▼第四十二章 |
「悪かったとは思ってる」 屋台の上を高速が通っている。時折大型トラックと覚しき揺れがカウンタの上のコップ酒を揺らしている。 榊は、微温くなった酒をまずそうに飲み干し、無言で親父にコップを差出す。 親父は無表情に澗をしてあった酒をコップに注ぐ。無愛想に見えて、馴染の客である榊のペースを測っているのだ。 マヤは、その隣で、とっくに冷めたコップを抱きかかえるかのように握りしめ、うつむいていた。 「仕方が無いわ」 ぽつりとマヤは言ったが、それは榊の言葉に対してのようにも、あるいは自分に対してのようにも聞こえた。 「それにしても、久し振りだな。こうやっておまえさんとサシで飮むのは」 「榊くんは忙しいから」 「よく言うぜ。 本当ならおまえさんの方が、忙しい筈なのに仕事選り好みしやがって。 贅沢だよ」 「贅沢かなぁ」 「贅沢だよぉ」 「そうかなぁ。あたし自分のできることで精一杯だよ」 「それが贅沢だっつーの。 できるかどうかで選ぶなんてのは凡人にゃ、許されないさ」 「そんなもん?」 「そんなもん」 「真顔でうなづくなよ。言ってる俺が恥ずかしくなる」 「うん」 マヤは顔を上げ、微笑む。 「おじさん、あたしのもお酒、お代わり」 「へい」 さすがに、マヤのペースは把みきれていないのか、店主は無表情に澗の準備を始める。 「お、いいのかよ」 「いいのよ」 「しらねーぞ」 「何がよ」 「お前、自分が酒乱だって自覚ねーんじゃねーの」 「えー、いつあたしが酒乱だったって?」 「だーかあらぁ、記憶が無くなってるからだろうが」 「そうだっけ」 「そうだよ」 「そんなことないよ」 「ああ、ほんとしらねーぞ」 そう言いながらも、榊は心なしか嬉しそうに見える。 「今日はすまなかったな」 「あたしは別に・・」 「お前さんは御見通しだから隠し事はしない。 はっきり言って嫉妬だ、ありゃ」 「榊くん?」 「そうだろう?。 だって、あそこには俺が自分で行く筈だったんだ。 シンジの野郎に馘ねっこ捕まれて行くところじゃねー。 俺が自分であるかなきゃ、やってられねーだろうが」 「そうね・・・。 でも、本当にあんなところに行きたい?」 「うん?」 「あたしは嫌」 「どうして?」 「榊君はあんな音楽が、本当にやりたいことなの?」 「そりゃ、お前・・・」 「あたしは絶対嫌。 あれは人の音楽じゃない。 あそこには誰もいなくていい」 マヤの語気の強さに榊はたじろぐ。 「だって・・・そーよ。 あの音楽ははっきり言ってるもの。 おまえたち人間は要らないって。 そんなもの音楽って言える?」 榊は一口、酒を煽ると不機嫌そうに言った。 「音楽は人とは関係ねーよ」 「榊くん」 「ああ。ありゃしねー。もともと音楽に人間は余計なもんだ。 俺は真剣にそー思ってるね」 そう言うと榊は、コップをぐいっとあおった。 「それにしても・・・」 「何?」 「ついていてやらねぇでいいのか?」 「大丈夫」 こころなしか寂しそうな微笑みを浮べて。 「そーんな顔で、大丈夫と言われて信用する奴はいねぇよ」 「本当だよ」 榊はマヤの顔を試すように凝視める。 その視線をマヤは逸らすことは無い。 榊の前のコップに親父は、いつのまにか酒を満していた。 「だって、もうそろそろ潮時だと思ってたから・・・」 「ほぅ?」 「あの子には、もうあたし逹の団は小さすぎるの」 「そいつぁ随分・・・」 「聞いて。 今日、シンジ君は確かに、榊くんとやりあう事で傷付いてたように見えるけど、本当は違うの」 「言うな!」 「何で?」 「俺にだってプライドはある」 「榊くん・・・」 「そんなことはいわれなくたって分る。俺だって音楽家の端くれだぞ。 