幕府は綿羊を飼いたい者にタダでくれた

 雨降りだと腰などあちこち痛くなって、やる気が減退するけど、君たちは若いから、そんなことはないでしょう。まあ踏ん張って、きょうは明治以前、開拓使ができる前に道内に送られてきた綿羊のことから話を始めます。まずは資料を配りだ。後ろの人、よろしいかな。
 資料その1(1)は明治44年に出た「函館区史」にある安政4年、江戸から箱館に綿羊10頭が送られてことを書いた箇所です。同(2)から古い順に郷土史の本からの抜き出した安政4年綿羊到着の記事です。同(5)はだれでもインターネットで読める「函館市史デジタル版」からで、半角の数字を全角に替えたほかは原文通りです。

資料その1

(1)
綿羊は安政四年五月官始めて十頭を江戸より回漕し来り、翌五年又輸入し、其後米国より数十頭を輸入し、之を箱館に飼養せしが、其成績不良にして、後終に廃絶したり。


(2)
 緬羊は安政四年五月十頭を江戸より箱館に送り來る、同年十一月巣鴨藥園停止に付、同園の緬羊を箱館奉行に下渡すべき命あり、爾後数十頭を送り來る、乃ち箱館藏地中の不用地に於て之を飼育せり。 又奥尻嶋にも牧飼せしが其結果明かならず。


(3)
 緬羊は安政四年五月十頭を江戸から箱館に送ってきたのが最初で、同年十一月巣鴨薬園が廃止になったため、同園内に飼育していた緬羊を箱館に下げ渡すように命令があり、以後数十頭を送ってきた。最初は奉行所内に置いたが、のちこれを箱館蔵地中の空地で飼育した。また後藤蔵吉の蝦夷日記(安政五年著)に「此島(奥尻島)へ昨年メンヨウと云けだもの御放しになる。羊に似たるけものなり」とあり、奥尻島へも放飼いしたらしいが、その結果は明らかでない。牛と同じく死滅したのではないかと思われる。


(4)
 緬羊は安政四年五月十頭を江戸から箱館に送ってきたのが最初で、同年十一月巣鴨薬園が廃止になったため、同園内に飼育していた緬羊を箱館に下げ渡すように命令があり、以後数十頭を送ってきた。最初は奉行所内に置いたが、のちこれを箱館蔵地中の空地で飼育した。また後藤蔵吉の蝦夷日記(安政五年著)に「此島(奥尻島)へ昨年メンヨウと云けだもの御放しになる。羊に似たるけものなり」とあり、奥尻島へも放飼いしたらしいが、その結果は明らかでない。牛と同じく死滅したのではないかと思われる。


(5)
 綿羊は安政4年5月、10頭を江戸から箱館に送ってきたのが最初で、同年11月巣鴨薬園が廃止になったため、同園で飼育していた綿羊を箱館に下げ渡すという命令があり、以後数十頭送られた。はじめは奉行所内においたが、のちこれを箱館蔵地内の空地で飼育し、後に奥尻に移した。

 安政4年から箱館に綿羊送りが始まったということを安政4年説とすれば、もう1つね、その3年前からとする安政元年説もあるのです。それを資料その2にしました。その(3)の表記が変ですが、年表で年号欄と数字の年欄が分かれていて、元年としたいところだが、本の通りにしたからです。同(4)を書いた小谷さんは、新渡戸さんの愛弟子で、著書の「羊と山羊」は私の講義の初めの方で取り上げた本です。(5)の記事を書いたのは北海学園大教授になられた南鉄蔵という方です。
 この資料その2の6件は安政元年、綿羊が箱館へ来たので栗本瑞見という医者が飼育の管理者になったという点で同じですね。資料その1の4件をもう一度見なさい。そろって管理者は誰だったと書いていない。何故こんなに違いが生じたのかを教えましょう。ジンパ学でなきゃ、こんな面白い食い違いの話は聞けませんよ。はっはっは。
 それから(6)は箱館で緞通を織っていたと書いていますが、どこかの間違いじゃないのかなあ。そういう記録はまだ見たことがありません。

資料その2

(1)
〔安政元年〕
同年幕府ニ於テ箱館奉行ノ請ニヨリ綿羊凡ソ四十頭ヲ箱館地蔵町ノ倉地に試養セシム医官栗本瑞見之ヲ管理ス(栗本鋤雲手記)


(2)
〔百二十代〕孝明天皇安政元年甲寅、幕府ニ於テ箱館奉行ノ請ニヨリ綿羊凡ソ四十頭ヲ箱館地蔵町ノ倉地に試養セシム。医官栗本瑞見之ヲ管理ス。(栗本鋤雲手記)」


(3)
安政  一  幕府綿羊ヲ箱館ニ試養セシム医官栗本瑞見之ヲ管理ス(栗)


(4)
 文化末年の頃幕府に於て奥詰医師渋江長伯の建白により長崎奉行に命じ綿羊若干頭を支那に求め、長伯をして江戸巣鴨の薬園に牧養せしむ。[栗本鋤雲手記]
 長伯の番町堀端火除地を始め處々に薬園を開き薬草植附等を司り居りたるにより、其一個處なる巣鴨薬園を以て牧羊地となし、後年漸次蕃殖して三百餘頭に至り、年々二次毛を剪りて官に納め官之を濱の薬園内にある織殿に下し、絨布を織らしめたりと云ふ。
 之より後四十年即ち安政元年幕府に於て箱舘奉行の請により綿羊凡そ四十頭を箱舘地蔵町の倉地に試養せしむ医官栗本瑞見之を管理す。と、あるのみにして之より明治年間に至るまで牧羊に関して何等記録の徴すべきなし。


(5)
緬羊 <略>即ち文化年間幕府は奥詰医渋江長伯の建白に依り、長崎奉行所に命じ緬羊若干頭を支那に求め、長伯をして江戸の巣鴨薬園を牧羊地として飼育せしめ、後年漸増して三百頭に達し、年々二次毛を剪て織殿に下し、絨布を織らしめたものの如くであるが(3)、また本島でも安政元年幕府は箱館奉行の請により、緬羊凡そ四十頭を箱館蔵町に試養、医官栗本瑞見をして管理せしめた。之が本島緬羊飼育の嚆矢と思はれる。尚又此頃奥尻島にも之を飼育したと見え、同五年の「後藤蔵吉蝦夷日記」にも「此島[奥尻/島]へ昨年メンヨウと云けだもの御放しになる羊に似たるけものなり」とあり。如何にも其新来的な状が窺はれる。
(3)は農務局「太日本農政史」六五二〜六五三頁


(6)
 元来,わが国には緬羊はなく,わずかに徳川後期に,幕府が支那から輸入して,その飼育を試みたことが記録に残されているのみである.すなわち,十一代将軍の文化2年(1805年)に長崎奉行が支那から数頭の緬羊を買い入れ,肥前国(佐賀県と長崎県の一部)浦上村に飼育し,2名の支那人の氈工を招いて毛氈を造らせたが,緬羊が死んだので中絶した.次いで同8年,幕府は奥詰医渋江長白の建議を入れて,支那から数十頭の緬羊を購入し,江戸の小石川と巣鴨の薬園で飼育し,300余頭にまで増殖させ,年2回毛を剪って,浜,吹上の両織殿で羅紗や呉呂を試織させた.その織機の中にはオランダから輸入されたものもあり,またその製法もオランダ人から口伝されたといわれているから,ある程度のものは造られたとみられる。しかし,その後文政7年(182
4年)に薬園の綿羊屋敷が焼けたため,これは中断した。後年,安政元年(1854年)に幕府は函館奉行の要請によって,残存していた約40頭を函館に移し,支那風の緞通を製織させたとのことである.

  

参考文献
上記資料その1(1)の出典は「箱館区史」294ページ、明治44年7月、函館区役所=国会図書館デジ本、 同(2)は北海道庁編「北海道史」1巻930ページ、大正7年12月、北海道=原本、同(3)は北海道庁編「北海道史」1巻930ページ、大正7年12月、北海道=原本、同(4)は北海道編「新北海道史(通説1)」2巻870ページ、昭和45年3月、北海道=館内限定デジ本、 同(5)は「函館市史 デジタル版」畜産P655−P656、 http://archives.c.fun.ac.jp/ hakodateshishi/tsuusetsu_01/ shishi_03-05/shishi_03-05-11 -00-05~06.htm
資料その2(1)は農商務省農務局編「大日本農史・中世・近世」453ページ、明治24年7月、博文館=国会図書館デジタル本、 同(2)は農商務省農務局纂訂「大日本農政類編」巻之九・29ページ、明治30年5月、農商務省=国会図書館デジタル本、編集者は織田完之、 同(3)は田中芳男著「日本物産年表」98ページ、明治34年8月、十文字商会=館内限定デジ本、 同(4)は小谷武治著「羊と山羊」14ページ、明治45年4月、丸山舎書籍部=国会図書館デジ本、 同(5)は南鉄蔵著「北海道綜合経済史」下巻341ページ、奥付がないので国会図書館の書誌情報に従い昭和29年、南鉄蔵=館内限定デジ本、 同(6)は伊東光太郎著「日本羊毛工業論」28ページ、昭和32年10月、東洋経済新報社=原本

