箱館奉行の提出した物価割掛取調書の数字から私が電卓を使って計算したところ、大銀銭1枚は4480文、1分は488文、1厘は48.8文、1貫は1000文という関係になっています。鶏12羽で大銀銭3枚を文で現すと14貫640文、大銀銭は14640÷3で4880、即ち大銀銭1枚は4880文ですね。また、少し後ろの薩摩芋は100斤で大銀銭1枚で4貫880文、4880文ですね。
では最初の丁銅の注は「大銀銭壱枚銭四貫八拾文以下同断」で800文少ないのはどういう訳か。薩摩芋100斤は4貫80文でなきゃならないことになり、計算が合いません。もっと後ろに醤油1樽大銀銭5分がありますが、2貫40文ではなく2貫440文とあるでしょう。明らかにこの注は800が抜けているのです。
それで東大史料編纂所の「幕末外国関係文書」22巻「六三 正月二十五日外国奉行掛合書 箱館奉行へ 外国人へ売渡諸品直段の件」114ページを見たら「大銀銭壱枚四貫八百八拾文」でした。ここに載せた同じ文書は道立文書館の原本を古文書解読ボランティアの方が解読して400字詰め原稿用紙に清書した文書を使っており、ちょうど八百八拾文の四貫八と書いたところ用紙が終わり、次の用紙に掛かったため、八百を書いてしまった気分で拾文と続けて書いたために生じた誤記とみられます。
さて、箱館奉行所の飼立場にいる綿羊は、いまに直すといかほどだったのか―です。平成29年6月、アマゾンの通販で「道産ななつぼし」は5キロで1981円です。これ2000円とみると1キロ400円になりますが、1斤は0.6キロですから1斤240円、100斤で24000円ですね。これが7402文だから1文が3円24銭なにがしとなる。大銀銭1枚は4880文だから1枚1万5822円75銭、それが4枚から7枚だから綿羊1頭綿羊は11万759円から6万3291円、端数を捨てると11万から6万円見当ということなります。
ただ、これは外国人向けに「取極候迄差向凡見込一倍之積ニ而売渡」す元値の2倍の暫定価格でしょうから、日本人が買うなら半額、6万円から3万円くらいとみて、私は上山半右衛門がいくらで買ったか知りたかったのですよ。今ならどうかとインターネットで検索したけれど、ヤクオフ3万6000件にもない。冷凍食品じゃないから当然か。はっはっは。
かなり古いが、平成14年3月に出た日本緬羊協会の「めん羊種畜の生産・供給及び供用の現状等に関する調査報告書U」の福島家畜市場のサフォーク種仔羊の取引平均価格は牡2万9850円、牝3万5629円、去勢3万5353円と報告されているから、毛を取るなら箱館羊は高い買い物だったかも知れません。下記が同報告のURLです。
http://jlta.lin.gr.jp/report/detail_project/pdf/220.PDF
資料その1
未三月廿二日
河津三郎太郎
印 下野守 印 安間純之進
〃 向山栄五郎
鈴木直太郎 印
村山愛助 〃
山村惣三郎 〃
三田喜六 〃
橋本悌蔵 〃
印御勘定方
外国人江相渡候諸物品直段外国奉行より懸合
書江御挨拶并物価書取しらべ相伺申候
三月
――――――――――――――
箱館奉行衆 外國奉行
是迄外國人共渡来之節ニ御役所おいて御渡被
遣候生牛石炭其外諸品共場所ニ寄相場異同は
可有之候得共御開港後各港之物価格外之相違
等有之候而は不都合之義ニ付是迄御役所おひ
て御渡方相成候諸品直段割増元代等之訳巨細
承知致し度候間早々御取調御申越有之候様存
候此段御掛合およひ候
正月廿五日
外国奉行衆 箱館奉行
御書面御掛合之趣致承知候外國人江相渡候諸
品之内御役所直扱之分は米銅石炭生牛豕之類
二有之候処牛豕之類は牧場取建蕃殖之手当向
其外雑費相懸差向元代難差極銅之義は御勘定は
り比程元代取調運賃其外見込割増致候様申越
候処元代割増は各港同様ニ相定運賃等は遠近
二より異同有之候方相当之事卜存候ニ付御懸
合之上取極候迄差向凡見込一倍之積ニ而売渡
其余之諸品は都而元代江三割五分を目当ニ割
懸致し御用達共より為売渡右割懸之内壱割五
分冥加納為致来候且漆器反物類は数品之義并
生魚類ハ日々相場異同有之候間巨細取調かた
く尤割懸冥加等はいつれも同様之振合ニ有之
候依之別紙物価割掛取調書壱冊相添此段及御
挨拶候
月 箱館奉行
物価割掛取調書
一 丁銅百斤
代銀銭弐拾壱枚九分四厘
此銭百七貫五拾四文
但
御勘定所元代
一倍之積
一斤目方百六拾目
大銀銭壱枚銭四貫八
拾文以下同断
一 延銅百斤
代銀銭弐拾六枚壱分七厘
此銭百弐拾七貫七百弐拾六文
但前同断
一 生牛壱疋
代大銀銭拾八枚より弐拾五枚迄
一 豕壱疋
代大銀銭三枚より七枚迄
一 綿羊壱疋
代大銀銭四枚より七枚迄
一 鶏拾弐羽
代大銀銭三枚
此銭拾四貫六百四拾文
一 白米百斤 此石四斗三升
代大銀銭壱枚五分壱厘七毛
此銭七貫四百弐文
内
銭五貫四百八拾三文 元代
銭壱貫九百拾九文 割懸但三割五分
一 石炭百斤
代大銀銭三分
此銭壱貫四百六拾四文
内
銭壱貫二百六拾四文 石炭掘出し諸入用
銭弐百四拾八文 割懸弐割余
一 薪壱敷 但大割数百拾本
代大銀銭壱枚七分五厘
此銭八貫五百四拾文
内
銭六貫六百弐拾七文 元代
銭壱貫九百拾三文 割懸但弐割八分八厘余
一 水拾石
代大銀銭弐分五厘
此銭壱貫弐百弐拾文
内
銭九百五拾弐文 船并道具代水汲人足賃
銭弐百六拾八文 割懸但弐割八分壱厘余
一 五升芋百斤
代大銀銭七分五厘
此銭三貫六百六拾文
内
銭壱貫五百六拾八文 元代
銭弐貫九拾弐文 割懸但一倍三割三分四厘
一 薩摩芋百斤
代大銀銭壱枚
此銭四貫八百八拾文
内
銭三貫六百弐拾文 元代
銭壱貫弐百六拾文 割懸但三割四分八厘
一 寒天百斤
代大銀銭三拾五枚
此銭百七拾貫八百文
内
銭百弐拾六貫三百九拾弐文 元代
銭四拾四貫四百八文 割懸但三割五分壱厘ヨ
一 白砂糖百斤
代大銀銭八枚三分より拾四枚迄
拾四枚分
銭六拾八貫三百弐拾文
内