奴に、シンジにとっては端から俺なんぞ問題でもなんでもないくらいわからいでか・・」 「ごめんなさい・・・」 「いいって」 親父に促されてマヤは、空になったコップに酒を注いで貰っている。 「俺だってショックだったが、奴の方が遥かにショックだった・・・だろ?」 「ええ」 「本人が奏でる音楽が本人自身をも不要と宣告するようじゃ確かにやりきれねーだろうがな」 「ええ。 いまのシンジくんは、演奏すればするほど孤独になるだけだもの。 音楽だけが彼にとって本当に親密なものだったとすれば、今は彼は本当にひとりぼっちだから」 「で、そろそろうちの団を止めさせる頃合だと思ってた?」 「・・・ええ」 「結構スパルタな先生だな」 「そうかな」 「だから、奴のせいだなんて余計な一言を言ったて訳か」 「うん。 ・・・あたし嫌な女だよね」 「気にするな。そんな細いことで嫌な奴になるくれぇなら、こっちから進んでなってやるさ」 頭上をまた大型車両が通っていく。 「ありゃあ積載オーバーじゃねーか?」 と榊は親父に言う。 「へい」 親父は返事ともなんとも付かぬ返答を返した。 「なぁ、マヤ」 「え?」 「俺は音楽なんてものは人間には過ぎたもんだって思ってる。 だけど、あれが人間を要らないって言ってると思うのは気が早過ぎるんじゃねーのか?」 「どういうこと?」 「選ばれしもの」 「そう。・・・そうよね」 「それも気にくわない?」 「そうかも、ね・・・」 |
帰りつくまで、どこを通ったのかシンジは全く覚えていなかった。 気が付くと、レイに抱きかかえられるようにして、マンションのドアを入るところだった。 「レイ・・」 シンジは、かるくレイの腕を振り解いた。 「あ・・」 レイは少し驚いて立ち竦む。 「いい。独りで出来る」 そういうと先に立って部屋の中へと歩んでいく。 それまで気にもしていなかった楽器の重みがストラップを通じて肩にずしりと感じられた。 そのまま一言も口をきかずに、自室に入ってドアを閉めた。 乾く。 何の感慨も涌かない。感情は重くはるか下の方に鈍く蹲まっている。そして今は何も感じるものはない。 疲れたのとも違う。 そうした肉体の抵抗すら感じられない。 いや、むしろ肉体はまるで空気のように輕い。意味も無く。 随分長いこと夢を見ていたような気がした。 あの湖畔でアスカに会うまでは、こんな感じだった気もする。 たった独りでただ、日課があるだけ。それがいつまで続くのか、どこへ通じているのか思いもしなかった。 それがあの栗色の髪の少女に会ってから全てが変った。 それまで幾ら誉められたところで、シンジが奏でるチェロはどこへも通じていなかった。ただそれはそれだけのものだった。シンジの中で生まれシンジの中で消えていく。全てはどこにも通じていない。独りだけの世界。 それは音の無い世界。 奏でても奏でても聞く者はいないのだから、音は音ではないのだ。 アスカは、それをどうやったのか、他人に通じるものへと一瞬にして変えてしまった。演奏することで人との間が生まれ、そこで音が産み落され育っていく。独りでは無かった。いつのまにかシンジのまわりに多くの人々が居て、それが当たりまえのように過してきた。 どうしてそんなことが、ありえると思っていたのだろう?。 一体、いつ自分はそんな風に勘違いし始めたのだろう?。 今はそれが元に戻っただけ。 戻ることは無い。 だって・・・もうそこに至る道は何もないじゃないか・・・ |
レイはシンジの部屋の前に侘んでいた。何かを言わなければならない。 けれどその為の言葉をレイは見出せぬまま、立ち尽しているのだった。 無力感が性質の悪い蟲のように体を蝕んでいくような幻をふと見ていることに気付く。 「あたし・・・味方だから・・・」 だがその言葉はシンジに届くことは、無い。 |
