▼第四十一章

 シュッツは先に家に帰っていた。


「先生、どういうことなんですか、一体!」

 アスカは玄関のドアを開けるやいなや、大声で言った。

「まぁ、まぁ、なんて騒々しいんでしょう」

 出てきたのはマリーだ。六十歳はとうに越えているだろうか、太っているが上品な顔立ち。銀髪なのはもともとなのか、白髪だからか分からない。

「ごめんなさい、先生は?」
「先生ならレッスン室でお待ちですよ」
「待ってるんですか?」
「ええ、お帰りになられたら、連れてくるようお言いつけでしたから」
「そうなんですか」

 妙に読まれている感じがするのも、アスカの気に食わなかった。


「で? どういうことなんですか?」

 レッスン室では、シュッツが古い楽譜を大量にピアノの上に積み上げ調べていた。アスカが入ってくると一瞬、老眼鏡を持ち上げて上目使いにアスカを見上げ、それから再び楽譜に戻ってしまう。

「何で、あんな奴と。どういうおつもりなのか、お話くらい聞かせて下さい」
「君は、これからしばらく彼の練習の伴奏に付き合ってもらう」
「嫌です」

 アスカは即座に答える。しかしシュッツは、

「そうか」

 と言ったきり取り合う気が無いようだ。しばらくアスカはシュッツが何か言ってくれるのを待っていたが、どうやらシュッツに答える気が無いと分かると仕方なく自分から言葉を繋ぐ。

「あたしは嫌です。あんな男とは」
「では、日本に帰りたまえ」
「えっ?」
「私は君の訓練の為に彼を起用した。
 確かに彼の振舞には問題が多いのも分かっている。君にとって不快なことも承知だ。
 だが君にとって彼の音楽の価値がそれだけだ、というのなら今回の訓練は無用だ。
 それならもう私は君を教える気にはなれない。
 さっさと日本へ帰りたまえ」
「そんな……」
「彼が不快な態度や行為に及んだら君は、彼に抗議して止めさせることが出来る。
 彼は話の分からない男ではあるまい?
 その程度の労も取りたくないというのなら、わざわざ日本からでることも無かったろうに」
「……せめて、
 せめて、それでは一体どういう意味があるのかだけでも教えて下さい!!」
「駄目だ」
「先生!」
「それを見つけるのは君の仕事だ。
 どうだ、やるのか、やらないのか」

 シュッツは、全く折れる気は無さそうだ。

 アスカは不承無精了承するしかなかった。

「やります」
「そうか、それは良かった」

 シュッツはアスカの答を聞くと晴れやかに笑った。

「では、明日から毎日今日と同じ時間に同じレッスン室に来てくれたまえ」
「……はい」
「それから週末にコンサートの日程を入れる」
「コンサート……ですか?」
「ああ、心配しなくていい。君の事務所には既に了解は取っている。
 それに、コンサートは君のコンサートではない」
「は?」
「カヲルのコンサートだよ」


 ロドリゲスが心配していた通りに、バリモアは動き始めたようだ。UFC支社を見張らせていたところ、それらしい連中の訪問があったからだ。そして、グンデマーロの予想していた通り、ハートフォードはこれには関与していないようだ。


 バリモアが雇った連中は、ロドリゲスも良く知っていた。

 ビクター・W・クーパー。

 元イギリス陸軍特殊部隊軍曹。6年前、小隊の部下達と共に軍を辞めた後、傭兵に転じ世界各地で転戦、”冷血のビクター”として知られている。彼の得意な戦法は、敵方の多くの民間人を巻きぞえにしたテロであって、これまでにも多くの爆破事件を成功させている、とは多くの命を奪ってきた、と言うことだ。そのやり口が余りに無慈悲なため、しばしばクライアントは彼に、殺していい民間人の数に制限を付けることすらある。何にせよ、こいつにかかれば、何時如何なる時でも襲撃に躊躇することはあり得ないだろう。バリモアが巻き添えにしていい民間人の数に制限を付けていなければ、どんな時でも仕掛けてくるのに遠慮は要らないだろうから。

