウコにとって負担が大き過ぎた。

 そもそも彼女の活躍は謂わば、ひょんなことからチャンスに恵まれたせいだった。ラングレー家に嫁いだ時点で、実は惣流キョウコは演奏家としての野心を半ば諦めていたのである。降って湧いたチャンスは彼女とその夫及び親族に亀裂を生じさせずには居なかった。だから、ほんの数年の輝かしい活動の影で、彼女の毎日は夫の家族達との凄まじい軋轢で埋められていた。アスカが引き取られたのもそのせいだとリツコは納得していたのだ。

 それに、キョウコが結婚する以前からリツコは彼女を知っていた。


 思えば苦い記憶だ。

 結局、彼は常にリツコの手をすり抜けてばかりいたのだから。その最初の手痛い記憶がキョウコだった。


 加持の姉が十八で嫁いだ時、リツコは中学生だった。嫁ぎ先は加持とリツコ達の住む同じ町内のお屋敷と呼ばれていた大きな家。惣流家は戦前は華族だとかで、元々この近辺の土地を所有していたものが、戦後殆んど売り払われて、その住宅街が出来上がったのだとかで、周辺住民から尊崇と共に疎ましがられても居た。当時の当主は、何がしか残された資産から上がる収益は有ったものの、普通の勤め人であったのだし、元地主という以上に、その地域での影響力は持っていなかった。

 決して普通の結婚とは言えない。いや若気の至りとでも言えそうな強引な結婚だったから、周囲に相当反対されたのを押し切ってのことだ。当然、花嫁は妊娠5ケ月であったから、ごく内々に式が執り行われた。

 そんな騒動を加持は、面白おかしくリツコに聞かせてくれたものだ。小学校以来、ずっと学校の行き帰りは二人一緒。そんな習慣が、そろそろクラスメイトの冷やかしの対象となり始めた、そんな時期の事だ。リツコにとっては加持が幼馴染みから、それ以上の存在に変わり始めた時期でもあった。

 もともと加持は父親とは折り合いが悪かった。だから姉の結婚騒動での父親の狼狽ぶりが面白かったのだ。娘を傷ものにされた以上、相手の男を叩き切るのだと大見栄を切っていたのに、お屋敷の”ご当主”から頭を下げられれば、平伏して恐縮してしまう腑甲斐無さにも、日頃軽蔑している男を、それ見たことか、と思ったようだ。この時のことが元で後日加持は父親とは決定的に断絶してしまうのだが。

 そんなある日、加持に誘われて惣流家に行くことになった。

 学校の帰りにちょっと立ち寄ることにしたのは、未だ娘を完全には許していない父のて前もあってのことだろう。また微妙な立場の姉への気遣いからかもしれなかった。だが、行ってみて実は加持の目的が姉ではなく、小姑であるキョウコだったということを見せつけられる結果となった。

 芸大に通っていたキョウコが、その日は家に居ることを知ってその日を選んだのだし、またリツコが連れていかれたのも、いわば”ダシ”に使われたとは、着いてものの数分でリツコにもはっきり分かった。

 惣流キョウコは、柔らかでどこか捉えところのない感じのする女性だった。その美しさは、アスカにも受け継がれているのだが、アスカの持つ攻撃的なところは微塵もない。儚げという感じはしないのだが、現実から浮き上がってしまいそうな風情があった。それがピアノに関しては将来を嘱目されている才能の持ち主だという。加持は、すっかりキョウコに付きっきりだった。あれほど目を輝かせている加持を、リツコはこれまで見たことは無かった。彼の気持ちはそれを見るだけで明かで、リツコはいたたまれない時間を過ごすことになった。