「だがな・・」 榊は、そろそろ酔いが回りはじめていることに気付いていた。 「一体、どういう落し方になるんだ?」 「さぁ・・・」 「おいおい、随分心許無いな」 「最初から心許無いもの。 初めてシンジくんを教えさせられた頃、あたし随分恨んだわぁ」 「冬月か」 「ええ。何だってこんな子を教えさせるんだろうって。 まるで、あたしがいかに駄目か骨の髄まで分らせようって気なのかしらってね」 「まさか」 「ええ。あの先生じゃそんなことまでは考えないのは分ってるんだけどねぇ」 「だが、大部ご執心だったじゃないか」 その指摘に、マヤは顔を赧める。 「やれやれ、タイプだった訳だ」 「・・・そ、そんな・・・それもあるかな。 でも、やっぱり放ておけないって思ったんだぁ」 口にまでもっていた榊のコップが止る。 「じゃ、何か?。まさか、お前最初からあれに気が付いて・・・」 「うん」 「まいったな。俺は全然気が附かなかった」 「うん。実はね、あたしあの演奏会聞いてたんだ」 「何の?」 「庵原先生の最後の演奏会」 榊は記憶を探るように目を細めた。 「・・・ああ、あれか。あの後発狂したっていう・・・」 「酷いわね。 発狂した訳じゃないわよ」 「あ、ああ、御免。不謹慎だった。 で、その演奏会が何か・・・ってまさか、おい、あれって確か」 「そう。惣流キョウコさんがピアノ伴奏で・・・」 「うーむ。彼女にも、シンジと同じ能力があったと・・」 「ええ。 ”あれ”が彼女にもあって、あたしは、だからシンジくんの演奏の中に微かにあったその徴候に気付いたの」 「参ったな。 あれをきっかけに惣流キョウコは、国内の音楽家の間で良くない噂が立ったものだが・・」 「ええ。魔性の共演者ってね」 「だからマヤは、あれを嫌ってもいる?」 「うーん、どうかな?。 でもね、今思うと惣流さんの場合、結構危い状態だったんだと思うわ」 「というと?」 「・・・うーん、例えて言うと本当に魔女になっちゃてるというか」 「おいおい」 「笑ってもいいわよ。 あたしも、どう言っていいか分らないんだから。 敢て言うなら、もうとっくに相手に対する同情心は無くなってて。 そうね、その冷い視線が恐いくらいだった。 あれは、まるで魔女が儀牲者を見るような、そんな目だったもの」 「うーん、となると、彼女の非業の死もそれに絡んでいるのかも・・」 「さぁ、それはどうかしら。 ちょっと出来すぎているわ」 「だからシンジに、そんな風にはなって欲しくはなかった?」 「ええ。 シンジくんは、まだキョウコさんのような冷たい眼差しは見えなかったし。 本当に素直でいい子だったのよぉ」 榊は両手を頭に置いて大袈裟に溜息をつく。 「まいったな。 いや何度も言うようだけど、まいったねぇ。 そんなことがあったとは!!。 だけど、それ冬月とは話したのか?」 「・・・実はね。つい最近なの。 冬月先生に話したのは?」 「で?。 御大は何んと?」 「そろそろだからって。あれが全面的に開花するのが」 「冬月も知ってたって訳か」 「ええ」 「驚かなかった?」 「いえ、やっぱりって思ったくらい」 「それで冬月は何も指導しなかったのか?」 「ええ。 何も。 ただ・・・」 「ただ?」 「わたしに任せると」 「何だよ、それ?!」 「そのまま言葉通りよ」 「んな、無責任な?!」 あの時の冬月の表情をマヤは思い出していた。もし避けられない運命というものがあって、ただ人にそれを伝えることだけを許されている神官というものが居たとしたら、それはあんな表情なのかもしれない。 