▼第四十章

 UFCパリ支社の支社長室のソファには、格調高い支社長室に似つかわしくない人物が座っていた。

 スーツを着てはいるものの、その下には隆々たる筋肉が隠されている事が一目で分かる。五分刈に切りそろえられたブロンドの頭髪を通して、頭には幾つかの傷跡が見える。それよりも目に引くのは右ほほを目の下から耳の下まで走る大きなケロイド跡となった傷だ。どう見ても表の世界の住人ではない。

 支社長のデスクには、バリモアが憮然とした表情で座っている。

「全く、会長と来たら何でああも、グンデマーロに甘いんだ」

 ソファに座っている男は黙ったままだ。

「あの政権はとにかくヤバイんだ。なるべく早く事情を知ってる連中を葬って置かねばならんのに。おまけに奴ら何か企んでる。それが何かなんて調べてるよりも、さっさとぶっ潰してしまえば一挙に全ての問題は解決する。
 な、そうだろう、ビクター?」
「……」

 ビクターと呼ばれた傷の男はそれでも何も答えない。というよりも先ほど来、身じろぎ一つして居なかった。

「はっ、ま、お前にこんな話を聞かせてもしょうがなかったな」

 バリモアは壁際のホームバーまで歩いていくと、グラスにブランデーを注いだ。

「とにかく、だ。危険はなるべく早く除去せねばならん。
 そこで私は、しかるべき措置を講じることにした。
 お前に来て貰ったのは他でもない、その為の仕事を頼みたいからだ」
「仕事の内容は?」

 低く冷たい声が、バリモアに届く。

「まぁ、そう急くな。
 やって欲しいことは、グンデマーロの暗殺、それに奴と交渉に関わったパドルーSAの役員全ての暗殺だ」
「全員、か?」
「そうだ」
「パドルーSAの対象者は全て特定出来ているのか?」
「いいや。その特定も仕事のうちだ」
「対象外者の殺傷人数に制限はあるのか?」

 バリモアは、ひゅーと口笛を吹く。

「無差別殺人か。
 まぁいいだろう。その方が足も付きにくいからな。
 確実に成果を挙げるなら何人殺しても構わんよ」
「分かった」

 そういうとビクターは立ち上がる。

「必要なものは後でリストを送るから調達してくれ」

 それから、バリモアを振り返りもせずに、支社長室を出ていった。

「返事も聞く必要ないってことか」

 残されたバリモアは、ほっとため息を吐く。ビクターの圧迫感に押されて居たのだ。バリモアはデスクの引き出しから葉巻を取り出して火を付けた。先ほどの来客からは、煙草は遠慮するよう申し渡されていたのである。人一倍健康に気を使う殺し屋というのもなるほど、頷けないでもないが、どこかおかしい気がした。

 ひとしきり煙をくゆらせると、バリモアはパソコンのスイッチを入れる。UFC社内のPCは全て、全世界を結ぶUFCの社内WANに接続されている。起動メッセージには、社内のコミュニケーションは全て会社の資産であり、会社は常に社員のコミュニケーションを参照する権利を持つという主張が表示される。

「難しいのは会社って言うのが会長とは違うってとこだよな」

 デスクトップ上のHotLineと書かれたアイコンをクリックする。するとVPNの認証ダイアログが表示される。実はUFCの役員は社内のWAN上で一定の数のVPNを張る権利を持っているのだ。これは役員同士の権力闘争を平和的に維持するのに役立っている。各VPNはCIOですらパスワードを破ることは出来ないことになっている(もっとも本当のところどうだか知らない。ただしとっくにCIOは抱き込んでいるので問題はないだろう?)。