 函館の「区史」「市史」と「北海道史」は安政4年説でそろっているのに対して、なぜ安政元年初到着説があるのか。その原因は資料その2を見なさい。(6)ははっきり示していませんが、ほかの4件はそろって「栗本鋤雲手記」を根拠としている。箱館奉行所の文書なり奉行の「村垣淡路守公用日記」に基づけば最初の10頭が付いたのは安政4年説になり、それ以外の本を根拠にしたため安政元年説に分かれたというのが、尽波説なのです。
 資料その2(3)の「日本物産年表」は親切で出典をいちいち1字で示している。「医官栗本瑞見之ヲ管理ス」(栗)ですから「引用書目」を探したら4ページに「(栗)栗本鋤雲手記」と書いている。同じく(5)の出典にしている「大日本農政史」は明治30年に出た農商務省農務局纂訂「大日本農政類編」を農林省が昭和8年に復刻した本からだが、箱館のことは「栗本鋤雲手記」で書いています。
 こうみると「栗本鋤雲手記」あっての安政元年説だから、私は「栗本鋤雲手記」という書き物らしいものを探しましたね。平成28年9月現在、キーワード栗本鋤雲で国会図書館を検索すると440件の本や論文などがあると出るけれど「『栗本鋤雲手記』に一致する資料は見つかりませんでした。」と出るだけだ。インターネットであちこち検索しても見つからん。もう消滅した本なのか、手記と呼ばれるからには元々本ではなかったのかも知れません。
 博物学者の田中芳男が編集した「日本物産年表(1)」は文化14年の「綿羊ヲ支那ニ求メ長伯ヲシテ江戸巣鴨ノ薬園内ニ牧養セシム(2)」うんぬんの項は「栗本鋤雲手記」からなのに、寛政12年の「幕府羊ヲ長崎奉行所ニ畜フ(3)」、弘化元年〜3年の「○津和野ニ於テ羊ヲ養ヒ絨布ヲ試織ス(4)」、嘉永6年の「肥前ノ領主鍋島閑叟佐賀ニ羊ヲ試養ス奥州南部ノ美濃代藩士モ藩地に羊ヲ養フ(5)」の出典は皆「日本羊牧事蹟考」です。
 それでインターネットで「日本羊牧事蹟考」を検索すると、ウィキペデアのヒツジなどが出るだけですが、羊と牧を入れ替え「日本牧羊事蹟考」にすれば国会図書館にある「本邦牧羊事蹟考」の写本の書誌情報が出ます。
 私の日記よると、国会図書館に加藤(つとむ)という人が書いた「本邦牧羊事蹟考」という文書があると知ったのは、平成12年12月でした。古典資料室で読ませてもらおうと借り出したら、それは農商務省の用紙にペンで書いたものを写した白黒のマイクロフィルムだった。
 いまはデジタルの画像に変わり、館内の端末で読み、入り用のところを指定して白黒、カラーどちらでもコピーしてもらえる。私が「事蹟考」の存在を知ってからの16年間に国会図書館のサービス体制がそれぐらい進化して、この春からコピー代はスイカなどのカード払いもできるようになりましたといえば、まるで国会図書館のCMだね。ふっふっふ。
 罫紙にして6枚半のそれによると、明治10年代のことらしいのですが、筆者の加藤が栗本の家に行き、幕府の綿羊事業について尋ねたら、口で説明する代わりに、さらさらと書いたかどうかわかりませんが、とにかく、その場で箱館に送られてきた綿羊の扱いなど知っていることを書き、それを加藤に渡したというのです。
 加藤は農商務省に務めて桂弥市と共著で「重脩牧牛手引草」という本を出した人で、長崎など一部の県を対象に牧羊事跡調査をしたことが「農務顛末」に記録されてますが、明治19年の「大日本農會報告」58号に「○加藤懋氏 農務局畜産課員なりし本会通常会員加藤懋氏は今回牧畜事業研究のため來る六月中旬頃発の郵船にて米国並に欧洲に向け出発せらるゝよし(6)」という記事があり、その次の59号に「○広告/牧畜事業研究の為め来る六月中旬米国及欧洲へ渡航す/但牧畜有志家の依頼に応し家畜家禽及牧畜用諸器械等の購求方を斡旋す望の諸君は来る六月五日迄に府下日本橋区檜物町拾番地東里為換店へ申込あれ/明治十年五月 東京芝区田村町弐番地 大日本農會通常會員 加藤懋(7)」という広告を出し、アメリカに行ってしまったのです。
 それで「日本物産年表」を書いたりした田中芳男は明治26年に「羊の話」と題する講演で、加藤が幕末の羊飼育史を調べたのに、ちゃんとした本にしないうちに亡くなったのは惜しまれると話した。資料その3は明治26年7月9日、東京学士会院の7月例会での田中講演の記録からです。この言い方からすると、田中は既に加藤の「日本牧羊考」を読んで内容を知っていたのですね。

資料その3

去る十九年東京府下に、乳牛共進会を設くるに尽力せし加藤懋氏は、牧畜事業に熱心の余り、我邦の牧羊事業并に毛織物の事蹟を探究せらるゝにより、余も屡其事に就きて尽力したり、又其頃生存せる旧幕府の役員たる人等に就きて質問をもなし、遂に日本牧羊考と云ふ書を撰みしが、完備に至らずして米國に渡航せるにより、右稿本は大日本農會へ寄贈せり、同氏は其後帰朝したるも、再び校定するの暇なく、物故するを以て、未だ世に公にするに至らざるは遺滅のことなり、
右稿に就きて旧幕時代にありし種々の事蹟を挙ぐる時は、事頗る多けれども、今日は省きて述べず、

 この田中講演の通りなら原稿だけでも残っていたはずだ。事実、加藤は渡米直前に大日本農会に自分が持っている本39冊を寄贈し、そのリストにあるんです。「大日本農会報告」の記事の写真を資料その4(1)にしましたが、このトップの組み方では「日本牧羊考」と書いた仮の表紙が付いているが、本文には「本邦」と付いているという意味でしょう。だから加藤は「本邦牧羊考」という本ににするつもりだったかも知れません。
 加藤は明治23年1月9日亡くなったのですが、経歴と生前の功績を称える記事が「大日本農会報」にあります。それには「農務局畜産課に入り日常公務の傍なほ牧畜上に就き社會の公益を企圖して盡力せし事業甚少なからす『牧牛手引草』の重修、『日本牧羊考』の編修の如き即その一にして(8)」となっており、出版、発行とは書いていないことからも、書籍の形にはならなかったと考えます。
 表紙のある本ではななかったにせよ、田中が「日本物産年表」で挙げた「日本羊牧事跡考」は、この「日本牧羊考」じゃないのか。資料その4(2)は「○寄付金員品目」にある加藤が寄付した書籍名。最後は牛の毛製の羅紗製品ですが、これに関連した記事は講義録の別ページにありますから、読むならここをクリックしなさい。

資料その4

(1)
    


(2)一 書籍三拾九種   通常會員 加藤懋

[日本]牧羊考[自著、本稿本邦]
競馬考[同上]
牧畜必携
獸類治療小編
[愛媛県讃岐国三野、豊田郡]耕牛改良會録事各一冊
[下総]種畜場事業問答筆記並附録弐冊
北海道農事問答
[第二回内国勧業博覧会]害蟲圖解説
[地質調査]報文分析之部第一册
乘馬及馬之ヘ馴法
勸業報告第六號牧牛手引草各壹册
農學簡明前編弐册
共進會報告[製茶部]
農談會曰誌各壱册
費氏鹽録三册
製絲諮詢會紀事壱册
紅茶説四册
紅茶製法纂要弐册
茶業須要
第二次農務統計表
牛馬取扱心得書
牛馬睾丸切断手続書
[明治十五年]農産表
[繭絲織物陶漆器]共進會審査報告[第二区一類、生絲]各壱冊
[明治十四年]米国種蘆粟栽製試驗表壱折
長野県産馬共進會報告[附馬事集、談會日誌]
牧羊生徒試業録
牛馬市改正規則
[明治十六年]第二回製茶共進會報告[審査ノ部、参考ノ部]
蠶桑生理問答各3册
穀菜耕作表壱折
山蠶田飼法摘要
府縣老農名簿
楮樹栽培実况各壱册
農事報告[自第拾四号至第弐拾号七冊、第弐拾三号壱冊]八册
勸農協會報告[自第三号至第弐拾七号の内]拾五册
農芸志林[自第壱号至拾五号]拾五册
本邦牧畜書目便覽
日本西ヘ史抄献馬の記各壱册[合計八拾冊、弐折]

一 牛毛羅紗鑒品六種            同  同

  

参考文献
上記(1)の出典は田中芳男著「日本物産年表」、明治34年8月発行、十文字商会=国会図書館インターネット本、 (2)は同92ページ、同、 (3)は同90ページ、同、 (4)は同96ぺージ、同、 (5)は同98ページ、同、 (6)は大日本農会編「大日本農会報告」58号46ページ、「中外雑録」より、明治19年5月、大日本農会=館内限定近デジ本、 (7)は同59号48ページ、明治19年6月、同、 資料その3は東京学士会院編「東京学士会院雑誌」十五編之八402ページ、田中芳男「羊の話」より、明治26年9月、東京学士会院=館内限定デジ本、 (8)は大日本農会編「大日本農会報告」128号57ページ、明治25年3月、大日本農会=館内限定近デジ本、 資料その4(1)と同(2)は同59号7ページ、明治19年6月、同

 国会図書館にある農商務省の罫紙に手書きした加藤懋述「本邦牧羊事蹟考」の書誌情報の出版年月は明治初期となっているけど、本文に「明治十八年一月廿五日之ヲ誌ス(9)」とあるし、その後、大日本農会に書籍として寄付するまで誰も読んでいなかったとしても、大日本農会の書棚に収まった明治19年5月以降、東京三田にあった大日本農会事務所を訪ねれば、だれでも読んだり書き写したりできる状態にだったと思いますね。
 資料その5(1)は「本邦牧羊事蹟考」の中の加藤と栗本瑞見のやりとりが書いてある3枚目の原稿の写真です。講義録ではこれ以上拡大できないので「栗本鋤雲手記」として切り出されたと私がみる範囲、つまり罫紙の右半分の左端の1行から書いてある通りの行替えで書き出したのが、同(2)です。[ / ]内は原稿では小さい字で2行書きになっているところです。
 資料その2(3)の小谷さんの「羊と山羊」と、この(2)と読み比べると、そっくり取り入れたようなものだとわかりますね。鋤雲の手記なるものは、加藤のこの「本邦牧羊事蹟考」から切り出したものだという有力な証拠だと考えます。

資料その5

(1)


   (国会図書館所蔵、加藤懋述、出版地不明、出版年月日等明治初期)


(2)

文化ノ頃(十一代将軍家斉公ノ時ナリ)幕府ニ於テ牧羊ノ
          <以上は右ページの左端の1行>
業ヲ開キタル一事アリ懋曾テ栗本鋤雲氏ヲ訪ヒ其顛末
ヲ質問セシニ氏自ラ筆ヲ採リ口述ニ換ルトテ左ノ一篇
ヲ草シ示サル
綿羊ヲ江戸ニテ飼タル初ハ[文化ノ末カ/文政ノ初メ]奥詰医師渋江長
伯ノ建白ニ因リ長崎奉行ニ命アリ唐国ヨリ呼ヒ取レ
リ[頭数/未詳]長伯ハ番町堀端火除地ヲ始所々ニ薬園ヲ開
キ薬草植付等ヲ司リ居タルニ因リ其一ケ所ナル巣鴨三
丁目ノ一区[当今外務大書記官/宮本小一ノ居邸]ヲ以テ綿羊牧養ノ地
ト定メ後年追々蕃殖シテ三百餘頭ニ至リ年々二次毛
ヲ剪リテ官ニ納レ官之ヲ濱[当延遼/舘ノ地]ノ薬園[亦長伯ノ/所轄ナリ]中
ニ在ル織殿ニ下シ絨布ヲ織ラシメタリ[本邦在来ノ機杼ヲ用ユ]然
ルニ其品下劣ニシテ多ク用ヲ為サス故ニ得ル所損スル
所ヲ償フニ足ラサルヲ以テ其事止メタリ十二代将軍

          <以上は左ページの末尾まで>
ノ時ニ至リ其無用タルヲ知ルト雖モ先世ノ養フ所
タルヲ以テ猶ホ之ヲ養ヒ置タルカ安政年間箱舘
奉行ノ請ニヨリ賜リテ北地ニ養ハシム是ヨリ後在住医
師栗本瑞見[鋤雲ナリ]奉行ノ旨ヲ受テ箱館地蔵町ノ倉地ニ
養ヘリ時ニ其数漸ク四十頭計アリシ瑞見俗吏ニ転ス
ルノ後綿羊ハ産物取扱官ノ牧羊スル所トナル

