1999.06.25
1999.07.12
1999.07.29
2000.09.15
2001.12.07
2003.09.30
2004.06.21
著者:古明地光久
私にとっての日本国憲法 田舎暮しの極意へ 山梨の田舎暮しへ ホームページへ 私は、1995年12月、甲府駅近くの某不動産仲介業者を通して、甲府駅の北方約1キロの所に、平屋建て住宅の半分を借りました。山梨に住みながら、じっくりと、住宅メーカー選び、をしたかったからです。 家賃10万、敷金30万、礼金10万、そして仲介手数料10万でした。 約半年後、新築住宅に引っ越しました。 業者側に、敷金の返還を求めましたが、まったく無視されました。 僅か半年の入居で、敷金の全額をネコババする事は出来ないのです。 悪徳業者に対しては、徹底的に闘う事です。 当然の事ながら、その全額を返却させました。
引越し:
1996年6月、甲府から牧丘町倉科の現住所へ 挨拶回り。”しきたり”ということで、ビール券と菓子折りと手拭いをもって、第一班の皆様へご挨拶。 初会(恒例行事): 1997年1月11日 午前8時30分、請地・公民館(18帖程度の古ぼけた木造平屋) 請地・区の構成員として認めてもらうために、寄付金1万円を支払う。さらに、消防団へも1万円寄付する。 薄暗い部屋の奥、上座に近い所には炬燵が一つ、そして、その横には使い古して、芯も出なくなったような石油ストーブが一つ置いてあった。燃焼はしているようだが、それでも、凍えるほどに寒い部屋の中であった。 狭い室内には、煙草の煙が濛々と立ち込めていた。強い臭気と眼の刺激に、ほんの一瞬ではあるが、遥か昔に通った、新橋の焼き鳥屋を思い出した。ガタン・ガッタン、通り過ぎる電車の響きが懐かしい。 私の氏名と寄付金額が、短冊形のわら半紙に書かれて、煤けた鴨居に、先端の部分だけチョッコット糊付けされ、紙の真ん中から下部にいくにしたがって、くの字に反り返るように、ぶら下がっていた。その二枚の短冊は、立て付けの悪い窓から時折り吹き込んでくる、冷たい隙間風に合わせてパタパタと揺れていた。何を考えるでもなく、ぼんやりと、短冊の辺りを見つめていた。 風流を好む私としては、文句の付けようも無いぐらい、侘しさ満点の室内であった。 区費は毎月・・・・・・・・・・1,000円 慰安会積立ては毎月・・・1,000円 神様寄付金(恒例行事): 区の構成員になると、自動的に金を集めにやってくる。 年間寄付金・・・・1,300円
きっかんじょ(恒例行事): 1月11日の夜、小学生がお金(小遣い銭)を貰いに各家を渡り歩く”しきたり”。数千円手渡す。 「カネオクレッ、カネオクレッ、カネオクレーッ、・・・・」と連呼しながら 十人ぐらいの子供の一団が、神事で使う”御幣”を気狂いみたいに振り振り、”どやどやっー”と雪崩れ込んできた。近くのスーパー(塩山市三日市場)での出来事。 [お金を恵んで下さい、お金を恵んで下さい、お金を恵んで下さい、・・・・]という意味であった。
慰安会(恒例行事): 1997年4月26日 午後6時、牧丘町・隼温泉にて 初めての慰安会。 「お前は腹黒い奴だ!お前は腹黒い奴だ!お前は腹黒い奴だ!・・・・」と胸を小突かれながら、5回も6回も、大声で繰り返し罵倒され、侮辱された。身の危険さえ感じた。 様々な思いをもって、インターネットにホームページを開設した。 私は、 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」 という、日本国憲法の理念を、青春時代から終始一貫して、信奉してきました。 したがって、私は 「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている日本の地域社会において、基本的人権等に関する実地調査・研究・発表等を、腰を入れてじっくりと行い、地域社会は無論のこと、国際社会の一員としての義務を積極的に果たしたいと願います」