 それからバリモアはVOIPを起動する。データ通信の世界では、却って音声データの方が傍受しずらいのだから面白いものだ。

「なんだ?」

 PCのスピーカから乾いて不機嫌そうな声が響く。

「バリモアです。手は打ちました」
「そうか。分かった。
 で、何時頃になりそうなんだ?」
「いえ、まだそれは分かりません。ビクターから連絡あり次第御報告します」
「ああ、そうしてくれ。だが余り遅くなるようだと……」
「分かっております。
 ですが……」
「なんだ?」
「処理してしまうよりも、スキャンダルにしてしまう方が良かったのでは?」
「ふん、ハートフォード老にはご引退願いたいというのか?」
「いえ、とんでもない。
 ただそういうケースは十分考えられますんでね」
「そうだが、今はまだあのご老人には働いてもらいたいんでね。
 ま、面白そうなアイディアだが、リスクも格段に大きかろう」
「そうですね。
 余計なことを申し上げました。
 それでは失礼いたします」

 通信を打ち切ると、バリモアは思わず小い笑い声を漏らした。こうしていることで、自分はUFCの中で誰よりも事情通であるのだ、という満足感が得られるのだ。最初、パリ支社長というチンケなポジションは、バリモアのプライドを痛く傷つけた。だが、ようやく運がめぐってきたのである。

 バリモアはグラスを高く差し上げると、うっとりとした表情で言った。

「グンデマーロ君、愛してるよ。全て君のお蔭だ」


 アスカの渡仏後最初のリサイタルは、好評のうちに無事終了した。シュッツが伝えようとしたものを全てものにしたとは到底言えない出来だった。しかし、試みただけの価値はあった。

 ル・モンド誌の演奏会評にはこうあった。

「ラングレー嬢については、リーズ国際コンクールでの優勝以来、斬新で知的な、そう、若さゆえに許される攻撃性を備えた演奏家として知られてきている。それ故、今回のリサイタルも我々は、そうした分解され再構成されたフランス近代ピアノ音楽の姿を見せつけられるものと予想していた。

 だが、彼女は我々の予想を裏切り、それよりも遥かに豊かなものをもたらしてくれた。そう。本来、これらは我々フランス人にとって心の深いところに拠り所を持つ音楽だったのだ(スクリャービンはフランス人ではない、がそんなことは大した問題ではない)。そこかしこに我々は懐かしい歌を聞かなかっただろうか?なるほど全体的な構成という点ではラングレー嬢特有の分析が加わっているのは明かだ。だが以前ならそれが純化し尽くされて冷たく美しい宝石のようなパッセージを聞かせる筈だ。しかし今回はそれが全て歌っている。朗々としたカンタービレもある。あるいはちょっとした鼻歌もある。気恥ずかしげに小声で歌われた歌もある。それらが構成の枠を越え溢れて渾然一体となった音楽になっているのだ。

 一体、彼女は何時の間にこれほど深くスクリャービンやメシアンやラベルを研究したのだろう。いや、これは研究や研鑽の成果というものではない。むしろ人間的な成長と言うべきだろう。

 要するにラングレー嬢の演奏は人間的に深みを増したのである。」

 また、アスカの演奏会については、珍しくテルケル誌でも取り上げられ、特にエコル・ノルマルのジャック・ランベール博士が掲げた詳細な評論は大い話題を集めた。

 総じていえば、アスカのフランス進出は大成功といって良いだろう。


「もっとも、どのメディアでも”惣流”って名前はみーんなSで済まされてるんだけどね」

 赤木音楽事務所のパリ駐在員オフィスは、オペラ座の向いのホテルの一室にあった。というよりも実はレジデンツで長期に借りているだけなのだが。いささかコストは張るものの、どうせ一人しか居ない所帯の上、こうした仕事上は却って好都合なことが多いのである。ただし駐在員は仕事場と住居が同じとなり、よほどのワーカホリックでないと勤まらないと言われている。

 アスカはしばしば、ここを避難所のように使っていた。語学に堪能なアスカはフランス語の会話に困ることはまず無かった。それに幼少時には英語が家庭内の言葉だった。にも関わらず今や、アスカでも日本語で気兼ねなく話したい時がある。日本語は彼女の人格を形成した言語のせいか、どの言葉よりも日本語が懐かしいのである。

