▼第四十五章 |
A国とトルヒーヨという名前からは幾つかの記事を検索することが出来た。 |
インターネットで検索してみることを思い付いたのは、ロドリゲスと名乗る男に会ってから二週間も後の事だった。何故、こんなに簡単なことすら思い付かなかったのかと腹立たしくなった。 新聞社の記事検索サイトなら恐らく大使館の人事異動くらいは出ているだろうと、検索して見たところ、大使館付武官の着任にしては珍しく、写真入りで記事が見つかったのである。 インディオの出身者の外交館はA国としては珍しいことだったらしい。もっとも記事を読む限り、ロドリゲスに関して言えば、インディオとは言え、毛並の良いブルジョア出身であって、決して無一文から裸一貫で偏見に満ちた社会の中をのし上った、というものでも無いようだ。どちらかと言えば支配階級なのである。そのような階層ですらインディオであるということだけで受ける差別は酷いものがあるらしい。 略歴を見る限り、日本人であることを匂わせるものは何も無い。 勿論、これは偽装だという可能性も考えられる、とは言えA国が協力しなければ、あるいはA国内に強い影響力を持った何者かが関与しなければ、こんなことは不可能だ。 アスカには、加持のためにそこまで大掛かりな偽装が行われるとは信じられなかった。 そうだとすれば、トルヒーヨという人物は実在していて加持という男ではないことになる。 にも拘らずアスカの直感は、あれが加持であると告げている。 記事に付けられている写真は、解像度が高くなく不鮮明だが、それは紛れもなくあの演奏会場で会った男だ。 アスカは困惑する。 記事には新武官の略歴も掲載されていた。 コロンビア大学を卒業したことになっている。 もしロドリゲスが実在の人物なら、当然彼を知る同窓生が居るに違いない。 少なくとも卒業者名簿くらいは確認出来無いか、と思っていたところ、あっさり大学のホームページで卒業生のリストが見つかる。単なる名前の羅列なので別に非公開でもなんでもないらしい。そして当然のようにロドリゲスの名前はそこにあった。 アスカは突然、馬鹿馬鹿しくなってシャットダウンを選択する。 こんなことはどうかしている。 あれは間違いだったかもしれない。いや、そうだ。 パリの演奏会場でばったりなんて出来過ぎている。 加持がテロリストとして追われていることですら、もう十分非現実的な出来事なのに、その上A国の外交官になっているなんぞ、まるで出来損ないのスパイ映画だ。 本当ならもっと目立たない形で身分を隱して、ひっそり生きている筈だ。それで十分ではないか。 |
二週間後に控えている演奏会は、アスカにとって取り立てて変った演奏会では無かった。毎週どこかで演奏会に出演しており、自分の仕事だけでなく、カヲルとの共演(と言てもその多くは伴奏なのだが)もこなしているから、結構多忙なのである。実際、このペースは中堅のピアニストでもやや多過ぎるペースだ。かの有名なクライバーンコンクールの優勝者ですら翌年の契約コンサート数は年に七十回程であることすらあるのだ。 このパリでコンスタントに仕事のペースが維持出来ているのは、やはりアスカの力量が認められており、且つ期待に応えるだけの結果を出しているからだ。一回たりとも失敗は出来無い。そう。替りなら幾らでも居る。ほんの僅かの気の緩みであっても、あっというまに他の者に取って替られるのだ。 だがシュッツの御陰でアスカは、そうした厳しい状況からのプレッシャーとは無縁だった。 全ての演奏会に対しシュッツはアスカに課題を要求した。それにどう答るべきかを考えるだけでアスカは精一杯だった。演奏会は聴衆に聴かせるよりも寧ろシュッツに提出する答案のようなものだ。 |