葬式(しきたり): 1999年4月下旬 同じ班のお爺さんが亡くなる。 夜11時頃、班長から電話有り。「翌朝8時から夜8時まで通夜の手伝い、そして翌々日の朝8時から5時頃まで告別式等の手伝い」の至上命令。 第1班11軒各2名計22名全員が、朝から晩までお手伝い。 女は奴隷。 意思を持たないロボットのように、朝から晩まで、御飯の支度・後片づけ、御飯の支度・後片づけ、御飯の支度・後片づけ、御飯の支度・後片づけ、御飯の支度・後片づけ、何回も何回も、同じ作業の繰り返しにこき使われる、苦役の連続。 しかし、つくった食事の大半は、班員が食べてしまう。昼飯、夜飯、昼飯、夜飯・・・。 男も? 受付のテント張り、雨よけシートの設置、儀式用の竹を竹薮からナタで切りの、それに何やら不可解なじゅ文の書いてある紙を貼りの、提灯をつけの、意味不明の弔旗をぶら下げの、農協から借りてきた祭壇を、自分達で組み立ての、受付に座りの、・・・・・すべてを自分らの労力でまかなう。 丸2日間、隷属的拘束状態が続いた。挙げ句の果てに、宗教の強制とは。長老の念仏に唱和して「十三仏のお念仏を皆で唱えろ!」とは、「これが終るまでは帰ることはならん!」とは、・・・ ところで、十三仏とは何? 不動明王、釈迦如来、文殊菩薩,普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩,阿弥陀如来、阿しゅく如来、大日如来、そして虚空蔵菩薩の合計十三。
どぶ掃除(恒例行事): 1999年4月下旬 朝8時集合。 「おはようございます」と挨拶したが、返事は2、3人。 5秒後に、もっとデッカイ声で「オハヨー・ゴザイ・マッス」と再度の挨拶。 ドブ掃除の後、広場の草むしり。 一区切り、ついたところで、 1997年4月26日の”慰安会”以来、私をズーット悩ませてきた事柄について、以下に示すようなメモ程度の文書を作り、班の皆様に配布し、説明した。 日本国憲法: 第14条「法の下の平等」 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 第18条「隷属的拘束及び苦役からの自由」 何人も、いかなる隷属的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。 第19条「思想及び良心の自由」 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 第20条「信教の自由」 信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 刑法: 第230条「名誉毀損」 人の名誉を毀損したる者は3年以下の懲役若しくは禁錮又は千円以下の罰金に処す。 第231条「侮辱」 公然人を侮辱したる者は拘留又は科料に処す。 入院お見舞い(しきたり): お見舞いは、班のメンバー全員が揃って、一列縦隊になって、病室に入るらしい。誰かが抜け駆けをすると困るから、だそうです。ある人など、こんなことが嫌なので、入院しても内緒にしているそうです。 消防団維持費(しきたり): 一戸当り年間4,000円 公民館維持費(しきたり): 修理費等は区の構成メンバーが負担する。 1997年屋根修理費として一軒当り20,000円支払う。 区長制度(行政組織): 2000年8月19日 土曜日午前10時頃: 牧丘町笛川農協にて、農協職員F某は、私のボルドー液(巨峰用農薬)コインを、私の手からむしりとる。猛然と抗議するも謝罪無し。 2000年9月15日 敬老の日 夜7時半頃から8時頃: 私が牧丘町で殺されそうになった記念すべき敬老の日であり、日ごとに怒りは増幅している。 脅迫・暴力・殺意そして財物損壊。 2003年3月31日 農地が凶器 無法が支配する閉鎖的村社会においては、よそ者の「生命・身体・財産」に対する権利など眼中にないらしい。また、農地法という国会で制定された国家的規則などを無視・蹂躙することなど朝飯前の出来事らしい。