▼第四十四章

「やっぱり、壊れない共演者っていいわねぇ」

 女は蓮葉な調子で言い放つ。周囲の人間には日本語は通じないと思っているから声を潜めることすらしない。

「君はまだそんな風に・・・」

 サングラスをかけ顔の輪郭に沿って髭を生やした男は壁に寄りかかったまま言った。
 既に着替え終った本日のピアニストは共演者のチェリストを自分の楽屋に招じ入れたのである。彼はドア近くの壁に寄りかかったまま、彼女の化粧(ステージ用の化粧はとっくに落してしまっている)が終るのを待っているのである。

「あら、あたし悪いこと言ったかしら?」

 彼女の声には、どこか挑むような調子がある。

「君には分かっている筈だ」

 男は、渋々答える。もう何度も繰り返された言い合いを蒸し返すだけのことだと分かってはいる。

「どうしろって言うのよ?。
あたし何かしたぁ?。
冗談じゃない。あっちか勝手にぶっ壊れるのが悪いのよ」

 これも彼女のいつもの答えだ。彼女はその言葉を口の中で舐るかのように喋る。
 こうして彼に言葉をぶつけることは、一種行為の前の愛撫のようなものだ。

「そうじゃないだろう。君はそいつの使い方を学べる筈だ」
「そうね。それなら他の人も、あなたみたいにぶっ壊されない方法だって学べる筈だわ」
「違う!」
「なんで?。そのためにあたしは演奏活動を中断しろって言うんでしょ?
それならあたしと共演したい方がそのための努力を惜しまなくってもいいんじゃない?」
「その姿勢自体が君の音楽に悪い影響を及ぼしているのに気がつかないのか?」
「どう悪いっていうのよ。
あなただって今のあたしの音楽の良さが分かる筈だわ。
今ほどあたしが自由に歌えるようになったことはないわ」
「それは力持ちの赤ん坊が力任せに腕を振り回しているのと変わらない」
「あら、酷い言いようね。
残念ですけど、聴衆は満足してるのよ?
それともあなたは聴衆より良い耳をしているとでも?
随分スノッブなことねぇ」
「スノッブなのは君の方だろう?
本当に彼らの中に分かる者が居ないとでも思っているのか?」
「ええ。
その証拠に今まで誰一人としてそう指摘したものが居て?」
「キョウコ!!」
「いい加減にして!。
これはあたしにやっとめぐって来たチャンスなのよ。
あの高畑がつぶれてくれて、やっと陽の目が当たって来たっていうのに何でそんなこと言うの?。
あたしが活動を続けるためにあの薄ら馬鹿の一族とどれほどやり合わなくちゃならないか想像できて?
あたしは今聴衆を味方に付けている。
だからあたしは続けることができるの。
共演者のじじい、おっと失礼、ゲンドウはまだそんな歳じゃないわね、あ、別にあなたのこと言っている訳じゃやないのよ、で、そのじじいどものことを心配する必要なんてないわ。
あいつらの代わりなんて幾らでも居るじゃない」

 そういうとキョウコは艶然と微笑みかける。

「でも、あなたの代わりはいない」

 ゲンドウは嫌悪感を露に吐き捨てるように言う。

「そんなことが続くものか!」
「いいわよ?。別にあたしはリサイタルだけでもいいんだから。
室内楽やコンチェルトをやってるのはいわばサイドビジネスだわ」
「情けないことを言うなよ。
一体どうしてしまったんだ?。
これが、あの惣流キョウコなのか?」
「おあいにくさま。
どんな勝手なイメージもたれてるのか知らないけど、もともとあたしはこういう人間なの。弱くて勝手で自分のことしか考えられない。
だから音楽以外のことに割く時間も余裕も全くございません。
さ、そろそろ行くわよ。この会場結構時間に厳しいんだから」