 惣流キョウコと会ったのは、その一回切りだった。

 その後も何度か加持に誘われたものの、リツコは用を作っては避けていたのだ。

 勿論、加持の恋が稔るだろうとは到底思えなかった。それよりも、加持が自分を恋愛の対象とは認めておらず、他の女性に恋をしていることがショックだった。

 それは惨めな季節だった。

 惣流キョウコを怨みはしなかった。彼女のような人間を憎んだりするのは到底出来るものではない。母に連れられて、キョウコと高畑それにゲンドウの三人の演奏を聞いたのも、この頃のことだったけれど、あれが惣流キョウコだったという意識は無かった。それほどステージでの惣流キョウコと、普段の彼女の佇まいは異なっていたので、実は演奏会の後で初めてそれが彼女であることに気付いたくらいである。

 やがて、キョウコは殆んど日本国内には居なくなり、遂に海外で結婚することになる。落ち込んだ加持を慰めるという役どころに、リツコは、ようやく自分の居場所を見つけたように感じたものだ。と同時にこの頃、赤木音楽事務所は惣流キョウコとマネジメント契約を結んだことをナオコから聞かされ、縁の不思議さを思ったりもした。


 事務所に戻るとリツコは、惣流キョウコの過去の演奏会の記録を調べ始めた。レイのことを調べた時に、どうして自分はアスカの過去も調べなかったのだろうと訝しんだ。どうも惣流キョウコのこととなると、自分は無意識の内に、思い出すのを避けているようだ。何のかんの言っても、未だに加持に対する思いを整理仕切れては居ないようだ。

 惣流キョウコがこの世を去ったのは、アスカが七歳の時だ。丁度高畑の死の一年程後の事になる。

 彼女の演奏家としての活動期間は短い。クライバーンコンクールで惜しくも、高畑に優勝を譲った後一年程は副賞の契約により、演奏会を行なっていたものの、さほど成功を収めたとも言えない。勿論、コンクール2位入賞者としての実力を感じさせる演奏ではあったが、それはそれ以上でもそれ以下でもないものだった。「食い足りない感のある優等生的演奏」。それは翌年になれば別のニューフェースに場所を譲らなければならない、という事を意味する。

 やがて彼女は演奏家としての将来に見切りを付け、実業家のラングレー氏と結婚し、アスカを出産。演奏会活動は、それでも幾つかのサロンコンサートを年数回程度は行なっている。肩の力を抜いて無理しないペースで自分の音楽を続けていこう、この時期の惣流キョウコはそんな風に思っていたようだ。そんな活動に夫ラングレー氏の財力も助けとなったようだ。

 忘れられないよう始終、仕事を取っていかなければならない他の新人と違い、自分の好きな仕事だけを行なっていくには、惣流キョウコは演奏会の企画から自腹を切らざるを得ない。夫は妻が”やや変わった趣味”を続けていけるよう、それ相応の援助を行なってくれたのである。もっとも、興行収入はそこそこ入ってくるので事後的にはラングレー氏が損をすることは滅多に無かったのだが。

 そのような地味な活動も、ニューヨークの批評家から次第に注目を集め始めたころ、高畑の代役が飛び込んできたのである。

 つまり惣流キョウコが世界的に注目を集める演奏家として活動したのは、その後約6年ほどのことでしかない。

 その間の演奏会及びレコーディングの仕事の量は、異常とも言える。

 代役で注目された年は未だ20回程の演奏会に、アルバムの録音が1つだけだが、翌年になると演奏会数は100回を上回り、レコーディングは3枚。更に高畑の死から以降の1年半での演奏会は237回、レコーディングは8枚(クラッシックのレコーディングとしては異常な回数だ)と、何かに取り付かれたような仕事振りだ。いや、まるで自分の死期を悟ったかのようにすら思える。


 演奏会の多くはリサイタルだった。コンチェルトの回数はやはり多いが、共演するオーケストラや指揮者については余り恵まれていない。いや、「新人」なら十分恵まれているとは言える。つまり彼女の6年間は業界では新人扱いだったのである。当然と言えば当然なのだが、今見ると不思議な感じがする。一方、室内楽はメジャーデビュー後には不思議に回数が少ない。庵原のようにソリストの伴奏ともなると、ほんの数回しかない。更に記録を調べていくと奇妙な特徴に気付く。