銭五拾貫五百五拾七文 元代
銭拾七貫七百六拾三文 割懸但三割五分ヨ
一 麦粉百斤 此石壱石
代大銀銭七枚五分
此銭三拾六貫六百文
内
銭弐拾七貫弐百文 元代壱斤ニ付銭弐百七拾弐文
銭九貫四百文 割懸但三割四分五厘ヨ
一 蕎麦粉百斤 此石九斗六升
代大銀銭六枚五分
此銭三拾壱貫七百弐拾文
内
銭弐拾四貫文 元代壱斤に付銭弐百四拾文
銭七貫七百弐拾文 割懸但三割弐分壱厘ヨ
一 大角豆百斤 此石四斗六升
代大銀銭壱枚三分五厘
此銭六貫五百八拾八文
内
銭五貫六拾文 元代壱斤ニ付銭百拾文
銭壱貫五百弐拾八文 割懸但三割ヨ
一 小豆百斤 此石四斗三升
代大銀銭壱枚三分五厘
此銭六貫五百八拾八文
内
銭四貫九百四拾五文 元代壱斤ニ弐百拾五文
銭壱貫六百四拾三文 割懸但三割三分弐厘ヨ
一 大豆百斤 此石四斗七升
代大銀銭九分三厘
此銭四貫五百三拾八文
内
銭三貫三百八拾四文 元代壱斤に付七拾弐文
銭壱貫百五拾四文 割懸但三割四分壱厘ヨ
一 醤油壱樽
代大銀銭六分
此銭弐貫九百弐拾八文
内
銭弐貫百七拾文 元代
銭七百五拾八文 割懸三割四分九厘ヨ
一 醤油壱樽
代大銀銭五分
此銭弐貫四百四拾文
内
銭壱貫八百弐拾文 元代
銭六百弐拾文 割懸三割四分ヨ
一 玉子拾弐
代大銀銭七厘五毛
此銭三百六拾六文
内
銭弐百七拾六文 元代壱ツニ付銭廿三文
銭九拾文 割懸三割弐分六厘ヨ
一 人参百斤 此数四百八拾弐把
代大銀銭弐枚
此銭九貫七百六拾文
内
銭七貫弐百三拾文 元代壱巴に付銭拾五文
銭弐貫三百三拾文 割懸三割四分九厘ヨ
一 大根百斤
代大銀銭三分七厘
此銭壱貫八百六文
内
銭壱貫三百四拾文 元代
銭四百六拾六文 割懸三割四分七厘ヨ
一 韮 百斤
代大銀銭五枚
此銭弐拾四貫四百文
内
銭拾八貫八拾文 元代
銭六貫三百弐拾文 割懸三割四分九厘ヨ
一 梨子壱籠 数弐拾五入
代大銀銭弐分五厘
此銭壱貫弐百弐拾文
内
銭九百二拾文 元代
銭三百文 割懸但三割弐分六厘ヨ
一 葱 百斤 此数五百三拾三把
代大銀銭弐枚
此銭九貫七百六拾文
内
銭七貫九百九拾五文 元代壱把ニ銭拾五文
銭壱貫七百六拾五文 割懸但弐割弐分ヨ
一 塩 壱俵 此斤七拾五斤
代大銀銭三分
此銭壱貫四百六拾四文
内
銭壱貫八拾五文 元代
銭三百七拾九文 割懸但三割四分九厘ヨ
一 上莨壱斤 但七玉
代大銀銭四分九厘
此銭弐貫三百九拾壱文
内
銭壱貫七百八拾五文 元代壱玉ニ付銭弐百五拾五文
銭六百六文 割懸但三割三分九厘ヨ
一 中莨壱斤 但五玉
代大銀銭壱分四厘
此銭六百八拾三文
内
銭五百弐拾五文 元代壱玉銭百五文
銭百五拾八文 割懸但三割ヨ
一 上茶壱斤
代大銀銭九分六厘
此銭四貫六百八拾五文
内
銭三貫五百文 元代
銭壱貫百八拾五文 割懸但三割三分八厘
一 中茶壱斤
代大銀銭弐分八厘
此銭壱貫三百六拾六文
内
銭壱貫弐拾文 元代
銭三百四拾六文 割懸但三割三分九厘ヨ
一 並茶壱斤
代大銀銭壱分四厘
此銭六百八拾三文
内
銭五百拾文 元代
銭百七拾四文 割懸但三割四分壱厘ヨ
一 上蝋百斤
代大銀銭弐拾五枚
此銭百弐拾弐貫文
内
銭九拾貫三百八拾文 元代
銭三拾壱貫六百弐拾文 割懸但三割四分九厘ヨ
一 下蝋百斤
代大銀銭弐拾枚五分
此銭百四貫文
内
銭七拾四貫百五拾文 元代
銭弐拾五貫八百九拾文 割懸但三割四分九厘
一 大工手間一日分
代大銀銭壱分九厘
此銭九百二拾七文
内
銭四百五拾文 人足一日分
銭四百七拾七文 早出居残リ割増分
一 上炭百斤
代大銀銭三分四厘
此銭壱貫六百五拾九文
内
銭壱貫弐百三拾文 元代
銭四百二拾九文 割懸但三割四分八厘ヨ
一 下炭百斤
代大銀銭三分壱厘
此銭壱貫五百拾三文
内
銭壱貫百弐拾五文 元代
銭三百八拾五文 割懸但三割四分八厘余
請求番号A1−3簿書32件番号14「外国人ヘ売渡ノ牛・石炭其外諸品値段ノ件」、
安政6年1月、道立文書館=原本、清書本は請求番号F−2/3613、原本の画像URLは下記です。
http://www.bunsho.pref.hokkaido.lg.jp/1113001/
kokai/monjokan/hakodate/A1_3_00032/A1_3_00032_014.pdf
次の資料その2は加藤懋が長崎県に対して長崎奉行所の牧羊事蹟を報告するよう求めた書類と長崎県からの報告です。加藤が「牧羊事蹟考」にぜひ入れたくて催促したのに、長崎からの報告が遅くて、長崎の事蹟を欠いた「事蹟考」にならざるを得なかったことがわかります。
岩手県からの上山半右衛門関係の報告に「安政年間」「旧幕府徳川家ニ於テ綿羊五十頭支那ヨリ買入」とあるのは、栗本鋤雲が江戸に来た綿羊は「渋江長伯ノ建白ニ因リ長崎奉行ニ命アリ唐国ヨリ呼ヒ取レリ[頭数/未詳]」と書いてくれたものと「殆ント符合セリ蓋シ同物ナラント思ハルヽナリ」と書いたくらいですから、長崎からのアメリカ人某に頼んで「綿羊[産地/不詳]百余頭ヲ購入シ之ヲ町司役上原百馬ニ命シ飼養セシム」を見たら「全ク符合セリ蓋シ同物ナラント確信ス」と書いたでしょう。資料その2の先頭の書類はこの長崎からの報告を受け取り証ですが、さっさと寄越せば「牧羊事蹟考」にこれを加えて、より価値を高められたのに―という無念の思いが「致鳴謝候也」にこもっていると私は見ますね。
こういう綿羊関係の古い方の歴史を調べる場合は「畜産発達史」より、北大図書館にもある「農務顛末」6巻が役に立ちます。「畜産発達史」は「疾風怒濤の時代のなかにあって、わが国農政の新路線を築いた明治政府農政の足蹟について、すなわちほぼ明治四年から同二十一年に至るまでのわが国農政諸般に関する公文書、報告書類を三十巻九十一冊に類聚編さんされた厖大な記録」(「農務顛末抄録」はしがき)であり、それを要約した「農務顛末抄録」を基礎として書いているからです。下記の表は綿羊関係の書類がどれぐらい「抄録」に採択されたか示しています。
「農務顛末」と「農務顛末抄録」の収録書類件数比較