 とは言え、過去のビクターの手口からすると、なるべく多くの犠牲者を出そうとする傾向があるのだから、襲撃のタイミングは逆に絞られて来よう。もっともプロである以上、自分の異常な嗜好に拘って機会を逸する愚は犯すまいが。

 となれば自分達とパドルーの経営幹部を一挙に屠れる機会を狙ってくる筈だ。


 ロドリゲスが執務室に入っていくと、グンデマーロは丁度、タキシードに着替えているところだった。調子外れな鼻歌を聞かせてくれる。「人間は歌う動物だ」としても、こいつみたいな動物なら御免被りたい、とロドリゲスは思った。

「よおっ、その冴えない顔はなんだあ? 仕事ばかりじゃ人間伸びないぜぇ」

 グンデマーロはノックもせずに入ってきたロドリゲスを咎めもせず、声をかけた。

「伸びたくないからいいんだ」
「そうなのか?
 叔父さんが若い頃は、もっと伸びることにどん欲だったがなぁ」

 と意味不明なことを言うグンデマーロ。

「どこかへ行くのか?」
「ああ」
「不用心だな」
「心配し過ぎだって、おまえは」
「今日まで生きてこれたのは、その心配性のお蔭なんでね」
「そりゃ、そうだな」
「で、どこへ行くんだ?」
「惣流アスカの演奏会さ」
「へ!? 何だって?」
「例のパドルーのおじさま達が来月、自分達の冠付けて惣流アスカの演奏会を開かせるんだが、そこに招待されたわけさ。だがさすがに、俺もクラッシックは良く分からないんでな。今日は予習に行くのさ」
「そんな付け焼き刃、役には立たんぞ」
「まぁ、まぁ。
 それに惣流アスカってのは絶世の美女らしいじゃねーか」
「あのなぁ、まだ十代なんだぜ」
「へ? それのどこに問題があるってんだ」
「いや……」

 そうだった。こいつにはそんなことは「問題ではない」のだ。この男には祖国を牛じる多国籍企業とアメリカへの敵愾心、祖国同胞のための正義への強い信念と同時に、目的のためには手段を選ばない冷酷さや、楽しみの為に女性を凌辱して何ら恥じるところの無い残虐さが同居しているのだ。そんな男が自己の快楽のためにアスカに近付いたとしたら……。ロドリゲスはぞっとした。

「それより、ロドリゲス、その格好じゃ連れてけ無いな」
「俺は行かないよ」

 ロドリゲスとしては、さすがに会うのがためらわれた。

「何を言ってる。御付きの武官に居眠りされたら恥をかくのは俺だ。
 だからお前も今日は予習が必要なんだよ」
「そんな話は聞いてない」
「今、聞いたんだからいいんだよ」
「あのなぁ」
「さぁさぁ、お前の場合軍服でいいんだから」
「……」

 対等な口をきき合うとは言え、結局グンデマーロが雇主なのだ。ロドリゲスはため息を付く。が、どこかロドリゲスはほっとする。

「わかった」
「よーし、それでは10分後、1階ホールに集合だ!」

 ガキじゃねえんだから……。

 ロドリゲスは心の中で毒づきながら軍服に着替えに部屋を出ていった。


 アスカがパリに来ている。

 ひょっとしたら、街中でばったり会ってしまうかもしれない。

 それはロドリゲス、いや加持良治にとって心地よい緊張感だった。それがこの2カ月程続いていた。もし会ったとしても今の加持には、知らぬ存ぜぬで押し通すしかない。いや案外、他人の空似だと思ってくれるかもしれない。それでも長い孤独を過ごしている人間にとって、アスカの存在は唯一、人間的な暖かみを思い出させてくれるものだったに違いない。