 惣流キョウコが伴奏したソリストは、いずれもその演奏会を最後に引退しているのである。

 更に晩年のコンチェルトの記録を調べていて、リツコはそこにも気味の悪い符合を見出してしまう。ヴィルティオーソとしての名声が高まるに連れ、当然のことながら共演者のランクも上がっていく。当然指揮者も大物との共演が増えることになるのだが、その多くが現在は引退してしまっているのである。まるで彼らは、敢えて引退演奏会に惣流キョウコとの共演を選んでいるかのようだった。


 正直、今目の前にしている庵原を見て、リツコは意外な感を覚えざるを得なかった。もっと意地の悪そうな疲れた中年男を想像していたのに、そこにはまるで宗教者とすら見える柔和な笑顔の男が座っていたのだから。

「いつぞやは、大変失礼致しました。
 さぞや御迷惑をおかけしたと思います。一度ご挨拶をと思っていましたが、生憎と異動やら何やらで」

 庵原は悪びれずにそう言った。

 ○○新聞ビルの地下にある喫茶店。店内には低くクラッシック音楽が流れている。午後2時半。昼休みはとうに終っているので、客の姿もまばらだった。

 現在は○○スポーツから、本誌の方の地方欄の整理・連絡の仕事に回っているのだと庵原は言った。

「いや、お恥ずかしい話で。平たく言えば閑職です。まぁ当然の扱いなんですが」

 そう言いながら庵原は頭を掻いた。

「で、今日はどういうご用件ですか?
 やっぱりこないだの件ですよね。私ちゃんと謝罪してないから……」
「いえ、それはもういいんです。
 それよりも庵原義彦さん、御父様のことについて御聞かせ頂きたくて今日は伺ったんです」
「父のこと、ですか?」

 庵原の顔に困惑の色が浮かぶ。

「お父様は惣流キョウコさんとの共演の後で、突然引退してしまわれましたよね」
「あ、ああ、そうですね」

 一瞬、庵原は怯えているように見えたが、リツコは構わず質問を投げかける。

「その辺の事情をお聞かせ頂けませんか?」
「それは……」

 そういうと庵原は仰向いて目を瞑った。リツコは、庵原が答えるのを待っている。

 やがて庵原は大きく息を吐くと、リツコをまっすぐ見据えて話始めた。

「分かりました。いいでしょう。でも正直、私には何が起こったのか良く分かってないことの方が多いです。いや、何年も理解出来なかった。
 それがようやく分かったような気になったのは、先日惣流アスカさんや碇シンジ君に教えられて、なんですよ。
 それで良ければお話しましょう」

 リツコは、アスカとシンジの名前が出てきて一瞬驚いたものの、そう言えば庵原にあったことをアスカが教えてくれたことを思い出した。

「分かりました。それで構いません」
「そうですか。と言っても余り話すことは無いのですよ。
 とにかく、あの演奏会の後、父は全く演奏活動を止めてしまいましてねぇ。何と言うか、腑抜けというか……。
 まるで抜け殻のようでした。
 暫くは日常生活は何とかこなしていましたし、弟子の方達のレッスンを見たりもしていましたが。いや、本当はレッスンも酷かったらしいですけどね。後で聞いた所によると。投げやりと言うか。まぁ、たまに生徒が良い出来の演奏をすると子供のように喜んだりはしていたようですが。
 今にして思えば、生きる力が無くなってしまったんでしょうな。ただ身の回りを過ぎていく色んな出来事に漫然と対応しているだけの抜け柄みたいなもんだったんでしょう。
 その内、惚け始めましてね。遂には、家族の顔も分からなくなってしまいました」