購入 貸与 貸与 貸与 羊毛 牧場 牛馬 参考 参考 参考 計
第一 第二 第三 市場 第一 第二 第三
農務顛末 17 30 74 38 12 19 3 16 42 87 338
農務顛末 17 19 27 11 9 13 1 11 13 18 139
抄録
「農務顛末」の338件を「農務顛末抄録」では4割の139件に絞ったことがわかる。例えば岩手県の上山半右衛門の記録は「顛末」の参考第2に含まれているのだが、こうして「畜産発達史」には載らなかったのです。
前半は長崎県から調査報告書、後半は「幕末外国関係文書」に含まれている「長崎代官高木作右衛門上申書」です。
資料その2
六七 長崎縣下緬羊飼養ノ事蹟
明治十八年二月十七日 七等属加藤懋
牧羊事跡調■<尺の下に日>之義ニ付長崎縣へ回答案伺
案
曾テ及御依頼置候綿羊飼養事跡取調方之義今回詳細ナル調書御
回送相成正ニ致領収候右彼是御手数ヲ煩シ候段致鳴謝候也
年月日 局名
長崎縣宛
〔朱書〕
乙勧第二二五号
曩ニ御依頼相成候往年長崎奉行所ニ於テ綿羊飼養之事跡其他取調
之廉々別紙之通ニ候条御了知相成度右ハ再應御照會之趣モ有之候
得共確乎タル旧記傳説等差向捜索方々相苦ミ不図モ今日之遷延ニ
ハ立至リ候条宜御聴容相成度此段御回答旁申進候也
明治十八年二月七日 長崎縣
農務局
御中
綿羊飼養之事跡
旧長崎奉行所ニ於テ綿羊ヲ飼養セシ初メハ漸八十余年前ニシテ未
タ久シキ事ニハ非ルモ如何セン之力顛末ヲ捜索スルノ材料ニ乏シ
ク偶左記ノ二■及ヒ傳説等ニ因ルニ文化元年当時長崎奉行成瀬因
幡守在勤中支那ヨリ毛氈職工弐名並綿羊数頭[頭数未詳]渡来セシメ令
シテ之ヲ浦上村ニ於テ飼養セシム蓋毛耗製造方傳習ノ用ニ供スル
ノ目的ナリ而シテ該品製造傳習所ハ長崎区八幡町水神社ノ境内ニ
設ク且旧長崎會所有銀ノ内五貫目月入朱利付ニテ之ヲ長崎地役人
ノ内数名へ貸渡シ置此利子ヲ以テ年々飼養ノ料ニハ宛シナリ之ヲ
綿羊使用銀トハ云シナリ然ルニ右飼養スル處ノ綿羊追々病患ニ罹
リ数年ナラスシテ悉ク斃死セシヨリ終ニ傳習ノ企モ画餅ニ属セシ
ナリト云爰に於テ右貸銀ノ利子ヲ止メ元銀ノミ永年賦ヲ以テ返納
セシムヘキコトニ改定シ正シク長崎會所存在中ハ借用主地役所受用
銀[年齢ヲ云]額ノ内ヨリ年々取立返納セシメタリ之ヲ綿羊飼年賦額銀ト
云随テ維新ノ際該會所ノ廃止ト共ニ此年賦銀モ自ラ棄掃ノ姿ニハ
至リシナリ亦安政年間ニモ再ヒ綿羊ヲ飼養セシココトアリシ則末項ニ
其概略ヲ掲出シ以テ参考ノ一端ニ供ス
〔朱書〕
天保十二年八月旧長崎奉行戸川播磨守在勤ノ節長崎會所調
役福田源四郎ヨリ幕吏勘定方卯木某牧某ヘ差出シタル處ノ
取調廉■写シ
〔朱書〕
成瀬因幡守様
一 緬羊飼利銀 但月八朱ノ利付
右利銀之儀ハ文化元子年唐國ヨリ毛氊職人御呼越ニ相成於当地
毛氊仕立方稽古被仰付右爲入用於浦上村綿羊飼立方被仰付候ニ
付同丑年五貫目會所銀ヨリ諸役人ニ貸置利銀ヲ以飼方入用ニ仕
候ニ付借用主受用銀ヨリ引取申候
文政十一年発行打橋竹雲選長崎年暦
両面観抜粋
文化元年
成瀬様 蘭船弐艘
肥田様 唐船拾弐艘
八月紺屋町石橋ナル○新地表門前石橋ナル○毛氈造リ唐人
二人来水神祉ニテ製ス〇八月魯西亜船一艘来ル梅ケ崎ニ上
陸ス
〔朱書〕
再ヒ綿羊ヲ飼養セシ事跡ノ概略
安政四年旧長崎奉行荒尾石見守在勤中羅紗機織ノ企テアリ亜米利
加人某[姓名不詳]へ嘱托シテ綿羊[産地/不詳]百余頭ヲ購入シ之ヲ町司役上
原百馬ニ命シ飼養セシム蓋シ百馬カ牧羊ニ熱心ナルニ因ル或時石
見守戯レテ云汝チ百馬ト呼フハ似合シカラス羊ト云コソ適当ナレ
ト百馬席ヲ退カズシテ答ルニ名称ヲ賜ルノ辱キヲ述へ直ニ通称ヲ
七次[則ヒツジノ通音]ト改メ又羊翁ト号ス其洒落ナル胸中以テ見ルヘシ
而シテ牧場ヲ七次ノ宅地[長崎八幡町]ニ設ケ小屋ノ内部ハ都テ板張ニ
シ專ラ清潔ナランコトヲ要シ蘭人ハルデス[製鉄所雇員]之カ教師タリ飼
料ニハ藁、芋蔓、糠抔ヲ與ヘシナリ然ルニ藁ハ更ニ食セズ又芋蔓
ハ好ンテ食スルモ終ニ下痢ヲ発シ爲ニ斃ルゝモノ数十頭ニ及フ後
牧場ヲ長崎村小島郷字八挺車ノ地ニ移ス干時残数■弐拾頭ニハ
過ス此后モ追々病ニ罹リ数年ヲ出スシテ終ニ悉皆斃レシナリ
因ニ云上原七次ハ嵜陽ノ産数代町司役ニ勤仕ス曾テ旧奉行ノ命
ヲ奉シ洋人ヲ師トシ船艦図画、鍍金銀、テレガラフ、硝子製造
等ノ法ヲ學ビ或ハ支那人ニ就キ紅緑茶ノ製造場ヲ創設シ又和蘭
國ヨリ旧幕府ヘ汽船観光丸ヲ寄贈スルニ当リ幕臣勝麟太郎外数
名ト共ニ傳習生トナリ蒸気運転及之航海ノ術ヲ験究シ都テ其功
績本邦開明ニ赴クノ初歩タラサルモノ尠シ将戊辰ノ役奥羽ノ出
兵ニハ則振遠隊ノ軍曹タリ凱陣ノ後郷ニ帰リ幾許モナクシテ官
途ヲ辞シ静ニ風月ヲ娯ミ又浄瑠璃ノ曲ヲ謡ヒ以テ欝ヲ遣ルノ友
トス明治十一年病ニ罹リテ死ス干時六十有五
養豚之沿革
養豚ノ始メハ未タ旧記ニモ一見セシコトナシ然レトモ村老ノ口碑ニ傳
ル處ニ因レハ元禄年間長崎村岩原郷字舘山ニ於テ飼養セシメヲ初メ
トシ其後[年暦不詳]浦上村ニ移リシナリト云果シテ信ナルヘシ今長
崎市郷幼男女ノ物数ヲ算スル一日ヨリ十ニ至ルノ詞ニタテヤマノ
ブタノクソト云コトアリテ浦上ノ豚ノ糞トハ云ハズ是等モ舘山ノ方
早カリシ一證トシテ可ナラン乎
明治十八年一月十六日 七等属加藤愁
牧羊事跡調査之義ニ付長崎縣へ照會案伺
案
客歳中屡々及御照會置候往年長崎奉行所ニ於テ牧羊ヲナシタル事
跡及浦上村養豚沿革取調方之義至急参考ニ供シ度候ニ付概略ニテ
不苦候条速ニ御報答有之度此段及照會候也
局名
縣庁宛
〔朱書〕
乙勧第壱二五六号
貴局本年四月十日農第千百三十一号ヲ以テ往年長崎奉行所ニ於テ
緬羊飼養及ヒ浦上村養豚沿革取調方之儀御依頼之末尚又六月五日
農第千九百八十七号御督促之趣了承右ハ過般来着手致居候得共維
新ノ際書類錯乱シ加ルニ数十年之久シキ完全ナル書類纏り兼候ニ
付旧會所役等勤務セシモノニ拠リ處分取調中ニ有之候間調製次第
可及御送付候条右様御了知相成度此段一應及御回答候也