 会う訳にはいかない、が会ってしまいたい。

 そんな思いが、加持を大胆にしていたかも知れない。同じ場所、同じ時間を共有することができるなら、それは得も言われぬ幸福感を味あわせてくれるに違いない。そんな予感を禁じることが出来なかった。既に三年は会っていない。この前会った時は、背伸びした子供に過ぎなかった。だが先日のポスターで見る限り、もう彼女は魅力溢れる女性に成長していた。

 会場に着くまでの時間、加持は心が浮き立つような気分に困惑していた。まるで年来の恋人に会いにでも行くかのようだ。


 舞台でライトに照らされたアスカを、暗い客席から見ることになるものだとばかり思っていたが、会場に着いて加持は困惑する。マチネーのサロンコンサートだとは。これでは奏者は、客席の来客者の顔がはっきり見えてしまうだろう。


 客席数はおよそ二百。

 最前列は手を伸ばせばピアニストに届いてしまいそうだ。

 グンデマーロはなるべく前に座りたがったが、加持は警備上の理由から最後列を主張した。結局、しぶしぶとだがグンデマーロは従ってくれたから良かったが、そうでなかったら、自分が耐えられるか自信は無かった。そこで、席に着くと加持は、サングラスをかけることにした。

「なんで、サングラスをかけるんだ」
「居眠りした時にわからないようにさ。いいだろう?」
「まぁ、構わないが」

 こうしてようやく加持はアスカに向かい合う準備が出来た気がした。


 やがてアスカが入ってくる。拍手する聴衆たちをアスカはさっと見渡す。一瞬アスカの目が加持の上に止まった気がしたが、気が付かなかったかも知れない。だがそれでもアスカがこちらを向いた時、加持はどきりとした。

 最後に会った時はまだ中学生だった筈だ。だが、いま黒いドレスを着てピアノに手を置いて立っているのは、長身の若々しい女性だった。ノーススリーブのドレスから見える剥きだしの腕には、最早子供らしさは微塵もない。肉感的とでも言えそうなふくよかさを見せている。アスカの成長ぶりに加持は、まぶしさすら覚えた。そして少なからずショックを受けていた。いや、心の痛みとでも言うのだろうか。あの背伸びした子供から、今の成長した姿までに流れた時間を、加持は共有していないのだ。それは加持からは永遠に喪われた。

 アスカは軽くおじぎをすると、ピアノに向い演奏を始める。

 加持は目が少しも離せなくなっている。彼女の全ての所作を、全ての表情を一瞬も見逃すまいとしている。彼女が何を演奏しているかはどうでもよい。いや本当のところ聞こえてもいまい。それよりも、ただひたすら食い入るようにアスカを見つめ続けていた。


 気が付くと休憩時間になっていた。

「ん? 終ったのか?」

 グンデマーロが寝惚けたような声で言った。

「休憩だ。
 呆れたな。寝てたのか?」
「まぁな。それだけアスカ嬢の演奏は心地よかったってことさ」
「言ってろよ」


 コンサートの後半も、加持は全く前半と同じだった。自分でも最早、どうにもできない強い想いがただただ、アスカを見続けようとさせる。甘く苦痛に満ちた時間が過ぎていく。


 気が付くととっくに演奏会は終っている。客達は三三五五帰り始めている。加持は呆然として弾く者の居なくなったピアノを見つめていた。

「どうした」

 グンデマーロは立ち上がって、加持の顔をのぞき込んでいる。

「いや」
「そうか?
 何か、いつものお前らしくないな」
「少し疲れてるのかもな」
「俺は帰る。お前は好きにしていいぞ」
「そんなことが出来るか!」
「大丈夫さ。連中は今日は何もしてきやしないさ」
「なんで、そんなことがわかる」
「分かるのさ。ハートフォードはそんな男じゃないからな」
「ば、馬鹿! あいつだけが危険な訳じゃないんだぞ!」
「俺だけを暗殺するなんてのは、あいつ以外はやらないって。
 お前が危険視している連中は、むしろパドルーの連中まで巻き添えにしなければならん筈だからな。
 それに、ちゃんと護衛を配置済、だろ?」
「分かっていたのか」
「馬鹿、そうじゃなかったら職務怠慢で叱責するところだぞ。
 ま、車はこっちで使うから、お前さんは帰りは歩きになっちまうが」
「いや、お前は車を使った方が安全だ。
 俺なら何かあっても対応は出来る」
「そうだったな」