右ノ一書ニ就テ考フルニ当時夙ク既ニ絨布ノ効用ヲ悟
リ盛ンニ綿羊ヲ蕃息シテ毛布ヲ需用スルノ計画アリシ
ヲ知ル
          <以上は次ページの右端の9行>

 資料その3から、奥詰医師渋江長伯という人物が幕府の綿羊増殖計画のキーマンだったことがわかりますね。また、これでは「安政年間箱舘奉行ノ請ニヨリ賜リテ北地ニ養ハシム」であり、安政元年に箱館奉行が要請したとも安政元年に箱館に初めて綿羊がきたとも書いていませんね。だれかが「安政年間」を「安政元年」と本に書いたことから元年説が生まれたらしい。いま得られる綿羊情報の出典を年代順に並べると、だれが最初に元年説を公にしたかわかるはずですから、山崎栄作編「渋江長伯集 資料編」の渋江長伯年譜をベースにした綿羊飼養関連年表を作り、資料その6にしました。

資料その6

山崎氏の「渋江長伯年譜」を中心とした綿羊飼養関連年表
               (太字が「渋江長伯年譜」からの項目)

   
1617 元和三丁巳 らしや(羅紗)の衣服を着用(梅津政景日記)
1600 寛永十五  
1668 寛文八戊申 三月、羅紗面羊猩々皮の三種を除く毛織物は輸入禁止(大政
         紀要)
1701 元禄十四辛巳 「支那ヨリ羊渡ル幕府之ヲ牧セシム(大和本草)」(日本物
         産年表)
1724 享保九甲辰 「綿羊肥後ニ産ス俗ニ野牛と云フ」(日本物産年表)
1726   十一丙午 徳川吉宗、吹上御苑内に綿羊飼立場を置く(本邦糖業史)
1760 宝暦十庚辰 太田長伯生まれる。
1771 明和八辛卯 平賀源内、羅紗(国倫織)試織。(土井)
1773 安永二癸巳 長崎の通訳吉雄耕牛から江戸の本草学者田村藍水へ綿羊譲渡の
         話が持ち上がる(平野)
1775   四甲子 三月、田村藍水に長崎からの綿羊2頭届く(田村藍水・西湖公
         用日記)
1776   五甲午 三月二十三日、田村藍水没(田村藍水・西湖公用日記)
1778   七戊戌 長伯は渋江陳胤の養子となり娘と結婚。
1789 寛政元己酉 渋江長伯、八月に十代将軍徳川家治に拝謁。寄合御医師、
         三百俵、十人扶持。

1792   四壬子 九月六日より医学館は御役所となる。本草科に渋江長伯、栗本
         瑞見がいた(宝暦現來集)
         綿羊、近年唐土ヨリ来ル白キ羊也(薩州産物録)
1793   五癸丑 渋江長伯、寄合医師の奥詰となる。二十一日より御薬園を預
         る。医学館で講義し白銀十枚を賜る。

1794   六甲寅 五月二日、二の丸御製薬所懸り。
         六月十七日、漂流民大黒屋光太夫、磯吉が番町薬園(長伯総
         官)に預けられる。

1795   七乙卯 五月十二日、渋江長伯、一番町御堀端に三ヶ所〔現在千鳥ヶ渕
         沿〕三番町に二ヶ所の薬園を開く。その功績により所々の薬園
         を預けられる。

         八月、吹上御庭に新規の織殿完成(守嚢)
1797   九丁巳 十二月二十六日、さきに羅紗織方の事を承しにより白銀十五枚
         を賜う。

         六月、幕府は甲府に医学館を創設し館側三千坪に薬園(十年九
         月)を開く。

1798   十戊午 十一月二十五日、幕府、巣鴨薬園を開設(現在豊島青果市
         場)、一二六一〇坪余。渋江長伯管理にあたる。のち、綿羊屋
         敷ともいわれた。安政六年刊行絵図に記載。

1799   十一己未 三月二十四日、渋江長伯、幕命により蝦夷地採集三十四名
         (蝦夷地調査隊八百人余の編成の一部)の隊長として江戸出
         発、蝦夷地東南海岸に沿って厚岸に至り、九月二日江戸帰
         着。

         十一月、江戸の文蔵と常吉に御薬園織物御用を命ず(平野)
         十二月十六日、渋江長伯、奥詰医から奥医師並へ昇格、奥詰御
         医師を十三年在勤

1800   十二庚申 「幕府羊ヲ長崎奉行所ニ畜フ」(日本物産年表)
1804 文化元甲子 長崎奉行成瀬因幡守、支那ヨリ毛氈職工弐名並綿羊数頭[頭数
         未詳]渡来セシメ、浦上村ニ於テ飼養セシム(「農務顛末)
1808   五戊辰 幕府、多摩郡下4村に綿羊牡牝一対に飼育手引きを付けて下げ
         渡すと布令す(平野)
1809   六己巳 八月二十八日、渋江長伯、薬園見分と採集のため、弟子、下吏
         十四名と甲府へ向かう。十一月江戸帰着。

         幕府にショメール『日用百科事典』購入を進言、阿蘭陀通辞馬
         場佐十郎に翻訳をさせて、その中の西洋硝子工法で器を製作
         し、それを将軍に献上す。

         渋江長庵(長伯孫・元亮)生れる。
1811   八辛未 二月、幕府が武蔵国葛飾郡で綿羊飼育希望者を募る(宇田川高
         太郎家文書)多摩郡下4村では綿羊飼育希望者なしと報告した
         (平野)
         三月、倉敷でも綿羊飼育希望者を募る(倉敷市史)
         五月、幕府は医学館に四谷薬園の返還を命じ、代わりに番町の
         火除地約二七○○坪を薬園として貸与。隣接して、渋江長伯の
         樹木植場も設置され、ともに安政六年まで存続。

1812   九壬申 八月、武蔵国葛飾郡で名主を通じて綿羊飼育希望者の再募集を
         した(宇田川高太郎家文書)
1813   十癸酉 奥御医師・在勤七年。息子長順(伯順)父の補佐として奥詰医
         師を命せられる。

1814   十一甲戌 九月、山縣豊寛が「明良帯録」に田村元雄と渋江長伯の紹介記
         事を書く(「明良帯録」)
1815   十二乙亥 冬、馬場貞由、大槻茂資による翻訳書「綿羊訳説」脱稿(「綿
         羊訳説」)
1817   十四丁丑 長伯の建言により綿羊を清国から輸入させ江戸巣鴨薬園で飼
         育。ついに三百頭余りとなり、年々剪毛し、浜の御薬園に於て
         絨布を織らせた。また将軍に献上。「製氈図考」はこれに関連
         した著作。

         「文化年間此頃幕府ニ於テ奥詰医渋江長伯ノ建白ニ因リ長崎奉
         行ニ命シ綿羊若干頭ヲ支那ニ求メ長伯ヲシテ之ヲ江戸巣鴨ノ薬
         園内ニ牧養セシム(栗本鋤雲手記)」(大日本農政類編)
         「幕府奥詰医渋江長伯ノ建白ニヨリ長崎奉行ニ命シ綿羊ヲ支那
         ニ求メ長伯ヲシテ之ヲ江戸巣鴨ノ薬園内ニ牧養セシム後蕃息シ
         テ三百余頭ニ及ヒ年々二次剪毛シ浜ノ薬園ニ於テ絨布ヲ織ラシ
         ムト云フ(栗本鋤雲手記)」(日本物産年表)
1818 文政元戊寅 渋江長伯、薩摩藩医曽占春の弟子(二人)に羊毛を羅紗に織る
         手法を教えた。