だが、その一方でシンジの一連の身の振り方は一切が冬月とゲンドウの差配なのである。ということは最初から、あの二人は何もかも見通した上でだったことになる。とすればマヤも、またリツコや、レイもまた、この筋書きの中で一定の役割なのであろう。腹立たしくはあったが、「任せる」と彼らが言う以上、彼らの見込みの中ではマヤにしか出来無いことがあると思っているからなのだろう、マヤはそう思うことにしたのだ。 「しかし奴さん今頃どうしているかな」 と榊が言う。 「さぁ」 と言ってマヤは溜息をつく。 今頃きっとレイが、シンジを案じて色々と声をかけようとしているだろう。あるいは考えたくないことだけれど、それ以上のことになっているかもしれない。 「なぁ。 奴は、あの美人のイトコと二人暮らしなんだろ?」 「ええ」 榊が何を言いたいのかが分って、マヤは顔を曇らせる。 「でも、その事はどうでもいいことでしょう?」 榊は肩を竦めて見せる。 「は、こいつは失礼。 どうでもいいとお前さんが言うのなら、俺もどうでもいいと思うことにしよう」 |
鍵はかかっていない。思い切ってドアを開けた。 灯のついていない室内に廊下からの光だけが差し込んでいる。 そして部屋の奥のベッドの上に仰向けに寝ているシンジが見えた。 レイが室内に入っても身動きしない。寝ているのかも知れない。 室内は、余計なものが一切無い。シンジらしく完全に整頓されている。 レイがベッドの脇にまで近付いてみると、シンジは着替えぬまま仰向けになって虚ろな眼差しを天井に向けていたことに気附く。だが、全く反応しようとはしない。呼吸していることは、ゆっくりと上下する胸から分るが、それ以外はまるで目を開けたまま逝ってしまった人間のようだ。 「碇くん」 答はない。 レイはシンジの腕に触れてみる。 シンジの手を握る。 体温はいつものままだ。 「碇くん」 握る手に少し力をこめながら、もう一度やや強く呼んでみる。 だが無反応なことには全く変わり無い。 レイは自分の脈拍が上っていることに気附く。 ひょっとしてシンジはこのまま一切外界に反応しなくなってしまうのではないだろうかと不安が過る。 「ねぇ!、碇くん!」 思わず大きな声を上ている。シンジの肩に手をかけ揺さぶっている。 そのまま、レイはベッドの上にあがって、丁度シンジに覆い被さるようにして四つん這いになった。 正面からシンジの顔を見下ろす。 虚ろな眼差しの先にはレイの顔が見えている筈だ。その瞳に確かに自分の顔が写っているのをレイは確認する。 しかし、その目は何も見えていないようだった。 |
「だが、俺の想像が正しいとして、だ」 榊が何を言い出すのかとマヤは訝しむ。 「いいか。 もし俺の想像が正しいとして、奴はいわば唯一の世間へのパイプに裏切られて、一切外界への通路を断たれたと思っている訳だから・・・」 榊は思わせ振りにそこで言葉を止める。 「だから?・・・」 「いや、俺には良く分らんのだよ。 つまりそういう人間を連れ戻すにはどういう事が起きればいいのか」 そこで榊はマヤの瞳を覗きこむように瞶めた。 「・・・」 マヤは答に困って目を逸らす。 「俺は何事も解くべき問題にしてしまわねば気が済まない性分なんでね。 というか、シンジにとっての問題が何か、は実は案外簡単に整理できる性質のものじゃねーか、と思ってな」 「榊くん・・・」 「問題は、さっきも言ったように、外界への唯一の手段である『演奏』に裏切られたから、外界への通路が無くなった、という事だろう?。 他には?」 「他にって?」 「もしこれだけのことなら、どうやって外界への通路を確保するかという問題を解けばいい。違うか?」 「まぁ、そういうことよね」 「そうなると方法は色々ある。 