 そういうと惣流キョウコはバッグを肩にかけて立ち上がる。すると慌てて付き人が楽屋のドアを開いた。
 楽屋を出ると二人の周囲に数人のガードマンが貼付く。

「どうなの、やっぱり一杯?」

 キョウコは馴染みの警備主任に声をかける。

「ええ、ざっと百人程は居るでしょうな。
車は回してありますので、後はガードマンがうまく誘導してくれるでしょう」
「ありがとう。期待してるわ」
「ええ、私達の本番はこれからなんでね」
「ふふふ、そうね」

 ゲンドウは二人の会話に毒気を抜かれて先程の話の続きをするきっかけを失ってしまう。
 裏口を出るとあっと言う間にファンに取り囲まれたが、その人混みをかき分けるようにしてガードマンが道を切り開いて行く。

 不意に騒ぎが背後から起こった。
 振り返ると、そこの人垣がさっと分かれ、一見ホームレス風の男がこちらにかけよって来るのが見える。恐慌にかられたキョウコが叫ぶのと銃声が響くのとはほぼ同時だった。

「高畑!」

 ゲンドウが叫ぶ。

「えっ?」

 その瞬間、キョウコは凍り付いた。


「碇、おい、碇」
「ん?」

 気が付くと目の前に冬月の顔があった。

「忙しいらしいな」

 冬月が茶をいれにいっている間に眠ってしまったようだ。

「いや、単に歳をとっただけさ」

 身を起こしながらゲンドウが言った。

「お前らしくもない」
「いや、俺らしいさ。こうやって今にどこかで寝入ったままぼろ切れのように死んで行くんだろうさ」
「そんなことを言うもんじゃない」

 冬月は湯飲みをゲンドウの前に置いた。

「今、あのときの夢を見ていた」
「?、ああ。高畑の」
「いや、その直前にキョウコと話したことだ」
「そう言えばお前は、彼女を諌めるつもりで共演したんだったな」
「そんな大それたことを考えた訳じゃない。ただ余りに目に余ったから、つい余計な事を言ったまでだ」
「余計なものか。
高畑も同じ思いだったんじゃないか?」
「確実にそうだろう。
あいつこそが一番心配してやっていたんじゃないだろうか」
「何ともやりきれん話しだな」
「ああ」


 前奏が終ってバイオリンのソロが始まると思っていたら聞こえて来たのは、間延びした声のカヲルの言葉だった。

「あれからシンジ君に連絡したぁ?」

 むっとしてアスカは手を止める。

「あんたになんでそんなこと答えなきゃならないのよ。関係無いでしょう?。
いい?。本番は明日なの。あ・し・た。
それにあんたのソロの演奏会でしょう?。いいの?。そんなにのんびりしていて」
「だって、僕にとっては、それが大事な事なんだ」
「・・・・」

 本当に頭痛がしそうでアスカはこめかみを押える。

「どうして教えてくれないのさ。フェアじゃないよ?」
「どうしてあなたに教えることがフェアなのよ」
「だってライバルだもの、僕達」
「なんの?」
「シンジ君の心を射止めるのはどちらかって言う」
「ええい、この腐れオカマ!!。さっさと練習する、さっさと練習!!」
「えええ?、やっぱズルイと思うなぁ」
「だまれ」


 フランクのバイオリンソナタは、バイオリンソナタの定番の1つである。
 演奏会で取り上げられることが多く、またTVCMに使用されたこともある。
 特に終楽章のメロディーは明るく覚えやすいこともあって、曲名は知らなくとも聞いたことのある人は非常に多い筈だ。そうした親しみ易さの反面、この曲はピアノが単なる伴奏ではなく高度な演奏技術と表現力を要求される難曲でもある。ピアノとバイオリンは、一方がソロで他方が伴奏という単純な区分けが殆ど出来無い。バイオリンソナタというよりも、バイオリンとピアノによるソナタと呼ぶ方が正鵠を得ているだろう。