 グンデマーロはにやりと笑うと軽くロドリゲスの肩を叩いてから、ホールから出ていった。それを見届けると加持は、椅子の上にどさりと体を投げ出すように座る。

 背もたれに体を預けて天井を見上げる。

 確かに今の自分はどうかしている。アスカを見ただけで、こうも動揺しているのだろうか? 誰も居なくなったホールに、高い窓から落日の陽射しが落ちてくる。


「あ、あのあなたは加持良治という日本人ではないですか?」

 フランス語で問いかける声。加持は声の主を振り返る。

 そして、そこに彼女が居た。


 18歳のアスカがそこに立っていた。いや、もう19歳になろうとしているのか。加持は、不意を衝かれて、何の言葉も発っせないまま、ぽかんとアスカを見ていた。

「日本語は分かりますよね」

 とアスカは日本語で問いかけてくる。

 ようやく加持は我に返る。

「いえ、私はロドリゲス・トルヒーヨ。A国人ですよ」

 とフランス語で答える。サングラスをしていなければ、こんな風に白を切ることは出来なかった。

「嘘。
 加持さんですよね、ね?」

 とアスカは更に日本語で話かけてくる。そして加持の腕に手を差し延べ、すがりつくような眼差しで加持を見上げる。加持は思わず、日本語で言い返そうとしそうになる自分を必死で押える。何とか、分からない外国語に困惑するふりをするが、近付いてきたアスカの香に切ないものが胸を焦がすのにはどうしようもなかった。

 アスカの手が腕に届きそうになる瞬間、加持はすっと立ち上がり、後ずさる。

「そろそろ、私は帰ります。
 素晴らしい演奏会でした」

 とフランス語で言うと、足速にホールの出口に向かって歩去る加持の背中に、アスカは猶も日本語で呼びかけた。

「加持さん!
 あたしずっとパリに居ますから。
 だから、お願い。
 会いに来て」


 ホールの建物を出ると、すっかり陽は落ちていた。風が冷たい。

 加持はコートを持ってこなかったことを後悔した。

「ふーん、加持良治があんたの本当の名前なんだ」

 聞き覚えのある声。加持は振り返らず、冷たく言い放つ。

「何で、お前がここに居る」

 加持は彼女の気配を全く感じなかった。ただの天才科学者という訳では無さそうだ。胸の拳銃に手を伸ばしながら、ゆっくりと振り返る。

「大丈夫、あたし別にあんたを撃つつもりは無いから。
 だから、あんたもその物騒なもの出さないでよね」
「何のつもりだ」
「なーにがー?」
「お前の仕事はここには無い筈だろう?」
「いいじゃない。一仕事終えてパリで休暇中なんだから」
「馬鹿言うな」
「あのねぇ、種苗の特許申請はとっくに済ませたわよ。後は弁理士の連中の仕事だからね。あたしの仕事は一段落なの。なのに休暇しちゃ駄目だっての?
 ちょっとそれ、酷くない?」

 ミレイユはつかつかと近寄ってくると、加持の胸に人差指を突き付けて言う。

「第一、休暇もらってなけりゃ、そもそもあたしが国外にでられる訳ないでしょう?
 グンデマーロにはとっくに連絡してあったんだけど?」
「なに?」
「そうよ。今日、こっちに着くってことまで教えてあったのにだよ。
 迎えの一つもあって良くない?
 それなのに、ここに来いだってさ」
「グンデマーロにここに来いと言われたって?」
「そうだよ。じゃなかったらこんなとこに来やしないと思わない」
「思わない」