1820   三庚辰 五月二十八日、一橋治済、幕府より綿羊二疋賜はる(新稿一橋
         徳川家記)
1821   四辛巳 七月二十八日、金沢藩、幕府より綿羊を拝領す(加賀藩史料)
1822   五壬午 喜多村哲三(栗本瑞見)生まれる(栗本鋤雲先生自伝 )
1823   六癸未 佐藤信淵が「混同秘策」に「今江戸ニテ飼フ所ノ綿羊ハ癩綿羊
         ニテ用ニ立ス蕃人ニ欺レタルナリ」と書いた(混同秘策)
1824   七甲申 玄孫元順(長渓)生れる。長庵の長男。
         「伊豆大島羊多シ山中ニ群ヲ為ス(伊豆海島風土記)」(日本
         物産年表)
         巣鴨の大火で巣鴨薬園の綿羊弐百頭餘焼死(大日本産業事跡)
1826   九丙戌 十一月二日、金沢藩、諸郡に綿羊飼育を希望する者あらば、之
         を下附せらるべきことを告ぐ(加賀藩史料 )
1829   十二己丑 金沢藩、綿羊の飼育現在数を調査す(加賀藩史料)
   文政年間  黒羽藩主大関土佐守、羅紗紡織を発明し綿羊数頭を飼い藩士が
         紡織に従事した(大日本産業事蹟)
1830 天保元庚寅 渋江長伯、四月十九日没、年七十一歳。
1832   三壬辰 八月、幕府、綿羊下附を命じる(日本財政経済史料)
         綿羊ヲ衆庶ニ頒賜シテ之ヲ豢養セシム(大政紀要)
         九月五日、金沢藩、幕府の飼養する綿羊を交付せらるべきこと
         を告ぐ (加賀藩史料 )
         九月六日、巣鴨綿羊小屋で望む者へ綿羊革を渡すとの御目付触
         が出た(柳營日次記)
1834   五甲午 先代の栗本瑞見、四月十九日没、年七十一歳(日本大科学者
         物語)
1838   九戊戌 九月八日、金沢藩、幕府からの綿羊を越中屋紋次郎に飼育せし
         む(加賀藩史料)
1844 弘化元甲辰 「津和野ニ於テ羊ヲ養ヒ絨布ヲ試織ス(日本羊牧事跡考)」
         (大日本物産年表)
         津和野の亀井隠岐守、巣鴨から四頭取り寄せ三十頭まで増や
         し絨布製造を試みた(本邦牧羊事跡考)
1850 嘉永三庚戌 栗本瑞見、内班侍医として製薬局に勤務(栗本鋤雲先生自伝)
1853   六癸丑 五月十日、ペリー艦隊、小笠原・弟島へ綿羊と山羊を放す
         (ペリー日本遠征随行記)
         「肥前ノ領主鍋島閑叟佐賀ニ羊ヲ試養ス奥州南部ノ美濃代藩
         士モ藩地ニ羊ヲ養フ(日本物産年表)」
1854   七甲寅 三月二十七日、ペリー提督、ポーハタン号に幕府外交団招き
         大宴会を開いて羊肉料理も出す(ペリー提督日本遠征記)
1854 安政元甲寅 六月、箱館奉行を再置、竹内下野守を任命(函館市史)
         「幕府ニ於テ箱館奉行ノ請ニヨリ綿羊凡ソ四十頭ヲ箱館地蔵町
         ノ倉 地に試養セシム。医官栗本瑞見之ヲ管理ス。
(栗本鋤雲手
         記)」(大日本農政史、大日本農政類編)
         「幕府綿羊ヲ箱館ニ試養セシム医官栗本瑞見之ヲ管理ス(日本
         羊牧事跡)」(大日本物産年表)
1855   二乙卯 三月、箱館が正式に開港(函館区史)
1856   三丙辰 巣鴨薬園が「渋江元亮御預薬園」と地図に残る(府内場末其外
         往還沿革圖書=平野恵)
         八月二十五日、大火で巣鴨の綿羊は全頭焼死(田中芳男説)
1857   四丁巳 四月五日、米国貿易事務官ライス着任(函館区史)
         五月二十五日、箱館奉行所が通訳名村五八郎に命じて米国官吏
         ライスに綿羊飼育法を尋ねる
(函館区史)
         五月二十七日、箱館に初めて江戸からの綿羊十頭を陸揚げして
         四頭は庭に飼い置く
(村垣公務日記)
         九月、幕府、巣鴨薬園地を福井藩に下賜する(平野)
         十一月二十五日、巣鴨薬園廃止決まる(村垣公務日記)
         奥尻島へ羊に似たメンヨウを放す(後藤藤吉・蝦夷日記)
         長崎奉行荒尾石見守、亜米利加人某[姓名不詳]へ嘱托シテ綿
         羊[産地不詳]百余頭ヲ購入シ飼養セシム(農務顛末)
1858 安政五戊午 一月、幕府は渋江元亮が巣鴨で飼う綿羊約90頭を箱館奉行へ
         送ると決める
(村垣公務日記)
         六月、栗本瑞見が着任(栗本鋤雲先生自伝)
         十一月十四日、長崎奉行が綿羊飼養希望者調べを命じる(長
         崎奉行達書)
         十二月七日、長崎奉行が代官高木作右衛門へ綿羊三十五頭を
         下げ渡し畜羊規則も通達す(長崎奉行達書)
1859   六己未 一月、長崎より綿羊七頭を佐賀城下に移し飼養す(本邦牧羊
         事蹟考)
         三月十三日、長崎代官高木作右衛門へ綿羊九頭の唐鳥小屋移
         動を長崎奉行に報告(長崎代官高木作右衛門上申書)
         福井藩下屋敷になった巣鴨薬園に三、四頭残存(松平文庫)
         六月、長崎代官高木作右衛門、長崎奉行へ綿羊三十七頭返上
         申し出る(長崎代官高木作右衛門上申書)
         六月二日、箱館開港で米国船と初貿易。積み荷の綿羊陸上げ
         でトラブル起こす
(函館市史)
         七月、箱館奉行、牛豕羊飼養と薬園業務の報酬として栗本瑞
         見に盆暮に銀七枚支給を伺う
(村垣公務日記)
         十月二十六日、箱館奉行、民間人による外国人への牛売却を
         許す(松前箱館雑記)
         箱館奉行から外国奉行への物価割掛取調書に綿羊壱疋代大銀
         銭四枚より七枚迄、生牛同拾八枚から弐拾五枚迄と記す
(箱
         館奉行所文書)
         山口藩士中島治平、長崎奉行所に綿羊蕃殖法や羅紗織り方な
         どの洋書を調べ訳述した(中島聿徳事蹟提要)
1860 万延元庚申 一月十二日、箱館奉行は牛豚羊飼養は民間に委託し栗本瑞見
         は薬園などを扱うよう分ける
(箱館奉行所文書)
         五月十三日、蝦夷地勤務を終えた南部藩士上山半右衛門が箱
         館奉行所より買った綿羊二頭を連れ盛岡に戻る
(上山守古日
         記、本邦牧羊事蹟考)
         十月、元瑞見屋敷内の綿羊小屋払い下げを望む綿羊飼立人2
         人へ売却
(箱館奉行所文書)
         綿羊飼立場を記入した「官許 箱館全図」できる(山崎英菴)
1862 文久二壬戌 栗本瑞見、特命で箱舘奉行支配組頭になる(栗本鋤雲先生自
         伝 )
1863   三癸亥 十二月、栗本瑞見、江戸に戻り昌平校頭となる(栗本鋤雲先
         生自伝)
         南岩手郡で上山が移入した綿羊の子孫五頭を飼育(本邦牧羊
         事蹟考)
1867 慶応三丁卯 三月、石川桜所ら奥医師3人が幕府に牛羊牧養建白書を提出
         (「畜産」4巻2号)
1871 明治四辛未 在米民部権少丞細川潤次郎該国ノ菓苗穀菜種及農具ヲ本邦ニ
         送致ス(大日本農史)
1872   五壬申 在米勧農助由良守応等ヨリ送致セル緬羊ヲ官邸ニ畜養ス(大
         日本農史)
1873   六癸酉 大蔵省員岩山壮太郎米穀ヨリ綿羊数十頭及英米両国ノ農具、
         穀菜牧草種子ヲ携ヘテ帰ル(大日本農史)
         租税寮広告シ綿羊ノ良種ヲ得ント欲スル者ハ牝羊ヲ試験場ニ
         牽致シテ孳尾セシム開拓使ニ於テモ牛馬羊豚ノ牝ヲ官園ニ牽
         致シテ孳尾セシム(大日本農史)
1874   七甲戌 内務省、植物試験場を東京三田四国町に設け洋種牛馬羊の種
         畜を貸与することを拡張す(大日本農史)
1875   八乙亥 勧業寮員武田昌次等ヲ清国ニ遣シ農産物ヲ調査シ兼テ羊、驢
         及穀菜菓樹ヲ購入セシム(大日本農史)
         内務省米人ジヨンスニ託シ牝簿ヲ購入ス又下総ニ牧羊場ヲ開
         キ勧業権助岩山敬義ヲシテ事務ヲ管督シジヨンスニ現業ヲ担
         当セシム又牧羊生徒ヲ募集ス(大日本農史)
1876   九丙子 開拓使札幌学校ヲ札幌農学校ト改称ス又牧牛場ヲ札幌郡真駒
         内ニ開キ牛種ノ改良蕃殖ヲ図ル後種畜場ト改称シ牛馬羊豚ヲ
         併セ畜養ス(大日本農史)
         勧業寮員清国ヨリ蒙古羊、上海羊、山羊等千二百餘頭ヲ牽キ
         帰ル(大日本農史)
1878   十一戊寅 濠州ノ羊一千五百餘頭ヲ下総牧羊場ニ移ス(大日本農史)
1881   十四辛巳 鹿児島県士牧三十郎等緬羊ヲ大隅馬毛島ニ試牧ス(大日
         本農史)
         牧羊手引草又甲州葡萄栽培法印行(大日本農史)
1883   十六癸未 十二月、大政紀要を発行(宮内省)
1885   十八乙酉 一月二十五日、元農商務省職員加藤懋が「本邦牧羊事蹟考」
         を書き終えた。その中で加藤が栗本鋤雲に幕府の綿羊事業を尋
         ねたところ「口述ニ換ル」と加藤に「綿羊ヲ江戸ニテ飼タル初
         ハ[文化ノ末カ文政ノ初メ]奥詰医師渋江長伯ノ建白ニ因リ長崎
         奉行ニ命アリ唐国ヨリ呼ヒ取レリ[頭数未詳]」などと書いた一
         文を手渡されたとある(本邦牧羊事蹟考)
1890   二十三庚寅 日本大家論集(栗本鋤雲自伝)」発行
1891   二十四辛卯 農商務省編「大日本農史」発行
         大林「大日本産業事蹟」発行
1897   三十丁酉 栗本鋤雲没
         織田「大日本農政類編」発行
1901   三十四辛丑 田中「日本物産年表」発行
1908   四十二己酉 白井「日本博物学年表」発行
1912   四十五壬子 小谷「羊と山羊」発行
2006 平成十八丙戌 山崎「渋江長伯集 資料編」発行

   ☆綿羊飼養関連年表の出典概要(出現順)

○山崎栄作編「渋江長伯集 徳川幕府奥御医師 資料編」、平成18年、山崎栄作
○東京大学史料編纂所編「大日本古記録 梅津政景日記」、昭和30年、岩波書店
○妻木頼矩編「大政紀要上編・第五十四巻・商業」、明治16年、太政官
○田中芳男著「日本物産年表」、明治34年、十文字商会
○樋口弘著「本邦糖業史」、昭和10年3月、ダイヤモンド社
○土井康弘著「本草学者 平賀源内」、平成20年
○平野満著「渋江長伯の本草学研究 ―物産学の視点から―」、「明治大学人文科学研究所紀要第75冊」より、平成26年、明治大学
○草野冴子、藤田覚校訂「史料纂集 田村藍水・西湖公用日記」、平成26年、八木書店古書出版部
○佐藤成裕述「薩州産物録」写本、寛政4年、国会図書館所蔵本
○「宝暦現來集巻之二」、国書刊行会編「世風俗見聞集 第三」より、大正2年、国書刊行会
○松岡辰方著「守嚢」、不明、国会図書館所蔵本
○農商務省農務局編纂課編「農務顛末」4巻、昭和30年、農林省
○樋口政則著「綿羊の飼養をすすめし事」、「歴史手帖」11巻1号より、昭和58、名著出版
○船津喜助、大村進、原初男編集・校訂「日光御成道鳩ケ谷宿本陣 船戸家文書」、昭和52年、船津喜助
○永山卯三郎編「倉敷市史 第四冊」96ページ、昭和48年7月、名著出版
○山縣豊寛著「明良帯録」、「史籍集覧 第十一冊」より、明治39年、近藤出版部
○馬場貞由、大槻茂質訳「綿羊訳説」、「中国・和蘭羊毛技術導入関係資料」より、昭和62年、関西大学東西学術研究所
○辻達也編「新稿一橋徳川家記」、昭和58年、徳川宗敬
○「加賀藩史料」、「幕末外国関係文書之二十二」及び同「二十四」より、昭和28年、東京大学出版会
○「栗本鋤雲先生自伝」、「日本大家論集」2巻4号、明治23年、博文館
○佐藤信淵著、織田完之訂「混同秘策」、明治21年、穴山篤太郎
○樋口秀雄校訂「伊豆海島風土記」、昭和49年、緑地社
○大林雄也編「大日本産業事蹟」下巻、明治24年、目黒十郎
○大蔵省編「日本財政経済史料」3巻、大正11年、財政経済学会
○「柳營日次記」、「東京市史稿 市街篇第37巻」より、昭和16年、東京市役所
○S.ウィリアムズ著、洞富雄訳「ペリー日本遠征随行記」、昭和45年、雄松堂書店
○米国海軍省編、大羽綾子訳「ペリー提督日本遠征記」、昭和28年、法政大学出版局
○「函館市史 通説編第1巻」、昭和55年、函館市
○「函館区史」、明治44年、函館区
○平野恵著「岩崎灌園『古今要覧稿』の彩色図 後編」、「園芸世界」より、平成28年、改良社通信販売部
○田中芳男説、福井県文書館編「福井県文書館研究紀要7」、柳沢芙美子著「福井藩巣鴨下屋敷のリンゴをめぐって」より、平成22年、福井県文書館
○「村垣公務日記」、村垣淡路守著「公務日記」12巻、安政5年、村垣与三郎
○後藤藤吉著「蝦夷日記」、岩手県文化財愛護協会編「蝦夷日記 : 読み下し文」、平成16年、岩手県文化財愛護協会
○「長崎奉行達書」と「長崎代官高木作右衛門上申書」、「幕末外国関係文書之二十二」、昭和60年、東京大学出版会
○「松前箱館雑記」、「幕末外國關係文書之二十九」、 昭和61年、東京大学出版会
○安藤紀一著「中島聿徳事蹟提要」、昭和3年、中島義三
○箱館奉行所文書、「元栗本端見屋敷内ノ綿羊小屋払下ノ件」、万延元年、箱館奉行所
○上山守古著「上山半右衛門日記」写本、昭和12年、西山猛
○農商務省農務局編「大日本農史」、明治24年、博文館
○中央畜産会編「畜産」4巻2号20ページ、佐藤清明「我国畜産業発展の動機は如何」、大正7年2月、中央畜産会