 恐らくは家族にとって凄絶極まりなかっただろう話を、まるで休日の散歩で見掛けた光景を話すかのように、庵原は淡々と語った。

「そうこうする内に、親父は死んでしまいましてね。
 まぁ、寿命が尽きてするする死んでいってしまうような晩年でした」
「お気の毒に」

 とリツコは言ったものの、相手の表情が余りに穏やかなため、自分の発した言葉の座りの悪さに思わず赤面していた。

「まぁ、最初はねぇ。何でこんなことになったんだ、と驚きもし、怒りもしました。
 母も、父がああなってからは無理に働いたもんで、やはり過労が元で亡くなりましたから。
 とにかくあの演奏会の後でおかしくなった、という以外、思い当たる原因はなかったんですよ。だからねぇ、逆怨みとは思いながらも、惣流さんのことは怨んでいました」
「それで、アスカのことを記事にしたりされたんですか」
「いや、お恥ずかしい限りです。アスカさんには何の罪も無い。
 大の大人のするようなことじゃなかったです。
 なんぼ責められてもしようがない。
 すみませんでした」

 そういうと庵原はテーブルに手をつき、深々と頭を下げた。

「あ、いえ、別に責めた訳じゃなくて……。
 さ、頭をお上げ下さい。
 今日はそのことで伺ったんではないんですから」
「あ、そうでしたね」

 そういうと庵原は気恥ずかしそうに笑った。

「まぁ、結局のところ、私はあの演奏会で父に何が起こったのか分かってはいません。
 でも、その演奏は聴いていました。
 そう、多分、あれは父の生涯最高の演奏だった」

 庵原は思い出しているのか、遠い目をした。

「いや、私は、その、まぁ親父に反発してましたから音楽の方はというと、実はからっきし駄目なんで。音そのものもあんまりはっきりとは覚えていないんですが。
 でも、その時見た光りははっきりと覚えていますよ」
「光り、ですか?」
「ええ、そうです。
 私には光りに思えました。
 音楽が目の辺りにしてみせたのは、世界一面の光りでしたよ。
 そうとしか言いようがない。
 そんなことが出来るなんて思いもしなかった。
 今にして思えば、それが父が追い求めていたものなんでしょうね。
 それが私には分からなかった」
「そんな素晴らしい演奏をされたのに、何故……」
「本当のところは良く分かりません。
 アスカさんやシンジ君によると、父はあの時、全ての目標を達成してしまったのだ、と、それで追求するものも消え、それ以上は生きる意味を喪ってしまったのだと」
「あの子達、そんなことを」
「ええ。でも分かる気がします。
 確かに私たち家族にとっては陰惨な思い出です。
 でも、父にとっては、思えばそれは幸福な終末だったのかもしれません。
 誰しもが、追い求めるものに辿り着ける訳ではありません。そんな人間は万に一人も居やしないんです。だとすれば、父は稀に見る幸福な男だったのかも知れません」
「でも……では何故、あの演奏会の時に……」
「さあ。
 でも、それが惣流キョウコさんの力だったんじゃないですか?」
「キョウコさんの力?」
「ええ。別に超能力って訳ではないですが、一種触媒のような……。
 いや、どう言って良いのか分からないんですが、そんな風に他人に影響力を及ぼす人って、日常の生活の中にも居ますよね。
 惣流キョウコさんという方は、それを音楽の演奏の中で発揮される才能をお持ちだったと考えられませんか?」
「それは……」

 確かにそれは仮説としては、考えられないことも無いが、しかし余りに突飛な話だ。

「まぁ、随分と乱暴な推論をしていますがね。
 そうそう、シンジ君が父の生前の演奏を再現してくれましてね。
 なんでもレコードで聴いた演奏を真似て演奏してくれたんだそうで。
 それは確かに、あの日の演奏に繋がっている何かだ、と私は感じました。
 あの日の演奏会で父がした演奏は、思いもかけずそこで完成に達してしまった訳ですが、決して父を離れてある訳ではない。
 父の中から生まれでたものだ、と私はようやく信じることが出来るようになりましたよ。その後、父のCDを探して聴いてみたんですが、思った通りでした。父はああいう演奏をするであろうような人だった。
 その事が分かって、私は年来の凝が融けていくのを感じました」

 庵原はそういうと幸福そうに微笑んだ。

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