当然のことながら、最高裁の判例なども、なんとも思っていないようである。 書名:「綜合郷土研究」 1999年7月11日、塩山市立図書館にて閲覧 著者:太田章一(山梨県師範学校長)及び小畑善吉(山梨県女子師範学校長) 序文:文部次官、文部省普通学務局長、及び山梨県知事 発行者:山梨県 発行日:昭和11年12月20日 発売所:政治教育協会(東京都麹町区内山下町一丁目一番地) 人物とその業績(p757)ヨリ抜粋: 山路愛山先生は又「甲斐は天恵の割合に貧しき所なり、国民の性格は一言にして曰へば、人生の修羅闘場たる意義を極めて露骨に体得したるものなり。彼等の祖先は痩地に育ちたるが故に、生存競争の原理を極めて痛切に感ぜざること能はざりき。彼等は人生を詩歌の如く眺むること能はず。彼等にありては人情も、詩歌も、夢幻も、要するに薄き蜘蛛の巣の如きのみ、彼等は人生を唯戦場なりと自覚す。故に奮闘的なり、小廉曲謹なるざるなり。往々にして極端なる自己中心主義なり。・・・中略・・・彼等の理想は勝利なり。他人を圧倒することなり。人生の思想を露骨に語りて、何の掩ふ所なきなり。」といっている。 遠い昔の事はともあれ、源平時代あたりから大いに驥足を延ばした事は、太田亮氏もいはれている通り非常なもので、平軍が富士川に水鳥の羽音の愕いて醜名を千古に遺したのは、甲斐源氏の勢力に畏怖したのが因であり、其の頭目一条次郎忠頼は、木曽義仲を殪した殊勲者であり、浅利与一は壇の浦に源平随一の強弓を謳われている。実際鎌倉勢大手軍の大半を占めたものは甲州勢であった。即ち一条次郎、武田太郎を主とし、加賀美次郎、板垣三郎等も、一方の大将を承っている。猶搦手軍には、安田三郎義定がいて其の筆頭に記されている。 此の甲斐源氏の強剛さは、反って頼朝の怖るる所となり、後に忠頼は詐殺され、義定も、子息越後守義資が梶原影時の讒に逢ひ、死を賜って後、自らも快快として楽しまず、之又讒によって建久五年八月、東山梨郡西保にあった居城、小田野山城に敗死した。 以上のやうなわけで其の頭目を失って其後約四百年間、時に承久の役、南北朝時代等に活躍を見せはしたものの、大体に於いて、雌伏時代が継続したものと思はれる。足利幕府の末期に至って、此の蓄積された甲斐源氏の精力を率いて驚天動地の大事業をなしたのが、武田大膳大夫晴信即ち機山公である。其の配下に本州中部の大半が属し一挙にして天下を席巻せんとした事は、周知の事実である。爾来此の勇壮劇と悲壮劇の主人公に及ぶものなく現在に及んでいる。然しながら仔細に之を観察すれば、我が郷土決して人物に乏しとしない。唯徳川幕府の為政者が、頼朝の甲斐源氏に対する方針と其の軌を同じくし、後者は謀計と武力とを以って、其の頭足を椀ぎ以って為すなからしめ、前者は与ふるに笞と無智とを与えた違いを見るのみである。従って、我が郷は一の先達なく、一人の指導者なく、皆独力を以って荊棘を開いて、自ら璧となったのである。其の辛苦艱難蓋し思いなかばに過ぎるものがあったろう。 詩歌にあらはれた機山公の人間性(p759)ヨリ抜粋: 武人としての機山公(武田信玄公のことです)が、蓋世の英傑であった事は、芙蓉の峰の美を論ずると同じで、今更言を要しない。・・・・ で、茲には文学にあらはれた公を述べて見たい。 公の遺作としてここに述べるのは、和歌一百余首、漢詩十七首、俳諧連句である。・・・・ 文化(p744)ヨリ抜粋: 惜しい哉、武田滅亡の後は徳川直轄領となり代官政治が繰返された。これが各種の文化に影響して消極の面影を濃厚に現し、折角生気溌剌たる甲州文化に沈滞の色を見せた。その主たる理由は、代官は何処までも代官であり、最後の全責任を負わない中継官吏である。要求を下に徹すは上に対して己の役を守るだけの心境である。心から染み出る様な民衆愛撫の責任感を持つことが薄く、取るだけ取るが、その根底培養に熱が無い。 お役目だけの指導が繰り返された結果は、甲州気質を悪性にした。