「まぁ、その方が抵抗感無いんでしょうね。日本人って感じがしなくて。
 でも、却ってそれだけ実力で認められてるってことじゃない?」

 とパソコンに向かってキーボードを打ちながら、答えるのは矢作嬢。ソルボンヌで哲学を専攻している内にバイトのつもりで連絡員を引き受け、そのまま正式社員となったという経歴の持ち主だ。三十半ば。当然独身である。

「いやだな、それも」

 アスカは長椅子に寝そべり、天井を見上げながら言う。

「そうねぇ。こっちの人って『日本人なのにこれだけできるなんて』って評価ですもんねぇ」
「自分たちだけが文明人と思ってるのよ」
「まぁまぁ、それだけの伝統もあるんだし」
「あら、伝統なら日本だって負けないんじゃなくて?」
「それは水掛け論になるわよぉ。他の国に比べれば、ガリカ・ロマーナを起源と心得る人達だもん。年数では日本より古い歴史よね」
「根こそぎ人が入れ替わってるような伝統持ち出されてもね」
「そう?
 結構連続してるんじゃない?」
「民衆レベルでってことでしょ。

 でも、連中の伝統って言ってるのは、被支配者の文化の伝統の継続ではないわよね」

「まぁね。でもそれを言うならその手の問題のすり替えは日本だって似たようなものでしょ」
「だから最後には武力で決着付けてきたのよ、ヨーロッパってのは。
 野蛮よね」
「アスカちゃん、日本が恋しくなったの?」
「まさか」
「そう?
 でも、意外。まるで右翼団体の人みたい」
「げっ、嫌だな、それも」

 他愛もない軽口である。そもそもアスカだとて、歴史に詳しい訳ではない。殆んどがどこかで聞いた言葉の受け売りなので、単に溜飲を下げたいが為の無責任な発言だ。だからこそこんな話はフランス人には聞かせられない。

「じゃ、あたし帰るね」
「あ、アスカちゃん」
「何?」
「あのね、例の演奏会以来、結構仕事の依頼が来てるんだ。
 まだ、条件とか色々とあるんで整理出来てないけど、明日ちょっと相談乗ってもらえる?」
「勿論。だってそれ私の仕事でしょ。
 わかった。じゃ明日学校が終ったらまた寄るわね」
「ええ、お願い。あ、それと……メールが一通」
「へ?」
「碇シンジ君から」
「えっ」

 アスカの顔はみるみる朱に染まる。

「短いから読んじゃうね。
 ”すみません、矢作さんからアスカに連絡くれるよう、伝えてくれませんか”だって。
 なぁに、アスカちゃん、シンジくんに連絡してないの?」

 実は赤木音楽事務所の社員は全員、例の恋人宣言を知っているので面識のない矢作嬢まで、”シンジ君”が誰かは周知なのである。もっともプライドが服を着て歩いているようなアスカ相手にからかう果敢な社員は滅多に居ない。なお矢作嬢がその希少な社員の一人であることは言うまでもない。

「……すみません」
「今、ネット繋げないんだっけ?」
「いえ、そんなことは無いんですけど……」
「変ねぇ。まさか、メール見てないとか」
「はい……」

 アスカは真っ赤になって恐縮する。シンジへの後ろめたさと共に、恥をかかせてくれたことをどう埋め合わせさせようか、と考え始めている。もっともそうなることを恐れて、シンジはこの手段に訴えることを今日までためらっていたということを、アスカは知らない(考えればわかりそうなものだが、言うまでもなくアスカはそういうことは考えないのである)。


 アスカの成功はむしろ日本のマスコミでの方が大きく取り上げられていた。これは例の提携していた民放がドキュメンタリ番組を放映したせいでもある。またスポンサー企業も自社CMにアスカのリサイタルのシーンを使っていた(因みに製品名を言うシーンも、別途リハーサルの合間に撮影されていた)ので、それこそ御茶の間レベルでアスカは知れ渡っていた。