例えば、何故『唯一の手段』だったのかってことさ。普通の人間にとって他人への通路は決して1つじゃあない。 なのに奴が『唯一の』と考えているとすれば、要するに普通の人間の当たりまえの通路を使えて無いってことだよな。それに復帰すればいい。 要するに話しをしたり、体を触れ合ったりする一次的な接触がある訳だ。 もう一つは、『裏切られた』そいつをもう一度押さえ込むって事だ」 「・・・・」 「分りきった話だと思ってるだろ?」 「そんなことないけど」 「そうか。 じゃもう少し続けさせて貰おうか。 要するに奴にとっての『問題』というのは高々このくらいのものだ。 そうして後は行動するのみ。 何をすればいいのかはどの解決方向も、奴にしてみれば明確なものばかりだ」 「ええ、そうかもしれないわね」 「ああ。で、そうだとして、だ。 今奴はどうしてると思うか?。 解決にむかって行動していると思うか?」 「・・・ううん、多分無理ね」 「何故そう思う?」 「彼の性格から考えて・・・いいえ、違うな。 何んとなくそう感じているだけかも」 「そう?。 まぁいい。 要するにお前の直観によれば、奴はここで立ち止まる筈だ、という事だな。 じゃ何故だ?。 いや、細かい違いはこの際、無視すればそれは『そうしたくない』からだ。 やる気がなけれりゃどんな問題も解けやしない。 その場合、本当の問題は、 実は『問題を解きたくないのに、解かなくてはならない』ということなのさ。 解かなくちゃならないけど解きたくないという状態からどうやって脱するかが問題なのさ、 奴にとってはな」 「それは・・・・」 「何が正しいか何んて俺たちが决めれることじゃあない。 だが、俺達的には、そういうのってのは、あんまりお薦めできねぇってことだな。 少なくとも、俺達は碇シンジという仲間を失い、そして日本の音楽界は将来の有望なチェリストを失う訳だからな。 そいつが碇シンジにとって幸せかどうかってこととは関係無く、な」 「そうね」 「で、本題だ」 と榊。 「何、今のが本題じゃなかったの?」 「うん、今のは前振り」 「そうなんだ」 「で、だ。 単刀直入に言おう。 お前、シンジとやっちゃえよ」 「えっ、えっ、えっ・・・・・」 狼狽するマヤの顔に注した朱の色は酒のせいばかりでは無いようだ。 「うかうかしてると、あのレイちゃんとやらに持ってかれるぞ」 「・・・」 マヤは沈黙する。 「あ、ごめん。俺何か余計なこと言ったかな?」 「いいわよ。どうせあたし自身も、そんなことを夢見たこともあったから」 思わず、榊は口に含んでいた酒を吹きそうになる。 「榊くん?」 「いや、あまりに正直なご回答ありがとうございます。 さすが・・・」 思わず口をすべらせそうになって榊は思いとどまる。 「さすがって何?」 マヤの声にはやや険がある。 「いや、こっちのこと。 それにしても、今はそうではない、と?」 「そうなるのかな・・・。 うーん、榊くんだから言っちゃうけど、今でもあたしはシンジくんを好き。 でもね、もう若くはないから勝負は賭けられないってところかな」 榊は内心苦笑する。これだけの長い付合の中でいつのまにか、絶対安全な人間に自分が分類されていることには気が付いていたが、それにしてもここまで鈍いとさすがに、これまで一切浮いた話の無かったのも頷ける。 「なるほど?。要するに体を投げ出しても単に道具に終る可能性が恐いってとこかな」 「そう認めるのは辛いけど、でもやっぱり、それじゃ解決にならないから。 それでもそういう関係になれるっていうのは、やっぱり若くないと・・・」 「で、レイちゃんに譲るとでも?」 「まさか。 