兎角反抗気分が濃厚になり、自我観念が強調される。甲州無宿の侠客が多く発生する。学者が出ても時代を白眼視する、そこ迄行き得ない者は独善主義の隠遁生活をする。 経済生活の不振は功利主義となる。故郷を飛び出して日本全国を行商する。「甲州人と犬の糞」と言われる様な悪評も買った。 然しこれ等は環境の悪化に対する自己防衛とも見られるし、表面を流れている一時的現象とも見られるので、信玄時代に建設された文化が現代甲州文化の基調を為している事を思えば、指導の如何によって甲州人の持つ文化創造の天分を充分に発揮し得らるるものと信ずるものである。 自然的環境と気質(p744)ヨリ抜粋: 地方気質は自然的環境の中に育まれるのである。 本県は四周山を以って囲まれ、其の山も皆高峻、従って隣県と隔絶せられ交通不便の別天地をなしている。 平地は甲府盆地の他に少なく、耕地は狭く、地味痩せて天恵に乏しい。従って生活のための苦闘が必要とされ、空想的な夢を抱かしめない。・・・生活の安易でない事は奮闘的独立不覊の現実的性格を作り、一面率直義侠、他面利己的功利的気風を作りつつある。 歴史的伝統と気質(p745)ヨリ抜粋: 人は前述の如く一方に於いては自然の中に、他方に於いては歴史の中に生活しているといい得る。即ち我が県民は此の甲斐の地に於いて其の歴史的伝統の中に生活しつつあるのである。・・・。 殊に信玄は民に善政を施し、民は後世にに至るまで其の徳を慕い、情誼によって相結んだ。 然るに武田氏滅後、織田、豊臣、徳川氏によって治められ、一時領主が置かれた時代もあるが、享保九年柳沢家転封後は全く徳川幕府直轄の地となり、城代、勤番支配、町奉行及び代官等によって治められるに至った。 代官は大名と異なり其の地に永住して子孫に伝えるものでなく、幕府への奉仕は考えても地方民の為に政治を行うという念は少ない・・・。・・・時に民の膏血を絞るに汲々として・・・。 従って、民は代官を恐れて親しみを有せず、「代官が通れば泣く子も黙る」という風に、心中不平不満を蔵しつつも其の圧政に己むなく従い、為に反抗的気分養われて時に爆発して太桝事件等を起こしたのである。 かくて温和親愛の気は抑えられ、其の気質は鋭角的となり、自ら守るためには古来よりの伝統的精神に基づいて親分子分の関係を生じ、相互扶助し、又強きを挫き弱きを助ける数多の侠客を生むに至った。 県民性の特徴(p754)ヨリ抜粋: 長所 負けず嫌いで、鼻柱が強い。 自主独往的で非常に意志が強く烈々たる意気がある。 率直生一本で、ものに感激し易く仁侠心に富む。尚武の風あり、困苦欠乏に耐へ、勤労を厭はず、満州に於ける武装移民は模範的といはれる。 土着心強く又愛郷心が深い。 勤勉着実、質素倹約の風が強く、独立治産の傾向が著しい。機知に富み俊敏で経済的に敏感である。 自尊心が強く、善と信ずれば飽迄行ひ且つ果断に富む。 短所 潤達の気象乏しく、狭量排他的で邊彊的気質が強い。 先輩は後輩を引立てず、後輩は先輩を支持せず、何れも自己の為にのみ利用せんとする傾向が強く、他人の成功を嫌悪し之を妬む風がある。恩怨の念が強い。 協同心が少なく団結心も公共の為には薄弱である。 物事に理屈多く感情に走り、小善の為他を省みずして雷同する風がある。 投機的射幸心強く自ら実質的努力を払わずして一攫千金を夢見る者が多い。しかし失敗するも泣き言を言わぬ。 自己意識強く利己的打算的功利的傾向がある。 見栄を張る傾向強く華美派手な者が平地に多い。 模倣性強く流行を追う風がある。 現実的傾向強き為、永遠的価値の追求、審美心等情操方面に欠く。 報恩感謝の念薄く、敬虔の念や信仰心に乏しい。 言語動作共に粗野で愛嬌無く社交拙劣、辞令に巧みでない。 頑固で人に下る事を嫌い、時間的観念が薄弱である。 犯罪と県民性(p752)ヨリ抜粋: 昭和8年の犯罪発生件数によれば、文書偽造罪、業務上横領罪、背任罪等は全国的に最も少ないが、賄賂罪、傷害罪、常習賭博、住居侵入罪等は人口の点より見て比較的に多い。