明治十七年六月廿六日
長崎縣
農務局
御中
明治十七年六月四日 八等属 加藤懋
牧羊事跡取調方之義長崎縣ヘ再照會案伺
案
曾テ及御照会置候往年長崎奉行所ニ於テ緬羊飼養之事跡及浦上村
養豚沿革之義至急参考致シ度候間乍御手数速ニ御報道有之度此段
再応及御照會候也
年月日 局名
長崎縣宛
迫テ本文牧羊云々ハ山羊ヲ飼養セシコトナル哉モ難計候得共何レ
ニモ御取調有之度比段爲念申添候也
(農商務省農務局編纂課編「農務顛末」4巻843ページ、「第十四 家畜」ヨリ、昭和30年*月、農林省)
******************************
一〇 十一月十四日長崎奉行達書支配向へ 綿羊払下
の件
〔朱書〕
「午十一月十四日」
支配向え
今度綿羊、異國人より御買揚相成候處、急速繁殖いさし候方、御國益相成候儀iに
付、蓄養相望候者には、相渡可申候間、飼試度ものも有之候はゝ、取調可申聞候、
尤養方規則等之儀は其筋え可申談候、
午十一月
(長崎奉行書類)
(東京大学史料編纂所編「大日本古文書 幕末外国関係文書之二十二」補遺10ページ、昭和60年9月、東京大学出版会=原本、)
十八 十二月七日長崎奉行達書 代官高木作右衛門へ
綿羊下渡の件
鳥飼
綿羊、一牡、六牝、 内藤清之進
長崎村
散使
前同断 田川安太夫
浦上村山里郷
百姓
前同断 俊 三 郎
同
前同断 熊太郎
同村淵
散使
前同噺 平井國助
都合三拾五疋
右之通願ニ付、渡遣候間、請取方井并規則等之儀も、掛調役可承合、掛之者時々畜
方見廻、且如何之義相聞候に於ては、取上ケ候義も可有之、兼て其段可被申渡
置候、
〔朱書〕 (長常、長崎奉行)
午十二月「七日、岡部駿河守殿、御達、」
(諸元極)
(東京大学史料編纂所編「大日本古文書 幕末外国関係文書之二十二」補遺21ページ、昭和60年9月、東京大学出版会=原本、)
一九 十二月七日長崎奉行達書 代官高木作右衛門へ
畜羊規則の件
畜羊規則
一渡遣候上は、置所取建方并飼料とも、請取候者にて、取計可申候、
一生息に随ひ売候節は、原数丈け之代銀は上納可致、其余之分は分割、冥加
銀之儀、追て可及沙汰候、
一生産、死亡、売上け等之儀、掛調役え相届可申候、
一毛は、壱け年三度程は、かりとれ候ものに付、両度は、掛手より爲苅取候筈に候、
一死候節は、肉は飼主え被下、皮は原数之内丈けは可相納候、
一養方之儀、掛り之者見廻可申候、
一外國人并諸家等より願出次第、生産多分之方え申遣候之間、相応之代銀を以
売渡可申筈、代銀之義、原数丈け上納相濟候上は、分割相極、冥加銀之外は、所
得たるへく候、
一畜方、夏涼敷、冬暖き様いたすへきを、肝要に候、
右之外心得かたき儀は、掛之者承合可申候、
(朱書)
午十二月「七日、岡部駿河守殿、御達、」
(諸元極)
(東京大学史料編纂所編「大日本古文書 幕末外国関係文書之二十二」補遺22ページ、昭和60年9月、東京大学出版会=原本、)
二五七 三月十三日頃代官高木作右衛門上申書 長崎奉
行へ異國買上綿羊并豕唐鳥小屋へ預けの件
異國御買上綿羊并豕唐鳥小屋江御預之儀申上候書付
〔朱書〕
「書面伺之通、綿羊并豕、唐鳥小屋江御預、飼料之義ハ、麿鳥小屋定式臨
時雑用之内江組込、請取可申旨被仰渡、奉承知候、
未三月十三日」
異國御買上ケ綿羊之儀、爲傳習御用、被差遣候、齋藤源藏并當地御役所附上原七次江、引分被仰付置候内、去午年、飼試之義被仰渡候間、申上望之もの江御渡、飼方被仰付候儀二付、連々飼馴、農家之益二も相成候ハゝ此後村々より望之ものも、多可有之模様二付、申出次第、御渡方之儀、申上候積御座候、然處、源藏義、近々當地引払候趣、承知仕候付、當時同人飼立居候綿羊并イキリス豕之義、追而望人有之、申出候迄、當分之間、唐鳥小屋江御預被下候様仕度奉存候、尤飼方之義、鳥飼内藤清之進江申付、飼料之儀者、唐鳥小屋定式臨時雑用之内江組込、七月、十二月、出方之義申上候様仕度奉存候、依之申上候、以上、
未三月 高木作右衡門
(諸元極)
○綿羊并豕受取二關スル代官高木作右衛門ノ届書、便宜左ニ附収ス、
綿羊并豕請取候御届書
覚
一綿羊 但、牝、 六疋
一同子 但、牡弐疋 三疋
牝壱疋
一豕 但、牡牝、 弐疋
一同子 但、牡牝、 弐疋
右之通、昨十三日、請取申候、依之御届申上候、以上、
未三月十四日 高木作右衛門
一綿羊 但、牝、 四疋
一同子 但、牡三疋 六疋
牝三疋
右三月十五日、請取、御届差出、 (諸元極)
(東大史料編纂所編「大日本古文書 幕末外国関係文書之二十二」725ページ、)
一八四 六月長崎代官高木作右衛門上申書同奉行へ
外國買上綿羊の件
異國御買上綿羊御彿望之もの無之二付
申上候書付
異國御買上ケ綿羊御払相成候間、買請望之もの有之候ハゝ、可申上旨被仰渡候ニ付、近村々相糺候處、何れも買請望之もの無之旨申出、且又去午十二月(安政五年)、飼試相願候もの共之義も、数ケ月飼方仕候處、数疋二相成候而は、敷藁を始、飼草其外ニ至迄、存外手間相掛り、當時之数飼立候而ハ、壱両人ハ右飼方二相掛り、作方手入不行届、難澁いたし候間、原数は返上仕、出生之子羊而巳飼試、此末繁殖いたし候とも、願届二不及、勝手二譲引いたし度旨申出候、當時有高左之通御座候、
(唐鳥カ)
鳥小屋御預之分
綿羊九疋
内牡壱疋
牝八疋
右同断、
子羊弐疋
内牡壱疋
牝壱疋
〆拾壱疋
高七疋之内三疋殞
綿羊四疋 長崎村散使
内牡壱疋 田川安太夫
牝三疋
子羊三疋
内牡弐疋
牝壱疋
〆七疋
綿羊七疋 浦上村山里
内牡壱疋 百姓
牝六疋 俊三郎
子羊四疋
内牡弐疋
牝二疋
〆拾壱疋
高七疋之内壱疋殞
綿羊六疋 同村淵
内牡壱疋 散使
牝五疋 平井國助
子羊弐疋、但牝
〆八疋
合三拾七疋