 この年表にある明治になってから発行された本で、最も早く「栗本鋤雲手記」を出典にしたのは明治24年に出た「大日本農史 中世・近世」です。「栗本鋤雲自伝」がその7年前に出ていますが、手記は勿論、綿羊のことは何も触れていません。「大日本農史」は安政元年の綿羊40頭飼養の出典に「栗本鋤雲手記」が1件だけあるのに「本邦牧羊事蹟考」は入っていません。だから単行本かと思えば、資料その2(3)のように[栗本鋤雲手記]と明記している小谷武治著「羊と山羊」は、綿羊関係で邦文の本35冊と報告4編、英文独文の本と論文41件を挙げているのに「本邦牧羊事蹟考」と「栗本鋤雲手記」はどっちも入っていない。おかしいでしょう。
 この正体不明の「栗本鋤雲手記」を突き止めるため、これに基づいて書いたとしている箇所を抜き出し、加藤が受け取ったという一文と比較してみました。ほとんど同じなら「鋤雲手記」は「本邦牧羊事蹟考」が伝える栗本の書き物そのものと認定してもいいと思いませんか。
 その準備として「大日本農史」の「栗本鋤雲手記」に基づいて書いた項目を次の資料その7(1)にしました。また同じように「日本物産年表」も資料その4の綿羊飼養関連年表の資料の安政元年の項と資料その2(2)を合わせて資料その5(2)しました。「羊と山羊」は資料その2(3)そのものです。

資料その7

(1)
<文化ノ末年のページ>此頃幕府ニ於テ奥詰医渋江長伯ノ建白ニ因リ長崎奉行ニ命シ綿羊若干頭ヲ支那ニ求メ長伯ヲシテ之ヲ江戸巣鴨ノ薬園内ニ牧養セシム[栗本/鋤雲/手記]
 長伯ハ番町堀端火除地ヲ始メ處々ニ薬園ヲ開キ薬草植付等ヲ司リ居タルニヨリ其ノ一箇 所ナル巣鴨ノ薬園ヲ以テ牧羊地ト為ス後年漸次蕃殖シテ三百餘頭ニ至リ年々二次毛ヲ剪 テ官ニ納メ官之ヲ濱ノ薬園内ニアル織殿ニ下シ絨布ヲ織ラシメタリト云フ
(農商務省農務局纂訂「大日本農史 中世・近世」405ページ、明治24年7月、博文館=国会図書館デジタル本、編集者は田中芳男、織田完之、溝口傳三、黒川真ョ、)


<安政元年のページ>同年幕府ニ於テ箱館奉行ノ請ニヨリ綿羊凡ソ四十頭ヲ箱館地蔵町ノ倉地ニ試養セシム医官栗本瑞見之ヲ管理ス[栗本鋤/雲手記](同453ページ、同、)


(2)
幕府奥詰医渋江長伯ノ建白ニヨリ長崎奉行ニ命シ綿羊ヲ支那ニ求メ長伯ヲシテ之ヲ江戸巣鴨ノ薬園内ニ牧養セシム後蕃息シテ三百余頭ニ及ヒ年々二次剪毛シ浜ノ薬園ニ於テ絨布ヲ織ラシムト云フ
幕府綿羊ヲ箱館ニ試養セシム医官栗本瑞見之ヲ管理ス

 これで「本邦牧羊事蹟考」にある栗本瑞見が加藤懋に書いて渡したという文書と「大日本農史」と「日本物産年表」と「羊と山羊」の中で「栗本鋤雲手記」に基づく記事がそろいました。明治30年に出た「大日本農政類編」は「大日本農史」の編集にも携わった織田完之が事実上、編集した本であり、凡例で「引書ハ大日本農史ト同キモノ多シ(10)」と断っている通り、ほぼ同文なので省きました。
 ただ年月日の書き方が違うので、そこだけは削除して「本邦牧羊事蹟考」は@、「大日本農政類編」はA、「日本物産年表」はB、「羊と山羊」はCとして、短く8つに切り分けて比べてみたのが資料その8です。
 点線は、該当する記述がないことを示しています。単語の位置とか、助詞が同じか否かというようなことを数値にして検定すれば、より確かになりましょうが(C)は加藤が栗本の寄越した通りなので唐国だけど、支那からということで一致します。(G)は冗長にならぬよう年表のBは勿論AとCも削った。このように並べただけでも(D)と(G)以外は@とAがとても似ていること、AとCが同じといっていいくらい似た文であることがわかりますね。

資料その8

(A)
@奥詰医師渋江長伯ノ建白ニ因リ
A幕府ニ於テ奥詰医渋江長伯ノ建白ニ因リ
B幕府奥詰医渋江長伯ノ建白ニヨリ
C幕府に於て奥詰医師渋江長伯の建白により


(B)
@長崎奉行ニ命アリ
A長崎奉行ニ命シ
B長崎奉行ニ命シ
C長崎奉行に命じ


(C)
@唐国ヨリ呼ヒ取レリ
A綿羊若干頭ヲ支那ニ求メ
B綿羊ヲ支那ニ求メ
C綿羊若干頭を支那に求め、


(D)
@………
A長伯ヲシテ之ヲ江戸巣鴨ノ薬園内ニ牧養セシム
B長伯ヲシテ之ヲ江戸巣鴨ノ薬園内ニ牧養セシム
C長伯をして江戸巣鴨の薬園に牧養せしむ。


(E)
@長伯ハ番町堀端火除地ヲ始所々ニ薬園ヲ開キ薬草植付等ヲ司リ居タルニ因リ其一ケ所ナル巣鴨三丁目ノ一区ヲ以テ綿羊牧養ノ地ト定メ
A長伯ハ番町堀端火除地ヲ始メ處々ニ薬園ヲ開キ薬草植付等ヲ司リ居タルニヨリ其ノ一箇所ナル巣鴨ノ薬園ヲ以テ牧羊地ト為ス
B………
C長伯の番町堀端火除地を始め處々に薬園を開き薬草植附等を司り居りたるにより、其一個處なる巣鴨薬園を以て牧羊地となし、


(F)
@後年追々蕃殖シテ三百餘頭ニ至リ年々二次毛ヲ剪リテ官ニ納レ官之ヲ濱ノ薬園中ニ在ル織殿ニ下シ絨布ヲ織ラシメタリ
A後年漸次蕃殖シテ三百餘頭ニ至リ年々二次毛ヲ剪テ官ニ納メ官之ヲ濱ノ薬園内ニアル織殿ニ下シ絨布ヲ織ラシメタリト云フ
B後蕃息シテ三百余頭ニ及ヒ年々二次剪毛シ浜ノ薬園ニ於テ絨布ヲ織ラシムト云フ
C後年漸次蕃殖して三百餘頭に至り、年々二次毛を剪りて官に納め官之を濱の薬園内にある織殿に下し、絨布を織らしめたりと云ふ。


(G)
@然ルニ其品下劣ニシテ多ク用ヲ為サス故ニ得ル所損スル所ヲ償フニ足ラザルヲ以テ其事止メタリ十二代将軍ノ時ニ至リ其無用タルヲ知ルト雖モ先世ノ養フ所タルヲ以テ猶ホ之ヲ養ヒ置タルカ
A………
B………
C………


(H)
@箱舘奉行ノ請ニヨリ賜リテ北地ニ養ハシム是ヨリ後在住医師栗本瑞見奉行ノ旨ヲ受テ箱館地蔵町ノ倉地ニ養ヘリ時ニ其数漸ク四十頭計アリシ
A幕府ニ於テ箱館奉行ノ請ニヨリ綿羊凡ソ四十頭ヲ箱館地蔵町ノ倉地に試養セシム医官栗本瑞見之ヲ管理ス
B幕府綿羊ヲ箱館ニ試養セシム医官栗本瑞見之ヲ管理ス
C幕府に於て箱舘奉行の請により綿羊凡そ四十頭を箱舘地蔵町の倉地に試養せしむ医官栗本瑞見之を管理す。


@は栗本が加藤に手渡したという説明文。
Aは「大日本農史」
Bは「日本物産年表」
Cは「羊と山羊」

 出版順からすると資料その6でAにした「大日本農史」が一番早い。編集した織田完之らは「本邦牧羊事蹟考」の原稿にある「綿羊ヲ江戸ニテ飼タル初ハ[文化ノ末カ文政ノ初メ]」と「安政年間箱舘奉行ノ請ニヨリ賜リテ北地ニ養ハシム」を読み、文政の「初め」プラス文政・安政のダブル・セイでね、ついつい安政元年甲寅の項に「同年幕府ニ於テ箱館奉行ノ請ニヨリ綿羊凡ソ四十頭ヲ箱館地蔵町ノ倉地に試養セシム(11)」と書いたと考えられる。それが安政元年到着説の始まりで、それをBとCが引用したため広がって安政元年説が固まったんですな。またCよりちょっと前に出た白井光太郎の「日本博物学年表」は渋江長伯による綿羊増殖と羅紗製造はないけれど、42年版では「日本物産年表」を引用しています。これらの鵜呑み引用は、洋種綿羊の明治2年細川少議官輸入説と同じ。毎度やってくれます、はっはっは。
 それから「大日本産業事蹟」も明治24年発行だから入れ忘れたと思うでしょうが、どっこい忘れてないね。この本は鋤雲手記とちょっと毛色が違うので、資料その9に分けたのです。

資料その9

文化より安政に亘り幕府の医官に渋江長伯と云ふ者あり本草学を善くし薬園の管理たり曾て毛織の業を拡充するの国家に裨益あるを思ひ製氈図考一巻を著し又蘭商に托して綿羊を購入し諸薬園にて畜養し大に滋蕃す因て濱殿内の織殿吹上の織殿に於て頻りに羅氈、羅紗、呉絽服等を試織す現に将軍の火事羽織等を作れり文政七年巣鴨に火あり薬園の牧舎に及んで羊弐百餘頭を焼殺す(此園を呼て綿羊屋舗と云へり)然れども尚小石川等の薬園に飼育せるものを以て織るも終に好結果を得ず後安政年間残羊を蝦夷に移して止む」
(大林雄也編「大日本産業事蹟」下巻150ページ、明治24年10月、目黒十郎=国会図書館デジタル本、)

 私は資料その7の文章から、編集者大林が綿羊・羊毛を「牧畜家禽」ではなく「織物」という章にまとめようとして「本邦牧羊事蹟考」だけでなく、広く文献を探したことを感じます。「国家に裨益あるを思ひ」は綿羊関連年表の文化8年の綿羊飼育希望者を募るお触れの「御国益にも相成る」という言い方ですし「浜ノ薬園」だけでなく「吹上の織殿」も入れたのは、これから説明する「明良帯録」からでしょう。さらに巣鴨薬園を「綿羊屋舗と云へり」は安政六年に出た「絵図」に基づくようなので、この後でそれぞれ取り上げます。
  