住居侵入、賭博は山地にして娯楽機関無き交通不便の地に多いのは教育上心すべき事である。 親分子分の関係(p616)ヨリ抜粋: 親分より捨てられるのは君父の勘当同様に考え、その赦免のない場合は其の部落に永住することは出来ないというような観念をもっている。従って如何なる理由があっても、其の部落に居住する限りは、親分を変えないもので祖先伝来の親分子分関係は永久性を有するものである。 葬儀の改善すべき点(p622)ヨリ抜粋: (1)不幸の起りたる場合は、直ちに近隣、子分、又は親分、部落内等の者の全家族が参集して手伝いという名の下に飲食をなし、又これらの人々が満足するように充分饗応することが故人に対する唯一の供養であるかの様な考えから、余儀なく冗費を支出せられ、不幸の上に、尚その上塗りをさせられる様な弊風がある。 (2)会葬者には酒食の饗応及び引物等をなし、又一般見舞客等多人数に対しても、引物として銘々にパン及び砂糖を贈る等の風習がある。 (3)付見舞と称して、施主の親戚又その親戚の者迄が会葬する等、一般に多人数集まって大騒ぎをなし、盛典を誇らんとする風習がある。 (4)葬儀当日及び其の前後に於いては、ご馳走と共に多量の酒を消費する習慣がある。 (5)・・・・ (6)・・・・ 道祖神祭(p800)ヨリ抜粋: この祭はその起源はさだかでないが、「裏見寒話」や「甲斐の落葉」などによれば、維新前には甲斐国全円にわたって盛んに行はれて、甚だしい悪風を伴ったもののごとくである。・・・、何れも新婚者を困らせ、祝儀事のあった家より金銭を強請する悪弊のないものはなかったやうである。 現今では、この祭は依然として相当盛んに各地で行われているが、右に述べたような悪弊は殆ど全く一掃されている。大体に於いて山梨県下全円にわたって行はれているが、甲府市内では近時廃れて殆ど行われず、北巨摩の北部、長野県寄りの諸村に於いても近時次第に廃れゆく傾向が見られる。 最も盛んに行われるのは東山梨郡である。今その行事の概略を述べると、正月七日に子供等が組の各戸をめぐりて、門松、しめ、書初等を集め歩き、十一日にはこの門松、しめ等にて道祖神の前に小屋を造り道祖神をその中に祭る。 尚十一日から十三日にかけて子供等が毎晩組の各戸をめぐって金を集め、十四日の夜は成年及子供(子供のみのところもあり)が道祖神、獅子、花嫁、馬等に仮装して、太鼓、鐘なぞ打ならし、「きっかんじょ」と叫びながら組の各戸を廻り家内に入り、「悪魔祓ひの道祖神、お蚕どっさり大当たり、家内安全、五穀豊穣」などと言いつつ、家内を荒れまわる。これに対して各戸では、銭、果物菓子等を祝儀として出す。 (「きっかんじょ」とは薪木の勧化(カンゲと読み、寄付をつのること)といふ事にて道祖神の前にて薪を燃すかんけ銭をねだることであると「甲斐の落葉」に見えている。) 昭和22年5月に施行された「日本国憲法」を、当然の権利として、何気なく生活している多くの日本人にとり、「山梨の慣習」の内容は、「呆れが舞う」ような話ばかりですが、居住するとなると、これが大変厄介な問題なのです。
山梨県は、その周辺を、険しい山々で囲まれた、極めて貧しい、狭隘・貧困な山岳地でありました。この「閉鎖的地理条件」の上に、数百年・幾世代にも亙る「基本的人権とは程遠い、封建的権力者による支配」が加わり、”封建的遺伝子特性?”を色濃く有する住民層が形成されたと思われます。 その特性とは、「排他的、閉鎖的、保守的云々」であり、分かりやすい言葉で言い表せば、「外界からの人及び思想の侵入を拒み、内からの変革を積極的に抑圧し、昔からの習慣や伝統に強固にしがみつき、束縛されることを好み、ただひたすら、現状維持を願う」となります。 さらに私に限れば、「弱い者に対する思い遣りの情は毛筋ほども存在せず、しばしば暴力で威嚇する卑劣極まりない社会環境がある」という一文を追加したいと思います。 ”封建的遺伝子特性”の純粋性をまもるために、数々の施策がありました。