 なんの変哲もない昼休み。さすがに受験まで秒読み体制の為か、教室内では参考書を広げているものも多い。

「なーんや、えらいことになっとるなぁ、シンジ」
「ああ」

 さすがにシンジも最近は元気がない。日本に居たころは本人が嫌がることもあり、こうしたマスコミの扱いは滅多に無かった。天才少女ピアニストは極めて地道に活動していたのである。ところが本人が居ないことで、歯止めが無くなったのか、いや本人そっちのけでアイドル化が進行しているのだ。レコード店でも、アスカのCDのコーナが出来たし、例のドキュメンタリ番組のDVD発売の他、それ以外のコンサートやコンクール、あるいは過去のテレビ番組の出演まで各種のビデオ・DVDが発売された。

「さすがにちょっと行き過ぎちゃうか?」
「ああ」

 シンジには全く取材が及ばないところを見ると、しっかりリツコのコントロール下にあるのは明かだ。リツコのことだから本人が居ないところでのブームなど一年も続かない、それならば利用して稼いだ方がいい、という計算をしているのだろう。リツコは、一見芸術の擁護者然としていながら、その実露骨且つ手段を選ばない商売人のところがある。シンジには、リツコのそういう部分がどうしても付いていけないと感じてしまう。

 だが、それよりもシンジには、アスカに決定的な差を付けられたというショックの方が大きかった。現地での評価を見るまでもなく、テレビで見たアスカの演奏は格段の進歩を見せているのがはっきりとわかる。確かにこれまでもアスカの演奏は凄いと思っていた。だがそれはどこかシンジにも到達しそうなところにある”凄い”だったのである。

 しかしあの演奏には、もうそんなところなど微塵も無い。今のシンジにはどうやったらそこに辿り着けるのか見当が付かなかった。呆然としてただただ聴き惚れるしかない。

 ……追いていかれる

 そんな焦りがじわじわとシンジの中に湧き起こってくる。この間、シンジは自分がロクに進歩していないような気がしてならないのだ。アスカのようになるには、これまでの延長線上では駄目だ。ではどうやったら延長線から抜け出せるのだろう?分からない。とすれば自分はこのまま自分の枠の袋小路のなかで固まっていくしかないのだろうか?

 それまで我慢していたアスカへの連絡を急に思い立ったのも、その焦りからだった。

「なぁ、どないな感じなんや、彼女が有名人っちゅうのは」
「……」

 何気ないトウジの言葉も、今のシンジには随分な物言いに聞こえる。いや無神経とさえ思えてくる。そのシンジの様子の変化にトウジは気付き、慌ててて宥めにかかる。

「あ、ごめん、別に悪気は無いねんで。気に触ったらごめんな」
「……別に…いいよ」

 シンジは、やっとのことで言葉を返した。

「悪かった。
 な、元気だせや」

 トウジはどう了解したのか、そんな言葉をかけ自分の席に戻っていった。午後の授業開始の予鈴がなり始めた。


 ラベル、ドビュッシー以降のフランス近代ピアノ曲でのレッスンは、アスカのリサイタルの曲目がそうだったからであって、シュッツはむしろアスカには、特にロマン派のピアノ曲を特にレッスンしようと考えていた。アスカのこれまでの演奏活動は、特にショパン、シューマンと言った大抵のピアニストが十八番とする演目が少ないのが特徴だった。無論、出演依頼の多くは曲目の指定付きで来る訳だから、アスカは同クラスの演奏家の中では、随分と我儘を許されてきたことになる。ただしそれが業界内で疎まれなかったのはリツコのマネジメントによるところが大きい。

 いずれにせよ、アスカにとっては実は、ロマン派の、特にショパンなど叙情的な曲を苦手としているのは確かだ。もっともリーズ国際コンクールではショパンの曲が課題にあった訳だから、決して他に比して演奏の質が劣るという訳ではない。ただアスカにしては、余りアスカらしくないオーソドックスな演奏であるという程度ではある。