 一楽章は、調性の定まらない和声で始まる。
 ピアノが、問いかけるように不安定な調の和音を奏でる。バイオリンがその上をなぞるように、やはり調のはっきりしないメロディーで答える。時折その曖昧な和声がはっきりとドミンナトに回帰しそうな瞬間がやってくる。が、すぐにまた曖昧な呟き戻ってしまう。その振幅はあるときは大きく、またある時はほんの僅かの時間しか続かない。柔らく甘い不安。
 その調子は2楽章になると一変する。Allegro。だが表情はcon foco。一楽章では曖昧な和声のさざめきの中に紛れていた不安は、ここでは一挙に急くような激しい姿で現れる。この楽章では主人はむしろピアノだ。荒々しいアルペッジョの嵐が吹き荒ぶ中を、行方の分らぬメロディーが驅けぬけていく。バイオリンはむしろその動きを追認するに過ぎない。と思うと突然、襟を正したかのように一楽章の主題の変形がピアノとバイオリンとで同時に奏でられ、表情は一変する。軽快な長調のメロディーがピアノの涼しやかな伴奏の上を飛んで行く、と思った瞬間、和声は一転して半音進行の経過句によって不安の色が差し込まれていく。その行き付く先は、止りかかった人形の諧謔的な悲嘆。やがて時計は再び回り初めて嵐の中に戻っていく。
 第三楽章は不思議なレチタティーヴォ。
 2つの楽器は回想する。
 だが何を?。
 今迄過ぎさったのは不安の諸形態に過ぎない。とすればここでも不安が不安をもって回想される。
 それは形をなそうとするや否や、恐慌にかられて自ら形を崩してしまう。
 だからやがて旋律は、民謡風のメロディーに逃げ場を求める。それは存在したことの一度もない故郷。
 面白いことにこの一番形のはっきりしない楽章が実は2楽章に匹敵するだけの持続をする。
 やがて唐突に音楽は解決を見出す。
 幸福な家庭のイメージを醸しだす明いメロディーをカノン風にバイオリンとピアノは紡いでいく。だがそのメロディーはやがて過去の全てを回想する。それが展開部なのだ。やがて曲はソナタ形式の規則に従い最初の明るく幸福なメロディーに還るだろう。だが聴くものは、それが解決されぬ不安の上に乗っているだけなのを知っている。

 やがてやってくる回想のためだけに過す不安な時間と、その結果訪れる曖昧な幸福。

 この曲は決して古典期には生れえなかった不思議で矛盾した性格の音楽だ。だからこそバイオリンはそれ自身で主役ではありえない。バイオリンとピアノいずれかに性格を偏らせてはこのような音楽は生れえない。どちらもそれ自身では音楽ではあり得ないのである。
 勿論、個々の旋律線には通俗的とまで言えそうな美しいものであり、また和声進行もそうした性格にマッチして特に終楽章は分りやすい。そこでしばしば凡庸な演奏者の手にかかると甘ったるいセンチメンタルな演奏になりがちだ。だがそのように演奏しては3楽章のように複雑な性格の音楽は死んでしまう。そしてその楽章を經て現れる4楽章の真の魅力も当然、誤解されたままになるのである。
 このような表現は一人の人間でも手に余るのに、アンサンブルを取りながら表現し尽すのは困難を極めることは容易に察することができよう。難曲と謂れる所以である。わずか二日でこれを仕上げろというのはかなり無茶な話なのである。


 もっとも演奏してみると、これまでのいずれの曲にも増してアスカはカヲルの音楽が良く分ることに気が付いた。あるいはアスカ自身もカヲルによって良く理解されているということでもあるのだが。そうして終楽章に至るまで、間隙なくぴったりと互いの思いが寄り添って行った。
 それは嘗てシンジとの完全なアンサンブルと全く異なる感覚だった。シンジとの一致の感覚は、全く異質なもの同士が通じあった不思議であったとすれば、カヲルとの場合、全く違うと思っていたら実は互いが極めて近しい血脈に属しているのを発見したようなものだ。要するにアスカとカヲルは深いところでは余りに似すぎている。そこに至ってしまうと実は互いが見分がつかぬまで融合されてしまっている。
 それは完全に肉体をコントロールした状態で一人で全ての思想を表出しつつ演奏していることと変らない。