その一つが”親分子分制”であり、住民を小人数のグループに分割して世襲的な親分を置き、子分には奴隷的拘束や苦役などが課せられました。また、変革を望むような、不届き千万な、けしからん奴らは、村八分などにして淘汰され、遺伝子特性の純粋性が保持されたようです。 ”親分子分制”のようなシステムは、1999年6月25日の現在でも、名称こそ変わりましたが、区長制として存続し、町役場を頂点に、区長、班長、その他住民として区分され、隷属的関係を強制し、何事をも、一連の集団として行動することを求め、時としては密告機構としても作用し、「個人としての尊重」を甚だ軽んじる風潮があります。蛇足ですが、区長や班長の玄関には、大きな木製の看板が掛かっています。 これら、”封建的遺伝子”と”純粋性保持策”とが渾然一体となって、甲斐(山梨)の日常生活が営まれています。 このような、”専制と隷従”というシステムは、”農村部”において特に顕著であり、1999年6月25日の現在でも、その「影」を色濃く残し、山梨の雰囲気を古色蒼然たるものとし、また、我が国にとって、最も重要な資源と思われる、人間一人一人の個性的活力と、その発展の可能性を抑圧し、そして、変革を望む人達の重荷となる場合があります。 上記のような私の頑なな考えは、約十年間の牧丘町滞在によって形成された固定観念であり、一般性のない私見であります。 このような理由から、中立的立場で書かれた書籍を探していました。 「文献調査」で採用した書籍、「綜合郷土研究」が、まさにそれであります。 本研究は、郷土調査に関する文部省予算で、昭和11年に行われた。 著者は、山梨県師範学校長及び山梨県女子師範学校長であり、序文には、文部次官、文部省普通学務局長、及び山梨県知事が名を連ねている。 本書は、国及び県が国費を用いて行った郷土史研究であり、私にとって、これ以上の参考資料は他に見当たりません。 私は本書に記載された県民性等の内容を読み、少なからず驚愕し、眼から鱗の感がしました。 昭和11年の調査から約65年の歳月が経過した平成11年の7月現在においても、当時の分析結果が、そのまま通用することに感慨深いものがあります。すなわち、この間に封建主義体制から民主主義体制への移行という、価値観の劇的変化があったにもかかわらず、大衆の思考や行動パターンが昔と殆ど変わらなかったことにです。 しかし、私の私見には、いささかの偏見も無いことが証明されたようです。 私は、因習がむんむんする山梨県の山里に住んでいます。 次の文章をお読みください。いかにも貧しく、涙の出るほどに哀れな県民性ではありませんか。このような状態から脱却するための社会構造とは何なのかを考えたいと思います。
蛇足ですが、私は一見”治外法権の地”とも思えるような、山梨の農山村・牧丘町へ移住してきました。この地においては、日本国憲法の有難味がことさら強く感じられます。私は在来の宗教については、まったく無関心な人間です。しかし、この地域に生活するようになってからは、日本国憲法の理念が私の宗教となり、毎日唱える、お題目のようになりました。
蛇足の蛇足ですが、最後に、私の中における日本国憲法の重みを、お話しましょう。 第二次世界大戦では、近隣諸国及び我が国の無辜の人達の命が、恐らく数十万トン以上もの鮮血と共に消去された。と同時に、計数不能の無限大とも思われる怨念を発生し、それが負の遺産となり、現在も尚、我が国の、国家としての誇りを傷つけている。当然の報いである。しかし、あの戦争に何等責任の無い私には、甚だ迷惑であり、胸くそが悪くなる。 個人の遺産なら、相続放棄も出来るが、国家的遺産は駄目です。未来永劫に付き纏います。 「国の将来に、禍根を遺すかもしれないような重要な政策決定は、人間ではなく、論理的分析能力に優れたコンピューターの解釈に従うべきだ」 と、私は思います。 この戦争では、私の親戚でも前途ある若人が戦死した。私の母も、手当てが受けられない中、乳がんで苦しみ、最後はいろいろな所に転移して、苦しみ悶死した。