 これに対しやはり得意だと感じているのは、ベートーベンやハイドンなどの古典(ただしモーツァルトはハイドンより苦手のようだ)、またプロコフィエフの特にモダニズム時代の曲、また叙情的ではあるけれどラフマニノフは余り苦にならないし、ショパンと同時代にも関わらずリストは得意なのである(という訳でドボルザークやチャイコフスキーは曲目によっては苦手では無い、という事になるのである)。

 とこう挙げていくと何故苦手なのかがおぼろげながら分かって来よう。

 余り訓練を受けていない女優は、女形程に「女性的」な演技が出来ないのと同根なのである。あるいは女性の画家程、「美人画」は苦手とする等。

 だが、プロの演奏家としてはそれでは世界が狭過ぎるし、そのままでは得意と思っている曲ですら本当の意味にモノには出来ていないということにもなる。


「だめ、だめ。
 もっと色々な感情でなければ。
 ただrubatoすればいいってものではないね。in tempoでも同じ表現が出来なければ」

 さすがに最近ではシュッツは、アスカとの会話にもフランス語を使うようになっている。フランス語も日本語も彼にとっては母国語ではないのだが、まだフランス語の方が自由に使えるし、アスカの語学力も十分なので、意志疎通に遺漏なくする為には気兼ねすることなくフランス語を使うようになったのである。

 今週に入ってからショパンの特にノクターンばかりを弾かされるようになっている。これらの曲はいずれも技術的には簡単なものばかりだ。従って、テクニックの冴えで音楽を作ってしまうことはほぼ不可能だ。ただただ音楽性のみを要求される。そしてこういう曲こそアスカにとって苦手中の苦手なのである。

「どうした? もう疲れたのか?」
「……いえ、まだ大丈夫です」

 と気丈に答えるものの、アスカの顔に浮かんだ疲れの色は隠せない。

「今日はこの辺にしておこう」

 シュッツはアスカの肩を軽くいたわるように叩くとレッスン室を出ていった。

「ちくしょう、ちくしょう!!」

 後に残されたアスカは、こぶしを膝に打ち付ける。その手の甲に涙が落ちた。


 覚悟はしていなかった訳ではない。自分にはっきりと苦手と得意が出来てしまっていることに薄々危機感は覚えていた。だが演奏活動を続けながら独力で克服するのは容易では無かった。得意なものを選べば、仕事としては安全なのだ。プロである以上、冒険にはおのずから限度がある。一見、我儘に見えても仕事を選べるなら選んだ方が良い。というのも失敗すれば仕事は無くなるのである。そうやって新人はどんどん間引かれていく。リツコの手腕はアスカを潰されていく新人の群れに埋没させない為に発揮されていたのである。如何に才能があろうとも、潰されないだけの運と人間的な強さが無ければ生きていけないのも、この業界の現実なのだ。天才だけでは生き残れない。それはアスカとて同様だった。ましてや十代のうちから一線の活躍を続けていくには、それなりのお膳立てが必要だったのである。

 その代償が現在のアスカの状態なのだ。

 ある意味で、アスカは良いタイミングで留学を思い立ったと言うべきだろうか。


 火曜日だった。

 午前の講義が終ったので教室を出ようとしているところで、シュッツがやって来た。学校で彼が個人的に声をかけるのは珍しい。

「ちょっと今日の午後時間が取れるかな?」
「はい、いいですけど」
「じゃあ昼食後に、第15レッスン室に来てくれ」
「わかりました」

 今日の午後は学校でのレッスンの日ではない。怪訝に思ったが、偶然時間が空いたのかとその時は深くは考えなかった。いずれにせよ今日は学校近くのカフェテリアで昼食を取ることになるだけのことだ。マリーおばさんの食事でないのは残念だが、たまにはこういう日もあって良い。


「やあ、君が惣流アスカ君かい?」

 銀髪。シャツをみぞおちまではだけたにやけた男。絵に描いたようなキザ。

 余りにステロタイプな姿に、アスカは開いた口が塞がらない。が、その上その青年はバイオリンを持っている。部屋の奥、ピアノに向かって座っているシュッツにアスカは困惑した視線を投げかける。