 演奏を終えた時、二人とも驚きと徒労感にも似た疲れを覚えていた。

「・・・どうして?」

 ぽつりとアスカが言う。

「・・・何故、そう思うのかい」

 カヲルは皮肉な表情で尋ねる。もっともその目は答を知っている。
 カヲルはバイオリンを無雑作に椅子に置くと、アスカのところへ行き、肩に手を乗せた。

「君は、ようやく今恋している」
「な、何?。何をいきなり・・・」
「何故?。
この間、全く君にはそういう想いを感じなかったのに、今はまるで僕の心の内を写しているかのようだ。
でも、そうだとしたら何故突然そうなったのかい?」
「な、何もないわよ!」

 アスカはカヲルの手を乱暴に振り払った。

「その否定は何を意味すると思う?」
「・・・・」

 アスカには、その質問の意図が分らない。
 その様子を見て、カヲルは悲しそうに溜息をつく。

「そう。君自身でも未だ分っていないようだ」
「分らないわよ。何を言っているのか、全然」

 カヲルはその言葉を無視してさっさと楽器をしまい始める。

「何よ。もう止めるの?」
「これ以上何を練習すると言うんだい?」

 そういうと少し乱暴にバイオリンのケースを閉じて言った。

「君が今の自分自身を分らない以上、この状態をどう弄ったところでこれ以上の演奏にはならないだろうよ。
それよりも僕としてはシンジ君に連絡してみることをお薦めするね」
「な、何でそこでシンジが出てくるのよ!」

 アスカはそう言葉を繼ぎながら、不快な胸騒ぎを覚えた。
 カヲルは目を細めて暫くアスカを凝視めていたがふいっと踵を返すと部屋を出ていってしまった。

「何なのよ・・・一体」

 アスカはひどく泣きたい気持になっている。


「それで、辞めさせてしまった、というの?」

 リツコは苛立っていた。
 その彼女の前でマヤがやや憮然とした表情で立っている。

「ええ。彼のためですし」

 リツコは皮肉な笑みを浮べて言う。

「何?。
全然分らないわ。
あたしにも分るように言ってちょうだい」
「別に何も分りにくいことはありません。
ただシンジ君は辞めたいと言ったので辞めさせました。
それに彼はもうそろそろ受験ですし丁度良い時期です」
「あのねぇ」

と語気を荒らげて切り出したものの、マヤは一向に動ずる気配も無く、そのままリツコは絶句してしまう。

「ああ、もう一体何だって言うのよ。
あんたも、レイちゃんも」
「レイちゃんが?」
「そう。
あんた何か知ってる?」
「何かあったんですか?」
「シンジ君のこと。
それにキョウコさんのこと」
「ああ、そうなんですか」