 そう言うと加持は、さっさと歩き始める。グンデマーロは最初から、そのつもりだった訳だ。とすれば、彼自身身辺警護に関して考えてのことだろう。はめられたのは悔しかったが、一つ心配事はなくなった訳だ。

「あ、ちょっと待ってよ」

 足早に歩く加持にならんでミレイユも付いてくる。

「なんだ」
「ね、どっかで食事おごって」
「なんで、俺が食事をおごらなくてはならんのだ」
「いいじゃない、このプロジェクトの功労者はあたしだよ?
 おごって貰うのが当然じゃない」
「それは雇主に言え。俺はお前の雇主じゃない」
「あら、あなたがあたしにおごって、後でボスに精算してもらえばいいじゃない」
「そんなことが出来るか!!」
「大丈夫だよ、あたしが保証するよ」
「おまえの保証が一番当てにならない」
「随分な言いようね」
「至極正当な評価だ」

 ミレイユはにこりと笑うと加持の左腕に、腕をからませて言った。

「と話がまとまったところで行こ!
 あたしが案内してあげる」


 加持に気配を感じさせずに近付ける。相手が拳銃に手をかけようとしているのを察知できる。明かにただものではない。単に訓練を受けて身に付けているだけでなく、何度も死線を潜ってきたに違いない。

「全く、すっかりだまされていた訳だ」

 加持は自嘲気味に言う。

「気にすることは無いわ。
 あなたは単に危険を感じなかっただけ。でしょ?」
「グンデマーロは知っているのか?」
「多分ね」

 あの狸め、と加持は舌打ちする。

「ロドリゲスは、実質的な危険を察知するのはうまいみたいだけど、それじゃあ、あたしみたいのは見破れないわね」
「言うね」
「ええ。
 あなたはたくさんの実戦を経験してるのね。
 危地の中から体で会得した能力。
 だから、本当にどうでもいいことは無視しちゃってる」
「お前はどうなんだ」
「あたし?
 あたしはもう現役じゃないもの」

 加持は目を細めて、ミレイユを見る。どう見ても二十代半ば、行っていたとしても二十代後半だろう。引退(何を?)には早過ぎる年齢だ。

「いやーねぇ、何見てるの。
 まぁ、アスカさん程は若くないもんね」
「どこから聞いていた」
「ん? 何」
「俺とアスカの会話だ」
「アスカさんがホールに入ってくるところからだよ。
 あたしが声をかけようとしたら、彼女が先に声をかけちゃった。
 気配消してたから良かったけど、そうじゃなかったら不様だったよね」
「何でだ?」
「だって、失踪した恋人に感動の再会と思いきや、その彼の今の女が登場なんてさ」
「今の女って誰だよ」
「あたし……じゃ駄目か」
「馬鹿。それにアスカは恋人じゃない」
「ふーん、そう?
 それにしちゃ、ロドリゲスはかなりご執心みたいだし、彼女も真剣だったじゃない」
「姪だよ」
「あら、意外。まさかあなたラングレーの一族なの?」
「まさか」
「そうだよねぇ、だったらこんなことしてないもん」

 ミレイユが案内してくれた店は、第13区の奥まった路地にある小綺麗なレストランだった。恐らく観光案内には紹介されていない店に違いない。客層も庶民的ならば、メニューも家庭料理に近いものばかりだ。穴場といえば穴場と言える。

「パリに住んでたことがあるのか?」
「昔ねぇ」

 はぐらかすようにミレイユは言い、ワインを一口飲む。そしてしばらくグラスに映るローソクの炎を見つめている。炎のゆらめきが、彼女の金髪に自然な波動を与えている。

「あんたが、話てくれたんなら、あたしも話さないと卑怯だよね」
「いや、別に気にするな。話したくなければ言わなくていい」
「ううん、ほんとはね、ずっと誰かに聞いて欲しかった」
「辛い話なら……」
「うん、ちょっと辛いかな。でもそれだからって逃げてちゃ霧香にすまないから」
「霧香?」
「うん、あたしの最初で最後の親友。
 でも、もういない」
「……」
「まだミレイユ・ブーケと名乗っていた頃よ」