「アスカは、その椅子に座って」

 と壁際に置かれたパイプ椅子をシュッツは指さす。

「この子は渚カヲル君。君と同じく日本から来てるんだ」
「よろしく、アスカ君」

 にっこり笑って、大げさに礼をする。いやシュッツがいなかったら膝まづいて、手にキスまでしそうだ。

「じゃ、始めようか」

 アスカが呆然としていると、カヲルはバイオリンを構え、やがて音楽が始まった。

 メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲の第二楽章。一楽章ばかりが異常に有名なこの曲の二楽章には難しいところは余り無い。甘いメロディーの緩序楽章。良くもまあ臆面もなく甘ったるいメロディーが書けたものだと思える程に通俗的な旋律だが、メンデルスゾーンらしく形式的には律義な音楽。いやそうした律義さが無ければこの音楽は、壊れてしまうだろう。そんな弾き古されてしまったような音楽で、カヲルは驚くべきことをやってみせた。

 エロチックなのである。

 まるで、行為の後のベッドの中の女の囁きのように。あるいは枕語りのように。密やかで、嫋々として、どこか淫靡で。聴いている内にアスカが自分の顔が火照って来るのを感じた。一体何なのだ、この音楽は。

 渚カヲルと名乗るこの青年は、これだけの表現を支える技量があるのは疑い無かった。勿論、アスカの耳には幾つかの些細な欠陥が聴きとれないでも無いのだが、そんなことは全てご帳消しにしてなお余りあるだけの表現がそこにはあった。例え、こんなエロチックな音楽を好きになれないとしても、聴くものをしてはっきりエロチックであると感じさせられるというのは並の才では無い。

 二楽章はAttacaでそのまま三楽章に続くのだが、シュッツはいきなり、そこで伴奏を止めてしまう。

「アスカ、どう?
 伴奏やってみる?」

 アスカは何故、シュッツがそんなことをいうのか不思議に思った。オーケストラ伴奏のピアノ編曲。しかも極めていい加減なアレンジがされた、その楽譜はピアニストにとって弾いてみたいと思わせるような要素は全く無い。だがシュッツがわざわざ言うのだから、何かしら意味があるのだろう。一瞬、不安が胸をよぎったがアスカはやってみることにした。

「はい。やってみます」

 その時、渚カヲルが意味ありげな笑いをしたのが気にかかった。


 弾き始めてすぐにアスカは、やるのでは無かったと後悔し始めた。というのも、実際に一緒に演奏をしてみるとエロチックな感覚は、座って聴いている以上に感じられてくるのだ。まるでカヲルのバイオリンの音は、裸のアスカの体に蛇のように巻き付き、随所に執拗な愛撫をしてくるかのようだ。嫌悪感とともに体の奥がうずいてくる。いや、その先に得も言われぬ快感が潜んでいそうな感じがする。アスカの顔は真っ赤に染まっている。息が荒くなっているのが分かる。