シンジくんはそこまで馬鹿じゃないわ」 「贔屓目かもしれないぜ」 「何とでも。 でも、レイちゃんの境遇も良く分っていて、そんなことが出来るような子じゃないもの」 「そうだな」 榊が飲み干してカウンターに置いたコップに酒が注がれる。 あいまいな相槌の裏で榊は、お人好しのマヤの解釈にも一分の理があることを認めている。理性がというよりも本当のところは恐怖がシンジを押しとどめるに違い無いだろうとは思いながらも、それをマヤに告げる必要は無いのだと自分に言い聞かせる。 ・・・要するにお姫さまはお姫さまで居続けるだけの環境が何時の間にか揃ってしまうことになっているらしい。 |
レイは恐くなってシンジの頬に手を当てた。 暖い。 シンジのぬくもりが、レイの心を少し暖めてくれるような気がした。 その間もレイは微かな反応でも見えないか、とじっとシンジの瞳を覗きこむ。 綺麗な顔立ち。 眉、睫、鼻筋、頬、唇に至るまで思わずレイは視線を這わせてしまう。 そうして何時の間にか、自分が息のかかる程、顔をシンジに近付けていることに気が付き困惑する。 何か、疾しいような嬉しいような未知の感情の処理にレイは戸惑っている。 それでもレイはシンジの顔に惹き寄せられてしまう。 「碇くん」 もはや吐息とも声とも把ぬ呼掛けをしながら、レイはシンジの頬に自分の頬をすり寄せた。 腕でシンジの頭をかき抱くようにしていると、まるで切り取ったヨカナンの首を愛撫するサロメのよう。 自分は何をしたいのだろう、とレイは訝しむ。どこかで引き返せと囁く声がするような気がした。 けれどそれだからこそ一層、自分はそうしたいのだと思えてしまう。 浮かせていた体をゆっくりと降し、完全に体重をシンジに預けてしまっていた。胸、腹、そして足がシンジのほっそりした体を感じている。合せた胸にシンジの鼓動が感じられる。 不意に合せていた頬がかわされる。拒否されたと思い身が堅くするや否やシンジの腕が優しくレイの体に回される。そうしてようやくシンジは言った。 「綾波は・・・恐くないの?」 言葉は音と共にぴったりと付いている体から振動としても伝わってきた。 「ええ、恐い訳無いわ」 するとシンジはレイの体をそっと傍らに降し、身を起す。 「僕は恐い」 シンジはベッドに腰かけ自分の体を抱きしめるように腕を回している。 「碇くん」 レイも身を起し、シンジに寄りそうようにして座った。 「あたしは碇くんがそうしたいって言うなら・・・」 「違うよ!!」 シンジの語気にレイはたじろぐ。 「・・・ごめんなさい」 「いや、いいんだ。ごめん、大きな声を出して」 「本当にごめんなさい・・・」 レイはどうしていいか分らなくなる。そもそも、さっきまでの自分の行動も彼女にとって見れば、日頃の自分ならありえないものだったのだから。 「・・・本当はね・・・僕もしたくなっちゃったんだ。 でも、綾波はそういうつもりじゃないって気が付いた、なんか情けなくなっちゃって」 「そう・・・」 レイはシンジの言葉を複雑な思いで聞いている。 「さ、もう僕は大丈夫だから」 そう言ってシンジはさっと立ち上がるとレイの手を取って、立ち上がらせようとする。 そうして、元気良く部屋からレイを押し出してしまう。 「明日も早いから、綾波ももう休んで」 「あ、ええ・・」 「おやすみ」 「おやすみなさい」 |
レイを送り出してドアを閉めた後、部屋には微かにレイの香が残っていた。 何も解決していない。 何が大丈夫なものか。 だがシンジは、レイには彼を助けることが出来無いのだということも痛い程分っていた。 |
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