 やはり偽名だったのか、と加持は納得する。

「あたしと霧香は、詳しくは言えないけど、闇社会の仕事をしてたわ。
 どこの組織にも属さないでね。
 もっとも本当は二人ともある大きな組織の秘密を追いかけていた。
 結局、それはその組織の権力争いだったんだけど、あたしたちも巻き込まれちゃってね。
 あたしは霧香を助けに行ったんだけど逆に助けられちゃって。
 でも、どうにかあたしたちは、その組織のトップをやっつけることができた」

 いきなり壮大な話になって加持は面食らった。話の真偽は分からないものの、ミレイユの話ぶりに嘘は感じられない。

「でも、最初から幹部連中はそうなることを見越してたんだよね。あたしたちも甘かったんだけど。
 力尽きたあたしたちを殺すのは訳無かったのよね。
 たった二発の銃声。
 あたしたちをしとめるのは、それだけで十分だった」
「…………」
「ま、そうなることは覚悟してたんだけどね。
 二人で一緒に死ねるなら、ってとこかな」

 ミレイユの顔には深い憂いが浮かぶ。

「でも、あたしだけ生き残ちゃった。
 霧香を助ける時、あたしは組織のある幹部の助けを得たの。
 彼の依頼は、組織のトップを殺ること。
 だからあたしだけは形だけ殺されたけど、瀕死の状態で一命を取り止めた。
 彼はあたしだけ急所を外させたのね。
 で、あたしは死んだことにされ、密かにアメリカに連れていかれ、そこで新しい身分を得た訳。まぁまだ18歳だったから大学に行きたいと行ったら、彼らは行かせてくれたわ。義理固いわよね。
 それが依頼の報酬だったのね」
「パリに舞い戻ったら危険じゃないのか?」
「さぁ?」

 ミレイユは自嘲気味な笑みを浮かべる。

「その後、組織はどうなったか分かる?」
「さぁな」
「それまでは闇社会の全ての頂点に立つ強大な勢力をもっていた組織も、カリスマを失って空中分解。残った幹部同士の内ゲバに明けくれて、他の組織と区別が付かなくなるまでばらばらになってしまったわ。
 いまじゃソルダって名前は、闇社会じゃ笑い話にしかならない」
「ソルダ?」
「千年の歴史を誇った組織。
 でも存在しないわ。今は。
 だからあたしが生きていて困る連中は誰もいないってわけ」
「その、おまえを助けてくれた幹部は……」
「A国に行った頃に殺されたわ。パリの路上でね」
「まさか、敵討ちに来たのか」
「安心して。あたしはもう引退したんだから。
 それに敵討ちならあんたの前に現われたりしない。
 あたしがここに来た理由は、ただ一つ」

 そう言うと、ミレイユは加持の瞳を見つめながら言った。

「あんたよ」
「何の冗談だ」
「あら、酷いわね。乙女の真剣な愛の告白を、邪慳にするもんじゃないわ」
「いきなりだな」
「段取りを踏む時間をくれなかったのはあなただわ。
 それにあたしまどろっこしいのは嫌いなの」
「本気か」
「あなたに本気になって欲しいとは言わない。
 でもあたしは本気。
 あなたが欲しい」