学校からの帰り道だった。 その日はなんとなく寄り道したい気分だった。 そしてふと入ったカフェに、彼は居た。 軍服は着ていない。 黒いジャケットに黒いパンツ。 やや大きく開けた襟元には浅黒い肌に銀のネックレスが見える。 窓際の席に座って新聞を広げている。 アスカは一瞬息を呑んだ。 が、次の瞬間自分でも思いがけない行動に出ていた。 彼が座る席に歩み寄り、向かいの椅子を引くと黙って座ったのだ。 「今日はオフ?」 アスカがフランス語で声をかけると、ロドリゲスはゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。 「ええ。久し振りの休日ですよ。と言っても時間を持て余してますがね」 フランス語は完璧だった。ややラテン系の訛があるものの、到底日本人の付け焼刃のフランス語ではない。 「えっと・・・この辺、あたしの学校が近いのよね。それで・・」 アスカはうまく説明出来ず、仕草を交えて曖昧に言葉を濁す。 「そうですか」 ロドリゲスはそう答ると再び視線を新聞に戻した。 これでは取り付く島も無い。途方に暮れアスカは溜息をつく。丁度その時に通りかかった給仕にはエスプレッソを頼む。 見れば見るほど、加持ではないのではないか、と言う疑いが強まっていく。 容姿は良くは似ているものの、違いばかりが目に付いてしまう。 それに、今日はアスカは彼をあくまでも、別人として扱うつもりでいた。もし仮に本当に加持だとしても、本人がそれだけ強く否定するのなら、そうでなければならない理由があるに違いないのだ。それを自分の我儘で加持に曲げさせようとして加持に嫌われるのが恐かったのである。 ならばいっそ、言われた通り、別人として接し続けた方が良い。もし本当に加持だったならいつかは、本当のことを教えてくれるだろう。 もし加持でないのなら、なおのこと妙なことを言って狂人扱いされるのだけは御免だ。 運ばれてきたエスプレッソを一口飮む。 まるでロドリゲスと自分の間に巨大な壁があるかのようだ。場違いな雰囲気を感じて心細くなる。 と、その時、ロドリゲスが新聞から顔を上て言った。 「さ来週のコンサートですが、自分も会場の警備に付くよう仰せつかりました」 「はい?」 「うちのボスも聴きに行きますのでね」 「そうなんですか・・・」 いきなり話しを振られても困惑するばかりだ。 「私は会場周辺を見まわっていることになりますので、聴くことは出来無いんですが是非良い演奏会にして下さい」 「はい、ありがとうございます・・・」 あまりに素直な励ましの言葉はアスカの心を暗くした。それは余りに加持とは遠いものに感じられた。 ロドリゲスが加持かもしれない、という淡い期待はアスカの中で風前の灯になりつつあった。 「・・・あの・・・」 アスカはそれでも俯いたまま、言葉を繋ごうとする。 「はい」 ロドリゲスはストレートにアスカを凝視めている。 その時そんな質問したのは、彼とアスカとの間にあり得る問いは他に無かったからかもしれない。 「このあいだの演奏会ですけど・・・ いかがでした?」 言葉を発してから、アスカは祈るような気持でロドリゲスを見る。 だが彼の答は極めてありきたりのものだった。 「素晴しかったです」 そう言ってにっこりと微笑った顔には、何の衒いもない。 「・・・そうですか・・・」 その答がどこか気落ちして見えたのかもしれない。ロドリゲスは心配そうな顔でアスカを伺う。 「どうしたんですか? 何か心配事でも?」 「あ、いえ、何んでもありません」 そう言ってにっこりとアスカは笑ってみせた。 だがそこまでだった。もうそれ以上は耐えられそうにない。 唐突に立ち上がると、ロドリゲスに一礼し唖然としているロドリゲスに構わず、勘定を済ませ走り出ていってしまう。 |
「やれやれ、罪な人ねぇ」 アスカが座っていた椅子にミレイユが座る。 「またか」 「あら、ご挨拶ね。別に意図してやってるんじゃないわ。 あなたがオフで出掛けたっていうから探してたんじゃない」 「それはどうも」 しかしロドリゲスは明かに不機嫌だ。 「不器用な男ねぇ。 わざとらしくこんなところで張ってないでもいいでしょうに」 「偶然だ」 「あらあら、強がり言って。 心配だったんでしょう?。あなたが加持という男かもしれないって期待されるのが。 だから敢て姿を見せて別人であることを印象付けようとした・・・」 「そんないいもんじゃない」 「そおお?。でも結果的にはそうなってるわ」 「・・・・」 だんまりを决め込むロドリゲスに、ミレイユは肩を竦めて見せる。 「まぁ、いいわ。別にあなたの問題に首を突っ込む気は無いから」 「ああ、それでいい」 「で?」 「はぁ?」 「今日はどこ行きましょ?」 ロドリゲスは深い溜息をついた。 「いいじゃない、オフなんでしょう?」 「下見だ」 「うん、それでいい」 「遊びじゃない」 「分ってる。会場の下見でしょう?。 クーパー相手なんだから手は抜けないって」 ロドリゲスは苦笑する。 「分った。降参だ」 「それでよろしい。じゃ、行きましょ?」 |