右之通御座候、然ル處、唐鳥小屋御預之分、霖雨・炎暑と引続候處、段々病羊出來、日々殞羊有之、全市中ニ而ハ風透不宜、乾高之地ニ無之候而は、生育致兼候哉ニ付、不取敢浦上村山里俊三郎江當分預替申付置候間、引続右之高并弐ケ村より返上申出候分、一同御預相成候とも差支有無之義をも相糺候處、前書之通、弐三疋之儀ニ候得は、農隙飼方無差支候得共、数疋二及候而は、實ニ飼方難澁いたし候間、たとへ相當之御手當被下置候とも、御免相願候旨申候、依之此段申上候、以上、
未六月 高木作右衛門
(長崎奉行書類)
(東京大学史料編纂所編「大日本古文書 幕末外国関係文書之二十四」342ページ、昭和28年3月、東京大学出版会=原本、)
「加賀藩史料」には天保3年9月5日の「幕府の飼養する綿羊を交附せらるべきことを告ぐ」など文書があるのですが、わかりやすくまとめた本があるので、それを資料その3(1)として紹介します。参考文献3件は後日追加します。
同(2)と同(3)は薩摩藩の藩主島津重豪は綿羊を飼うたけでなく、毛織物を作り出そうとして江戸の渋江長伯に藩士2人を送って紡織技術を学ばせたことを伝える記事です。同(3)のURLは国会図書館がインターネットに公開している「仰望節録」の「始て羊毛を織」の條です。
資料その3
(1)
<略> 同じく少数飼育の動物として緬羊がある。すなわち藩末 文政九年(一八二六)、御郡奉行が諸郡に対し、「綿羊相望候はゞ可被下旨被仰渡候条、諸郡之内相尋望候者名書可指出、 尚更有無共可申聞事」(19)として綿羊飼育希望者には下附せられることを通達している文書からうかゞわれる。これはまた「尤慰物にいたし候訳合に而無之、綿羊之毛織物に可相成品に付。」と目的を明らかにし、飼育方法は「草并香の物たくわん漬之由に御座候」と云い、さらに「弥望申者有之候得者、少々飼育入用可被下哉之御沙汰も御座候由に御噂御座候」として、補助金の交付までが含まれるもので、いわゆる藩政策による緬羊導入政策のあらわれといえよう。(飼料としての香の物云々は塩分の補給である。現在でも東北の放牧地ではタクアンを与えている)それから三年後の文政十二年、綿羊飼育現在数の調査によれば、「一、御拝領綿羊数左之通。七疋御拝領之内、牝一疋、牡二疋?、当時四疋。右出生の子十一疋牝、十二疋牡、都合廿七疋当時の高」(20)として顛末を明らかにしているが、その後あまり盛況をみなかつたようである。天保三年(一八三二)の記録(能留)(21)によれば、幕府の飼養する緬羊を交付せらるべきことを告ぐ件のあることから、当時は幕末のことゝて、近代的な衣料である毛織物のよさと必要が認識され、次第に幕府を中心とする羊毛自給の態勢が考えられるにいたつたことを物語るものではなかろうか。
(19)は史料一三ノ七二二頁
(20)は史料一三ノ九四四頁
(21)は史料一四ノ二六二頁
(清水隆久著「近世北陸農業技術史」154ページ、昭和32年11月、 石川県片山津町教育委員会=館内限定近デジ本、)
この史料とは「加賀藩史料」を指しているので指定の箇所は引用すると下記のようになります。
(19)は文政9年のことです。
十一月二日。諸郡に綿羊飼育を希望する者あらば之を下附せらるべきことを告ぐ。
〔御触留抜書〕
綿羊相望候者有之候はゞ可被下旨仰渡候條、諸郡之内相尋望候者名書可指出、尚更有無共可申聞事。
戌十一月 御郡奉行
諸郡
別紙覚書今日御用番山森雄次郎様より御渡、御郡方町・在に右綿羊相望候者有之候はゞ可被下旨被仰渡、尤望人致出府御願申上候得者、飼方等之儀夫々可被仰談筈。尤慰物にいたし候訳合に而無之、綿羊之毛織物に可相成品に付、飼方は草并香の物たくわん漬之由に御座候。望人有無共早速御達可被成、且又弥望申者有之候得者、少々飼方入用可被下哉之御沙汰も御座候由に御噂御座候。右為御承知相廻申候。早速夫々御談、落着より射水え御返可被成候、以上。
十一月二日 御根役所詰番
(20)は天保3年のことです。
九月五日。幕府の飼養する綿羊を交附せらるべきことを告ぐ。
〔触留〕
綿羊望之者候はゞ可被下、尤御領分百姓等に而も、望之候もの有之候はゞ被下候間、望之もの有之候はゞ、巣鴨綿羊小屋え御家來被指出、澁江長伯え相談、爲請取候様可被致候。 右之趣水野出羽守殿被仰渡候間申達候。公儀御囲置之綿羊望之者有之候はゞ可被下儀に付、別紙写之通、御勘定奉行明樂飛弾守殿被仰渡候條、望之者有之候者、可申聞候事。
右之趣被得其意、同役中達、組・支配不相洩様可被申渡候、以上。
九月五日 奥村内膳
(21)は文政12年のことです。
正月十四日。綿羊の飼育現在数を調査す。
〔諸雑〕
正月十四日
一、御拝領綿羊数左之通。
七疋御拝領之内、牝一疋・牡二疋殪。
當時四疋。
右出生之子十一疋牝・十二疋牡。
都合廿七疋當時之高。
(2)
島津重豪
重豪はこれらの西洋文物収集にとどまらず、鹿児島に毛織物業を広めようとした。寛政年間綿羊を外国から貢いだので、幕府は官医渋江長伯に命じ江戸巣鴨で飼育し、毛織物製造に成功した。諸藩にはまだこの挙がなかったので、重豪はこれを国元に広めたいと思い琉球から羊を購入して藩息させ、文政元年藩の坂元澄明・小川冨吉を曾槃の弟子ということで長伯の下で修業させて、一年後帰国して羊毛の紡織を広めた。ただ綿羊が少ないので目下その畜養に努めているとは曾槃の記すところである(『仰望節録』)。
(芳即正著「島津重豪」157ページ、昭和55年12月、吉川弘文館=原本、)
(3)
始て羊毛を織 第八條
吾聞く、寛政の頃にや、〔脱アルカ〕旨やありけん、綿羊を外つ國より貢ぎけり、其蓄養且毛織の事を、官医渋江長伯氏に掌らしめ、江戸巣鴨に甘部<かひべ>を定め、こゝにつとひ養ひけるに、年経るごとに蕃息す、遂にはあまたの数となりぬ、時に大城<おほき>の西なる官園の中に、新におもやを建て、夏きにければ、其毳<にこげ>を芟<かり>取り、これを晒し、これを紡ぎ、真の毛織の業初めて始りける、さりとても未だ諸侯の藩にこれを織る處なし、公国人<くにたみ>にこの機<はた>をおろさせんことを深く計らせ給ひ、嘗てより羊をうるまの島より購ひ得て蕃息せしめ、また臣槃に任じて、国人に其業を学ばしめんとす、臣槃謹みて命を受け、文政元年戌寅の春、同藩の坂元澄明小川富吉を仮に予が弟子となし、長伯氏に属けて其業を学ばしむ、既に一歳を経にければ、つばらにこれを学び得て、翌己卯の夏帰国し、是より羊毛の紡織藩府にても成りけれど、綿羊の蕃息未だ多からざれば、今その畜養を専らとせり、