 加持の脳裏に、アスカの声が甦る。だが、だからこそ今はこうすることが正しいと思った。

 加持はミレイユの手を取って引き寄せた。


 口の中に血の味が広がる。つーんと鼻に抜けるような痛みが走る。

「シンジ、てめえ、何だよ、あれは!!」

 倒れたシンジに浴びせかけられる罵声。

 仁王立ちになっているのは、ヴァイオリントップの榊だ。マヤとは大学時代からの知人だという榊は、伊吹弦楽合奏団の中でも、演奏総監督的立場だった。リーダーはマヤだった。だから最終的な決断はマヤがする。団員がマヤの音楽性に寄せる信頼は絶大なものがあったのである。だが、マヤは、基本的に団員の自主性に任せる方だったので、普段の取りまとめは楽器の性格上も榊の役割だった。古くからの知合いである榊を伊吹は信頼していたし、榊もマヤの期待を裏切らない働きをしていた。実際、この楽団はこの二人のコンビネーションで運営されていると言って過言では無い。

 その榊が火のように怒っていた。演奏会が終り控室に戻るやいなや、シンジは榊の鉄拳を浴びてこうして床に倒れているのである。

「まぁ、まぁ。
 あれがシンジ君のせいって訳でもないし……」

 と執り成すのは、福沢。ビオラ奏者だ。控室は男女別に分かれているので、ここには男性の奏者しかいない。

「なんだと! 福沢、お前あれが何だかわからねぇってのか?」
「じゃあ榊さんは分かるって言うんですか?
 一体何の証拠があって、あれがシンジ君のせいだと……」
「ばか、様子みてれば分かるじゃねーか。こいつは明かに何が起こっているのか、知ってたんだよ」
「それなら、あたしも知っていたわ」

 気がつくと控室のドアは開いていて、ステージ衣装のままのマヤが立っていた。2ndバイオリンの西村が呼びに行ったらしい。

「伊吹……」

 榊は驚いて、マヤを振り返る。

「榊君、あたし知ってました。こういうことが起きるかもしれないことを」
「どういうことだ」
「気が付かなかった?
 この1年くらい、時々こんなことが起きかけていたのを」
「やっぱり、じゃあシンジなんだな」
「ええ」
「お前、知っててなんで!!!」
「ごめんなさい。全てはあたしのせいなの」
「そんなの納得出来ねえ。
 一体、こいつは何をしたんだ。
 ”あれ”は一体何なんだ!?
 第一、マヤにどうにかできるようなもんじゃねーだろ、あれは」
「知っててシンジ君に出て貰い続けたのは、あたしの責任だわ」
「んーなこと聞いてるんじゃねーんだ、”あれ”は何かって聞いてるんだ」

 シンジはよろよろと立ち上がる。

「マヤさん、いいんです。
 僕が出たかったんだから。マヤさんのせいじゃありません。
 だから、僕が辞めればいいだけのことですよね」

 そういいながらシンジは帰り支度を始める。

「ま、待ってシンジ君……」
「マヤ! そいつに関わるんじゃねぇ!」

 榊はマヤの肩を掴んで引き止める。

「止めてよ!
 彼はあたしの教え子なのよ」
「化けものを育てた責任ってか?
 冗談じゃねー、あいつは最初から化けもんなんだよ。
 お前に教えられるような玉じゃねえ」

 シンジはむっと押し黙ったまま、手荒くバッグに服を押し込み、楽器をケースに収めると肩にかつぎ、演奏会で着ていた服に蝶ネクタイを外しただけの姿で控室を出ていった。


 ”それ”は演奏会最後のプログラム、メンデルスゾーンの弦楽八重奏で起きた。

 この曲は2つのカルテットの対話とでも言って良い構成が随所に見られ、そういう意味では弾き比べの要素の強い曲であって、それだけに奏者には特別の緊張感がある。この手の合奏団には定番とも言うべきプログラムだ。

 さすがに伊吹合奏団にとっては十八番中の十八番であるこの曲は、手慣れた自然な流れで処理され安心して聴ける仕上がりになっていた。

 異変が起こったのは、フィナーレのプレストに入ってからのことだ。駆け抜ける短調のフレーズは悲劇的になりそうでならない。目まぐるしい運動性と、悲痛な感情の交替は、一方でメンデルスゾーン一流の形式感の中に統合されて、瀟洒な音の綴れ折りとなっている。その音楽を駆動するのは二本のチェロの刻むビートだった。単純明解な音の繰返しにすぎないその楽譜こそ、この曲の流れを決定付ける心臓部なのである。