とマヤは微笑んだ。

「あんたもなのね?」

 リツコはそのマヤを眈みつける。

「先輩は分らないんですか?」
「だから何のことよ」
「やっぱり演奏者だけに作用するんですね、あの力は」
「そうなの?。
あの子にそんな力があるっていうのね?」

 マヤはその言葉に意外だというような顔をした。

「あ、ご存知なんじゃないですか」
「庵原とかいう、例のスキャンダルまがいの記事を書いた記者が言ってたのよ。
そんなもの信じられないでしょうに」

 マヤはにっこりと笑って言う。

「でも、あるんです」

 リツコは唖然としてマヤを凝視める。マヤはむしろ晴々とした表情をしている。
 リツコはこめかみを指で抑え顔を顰めながら言う。

「ああ、もう頭痛がしてきちゃったじゃない。
とにかく説明して」
「説明してって・・・。ご存知のことがそのまま本当です」
「そんな・・・」
「人間には影響力ってありますよね。
あれって何だと思います?」
「庵原という男も同じこと言ってたわね」
「それもご存知なんですね。
別に不思議な力じゃないと思いますよ、わたしは。
人間って自覚している以上に色々なものを知覚しているんです。
古代の人達って、もっと互いのコミュニケーションには言葉以外のものに依存してたんじゃないでしょうか。
ちょっとした仕草とか、筋肉の動きとか呼吸だとか。
そうしたものに意味を読み取り反応してたんだと思うんです。
何も言わなくても、それでかなりのコミュニケーションが出来てたんです。
でも、そういうコミュニケーションは情報伝達の点では効率が悪いから次第に言葉に頼るようになって、そうした能力はどんどん失われていった。
それでも幾分かは、その能力が残っていて、そうしたコミュニケーション能力の高い人が影響力が強いって言うんんだと思います。
そういう人は、意識するしないは別として周囲の人に言語以外の方法で働きかけてるんです。
人には、そうした働きかけに幾分かは反応する能力が残っているから、無意識にそうした働きかけを受け入れてしまう。でも無意識だからこそ、その力に対抗できなくてまるで操られているかのようなことも起きるんです。

私達演奏家は、言語によらないコミュニケーションを常に行っています。
アンサンブルの中では始終、互いに仕草や音、呼吸等でコミュニケーションしあってるんです。勿論、原始にもっていた非言語コミュニケーションの能力に比べれば、それは高々合図としか呼べない代物かもしれません。
でも、一方でそうした互いの合図を見逃すまいと、常に感性は開いている。
そうしたところへ、原始的な非言語コミュニケーション能力が高い人間が入ったらどうなるでしょう?
感受性が強い一方で、コミュニケーションとして初心なだけに容易に操られてしまうことだって起きるでしょう。
ましてその原始的な非言語コミュニケーション能力が高い人間が、自分の能力に無自覚だったりあるいは制御できなかったりしたら、影響を受ける側は一方的、暴力的に自分を奪われてしまうように感じるんじゃないでしょうか」
「それがシンジ君やキョウコさんの能力だ、という訳ね」
「ええ。
でも二人ともちょっと力の特性が違っているみたいですね」
「と言うと?」
「シンジ君の場合、力を通して全員にシンジ君の音楽が強要されるんです。
そしてご存知の通り、それはとてつもなく大きな音楽なんです。
あんな体のどこにそんなものが潜んでいたのかと思う程に。
でもキョウコさんの場合は、むしろ影響を受けた人の音楽が開花するんです」
「どういうこと?」
「キョウコさんって、コンクールでは高畑さんより評価が低かったですよね?」
「ええ」
「キョウコさんの音楽ってうまいんだけど、どこか空疎なところが無いですか?
特に初期の頃ほどそう。
まるで考えに考えて拵えたものみたいに」

 リツコは唸った。
 確かにキョウコの音楽は高畑に比べると最初の頃は不自然な、理の勝った音楽だったという。その特質はアスカにも受け継がれていて、知性に勝った解釈が血の通った音楽にまで結実するには、どうしてもかなり弾き込む必要があった。そういう意味では実はアスカの天才とはイマジネーションの天才と言うよりも、むしろ努力の天才なのだと言った方が良い。それはそれで良い意味での人間臭さではあるのだし、最終的に現れた音楽の価値を貶めるものでは無論無い。

「恐らくキョウコさんの力はシンジくんと同じでも、音楽性の違いが二人の相違を産んでしまうんです」
「それにしても・・・」

 そうだとしたらなんと奇妙な働きかけをしていたのだろう?。

 ナンジジシンノオンガクノサキヲキワメヨ。

 キョウコの力はそうメッセージを伝えるのだとすれば。
 だがそうだとするとキョウコの音楽は、実はその不思議な力を借りたものでは無いことになる。
 ソロピアニストとしての晩年の業績は、そうした力とは全く無縁のものだ。
 リツコが思いに耽っているとマヤは更に言葉を続けた。