参考文献
上記(9)の出典は加藤懋述「本邦牧羊事蹟考」写し原稿3枚目、明治初年、発行者不明=原本、 (10)は農商務省農務局纂訂「大日本農政類編」凡例2ページ、明治30年5月、農商務省=国会図書館インターネット本、 (11)は農商務省農務局編「大日本農史 中世・近世」453ページ、明治24年7月、博文館

 さて「文化ノ末カ文政ノ初メ」渋江長伯が我が國でも綿羊を飼って羅紗を作りましょうと幕府に建白、えらい人に提案したかも知れないが、長伯が生まれる30年も前に江戸城内に綿羊牧場があったと樋口弘著「日本糖業史」に書いてあるんですなあ。その綿羊飼立場という名前を含む箇所を資料その10(1)に引用しました。樋口さんは昭和31年にも「本邦糖業史」を出していますが、その74ページにも、ほぼ同文が載っています。
 吹上、吉宗などをキーワードにして検索したらウィキペディアの「吹上奉行」が出たので、読んだら「吹上織殿之者(ふきあげおりどののもの)」があり資料その10(2)のように書いてあり、その参考文献[1]は「明良帯録」となっている。現場主義ですからね国会図書館にこの本を当たりました。

資料その10

(1)
 安崎安貞のこの理想はその後三十年を経た享保十一年頃(一七二六年)徳川八代將軍吉宗により實現されてゐる。直川智の大島の黒砂糖製造の創始に遅れる事、百十餘年である。吉宗将軍は殖産興業に努め、吹上御苑の苑内にも茶亭を毀ちてこゝに學問所の他繪所、天文所、鞠場、薬草製所、酒造所、菓子製所、穀物取集場、綿羊飼立場の類を置いてゐる。
 吉宗はその抱懐せる殖産興業の一部として、砂糖輸入による正貨流出を憂ひて、内国砂糖業の確立に着手したものである。將軍吉宗の蔗作、製糖の奨励の實際は自ら製糖の事に當つた小姓磯野丹波守政武の「仰高録」及び「有徳院御実記」等に記述されてゐる。


(2)
吹上織殿之者(ふきあげおりどののもの)
吹上御庭の織殿で将軍家御用の衣類を織る役目を負った者。若年寄支配で、御目見以下の3人扶持。『天保年間諸役大概順』では1人が役金5両、2人は役金3両とある。また、『吏徴』では定員10名、役金は15両が1人、3両が1人、見習いは2人扶持となっている。江戸三番町と飯田町[5]、巣鴨[6]にある御用屋敷に出向いて、綿羊の毛を刈って和羅紗を織ったとされる[1]。羊毛が採取できない時期には、犬の柔毛を用いる場合もあったという。

 すぐ読めるのは国会図書館が保護期間満了でインターネットで公開している本、私の参考文献では国会図書館インターネット本とか国会図書館デジタル本としている本です。いずれ本にでもするときに統一します。その「明良帯録」はだ、近藤瓶城編「史籍集覧 第11冊」(12)にあり、内容は幕府における指揮系統図と各ポストの任務解説で、医師と綿羊関係と庭園の職務の中に渋江長伯と田村元雄のことが書いてあるんです。
 資料その11(1)がそれですが、これだと長伯は単なる薬園拡張係なのに対して田村元雄は朝鮮人参による薬製造のほかに、綿羊を江戸に連れてきて吹上御苑で羅紗を織る仕事も受け持っていて「鋤雲手記」の渋江長伯に近い。栗本は2人の業績を混同したことも考えられます。この「史籍集覧」は何冊もの本を集め、1冊ごとに1からページ番号を振っており、通しのページ番号がない。私が数えたところ「明良帯録」は通しでは592ページからに収められいます。
 「明良帯録」の118ページ、通しでは710ぺージに吹上御庭内にある役所一覧があり、そこに綿羊飼立場が挙げられているので同(2)にしました。樋口さんは吹上砂糖製法役所を探したとき、この本を見つけたと思いますね。

資料その11

(1)
  吹上奉行 二百俵高 御役料七人扶持 焼
       若支
吹上御庭の事一切に關る御庭向御花壇築山泉水植込刈込手入の指揮御茶屋向一切添奉行より昇る是ハ若年寄御支配也此場ハ大切の勤なり
  濱御殿奉行 二百俵高御手当銀七枚 焼
        若支
吹上同様にて濱御庭向其外之事を世話役諸下役ハ御目付支配也近比豊島左兵衛濱御庭向等手入骨折相勤に付御褒美有り(「明良帯録」内53ページ)
      <略>

  渋江長伯 田村元雄
長伯ハ本草家にて普く藥性を辨したれハ和藥種植付之場處を拝借被仰付明地々々にて土地相応の藥草を植て諸採薬の御用を勤む元雄ハ和人参を製法せらる家にて小普請勤仕並にて三十人扶持被下宝暦十三年に被仰付朝鮮種人参の製法也綿羊をも齎らせ来て和羅紗を製せり今吹上御庭に有り織殿出役等も有り
   人参ハ人の形ちの如くなるをよしとす七八年の後其種類によりて形をなす偏身人
  参といふハ片手片足枝のさきたるあり二股を下品とす朝鮮の上党人参と云ハ偏身
  なり(同86ページ)
      <略>

  本草家手附
渋江長伯藥草製法等所々明地開発なし藥草植付場日本国中新田開発之中手附諸向より出
  在勤方
右同断藥草播種として国々新田荒丘等を墾して夫々心得諸事長伯夫々の指揮によりて手附是を勤む(同106ページ)
      <略>

  織殿方出役
小普請より出役有り三番町飯田町巣鴨御用屋敷羅紗緬を織る吹上織殿来営し綿羊を採て和羅紗を織なり綿羊の毛を刈て織込尤其外期節によりて綿羊の毛刈られぬ時は當歳の犬毛其外何にても柔毛を加へて織る狂歌に
   和羅紗たる吾■(朝)ものに似せなんと穢多か毛むしる犬ころそ憂し(同107ページ)
      <略>

  濱御庭新織殿方   出役十人程有之
  同所御藏新籾摺所  出役見廻り八人有之
  諸國銅山改方出役  渋江長伯手附
  本所御蔵(船)番所脇石揚手先世話人
御給金八両九人扶持御材木石奉行手附二人退役小普請より出役三人
  植村左兵太   同封之助 御役料七人扶持
駒場野御藥園にて諸御用向を勤めし處諸國採薬御用として巡國致し國産土毛品物を採り来り採藥記五巻を著して献す當時御両番格(同108ページ)


(2)
  吹上御庭内諸役所
  御鳥固方 羅紗緬掛  綿羊飼立場 御花畑御花壇方 御学問所 御茶屋向
  天文所  藥草製法所 御矢場   御菓子製所   御鞠場  穀物取集場
  御馬場  御水屋   御涼所   御酒造所    砂糖製所 火術所
  揚火製所 御鷹部屋 右何れも掛り/\あり(同118ページ)

 いいですか「明良帯録」の自序に「文化十有一年秋九月/武江神田隠居 蜻洲無学山人題」(13)とあるから、享保の末年から79年後に書いたことになる。文化11年ごろ吹上御庭に綿羊飼立場があり、何頭か綿羊がいたにせよ、80年近くも飼い続けたとはいい切れませんよね。
 近藤本は明治34年に初版を出し、デジタル本は同39年の再版で「今再版に望み東京帝国図書館本を以て一校を加へたり」とあるので帝国図書館イコール国会図書館とみて、古典籍資料室の和綴じ本7冊を読ませてもらいました。するとだね、吹上御庭内諸役所は同じだったが、さわりというべき渋江長伯田村元雄の項と織殿方出役の項が少し違っていた。
 ほかに国立公文書館と早稲田大学図書館の「明良帯録」がインターネットで読めるので、手書きの両書を読んでみたら、近藤本の狂歌は「犬ころそ憂し」ですが、この両書は「犬ころ寒し」です。それにしても羊毛が足りないとき犬の毛を足しても、硬くてうまく混じらないと思うんだが、本当にやったんでしょうか。それから早稻田本では吹上御庭内諸役所のリストが見当たらないほかは、ほぼ同文です。
 国会図書館の古典籍資料室でね、国立公文書館の本は旧蔵者が昌平坂学問所だから、精度が高いと聞きました。つまり前の持ち主が幕府設立の学校だったから最も信用できるというんですね。近藤本とそれら3件で資料その8と同じように細切れ比較はできますが、ジンパ学としてやるべきことは綿羊飼立場と織殿調べですからね。
 本を探したら横井時冬著「園芸考」が見つかったので、吹上御庭のところを資料その12にしました。歴代将軍の尊称が並びますが、常憲公は徳川綱吉、以下徳川を略すが、文昭公は家宣、有章公は家継、有徳公は吉宗、惇信公は家重、文恭公は家斉です。「有徳公の入て嗣くに及ひ」は享保元年、紀州藩主だった吉宗が8代将軍に就任したことを指します。だから綿羊飼養場と織殿を吹上御庭内に作ったのは享保元年以降ということなります。

資料その12

<略>元禄宝永の間、常憲公の新に此の丸に一殿を構造して世を避るの志あるや、吹上門の外及ひ半蔵門と、竹橋との間なる多くの邸宅を外に移し、其地を三部に分ち、塁を築き濠を環らしたり、然るにこの公薨してやむ、文昭公の代て立つや、新殿の工事は全く停められたれとも、其地は遂に一大苑となり、更に押し廣めて、此は城垣の下、東は北詰橋の外に至れり、松平大和守基知稲葉丹後守正往等其工を助く、紅葉茶屋、瀧見茶屋、田舎茶屋、松の茶屋、地主山亭、清観音堂、瀧の宮、元馬場等は皆この時に成り、吹上花畑奉行も始て置れたりと云ふ、然るに有徳公の入て嗣くに及ひ、茶亭中華麗なるものを毀ち去り、僅に一二小亭を残しゝのみ、
此時新構内に有章公の生母月光院の居館を置き、其外は學問所、繪所、天文所、鞠場、射場、鐵砲所、火術所、染殿、織殿、藥草製所、酒造所、菓子製所、砂糖製所、穀物取集場、綿羊飼養場、の類を設け、桜楓松栗竹甘藷人参茱萸等の草木を植られたり、又惇信公の時に新構茶屋、新構の池、作兵衝瀧、新馬場等の設けあり、其後文恭公の時に及て、益す修造を加へられ、諏訪茶屋、田舎茶屋、並木茶屋、新植木茶屋、薬草畑腰掛、藤棚腰掛、六本樅腰掛、在郷家見合所、等皆この時に成りしものなり、<略>

  

参考文献
上記資料その10(1)の出典は樋口弘著「本邦糖業史」79ぺージ、昭和10年3月、ダイヤモンド社=館内限定デジ本、 同(2)は ウィキペディア(平成28年10月現在) http://the-inte
lligence.site/ja/A/%E5%
90%B9%E4%B8%8A%E5%A5%8
9%E8%A1%8C.html、 (12)と資料その11は近藤瓶城編「史籍集覧 第十一冊」592ページ、蜻洲無学山人「明良帯録」より、明治39年8月、近藤出版部=国会図書館デジタル本、 http://dl.ndl.go.jp/info
:ndljp/pid/1920318、 (13)は同「明良帯録」1ページ、 資料その12は横井時冬著「園芸考」109ページ、明治22年12月、大八洲学会=国会図書館インターネット本