 何とか二楽章を弾き終えて、アスカはぐったりと肩を落す。微かに下着が濡れているのを感じる。

 何故か、泣き出したかった。

 俯いたままアスカは立ち上がる。とにかくこの部屋を出たかった。

「いい反応だったよ。
 君は可愛いね」

 気がつくと、カヲルはバイオリンを置いて、アスカのすぐ脇に立っていた。

「どうしたんだい、アスカ君。僕の演奏がお気に召さなかった?」

 答えようとしたが、声も出ない。いや何と答えていいか分からない。それどころか、今顔を上げたら泣きだしそうで、アスカは俯いたままぐっと堪えていた。

「そうか、ひょっとして感じた?」

 くすっとカヲルが笑った。

「な、何を言うのよ!」

 きっとなってアスカはカヲルを睨みつけた。

「ごめんよ。怒らせるつもりは無かったんだが……」

 と言いながらもカヲルはにやにや笑いを止めない。

「あんたねぇ……」
「僕が?……」

 するとカヲルは、突然何かを思い出したかのようにアスカの手を取ると、ぐいっと体を引き寄せる。

「な、何を……」

 と抗議する間もなくカヲルの右手はアスカの腰に回されている。そして吐息が掛かるほど顔を近づけると、左手の人差指でそっとアスカの下顎を持ち上げる。

「そうか、もっと仲良くなれば良かったのかな」
「馬鹿! このセクハラ野郎!」

 アスカは思いっきりカヲルを突き飛ばすとレッスン室を飛び出した。

「あ、待ってくれよ、アスカ君」

 妙にのんびりとした調子のカヲルの声がアスカの背中を追って来る。


 中庭を抜け、聖堂前を通り過ぎ、図書館の裏庭のベンチのところまで走ったところで、馬鹿馬鹿しくなって、アスカは走るのを止めた。鉄製のベンチは冷たく気持ち悪かったが構わず座る。

 そもそもここまで逃げてしまったことに、嫌気が差している。感情的に反応せずに冷たくあしらい、セクハラ行為には断固として抗議すれば良かっただけのことだ。それにシュッツにも抗議するだけの理由はある。そもそも先生は何であんなとんでもない男と会わせたりしたのだろう。

「いやー、結構足が速いねぇ」

 と頭上からのんびりした調子の日本語が聞こえる。少しも息を切らせていないところを見ると、本当に歩いてきたようだ。とすれば、ここに逃げるのも読み筋だったということになる。

「すまなかったね。
 僕は女性の扱いには慣れていないんだ。
 あ、心配しなくていいよ。僕は女性には興味がないから」

 じっと黙っているアスカにお構い無しにカヲルは立ったまま、話続ける。

「あ、となり座っていいかな」

 アスカの沈黙を承諾と勝手に解釈して、カヲルは隣に腰を下ろす。

「わぁ、冷たいねぇ」

 既に広葉樹はすっかり葉を落している。日も暮れかけて空気は刺すような冷たさを含み始めていた。

「僕は、男性の方に興味があるんで、どーも女性が苦手なんだ」

 アスカは気持ち悪いものを見るような視線でカヲルを睨み付ける。

「あれ?
 アスカ君は同性愛者に対して偏見を持ってるのかい?」

「あなたが同性愛かどうかなんてのは問題じゃないわ。
 わたしが怒っているのは、あなたの無礼な行為に対してであってあなたがどういう人格かなんて興味無いのよ」
「嘘だね」
「な、何を言うのよ」
「そう? だって本当は君を動揺させたのは僕のバイオリンだろう?
 確かに僕は君をどう扱っていいか分からなかったんで、無礼な振舞に及んでしまったようだけど、それは後の話。
 そうだろう?
 それとも否定する?
 君は音楽のことで嘘を付くような人なのかい」
「うっ……否定しないわ」

 痛いところを突いてくる。

「どう感じた?」

 まっすぐアスカの瞳を見つめてくる瞳の色が、レイと同じことにアスカは内心驚いている。

「どうって……良く分からないわよ」
「君は恋している?」
「い、いきなりな質問ね。同性愛者は異性には遠慮が無いの?」
「別にそんなことはないけど、回りくどいことは嫌いなんだ」
「恋人くらいいるわよ」
「へー、意外。今彼はどうしてる。
 あ、案外彼女だったりするのかな」
「よしてよ、わたしは同性愛じゃないからね」
「ふーん、やっぱり君は余り同性愛者に良い印象は持っていない、と」
「ええ。はっきり言ってそうよ」
「ま、それは君の問題だからいいけどね。
 ただしここでは、余りそういう態度は表さない方がいい。
 同性愛者への偏見があるということは、こっちでは不利にしかならないよ」
「ご忠告どうもありがとう。
 で?
 あなた一体わたしに何を言いたいの?」
「君は逃げてる」