横を踊るように大袈裟な身振りで歩くミレイユが居る。 晩秋の日差しに金髪が光る。 その髪を見るともなしに見ながら加持は、自分の行動を反芻している。 結果的にはアスカに別人であるとの印象を植え付けられたものの、本当のところは単に彼女に会たかっただけでしかない。アスカがあのカフェに立寄るかどうかも知らなかった。 あそこに居たのは、コンセルヴァトワールと同じ街区にあったからに過ぎない。 何故、こうもアスカに会うことを考えると心騒ぐ感じがするのか訝しむ。 既に自分の中で彼女はとっくに、あのおませで小さなアスカでは無くなっている。その感情の名を加持は呼ぶまいと自分に言いきかせる。 胸の内で消えてなくなれ。 そんな想いは無かったのだ。 |
曾て、ここに建っていたシルクアンペラトールは、音響効果の著しく悪い、ただ多くの人を収容できるだけの会場でしかなかった。殆ど巨大なサーカス小屋のようなその会場が、パリの市民が近代音楽を自分達の手に取り戻していく根拠地となった、という歴史は、もうとっくに人々の記憶から消えてしまっている。とは言え、その跡に近代的なコンサートホールが建っているのも、本当はそこが音楽に祝福された地だからなのかも知れない。 「ふぅ。戦場にはもってこいねぇ」 「そうだな」 周囲にはゆったりと空間が取られているし、近くには住居は無い。市街への被害は最小限に喰いとめられるだろう。とは言え、当実はここに数千人の人々が集るのだ。ただ破壊しさえすればよい攻撃側にとってはどうでも良い話かもしれないが、守る側にとってはハンデを背負っていることには変りはない。 ロドリゲスはジャケットの内ポケットから図面を引っぱり出すと広げて、実際の建物を確認し始めた。 「さっすが、用意がいいわね」 「下見に来たんだろ?」 「そりゃ勿論」 「じゃ、用意するのは当たりまえだろうに」 「ごもっとも」 仕方がない奴という風に、ロドリゲスは肩を竦めると、自分の仕事に没頭することにした。 ホールはセーヌ河沿いに丁度堀を作って出島のように区画された敷地に建っている。街路からの侵入路はまっすぐホール正面のファサードに向っており、ホール背面は河に面している。即ちこの敷地からの出入り口は1本しかない。ホール建物の両側には大型車両が通れるだけの幅が取られているが、これはホール背面の搬入口に運送車両が入れるようにしているものだ。いずれにせよ一般客が通るようには出来ていない。街路からの敷地入口とホール正面の間の広い空間が、来場車のための駐車スペースになっている。 市街戦で立て籠るには丁度良い。 もっとも建物自体は御世辞にも防御に向いているとは言えない。 ポストモダンの、要するに金属とガラスで作った十九世紀スノビズムの模倣品。力学的悪ふざけ。鉄の梁に飴細工のように幾重にも貼り付けられたガラスは、砲撃にはひとたまりも無いだろう。 「さて、クーパーならどう攻めるか?」 「あんまり工夫のしようがないんじゃない?」 「まぁ、そうだな」 この会場に押し込められた人間を虐殺することだけが目的なら、これほどプロとしての意欲が涌かない場も少いだろう。要所に爆弾を適量仕掛ければ殆どの人間は瓦礫と見分けがつかなくなるだろう。 そうして生き残った人間を敷地入口に陣取った強襲部隊がなぶり殺しにするだけだ。 念を入れるなら背面の河に掃討用に何隻かボートを浮べれば良い。 「ま、要するに爆弾を早期に発見、排除できれば防御の半分は達成できたということになる」 「普通に考えればそうね」 「・・・なるほど」 「クーパーはきっと満足出来無いでしょうね」 「恐らくな。悪趣味な奴だからな」 なるべく儀牲者の恐怖と苦しみを長引かせること。 その場の恐怖の主催者となること。 クーパーはその瞬間のために生きている人でなしの一人なのだ。 「恐らくホール周辺に部隊を配置し、自分は突入して暴れまくる」 「多分ねー」 ミレイユはつまらなそうに相槌を打つ。 そうして吐きすてるように言った。 「殺しを楽むなんてガキなのよ」 |