 また昭和3年に出た雑誌「庭園」で工学博士、大熊喜邦が書いた「吹上のお庭」を見つけました。国会議事堂の設計者の1人である大熊は、漢学者の小宮山南梁による「吹上訪古録」と「守嚢」という本のサマリーを書いています。まず小宮山の「吹上訪古録」ですが「明良帯録」など古文書をもとに、名前だけも含めると169カ所について明治10年代の様子を記録した本です。
 大熊の「吹上のお庭」は小宮山の文章をそのま取り込んだところも認められますが「八代將軍吉宗に至り梅腰掛、鳩腰掛、三角矢来物見、花壇馬場、吹水、田地之流、木賊山下流等漸く成りて、泉水に白鴛鴦を飼養し、シヤム国進献の瑇瑁二匹を池中に畜有せり。(14)」など国会図書館の「吹上訪古録」にないことも書いていて、参照した写本が違うらしいのです。
 有職家の松岡辰方が書いた「守嚢」は国会図書館デジタル本にあり、和綴じ3冊の本で「神君御軍配乃図」など絵もたくさん入った47章よりなる本です。その1章である「吹上御庭の濫觴」は今風にいうと4ページに40カ所の由来でね、大熊は34カ所を抜き出している。それでデジタル本を当たったら「織殿」は「寛政七卯年八月新規出来織業之者御抱入此御場所限往/\ハ小普請方御修復ニ相定候」、「御鳥籠下御馬場」は「長九十四間 寛政四子年五月出来」、「薬草畑 御腰掛」は「寛政七卯年出來」(15)とあります。この通りだとすると徳川吉宗の綿羊飼立場を作ってから70年も綿羊を飼い続けて、やっと織殿を作ったことなる。やはり中断があり、寛政年間からまた飼い始め、織殿を新築して機織り職人を雇い、渋江長伯が羅紗の織り方を研究指導したので褒美をもらったとみれば、綿羊関連年表の寛政9年の白銀15枚が説明できます。

資料その13

栗林
 二ノ門外、大路の東にあり熊野栗を栽ふ天保中、名を加ヱて千芭巒と云 [巒名、松岡家記○江戸城内図、此地に薬園あり蓋未た栗樹を種へさる時の事なり有徳実紀に朝鮮人参を吹上庭に種ふとあるは蓋此地にあり]
  
廣芝
 大池の南より丸太門を限り西門に接し、地主山の南柿林の北を以て田地隣る。中間大なる草場あるを以て此称あり
  
鳥籠
 滝見茶屋の背にあり [○明良帯録、更に綿羊飼場を載す所在未考]
  
角觝場
 矢来門の内、十三間門の外に廣場あり将軍、角觝を覧るは此處なり [○按に要筺辨志、角力場は矢来門内、上覧所前、二處互に用ふ又按に明良帯録に鞠場を載せす所在未考]
  
織殿
 上覧所の南に在り常に機杼二具を設く [○文化の頃ハ羅紗を織りしか旧幕の末には袴地の類に過きすと云、又有徳院実紀に吹上苑中に染殿を開くと蓋亦此地に在りと云]

 資料その13は「吹上訪古録」(16)にある綿羊と関係ありと、私がにらむ場所です。広芝と角觝場、角觝はカクテイと読み、力比べみたいなことをいい、それをさせる場所ですね。それを入れた理由はだね、綿羊飼立場は小屋の中で何10頭も飼っていたわけではあるまい。恐らく1桁の頭数で、私の山羊経験から毎朝、首に縄をつけて御庭のあちこちに連れて行き、杭に縄を結んで夕方までその縄の届く範囲内の草を食わせて小屋に連れ帰るようにした。嵐や雨の日、冬は小屋から出さず馬と同じ餌を与えたという前提です。それで草場とも呼ばれた廣芝と普段は人のいない角觝場も関係ありとしたのです。
 では織殿は吹上御庭のどこにあったのか。「古板江戸図集成 別巻」にある「江戸城御吹上総絵図」に「御織殿」があり、解説によると絵図を作成したのは「文化二乙丑二月、御作事方、大棟梁、甲良筑前棟村扣」と記されている(17)そうですが、見開き2ページに収めるためうんと縮めてあり、近くにある門の名前が読めない。都立中央図書館のデジタルライブラリーの「江戸城御吹上総絵図」(18)を拡大してみたら2つの門は十三間御門と矢来御門だった。さらに門の名前を書いた本を探し、小松和博著「江戸城 その歴史と構造」(19)でやっと位置がわかりました。
 小松さんの作った地図を拝借したのが資料その14(1)です。Lが矢来門、Rが十三間門で。ちょっとわかりにくいが、直線上のちょっと太く、点みたいになった位置が門ね。織殿はRの数字の上の正方形の中。同(2)は「江戸城御吹上総絵図」のその個所を拡大した図で、御織殿と読めますね。これを今の地図でいうと、乾門の東側にある乾門警備派出所の辺りですね。今は「北の丸」とある一帯が北の丸公園で、日本武道館は「北の丸」の北という字の辺りになります。
 一方、綿羊飼立場ですが、山崎栄作氏の「「渋江長伯集 徳川幕府奥御医師 資料編」が引用している文化5年の「江戸城下変遷絵図集」によると、田安門が出たら右側のすぐそばに「渋江長伯預御薬園(20)」がある。小松さんの地図では門の字のあたりです。ここが採草地の1つだとすると、飼立場の場所は、すぐそばみたいな北の丸の中、でなければ織殿のRの囲みの中にあったと考えます。

資料その14

(1)
    


(2)
       

  

参考文献
上記(14)と資料その13の出典は日本庭園協会編「庭園」10巻9号10ページ、大熊喜邦「吹上の御庭」、昭和3年11月、日本庭園協会=館内限定デジ本、 (15)は松岡辰方、松岡清助著「守嚢之下」写本22丁表、年代・版元不詳=国会図書館インターネット本、 (16)は小宮山綏介著「吹上訪古録」、明治11年5月、小宮山綏介、同、 (17)と資料その14(2)は古板江戸図集成刊行会編「古板江戸図集成 別巻」58ページ、昭和35年8月、中央公論美術出版=館内限定デジ本、(18)は「江戸城御吹上総絵図」、 http://archive.library.
metro.tokyo.jp/da/detail
?tilcod=0000000002-00006391 (19)と資料その14(1)は小松和博著「江戸城 その歴史と構造」70ページ、昭和60年12月、名著出版=原本、 (20)は山崎栄作編著「渋江長伯集 徳川幕府奥御医師 資料編」57ページ、平成18年7月、十和田、同

 ところで国倫織を発表した平賀源内の弟子でもない医師の渋江長伯は、どこで羅紗製造法を覚えたのか、いや発見したのかも知れんが「製氈図考」という羅紗製造法の本を書くまで詳しくなったのか不思議に思わないかね。文化元年に支那から毛氈職工2人を招いた。角山幸洋氏によれば「長崎会所産業調掛の帯屋次郎八、徳岡元三郎の両名が製造法の順序と、作業器具一切を図録とし、提出された『毛氈製造手順覚書』として残っており、また渋江長伯もこれを漢訳・編纂している。(21)」としているから、出版は文化元年以降ですよね。
 しかし、その7年も前にご褒美をもらえるぐらい渋江が羅紗・毛氈に詳しかったとなると、やはり何かで知識を得ていたからに違いない。私は密かに入手した中国渡りの製造法の本からだと考えます。長崎で「毛氈製造手順覚書」が出たので、隠す必要がなくなり、安心してその虎の巻を「製氈図考」に仕立てた。角山さんは説明文を漢訳したと見ておられるが、出版年月を明記されていないのはなぜかな。「手順覚書」の小腰掛を「矮凳」、毛抜きを「鑷」など日本語離れした用語はともかく、挿絵が「手順覚書」と似て非なる理由がこの辺にありそうな気がします。
 これは荒唐無稽な仮説ではないはずです。「例えば幕府医官の渋江長伯(1760―1830)などは『西園蓮譜』を著しているが、内容は中国の文献の写しばかりで図はない。(22)」と東洋大の平野恵氏は「園芸世界」に書いています。国会図書館の館内限定デジタル本を見ると、各種の蓮の中国語の説明に短い自分の見解の漢文をつけた本で、中国語の本がなければ書けない本で「製氈図考」と同じく出版年は入ってません。
 ついでに渋江長伯とショメールの「日用百科事典」の関係を見ておくと、山崎さんは資料その6の年表にあるように文化6年、1809年までに渋江が幕府に買うよう進言したとしていますが、渋江はその事典を読んだのではなく、だれかから役に立つ本だと聞いてのことでしょう。医師の大槻玄幹によれば、土生玄碩という有名な眼科医が幕府の有力者に働きかけてオランダ語通訳の馬場佐十郎に翻訳の命令が下った(23)と「蘭学事始附記」に書いていますからね。
 平賀源内は綿羊を4頭も飼い、あんまり藁を食べさせるなと注意したり(24)、その源内の先生である田村藍水は長崎のオランダ語通訳、吉雄幸左衛門から牡牝2頭を譲ってもらってます。(25)これらの綿羊はどういうルートできたのかわかっていません。綿羊と一緒に手引き書が輸入されてもおかしくないのです。
 資料その5(2)の「栗本鋤雲手記」とおぼしき中に「当今外務大書記官宮本小一ノ居邸」の場所が巣鴨薬園だったとありますが、その宮本小一が渋江長伯はどんな人だったのかと、渋江を知る栗本に尋ねたことがあった。資料その15(1)がその返事です。鋤雲手記から栗本は渋江を褒めると思ったら、今見れば彼の織った布なんてろくなものじゃない。手広く研究したことは認めつつも平賀源内の亜流だといわんばかりで意外でした。
 また渋江はさらに人工染料や陶器なども手がけたため、薬園管理がおろそかになっていると、幕府の役人だった小坂力五郎が「薬草木植書付」で指摘しています。資料その15資料その15(2)は江藤彰彦氏による現代語訳の一部です。私は巣鴨に限らず渋江は持ち分の薬園の多くを牧草地にしていたから、薬草畑としては手抜きしているように見えたと推察しますね。渋江はどことどこは薬草園と呼んでいるが、植えてあるのは綿羊の餌にする牧草だといちいち説明しなかったのでしょう。