(国史研究会編「日本偉人言行資料 仰望節録 島津重豪・常陸帯 徳川斉昭」80ページ、「仰望節録附余」より、大正6年9月、国史研究会出版=近デジ本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536141
折角の機会ですから「栗本鋤雲手記」の出典となったとみられる加藤懋の「本邦牧羊事蹟考」全文を知ってもらうことしました。まず文中の諸君になじみのない字を説明します。まず「ヿ」は「事、こと」、半角2字の「トモ」は全角の「トモ」でもいいのですが、原本の雰囲気に近づけるため、あえて組み合わせました。そのために1字繰り返しの記号も平仮名では「ゝ」、片仮名の中では「ヽ」としたのは、もう遊びですな。ふっふっふ。[何々/何々]は1行にそこだけ小さな字で2行に書いてあるところです。/は小さな字の行替えカ所です。
「寛政九年京都ノ人広川■」は、ユニコードにない犭篇に鮮の下点のない字を書いているが、広川の名前は獬なので、■にしておきました。後半にある2カ所の■は昼の下の一のない字で「書」の略字です。ですから前が「一書」、後ろが「文書」になります。昼の旧字体が書の下に一を書いた晝でしたからね、その一がない書の略字も昼の下の一がない字になるとはね。れっきとした辞書に載っていました。
渋江長伯の書いた「製氊図考」の序文の■は、東京国立博物館研究情報アーカイブスの画像で見ると、四の左下にノを付け、その右側に刻とも到ともつかぬ字があります。それで書き写した御仁は□としたらしい。渋江をはじめ当時のインテリは邦文より漢文の方がわかるので、渋江は漢文で書いたといわれていますが、こんな変な字も理解できたかどうかねえ。
それから「本文徳川家ニ於テ綿羊五十頭支那ヨリ買入レ云々トアルハ前ニ記スル東本氏ノ説ニ殆ント符合セリ」の東本氏は、明らかに栗本氏の誤記です。
加藤が精一杯努力して集めた情報を全部書き込んだはずのこの「事蹟考」に、天保3年の幕府が望む者に綿羊1つがいを無料で配付するという画期的な政令が入っていません。加藤調でいえば「按スルニ」巣鴨に取りに来いといわれても、江戸往復に何日もかかるような土地から、もうかるのかどうかもわからない綿羊なる家畜を頂きに出掛ける酔狂な者はいるわけないだろうと、このお触れは役所内の掲示板に張り出す程度に止まり、平民には伝わらなかったので、すぐ忘れられてしまい、巷の記録にも残らなかったのでしょう。
資料その4
本
邦 牧羊事跡考
加藤懋述
本邦ニテハ往昔ヨリ山羊ヲ単ニ羊ト唱ヘ来レルモノヽ
如シ而シテ山羊ハ古来本州及ヒ諸島ニ蕃息セシモノト
見ヘ伊豆大島九州地方ニハ今尚ホ山野ニ生息スルモノ
尠カラス享保寛政ノ頃ニハ屡次大島々民ヨリ山羊数頭
ヲ幕府ニ献上セシヿ旧記ニ見ヘタリ又延喜式ニ載スル
所ノ羚羊角ハカモシカノ角ヲ指シタルモノト知ラルヽ
ナリ故ニ山羊及カモシカハ本邦固有ノ産タルヿ明カナ
レトモ真正ノ羊ハ中古唐国阿蘭陀国等ヨリ舶来セシモノ
ナルヘシ百錬抄ニ
浄海献羊の後ち人多く疾にかゝる世に羊疾と云
按スルニ浄海ハ平入道清盛ニシテ此頃羊ハ最ト珍奇ノモ
ノタルニヨリ特ニ之ヲ朝廷ニ献リシナラン蓋シ其羊ハ
唐国ヨリ来リタルモノナルヘシ亦元禄八年丹岳野必大
千里父ノ着述セル本朝食鑑ニ
羊 近世自華来世未蕃息其状頭身相等而毛短惟一両
公家牧之至数十頭故人亦食之者希矣儘有食之者謂肉
軟味美而能補虚予不食之則未詳其主治也牧家戯ニ令
與紙食羊喜食紙然非常食而童翫爾
右書中一両公家牧之至数十頭トアルハ何人ノ何地ニ牧
養セシモノナリシヤ詳カナラサレトモ此時既ニ唐国ヨリ
種羊ヲ輸入シテ蕃殖ヲ試ミタルヿ疑ヲ容レス又天明年
中谷川士清ノ著ハセル和訓栞ニ
ひつじ 未の時ハ日の西に旋る辻也といへり宇治拾
遣に午の時過んつじになるほとにと見へたるか如し
十二生背乃内羊ハもと我国になきものなれハ十二辰
の本訓なるへし尚歯会の記につゝじにひざつくひつ
じの初めといへるハ羊躑躅の名をもて枕詞に用ゐた
る也今處々海島に放ちかへども食する事ハなし羖ハ
をひつじ羝ハめひつじ也羔ハ羊の子也○野牛と称するも
のハ綿羊にて蛮種なり是も海島に蕃殖せりとぞ
寛政九年京都ノ人広川■ノ著述セル長崎見聞録ニ
阿蘭陀屋舗ハ長崎出島にあり常に高き旗を立て目志る
志とせり門内に入れハ家猪野牛羊の類をはなち飼置
たり
前記ノ諸書ニ拠テ按スルニ当時羊ハ甚タ新奇ノ動物ニ
テ長崎開港場等ノ外ニハ之ヲ飼養スルモノ罕ニシテ其形
状ヲ見タルモノサヘ少ナシカリシヿナラント推考セラ
ル
又寛政年中長崎奉行所ニ於テ羊ヲ飼養セシヿアリトテ
長崎ノ人三田村某氏ノ語ラレタル次第ヲ左ニ記ス
古老ノ伝フル所ニ拠レハ同奉行所ニ於テ綿羊飼賦金
ト称スル一種ノ税目アリテ維新ノ際マテ其事行ヒ来
レリト云フ當時該地ニ牧羊ノ業ニ頗ル熱心ナル者アリ
其名ヲ上原七次ト呼ヘリ常ニ羊ヲ飼フ事ニノミ心思
ヲ注キ専ラ任シテ其業ヲ執レリ時ノ奉行某氏戯ニ
七次ニ謂テ曰ク子ハ頗ル牧羊ノ業ニ熱心シ殆ント羊
ニ狂スルカ如シ今ヨリ子カ名ノ七次ヲ更メテ羊ト書
スヘシト七次欣然トシテ乍チ其名ヲ羊ト改メ夕リト
云フ
文化ノ頃(十一代将軍家斉公ノ時ナリ)幕府ニ於テ牧羊ノ
業ヲ開キタル一事アリ懋曾テ栗本鋤雲氏ヲ訪ヒ其顛末
ヲ質問セシニ氏自ラ筆ヲ採リ口述ニ換ルトテ左ノ一篇
ヲ草シ示サル
綿羊ヲ江戸ニテ飼タル初ハ[文化ノ末カ/文政ノ初カ]奥詰医師渋江長
伯ノ建白ニ因リ長崎奉行ニ命アリ唐国ヨリ呼ヒ取レ
リ[頭数/未詳]長伯ハ番町堀端火除地ヲ始メ所々ニ薬園ヲ開
キ薬草植付等ヲ司リ居タルニ因リ其一ケ所ナル巣鴨三