 アスカは瞬間頭に血が昇るというのを始めて経験したと思った。

「ば、ばかっ!!
 あたしのどこが逃げてるって言うのよ」
「君は賢いね。だからどんな音楽でも、自分の中に共感する感情が無くても、音楽を曲から引き出すことが出来る。
 でも、それは君の頭脳が引き出してるだけ。
 その曲がどんなに深い感情の表出であっても、君自身の感情は、どこか安全な場所にしまわれていて、決して傷つかない」

「……な……」

 アスカは言葉につまる。カヲルの指摘は彼女が漠然と気付きながら心に封をしているものを起こしてしまいそうだった。

「別に作曲家と同じような感情生活を追体験しなければいけない、とは思わない。
 けど共感しない音楽は音楽じゃないよ」
「……あなた自身の演奏はそうじゃない?」
「うん、さっきのメンデルスゾーンはね、かなり共感している」
「あれは……淫らだったわ!」

 アスカは吐き捨てるように言うが、カヲルは悪びれずに答える。

「うん。僕自身のエッチな感情と共鳴するんだ。それがいいかどうかは別として、僕にはああ言う共感の仕方があった、というだけのことさ。
 それに君自身、随分感じていたんだろう」
「……ええ、それは認めざるを得ないわ」
「で、君は恋しているの?」
「やけに拘るわねぇ。
 そういう質問をするなら、まずあなた自身から話すべきだわ」
「恋をしてるかってこと?」
「ええ」
「ふぅー。
 しょーがないなぁ。
 僕のはね、片想いなんだよ。しかも相手は僕を知らない」
「あら、随分と純情路線じゃない」
「そう? そんなに意外かな」
「まぁ、いいわ。それで?」
「ええ? まだ話すのぉ」
「そうよ。当然じゃない?
 相手は誰」
「うん、碇シンジ君」
「えーっ!?」

 アスカは驚いてカヲルの顔をしげしげと眺める。

「アスカ君の彼氏ってシンジ君じゃないよね」

 カヲルの目は真剣だった。からかっているのかとも思ったが(というのも、それなりにシンジとアスカが共演した程度のことは知られている筈だったから)、どうもそうではないらしい、と共に、アスカはどうにも居心地の悪いものを感じざるを得ない。カヲルの問いに素直に”そうだ”とは答えられないものの、”違う”と言うのもためらわれた。

「さぁ、どうでしょうね」

 とはぐらかすように言ってみる。

 が、そんなアスカをじっと見据えるカヲルの眼差しは揺らがない。

「はぐらかさないで。
 僕は正直に答えた。だから君も正直に答えなくてはいけないよ。
 それに、嘘をつくのなら、君は君の彼氏に対しても不誠実だってことになってしまうよ」
「そ、そんなことは……」
「じゃ、答えて」
「……そうよ」

 ようやくのことで答えたものの、自分の言葉のどこかにまだ不誠実なものが隠れているような気がした。

「やっぱり」

 カヲルは、さっと立ち上がると右手を差し出す。

「じゃ、僕らはライバルだね」
「ま、まさか本気じゃないでしょうね」

 アスカも思わず立ち上がる。

「どうして、こんなことで冗談を言わなければならないんだい?」

 カヲルは本当に不思議に思っているようだ。

「だって、あんたに勝ち目なんてないわよ」

 アスカがこう言ったのは、自信からではない。そもそも勝負が成立しない客観的条件が揃っていることを指摘したにすぎない。

「そうかな」
「そうよ。だってシンジは日本だし、あなたはシンジに会ったことはない」

 アスカの言葉にカヲルはくすっと笑った。

「何がおかしいのよ!!」
「だって、今のアスカ君になら勝てる気がするからさ」
「何ですって!?」
「ほら、そんなことも分からない」
「な……」
「さて、僕はもう行くよ。
 多分、君とはこれから色々とおつき合いして頂くことになる筈だから、取り敢えずよろしく。
 じゃ、さよなら」
「ちょっと待ちなさい!
 何のことよ、おつき合いって」

 カヲルは振り返らず歩きながら言った。

「君の先生に聞いて御覧」

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