 後半に入って、そのドライブが一段テンションを上げたことに奏者達は気付いた。再現部とも言えない経過句的な主題の回想は、回想という消極的な意味合いを無くし、まるで改めてそこで発明されたとでも言うような、倒錯した新鮮さを発揮する。それは回想ではなく、創造の追体験とでも言えそうな。

 それだけなら、自分達が今日は「ノッてるな」と思うだけのこと。演奏活動ではしばしば、互いの波長がぴたりとあった時、演奏が今までとは違うレベルに達することがある。いや、そんな幸福な瞬間を求めているからこそ、演奏活動を続けているのだが。

 だが、テンションの変化はそれだけに留まらなかった。全てのパートの奏者達が一斉に自分の弾く全てのフレーズに尋常ではない感じ方をし始めたのだ。全てがこの瞬間に創造されている。その生まれでる瞬間の燐きのようなものが演奏者全員の目に見える。先がどうなるかも定まらずに生まれてくる音型、その不安定さも、またそれ故の美しさも全部、その瞬間に備わっている。にも関わらず、その創造の波は奏者の”背後”からやってくる。奏者を超えた思いも掛けぬ超越的な力が今や、奏者を操っている。既に奏者は演奏するものではない。奏者自身が神の楽器と化している。誰かが彼らを演奏しているのだ。

 演奏は今や白熱し、聴衆は一瞬といえどもかつて聴いたことのない緊迫した音の奔流に息をするのも容易ではない程だ。だが奏者たちも既に半ばパニック状態だった。最早誰も自分をコントロールすることは出来ない。音が自ら生まれ自ら組合わさっていくのをただ、見ていることしか出来ないのだ。彼らは血走った目で互いの様子を伺い合う。誰の顔にも絶望と恐怖の色が浮かんでいる。ただ一人を除いては。

 2ndチェロを弾く碇シンジだけが、淡々とした表情でドライブを聴かせた八分音符の刻みを、弓を飛ばすように叩き付けながら弾き続けていく。その表情は哀しみと諦念の色を滲ませ、さながら、自分の掌の上で踊らされる人々の運命を見つめる神のようにすら見える。

 楽団員たちは、この信じがたい演奏が碇シンジというまだ面影に幼さの残る青年の生み出したものであることを確信した。だが、どうしてそんなことが出来るのか皆目分からなかった。


 突然、自分たちの体に張られていた糸が切れた。

 演奏が終ったのだ。

 割れんばかりの拍手は、自分たちが聴衆に与えた感銘の信じがたい大きさを如実に示していた。明日の新聞の演奏会時評では、間違いなく伊吹弦楽合奏団が大きく取り上げられるに違いない。

 だがそれは決して自分たちが作り出したものの評価ではないのだ。

 うつろな目で会場を見回しながら、楽員たちは、三三五五だらしなく礼を繰り返す。いささか行儀の悪いそんな姿も客席の聴衆からは、比類のない演奏を達成した疲労からのものだろうと納得されてしまうのだった。


 楽屋口からホールをでると、そこにレイが立っていた。

「綾波……」

 レイの姿を見ると堪えていたもののが堰を切って溢れてくる。

「あ、綾波ー」

 シンジには、涙を堪えることは最早出来なかった。

「碇君……」

 レイはシンジの肩に手をかけ、優しく言う。

「帰りましょう」

 そうして傷ついた我子をだき抱えるように、シンジに腕を回すと、彼を支えながら歩き始める。

「綾波、ぼ、僕は……」

 泣き続けるシンジをレイは宥めるように言った。

「分かってるわ。
 大丈夫よ。わたしはいつも、これからも、ずーっと碇君の味方だから。
 わたしがついてるから」


夏の終わりのコンチェルト

第四部 完
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