マヤから、シンジの退団を告げられてから2日後、事務所にふらりとシンジが現れた。 「あら、久し振りね」 「ええ、お久し振りです。リツコさん」 見たところ、シンジはいつもと変わりない様子だ。というより普段から、表情は乏しく、同年齢の子に比べるとお行儀が良い。 その日は社員の殆どはイベントの実行スタッフとして出はらっていたので、事務所にはリツコの他は誰も居なかった。 「どう?。調子は」 「はぁ」 相変わらず煮え切らない態度を取る。 「今日来てもらった理由は分る?」 「はぁ、一応」 「マヤとは会ったの?」 「何のことですか?」 「・・・・」 リツコは試すようにシンジを見ている。 「まぁ、いいわ。 取り敢えず幾つかの書類にサインしてもらうわよ?。いい?」 「ええ、そのつもりで来ましたから」 「そう? じゃ良かった」 そういうとリツコは、いくつかの書類を机に広げた。 碇シンジは未成年なので実際に契約する上ではゲンドウのサインが必要となる。従って今日の作業で契約の処理が完了する訳ではない。 せいぜい言って本人の意思確認程度のものだ。 最大の問題は、この件をゲンドウにどう伝えるか、だろう。 「で、シンジくん?」 「はい、なんでしょう?」 書類から顔を上げてシンジが答える。 「お父さんには、もう言ってあるの?」 「・・・実は未だ・・・」 「そう。あたしから言う?」 「いえ!、それはいいです。僕がやります」 「そう?。じゃいいけど・・・」 「早い方が・・・いいんですよね?」 「いいえ、急ぎでも無いわ。 お父さんの都合のいい時でいいのよ?」 「いいえ、なるべく早く父さんに話を伝えます」 こういうことで意固地になるところは以前から変わっていない。 「じゃ、そうして」 それからリツコは本題に入る。 「ところで・・・・」 「はい?」 「チェロは弾いている?」 「!!・・・」 シンジの顔が強張る。 「どう?。 仕事が無くてもマヤのレッスンは受けるんでしょう?」 「・・・・」 シンジは俯いたまま答えない。 リツコは数年の付き合いでこういう時にシンジに口を割らせるのがどれほど困難かを良く知っていた。 「まぁ、いいわ。余計なこと聞いちゃったわね。 それよりも受験はどうなの?。 志望校ってどこだったっけ?」 明らさまにシンジはほっとする。 「ええっとK大を受けようと思って・・・」 「あら、凄いわね」 リツコは、大丈夫?と尋ねようとして思い止まる。案外プライドが傷付くとシンジは面倒なのだ。 そこで質問を当たり障りの無さそうなものに切り換える。 「学部は?。たしか文系よね」 シンジは困ったような照れ笑いをした。 「えっと、実はまだ決ってないんです」 「えっ?。大丈夫なの?」 意外な答に、思わず先程押えたつもりの質問をしてしまいリツコは内心舌打ちをする。 「ええ。 何か決心がつかなくて・・・」 「そうなの?。 まぁ、いいけど。それにしてもK大だと遠くへ行っちゃうことになるわねぇ。 どうしてK大志望にしたの?」 「それは・・・」 志望校はゲンドウから強く言われたから、というのが一番の理由だ。だが本当のところシンジは自分でも良く分らない。漠然と遠くに行って一人で見知らぬ人達の中で生活することに魅力を感じたこともある。また歴史的な侘まいを残すK市だから、というのも理由の一つだ。 一方、K大は古くからの伝統のある学生オケでも知られている学校である。多くの名曲の日本初演は、ここのオーケストラが行ったものだ。 リツコはその点に、シンジの立ち直りは意外に早いのかもしれないと思いはじめていた。 |
”シンジへ。 室内合奏団辞めたんですって?! なんでそんな大事なことあたしには先に言わないのよ!!。 隠し事は、遠距離恋愛には禁物なのよ。分ってるの?。 まぁ、受験があるって言うのは分るけど。 第一なんだって普通の大学受ける訳?。 親父さんの意向に逆らえとまでは言わないけど、あたしは納得行かないからね!! だから絶対合格しなさい。 これ、命令だから。 では” ・・・・いつものあたしらしいかな。 そう呟きながらメールを送信して、アスカは溜息をつく。 シンジの話は、矢作嬢から聞いた。 矢作嬢はアスカがこの事はとっくに知っているものと思っていたらしい。 驚きはしたものの、案外ショックは少かった。 ・・・・あたしってその程度のものか。 そんな言葉が漠然と心に浮ぶ。そう思いながらも悲しみや怒りよりも疲れを感じる自分が居た。 それなのに、先程のメールを書いているときは妙に楽しかった。 本当ならそうあるべきだった自分を演じている悦び。 けれど送信してしまうと慘めな気分がしてくるのだ。 シンジがシンジなら、アスカ自身もいい勝負なのだと思う。 最初からメールで気持を押し隱していたのは、むしろ自分の方なのだ。 なにもかもが、ちぐはぐだ。 アスカは自分の体を両腕で強く抱いた。そうしないと体と心がばらばらになってしまいそうな気がした。 ・・・・シンジ・・・あいたいよ・・・ 恋しいとか愛しいとか言う感情ではなかった。 それは今この瞬間では無い、いつか。全てが未だ始まっていなかった曾てに戻りたいという気持ち。 |