私も空襲の中を無我夢中で逃げまわった。そして、私は祖母と二人で生活苦を味わいつつ屈辱的思春期を過ごした。私の友は両親を失い、兄弟三人やっと生き延び、四畳半の古ぼけたアパートで身を寄せ合って生きていた。又、この間、人間の嫌らしさを多く見た。学童疎開において、栄養失調で死んだ生徒は居た。しかし、先生や保母達に、それはなかったと聞く。更に、敗戦のどさくさに紛れて、政府所有の隠匿物資を、トラックに何台もちょろまかして得意げな木っ端役人を見た。 灯火管制で真っ暗な町、夜陰にこだまする空襲警報の断続音、はるか上空から微かに聞こえてくるB-29爆撃機の爆音、やがて降り注ぐ焼夷弾の雨、夜空を焦がす紅蓮の炎、其の中を逃げ惑う人の影と影、時々散発的に聞こえる高射砲の音、高空にて音も無く撃ち落とされる味方戦闘機の煙の軌跡、焼け野原に散見される焼け爛れた金庫と散在するボルト・ナット、やがて焼け跡に生えてくるアカザや山ゴボウの雑草群、極限時の人間・・・、これらの光景や体験が、歪んだ潜在意識となって私の脳裏に固定化されている。 真珠湾奇襲攻撃、天皇陛下万歳、空襲、焼け野原、集団疎開、大本営発表、東部軍管区情報、硫黄島、玉砕、神風特攻隊、沖縄、ひめゆり、集団自決、長崎、広島、原子爆弾、放射線被爆、ケロイド、白血病、無条件降伏、マッカーサー元帥、GHQ、進駐軍兵士、ジープ、賠償金、引き揚げ船、食糧不足、栄養障害、結核、虱とDDT、ヒロポン中毒、闇市、ガリオア物資(アメリカの占領地域救済基金)やエロア物資(アメリカ占領地域経済復興基金)、東京裁判、戦犯、絞首刑・・・、私的には、この間、大黒柱の母を失い、これ以後、陰鬱な虚無感と、そして身体の奥底から噴き上がってくるような抑え難い反抗心が交錯する、不思議な感覚が何年も何年も続いたような気がする。 ガリオア物資やエロア物資には、ほろ苦く、そして屈辱的な思い出がある。祖母と二人、生活保護費をもらいながら生きていた、私のどん底時代。 そんなある日の事、 「セーターを支給するので、受け取りに来るように」 という知らせがあり、私は恥ずかしくて気が進まなかったが、止むを得ず、其処へ行った。 紺色をした薄手のセーターであった。サイズはピッタリであったが、脇の下と胸の辺りに大きな丸い穴が開いていた。只でもらう事の惨めさを、身にしみて味わった。それを受け取り、人に見られないように、逃げるようにして家へ帰ってきた。 これが、私とガリオア・エロア物資との出会いである。 二度目の支給の時、私は行かなかった。どうせ、屑しか貰えないのが分かったからであった。祖母は何も言わなかった。経済的にも精神的にも追いつめられ、打ちひしがれ、そして「虫けらほどの価値も無いっ」と、自己嫌悪に陥っていた私と祖母の二人。 封建的全体主義に対して、私は心底、嫌悪感と怨念を抱くようになった。これは本能に近い性質となり、今も将来も、決して変わる筈はないであろう。 敗戦の結果、米国の指導の下に作られた主権在民の日本国憲法、皮肉ではあるが有り難い贈り物であった。 「基本的人権」という、何物にも代え難い宝物が「日本国憲法」に存在していたのである。人間個人としての尊厳を声高らかに謳いあげる「日本国憲法」は、打ちひしがれた当時の私にとって、きわめて新鮮であり、痛快であり、爽快な宝物であった。私のクラスでは、毎日毎日、耳にタコが出来るくらい、自由平等の概念を叩き込まれたような記憶がある。確か、米国帰りの素敵な先生・上野先生であった。私は、この宝物を胸に忍ばせ、何時もその存在と効能を確認しながら生きてきた。 ”至極当然”ではないか!! 私の生存の拠り所としてきた、”日本国憲法”。 それを侮辱・蹂躪し、挙げ句の果てに消去しようと企む対象に対して、”異常なまでの敵愾心と、欲も得も、常軌も狂気も超越するかのごとき闘争心”を燃やし、そして、許容される最大の攻撃と防禦を執拗に実行・継続するのは。 人退くとも退かず、人進めば我いよいよ進む(沢庵) |