「わたしは晩年のキョウコさんがどういう状態だったか分りません。
でもキョウコさんはどこかで力を制御する気を失ってしまったんじゃないかって最近思うようになりました。
確かにキョウコさんの力は自分の音楽の達成に何の役にも立たないものです。
むしろ共演者のもっている資質を限界まで強制的に開花させ、最後には潰してしまうだけ」
「どうしてそう思うの?」
「先輩は、庵原さんにお会いになられたんですよね?」
「ええ」
「あたし実は、あの演奏会聴いているんです」
「えっ?」

 リツコは意外な想いでマヤを見た。

「ええ。まだ学生だったので、その頃は何があったのか良く分らなかった。
でもひどく印象に残っているのが、演奏を終えた時の呆然とした庵原先生の顔と、
キョウコさんの冷い笑顔。
まるで庵原先生を蔑むような。
何故、あんな表情で見るのかあたしには判らなかった。
ほんの少しの時間だったんで、その頃は見間違いだと思ってたんですけど・・・」

 リツコは、考え込んでしまう。ニューヨークでの事件といい、庵原の件といいやはり晩年のキョウコについては不吉な点が多過ぎる。しかし目下のところの問題はシンジだ。

「でもシンジくんの場合は力はもっと深刻だ、と?」
「ええ。
彼の力は彼の音楽を強制的に人に刷り込んでしまう。
そこには亨受する側の自由は無いんです。
とてつもなく大きな音楽。
でもそれは人間を圧し潰してしまう」
「でもどうやってそれを制御するっていうの?」
「分りません。
でも、恐らく出来ると思うんです。
丁度、赤ん坊が言葉を覚えていくように、彼も力の発揮の仕方を覚えることが出来る筈です」
「でも、赤ん坊は周囲に言葉を話す人達がいて、その中で言葉を修得していくのよ?。
そうしたことがシンジ君の場合に可能だと思う?」

 マヤの顔が曇った。

「その点が一番不安なんです。
あたしにはどうやったらいいのか、全く分りません。
でも別のアプローチもあると思うんです。
このまま行けばシンジ君の音楽は、本人がどう自覚しようが、人間そのものを不要とする音楽にしかなりません。
そんな音楽は本来あってはならないのに。
だから音楽そのものに立ち還ることで人間にとっての音楽を自分のものと出来れば、解決の途が拓けるんじゃないでしょうか?」
「それは団を辞めることで出来るようになるものなの?」
「分りません。
でも、今のままではどうにもならないことは分ります」

 リツコは降参とでも言うように両手を挙げた。

「分ったわ。
じゃ、後でシンジ君に事務所に来るように伝えてちょうだい。
これでも手続き的には色々と配慮しなくちゃいけないから。
それに、今回はしょうがないけど、こういう事はもっと早くに言っておいてよね」
「すみません。
急なことだったもので」

 そういうとマヤはぺこりと頭を下げた。


『そっちはどう?。あたしは今度の演奏会ではフランクのバイオリンソナタの伴奏をしました。結構いい感じだったかな。ソリストは例のあんたのファンだっていうホモ男だけどね。あ、そうそう、彼が是非あたしとあんたと三人でベートーベンの大公やりたいって言ってたから。あんまりあいつのスタイルに合わない気もするんだけどねぇ。じゃまた連絡する。』

 そっけない文面。カヲルのことを書くのは気が引けたものの、とても今の自分の話をする気にもなれなかった。
 自分の心を隱すためのメール。
 もっともシンジのメールもこのところ、妙にそっけない。
 ちょっと前まではマヤの楽団での話ばかりだったし、シンジが面白がっている樣が手にとるように分る文章だったのに、ここ数日は、ほんの二、三行で変わりはないと告げるだけ。

 こんなやりとりが最近続いていることに気が滅入ってくる。
 加持らしい人物に会ったという話は無論、書くわけにはいかなかった。けれど例え書くことが差し支えなかったとしても、書かなかった筈だ。

 何故かシンジには知られたくなかった。

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