丁目ノ一区[当今外務大書記官/宮本小一ノ居邸]ヲ以テ綿羊牧養ノ地
ト定メ後年追々蕃殖シテ三百餘頭ニ至リ年々二次毛
ヲ剪リテ官ニ納レ官之ヲ濱[当延遼/舘ノ地]ノ薬園[亦長伯ノ/所轄ナリ]中
ニ在ル織殿ニ下シ絨布ヲ織ラシメタリ[本邦在来ノ/機杼ヲ用ユ]然
ルニ其品下劣ニシテ多ク用ヲ為サス故ニ得ル所損スル
所ヲ償フニ足ラサルヲ以テ其事止メタリ十二代将軍
ノ時ニ至リ其無用タルヲ知ルト雖モ先世ノ養フ所
タルヲ以テ猶ホ之ヲ養ヒ置タルカ安政年間箱舘奉
行ノ請ニヨリ賜リテ北地ニ養ハシム是ヨリ後在住医
師栗本瑞見[鋤雲/ナリ]奉行ノ旨ヲ受テ箱舘地蔵町ノ倉地ニ
養ヘリ時ニ其数漸ク四十頭計アリシ瑞見俗吏ニ転ス
ルノ後綿羊ハ産物取扱官ノ牧羊スル所トナル
右ノ一書ニ就テ考フルニ当時夙ク既ニ絨布ノ効用ヲ悟
リ盛ンニ綿羊ヲ蕃息シテ毛布ヲ需用スルノ計畫アリシ
ヲ知ル
又西園渋江長伯ノ著述セル製氊図考ト題セル一書アリ
トテ田中芳男君ヨリ示サレタリ其書ノ巻頭ニ記スル所
次ノ如シ
氊者人家日用之具與帽衣共不可欠者也然無製造之人
又無畜羊之家只仰用於海舶余特蒙 命凢便国益人者
無知不言無思不作今以所營地廣令下吏畜羊刈毛其毳
者為氆氌粗者為罽(?)氊若以此法熟思極巧則必代天工而
開物矣哉
文政六年松庵佐藤信淵ノ撰マレタル混同秘策第一巻ニ
次ノ一章ヲ記セリ
羊ニ数種アリ食料ニ用ルノミナラス皮革モ甚タ用ア
リ又綿羊ノ毛ハ年々両度ツヽ剪取ルヘシ其毛夥シク
アル者也今江戸ニテ飼フ所ノ綿羊ハ癩綿羊ニテ用ニ
立ス蕃人ニ欺レタルナリ
本文癩綿羊ニテ用ニ立スト云ヘルハ蓋シ疥癬ニ罹リタ
ルモノ多カリシナルヘシ
又文政十年同氏ノ著述セラレタル経済要録ニ
羊ハ皇国ニハ無ケレドモ漢土人ハ常ニ飼テ食料トス
ルヿ。鶏ヲ飼フト異ナルヿ無シ。此物ハ羊羶トテ悪臭ノ
有ル者ナレドモ。味ハ頗ル美ナリ。殊ニ母ノ腹内ニアル
ヲ取リタルヲ胞羊ト名ク。臭気ナクシテ。味最モ美ナリ。
羊ハ今ニ好事家漢種ヲ取リ寄テ畜フ者多シ。尚ホ此レ
ヲ夥シク取リ寄セテ。夥シク蕃殖セシメ。海ニ遠キ国々
ノ食物ニ備フベシ。羊ニ種類多シ。黄羊。胡羊。洮羊。封羊。柴
羊。頂羊等アリ。且綿羊ハ其毛ニテ羅紗類ヲ織ルヘシ。大
尾羊ハ玩物ニ供フヘシ
又弘化ノ末年石見国津和野ニテ牧羊ヲ試験シ其羊毛ヲ
以テ絨布ヲ織リ試ミタルヿアリシトテ旧藩士ナル岩手
厚雄氏ノ語ラレタル一話ヲ次ニ記ス
石州津和野[亀井隠岐/守ナリ]ニ於テ弘化ノ末年江戸巣鴨ノ薬
園ヨリ種羊牝牡四頭ヲ取寄セ下中島ノ藩厩ノ側ニ飼
養シタリ後蕃殖シテ三十余頭ニ至リシ因テ其毛ヲ剪
リテ絨布ノ製造ヲ試ミタリシカ品質粗ニシテ僅ニ敷
物トナスニ過キサルモノナリシ然ルニ嘉永六年某日
津和野市街ニ大火起リ古ノ厩舎ニ延焼シ其羊群ハ悉
皆焼死セリ
前記ノ羊ハ文化ノ頃幕府ニ於テ飼養セシ綿羊ノ残リ居
メルヲ津和野候カ請ヒ受ケテ其本国ヘ移セシモノカ或
ハ別種ノモノナリシヤ詳カナラス
安政年中肥前国佐賀ニ於テ鍋島閑叟候ノ創意ニテ牧羊
ヲ試ミタルヿアリ懋曾テ佐賀ノ人深川亮蔵氏ヲ訪ヒ其
事跡ヲ尋問セシニ同氏ノ又某君カ記臆セラルヿ所ノ次
第ヲ記シテ示サル
安政五午年十二月頃上海ヨリ來リタル綿羊旧幕人斉
藤氏預リ相成居候内ヨリ聞番役手筋ニテ相談ノ上福
谷啓吉受取リ候テ安政六未年正月長崎ヨリ佐賀城下
製煉所ト申諸試験場ヘ持帰リ飼立置タリ但シ雄羊一
匹雌羊六匹都合七匹アリタリ
右牧羊試験ノ結果ハ如何ナリシヤ詳カナラサルナリ
安政年中奥州南部ニ於テ綿羊ヲ飼養セリ其顛末ハ岩手
県ノ調査ニ係ル次ノ一■ニ因テ知ルヲ得ヘシ
旧南部藩制中綿羊飼養事跡調
一 安政年間南部美濃代藩士上山半右衛門函館留主居
勤務中旧幕府徳川家ニ於テ綿羊五十頭支那ヨリ買
入ノ内二十頭江戸城ヨリ函館奉行津田近江守ヘ回
送相成リ然ルニ該羊ハ奥羽地方風土ニ適スヘキ趣
半右エ門伝聞シ南部領数ケ所ニ牧養セシメ羅紗其
他ノ毛織等ヲ産出スルニ至テハ国内ノ大産業ナラ
ント思考シ万延元年四月半右エ門帰国ノ節奉行近
江守ニ請求シ牝牡二頭ヲ自費ニテ買入レ盛岡ニ輸
送シ南岩手郡仁王村字仁王小路自宅内ニ羊室ヲ建
築シテ干草及豆腐殻等ニテ飼養ス
一 万延元年九月半右エ門死去シ其次男上山齢七父ノ
遺志ヲ継キ飼養ニ尽力スルト雖トモ飼養未タ至ラサ
ルカ出産ノ児羊柔弱ニシテ一両月生育スレハ斃死
又生スレハ斃レ何分蕃殖ノ効ヲ奏セス漸ク年ヲ経
テ五頭ニ至レリ
一 文久三年同藩士大島惣左ヱ門[当今/高任]八角又新外八名
結社旧藩主ヘ請願許可ノ上南岩手郡東中野村字新山
舘ヘ一ノ学校ヲ新設校名ヲ日新堂ト称ス藩主手許
ヨリ年金三百円宛ヲ三ケ年間下与セラレ外ニ社員
ヨリ募集金利子金ヲ併セ是ヲ経費ニ充テ教育科目
ハ洋学医学製練本草牧畜等ノ各課ナリ齢七モ社員
ノ一人タルヲ以テ綿羊五頭ヲ該堂ヘ寄付ス羊室ヲ
学校敷地内ニ設ケ飼養ス
一 元治元年八月上山齢七江戸屋敷詰申付ラレ日新堂
内ニ於テ其飼養ニ習達スルモノ幸ニ東和賀郡村崎野
村及川玄周ナルモノ牧羊飼養希望ノ者ニ付同人ニ
貸与セシニ玄周其居村ニ輸送セリソノ後ハ如何ナリ
シヤ詳ナラス
本文徳川家ニ於テ綿羊五十頭支那ヨリ買入レ云々トア
ルハ前ニ記スル東本氏ノ説ニ殆ント符合セリ蓋シ同物
ナラント思ハルヽナリ
以上列記スル所ノ事跡ハ今ヨリ之ヲ見レハ些々タル一
小事ニシテ固ヨリ牧羊事業ノ根基トナスニ足ルヘキモ
ノナカルヘシト雖モ抑当時海外交通ノ路未タ開ケス随
テ殖産興業ノ思念ニ乏シキ時代ニアリテ早ク已ニ毛肉
ノ需要ヲ察シ其業ノ適否ヲ試験スルノ義挙アリシハ又
以テ用意ノ厚キヲ徴スヘシ而シテ本篇ハ起稿勿卒ニシ
テ考證其實ヲ悉サヽルモノアリ或ハ事跡ノ漏レタルモ
猶ホ多キヲ覚フ他日識者ノ教ヲ俟テ事実ノ誤レルハ之
ヲ正シ欠ケタルハ之ヲ補ハントス看者幸ニ微意ヲ諒シ
訂正ノ労ヲ吝ム勿レ干時明治十八年一月廿五日之ヲ誌
ス
附言維新以来牧羊ノ沿革ハ自ラ文■ノ判明ナルモ
ノアリ他日更ニ一篇ノ近代牧羊沿革誌ヲ草シ牧畜
家ノ参考ニ供セントス
(加藤懋述「本邦牧羊事跡考」写本、明治18年1月以降、出版社不明=国会図書館所蔵文書、)