「アスカ。 今日の演奏は何?」 夕食後のレッスンの時間が始まると、シュッツは開口一番こう言ったのだ。 その時のシュッツの表情は哀しげだった。 パドルーSA主催のリサイタルを一週間後に控えたその日の昼間、マチネーのサロンコンサートがあった。 この日はアスカだけの演奏会だった。シューベルトのピアノソナタのみと言うプログラムから容易に分るように、かなり”通”の聴衆向けに行われたその日の演奏会は、名立たる批評家や各界の名士が聴衆に名を連ねていた。 出来は悪くなかった。 もともとアスカはシューベルトは苦手では無い。 メロディーメーカで知られるこの作曲家は一方で意識過剰な分析家でもあって、知的処理が却って良い演奏効果を生む音楽なのである。もっとも曾てのアスカの演奏はその面が強調され過ぎていて、賛否相い半ばという評価に成りがちだったのだが。 今回はシュッツの薫陶の成果目覚しく極めてバランスが取れた演奏だった。 それだけにアスカにはシュッツの言葉は心外に響いた。 「どこか、いけなかったでしょうか?」 分らない以上、アスカとしてはそう訊ねざるを得ない。 「別に、どこも。 どこをとっても完璧。 それは保証します」 「だったら・・・」 「多分、あそこで聴いている人が誰もいなければ、もっと完璧だったね」 「そんな・・・」 「いや、悪いのは多分僕の方。 確かにアスカは、僕の出した課題に常に答てきた。 でも・・・」 「でも?」 「どこかで間違った」 「先生・・・」 ショックを受けているのはむしろシュッツの方であることに、そこでようやくアスカは気が付いた。 「どうしてそうなる?」 シュッツは問いかけるけれど、その目はアスカの向こうを見ている。 「アスカは、今日聴きに来ていた人、嫌い?」 「え?」 好きも嫌いもなかった。 ただ演奏の場には誰かが立合うのだ。 だがそこで演奏するのはアスカだ。 あの場ではアスカだけが全能と全責任を負う。 だからこそ、アスカは持てる全能力を発揮して可能な限り自分の音楽を表出し切る。 「アスカは本当に良くなった。 カヲルとの共演も、僕が思った以上に良く受け止めてくれてる」 「だったら・・・・」 シュッツは哀しげに首を振った。 「ごめん。 今言ったことは忘れて」 そう言うとシュッツは何も言わず音楽室を出て行ってしまった。 |
聴衆。 シンジと初めて会った頃、アスカは聴衆に向かい会う気力を無くしかけていた。 それが彼女の音楽を曇らせる。 いや、聴衆という言葉は精確ではない。 むしろ彼女を取り巻く大人達全員に対して、絶望と嫌悪の感情を押え切れなくなっていた。 それがシンジと会ったことにより一変した。 別に聴衆を好きになったのではない。聴衆はどうでも良くなったに過ぎない。 もとよりアスカにとっての音楽とは最大のコミュニケーション手段なのである。シンジという必ずアスカの声を聴き届けてくれる人物を得て、それ以外の人間は不要になったのだ。 その後でゲンドウと時田と共演したとき、彼女は自分が自分の想いを漠然としてしか表現仕切れていないことに気付かされたのである。だからここにこうして居る。シュッツに教えを受けてアスカはもっと良く自分の想いを表現できるようになった。だがそれは聴き届けてくれる誰かに対するためだけのものだ。 その為に演奏会という手段がある。 そこに集まった人々のことを考える必要はアスカには全く無いのだ。ただ自分のベストを追いもとめるだけのこと。そうしていつか自分の音に辿り付いた時、シンジならその言葉を聴き届けてくれるだろう。 だがアスカはシンジを失いかけている。 誰もいなくなった場所で彼女はもう一度聴衆の中で一人ぼっちになる。 |
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