アネックスのアネックスとして「牧羊事蹟考」をまとめた加藤懋の略歴がありますから、資料その5として読んでもらいましょう。いずれ私が深く関係するYOKO−NET(北海道横断異人種交流ネットワーク)が創立30周年記念事業の1つとして、私の講義録を「ジンパ学大全」(仮題)として出版することを応援してくれるそうで、そのときは「栗本鋤雲手記」を世に知らしめた加藤氏のこの小伝と関係記事は必ず入れます。
資料その5
○加藤懋氏小傳 教畜事業に熱心の聞ありし本會通常會員加藤懋氏は一昨明治二十三年不図脳病に罹り爾來自宅または医科大學第一医院に於て諸国手の診察を受け昨秋よりは郷國丹波に在りて怠らす種々接養を加へしか藥餌終に其功を奏せす一月九日を以て卒去せりと云ふ氏は資性諄厚にして篤實寡言聞達を求めす修飾を好ます常に名刺の肩書に「丹波國百姓」と記せるか如き莫朴直以て想見するに足るへし事に當りて倦むなく成らされは止まさるの風あり夙に本邦の農業中最牧畜の振興せさるを憂ひ明治七八年の頃京都府庁勧業分局牧畜場を設け米人ゼエムス、オウスタイン、ウ井イド氏を教師に聘するや氏先つ同場に入りてウ氏に親炙し學理實業を兼ねて孜々研修し日夜怠らす大に得る所あり後兵庫縣庁所轄の牧牛場に入りて同場の實務に從事し又転して農務局所轄の下総種畜場に入り從事多年経験大に富む再転して農務局畜産課に入り日常公務の傍なほ牧畜上に就き社會の公益を企圖して盡力せし事業甚少なからす「牧牛手引草」の重修、「日本牧羊考」の編修の如き即その一にして其他明治十九年三月に開きし東京乳牛共進會の如き事府下牛乳家有志諸氏の発企に係るといへ實は同氏か率先首唱して慫慂せし所にして其同志者の賛同を得て愈開會の議を決するや其閉會に至るまて数十日の間、氏単身專ら煩務に當り事を執る日夜を分たす寝さること一週日に及へりされは斯本邦創始の會にして非常の盛況を呈し爲に當業者諸氏をして大に感奮興起するに至らしめしもの氏の力與りて小少ならさるを以て同會褒賞授與の式了はるや東京府知事は氏に贈るに懐中塒計一箇を以てして特に懇に諸事盡力の謝意を表せり其文左の如し
今般東京乳牛共進會開設ニ付テハ諸事盡力不尠感荷ノ至ニ候依テ謝意ヲ表スル為メ懐中聴計一箇寄贈候也
明治十九年三月十四日 高崎東京府知事
加藤懋殿
氏は牧畜事業上に就きて豫て大に前途に期する所あり乳牛共進會の事全く局を結ふや次て官を辞して米國に渡航し滞留二年研究得たる所少なからす帰朝後先つ同志の諸氏と共に牧畜雑誌社を設立し雑誌を刊す是盖因循なる我邦の農家に牧畜改良の思想を喚起せしむるには其抱負を発表し意見を提唱するの器なかるへからさるを以てなり會ま家禽の改良蕃殖を急とするの説、一時靡然として都鄙の間に行はる此機に當り氏か米國にありて調査せし家禽事業に關するの記事號を逐ひて牧畜雑誌に上りしより月を累ぬすして同誌の聲価忽ち揚りたりといふ其後二十二年また再ひ米國に航し翌二十三年に至り帰朝の際諸種の種畜を携へ帰り本邦の種畜改良の資に便せしもの少なからす且爾後躬親ら實務を執り尚経営計畫せる所ありしに一朝二竪の侵す所となり不惑の壮齢を以て幾多の抱負を齎して溘然不起の人となる寔に惜しむへきなり
(大日本農会編「大日本農会報」128号57ページ、明治25年3月、大日本農会=館内限定近デジ本、)
●大阪通信 <略> ○山城国綴喜郡大
住村の田宮りうといふは過般大阪に於て獣医の試験を
行はれし時出願しで其試験を受けたれど今少し學力の
足らざるを以て及第せざりしかど其氣象は男子にも優
る所あり殊に我國の婦人にして獣医の試験を願出でし
は今日までに同女を除て外に一人もなきことなれば出
張試験官加藤懋氏も深く感賞し猶此上に勉強して再び
試験を願出るやう懇々諭されしが同氏帰京の上今回當
府庁の手を経て獣医書三種を同女に贈付せられたり
(明治19年4月28日付朝日新聞朝刊1面=聞蔵U、)
牧畜事業研究ノ為メ來ル六月中旬米國及欧
州へ渡航ス
但牧畜有志家ノ依頼
ニ應ジ家畜家禽及牧
畜用諸器械等ノ購求
ヲ幹旋ス尤モ望ノ諸
君ハ來ル六月五日迄
ニ府下日本橋区檜物
町十番地東里為換店
へ申込アレ
十九年五月東京芝区田村町二番地 加藤懋
(明治19年5月148日付朝日新聞朝刊4面広告=聞蔵U、)
ジンパ学は綿羊が本命で、その関係で羊毛にも話が及ぶが、加藤懋の寄贈品に近いと思う牛毛製品のことを資料その6として紹介しましょう。もう1冊、牛毛で織った羅紗がそう珍しくなかったようなことを書いた羊毛工業の本があったのですが、書名のメモが見付かったら追加します。
資料その6
◎綿毛布と牛毛製毛布
数年前尾州地方にては舶來品を摸傚して綿毛
布なるものを製造し尚又続て泉州地方にても
新たに牛毛を以て同品を製造し始めしが価格
の低廉なる替りに品質外観とも非常に粗悪に
して到底舶来品の代用を為さゞるを以て売行
き至て面白からず爲めに昨年の如きは多分に
製造せざりしも品物大方停滞して殆ど持て餘
まし居しが幸ひにも此回の交戦のため在外人
夫用として続々彼地へ輸出し今ハ停滞品も全
く底を払ひ却て後注文に製造を急ぎ居る由な
るが之が為め且は舶來品の騰貴につれて価格
幾分か昇騰し近頃尾州産綿毛布二十銭より三
十銭泉州産牛毛布三十銭より三十五六銭位な
りといふ
(藜光堂編「大阪商況月報」2巻3号8ページ、明治27年12月、藜光堂=館内限定デジ本、)
牛毛
牛毛ハ概シテ繊維短少ニシテ然モ粗ナルガ為メ紡織用ニ適セズ、単ニ綿花代用及ビ玩具材料トシテ使用セラレタルモノナリシガ、造船業及ビ建築業ノ隆昌ニ伴ヒ、二分又ハ三分厚味ノ板状ニ圧縮シテ「フエルト」ヲ製造シ、以テ防熱防湿材料トシテ重用ナル用途ヲ有ス (野々山清蔵編「綜合材料及ビ商品智識」520ページ、昭和2年4月、筧孝助=館内限定デジ本、)
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