資料その15

(1)渋江長伯略伝抄栗本匏庵子之答
   
渋江長伯事、御尋事蹟之可記程之事も無之候得共、寛政文化際之人二而拙家曾祖父 瑞仙院抔者至懇ニいたし、一時姻婭ニ連り候者ニ有之候、さしたる人物ニハ無之候得共、多紀安長と其説不合、一時蝦夷在住ニ而箱館ニ居住いたし居り、休明光記中ニも粗其名相見申候、帰来之節蝦夷草木類之内地未見之品等持来り、於今花戸ニ伝種いたし居候品有之候、番町薬園巣鴨等相創、綿羊ヲ牧シ、羅紗を浜殿中ニ織り、其他博多織物・龍門等も同様ニいたし、又陶器染付、金銀絵焼付等創造いたし、併機械未備、従今日見之候得者甚粗劣ニ者候得共、彼時ニ当候而者、都而搭輿ニ属候様ニ御坐候、 瑞仙院所著之虫譜ニ長伯序文も有之候得共、余りよろしくも無之、詰り平賀源内杯之風を学候人ニ而、其丈ケ之巧ニハ不至とも稍模倣致し、遂ニ医局之籠絡を脱し、別ニ一家を為し候者と想像被致候、猶委敷御承知も被遊度候ハゝ被仰下次第、 愚兄等故老ニ承り候得ハ、詳悉可仕事と奉存候、此報労観縷如此御坐候也、謹白
    陽月念一
                     鋤雲
  小一君
      机下
附言、鋤雲者栗本安芸守帰農後之名也、


(2)
 以前は練馬の片山に御薬園があったらしいが、どのような理由で廃止
されたのだろうか。伊豆では樟脳の御林を育成していたらしいが、今
はどうなっているのだろうか。また、京都の鷹ヶ峯や駿河府中の久能山
などの御薬園の実態はわからないが、現在江戸のあちこちにある御薬園
のうち、聞くところでは、岡田と芥川両氏が受け持つ小石川御薬園はか
なり手入れも行き届いていて、土地に合った薬草木を栽培すれば、ある
程度の薬種は収穫できるようだ。駒場の御薬園も手入れはそこそこ行き
届いているものの、渋江長伯受持ちの数か所は、手入れが行き届かず、
荒れ始めている。江戸の御薬園をすべて合わせれば、相当の面積になる。
 しかし、御薬園によっては、薬草木が植わっている面積はわずかで、
過半を野菜畑に利用したり、空き地になっているところさえあるため、
御薬園全体としての薬品産出量は少ない。渋江長伯が受け持っていた御
薬園は、開発すれば利益にもなると上申し、また、御上が使われる薬草
を手元で清浄に栽培することもできるとの判断があって、開かれたもの
だろう。その当時は、手入れも行き届いたかもしれないが、現況では、
御薬園を管理する役人の給与、人足の賃金、そのほかの費用を差し引け
ば、どれほどの利益が出ているかおぼつかない。ことによると、収支は
赤字になっているかもしれない。こうした点は、御薬園を管理する者の
心得次第で違ってくる。

 吹上だけでなく織殿は濱御庭にもあり、羅紗以外の布も、そこで永い間織っていたことを伝える匿名の記事を見付けたので資料その16にしました。これは大正7年12月に出た雑誌「江戸」9巻5号の「かた手の間(其四)」にあったものでね。濱の織殿で織った緞子の布切れを写真で示すとあるから、そのページを探したらね、国会図書館の所蔵本は、残念ながらそこだけ切り取られたか欠けていたんですなあ。東京都立中央図書館に同じ本があるので、切り取られていなければ、君たちの後輩にはその写真のコピーを見られるようにします。

資料その16

 織場(織殿)は板屋三間、毎日機杼の声軋々として絶えずに「不将錦綺供遊具」的、即ち国産を興せよとの意(豳國詩)を後人に語りしが如き芥舟の詩、其蹟を傳しに止らず而かも今、木村家に昔し濱園に於で織上けたる緞子、絹襴切れ二ツ三ツ存しゝは洵に貴むべしとす(其時代は若し)仍てコロタイプ版に附して諸れを巻首に置く当時南都の古梅園にて刊行せし其家の墨譜と并観あらば庶幾は吉宗将軍が在世中に外品輸入を防んと汲々たりし其一斑は推察するに足らん歟、また

  

参考文献
上記(21)の出典は角山幸洋編著「中国・和蘭羊毛技術導入関係資料」248ページ、「解説」より、昭和62年3月、関西大学東西学術研究所=原本、 (22)は改良社通信販売部編「園芸世界」5ページ、平野恵「岩崎灌園『古今要覧稿』の彩色図 後編」より、平成28年8月、改良社通信販売部、同、 (23)は杉本つとむ編「杉田玄白集」94ページ、平成6年4月、早稲田大学出版部、同、 (24)は城福勇著「平賀源内」166ページ、平成2年9月、吉川弘文館、同、 (25)は草野冴子、藤田覚校訂「史料纂集 田村藍水・西湖公用日記」141ページ、平成26年1月、八木書店古書出版部、同、 資料その15(1)は田中正弘著「幕末維新期の社会変革と群像」310ページ、「維新変革と旧幕臣の対応 ――幕臣宮本久平・小一父子の閲歴と越前藩下屋敷の購入顛末――」より、平成20年7月、吉川弘文館、同、 同(2)は農山漁村文化協会書籍編集部編「日本農書全集 本草・救荒」68巻334ページ、現代語訳・注記・解は江藤彰彦氏による小坂力五郎著「薬草木植書付」より、平成8年10月、農山漁村文化協会、同、 資料その16は畑虎之助編「江戸」9巻5號25丁裏、大正7年12月、江戸旧事采訪会=館内限定デジ本、正式題名は「かた手の間(其四)其五○濱御殿(乙)上

 公益社団法人・中央畜産会の「畜産ZOO鑑」によると、綿羊10頭を半年放牧だけで飼育するには0.5ヘクタール程度の草地面積が必要(26)とあります。もし雪が積もらず冬も放牧できて小屋で飼う舎飼いせずに済む土地なら1ヘクタールで10頭ぐらい飼えるはずですね。では巣鴨はどうだったのか。越前藩は園地跡地の内の1万2000坪余りを中屋敷地として拝領し、さらに添地2000坪余りも拝領して巣鴨の中屋敷地は1万4000坪余となった(27)と田中正弘氏は考察してます。これが巣鴨薬園の全面積であり、全部牧草地だったならばね、1坪は3.3平方メートルですから4万6200平方メートル、4.6ヘクタールとなり、雪降りの日も放牧して枯れ草を食べさせれば40頭ぐらいを養うのが精一杯でしょうね。
 100頭まで増えたとすると、巣鴨と同じくらいの牧草地が入り用になる。場所にもよるが、そこの草を刈り集めて巣鴨など最寄りの飼立場へ運ぶのも大変でしょう。このころ馬車は使っていませんから大八車でしょうが、薬草栽培のほかに草刈りと運搬要員が入り用だ。資料その15(2)のように小坂に指摘されるまでもなく渋江の薬園管理に手不足になるのは当然でしょう。
 「唐土より御取寄」した綿羊は「小茴香と申草を食する、今専ら御用明地に御植付、中にも三番町明地に余多御植付、其外にも御植付有之ける、此掛りは官医寄合渋江長伯老、下役も多く被仰付ける、(28)」と「宝暦現來集」に書かれたように、渋江は江戸のどこでも空き地があれば薬草と称して牧草畑にして緬羊の飼料確保に努めたらしい。
 幕府の飼養者募集の申し渡しに「於暖地飼立候ハヾ」とあるのは、冬でも積雪が少なくて野原の枯れ草を食べさせられて、冬場の飼料確保で苦労せずに済む土地を指しており、奥多摩が応募者ゼロの理由に寒いところだからといえたのです。加賀藩の飼育希望者募集のお触れに「飼方は草并香の物たくわん漬之由に御座候(29)」とあるのは、巣鴨で冬はサイレージみたいに漬け物を食べさせることもあったからでしょう。
 さて吉宗の綿羊飼立場育ちの綿羊の子孫ではなく、その後「宝暦現來集」によれば「寛政の始め」らしいのですが、改めて支那から輸入した綿羊が渋江長伯の努力で増えたらしく、幕府は希望者に無料で1つがいずつ配り、もっと増やそうとしました。大正7年の綿羊100万頭計画に先立つこと86年、綿羊増殖政策の元祖だね。明治大の平野満先生は「渋江長伯の本草学研究 ―物産学の視点から―」という論文で、文化8年の奥多摩地方での飼育希望者の募集と希望者なしと役所に報告した「杉田家文書」(30)を紹介しています。
 私はね、古文書の読み方の教材として雑誌「歴史手帖」にあった、いまの都内江戸川区に残った文書とその読み方の先生、樋口政則氏の解説を見つけたので、資料その17にしました。羊毛で織物を作れば「御国益にも相成る」のに希望者ゼロなんて想定外、再募集せよとは強引ですなあ。
 また、この「申八月」の日付より前の同文が「申渡」として、埼玉県川口市内の「日光御成道鳩ケ谷宿本陣 船戸家文書」の中にもある(31)ので、当初は江戸に割合近い地域で飼育希望者を募ったとみてますが、違うかも知れん。

資料その17

渋江長伯飼立候綿羊、於暖地飼立候ハヾ御国益ニも可相
成候間、望之もの江者、綿羊牝牡并飼立方仕方帳面相渡可
申間、銘々有無共承糺申聞候様、委細去未年閏二月相
達候処、支配所村々相糺候上、綿羊飼立方望之者無之段相届
候者も有之、然ル所、右者 公儀より御渡方ニ相成候故、手重
成事与相心得望有之候而も先者差扣居候もの茂可有之哉ニ
付、以来望之者其支配江申立次第、長伯江相達、右渡方之義
者巣鴨綿羊小屋ニおゐて長伯より相渡、飼立方も委敷伝達有之
間、右飼立方心得候上毛類織立候得者、往々御国益二も相成
候事二付、此段厚相心得、支配所村々江寄々教諭いたし、手
重ニ無之段手附手代廻村之節も得与合点いたし候様、村々江
可被申教候、尤望之者有之候得者長伯方江通達之儀可被
申聞候、且教諭いたし候分ハ追々望有無可申立候間、望
之者無之分ニ而も年々御勘定所江可被相届候、以上、
  申八月(文化九年、一八一二)

右之通御勘定所ニ而被仰渡候間、村々江不洩様申通、右
綿羊飼立方望人有無共得与相糺、御役所江可申上旨被仰渡
候、此段其御領内江者 拙者方より可申通旨是又被仰渡候
間、此段御達申上候、尤外より御糺等有之候節望人有之由申
立候者も有之候而者不糺之筋ニ而不相済事故、村々入念
御糺被成、望之者有無とも御申立可被成候、右之段被仰
渡候間、如此ニ御座候、以上、  (宇田川高太郎家文書)

 綿羊を飼養し「毛類織立候えば」国益となるから、飼養「望
之者」を村々から募るというのである。そういう内容の通達
が前年閏二月にあったが、残念ながら葛西筋下ノ割三十カ村
には希望者はなかった。公儀の申し出であるからと遠慮して
いるκもあるのではないかど、その意義をよく説明し、再度
「望之者」を調査してくれというのである。

  

参考文献
上記(26)の出典は中央畜産会編「畜産ZOO鑑」、 http://zookan.lin.gr.jp/
kototen/menyou/m321.htm (27)は田中正弘著「幕末維新期の社会変革と群像」272ページ、「維新変革と旧幕臣の対応 ――幕臣宮本久平・小一父子の閲歴と越前藩下屋敷の購入顛末――」より、平成20年7月、吉川弘文館=原本、 (28)は国書刊行会編「世風俗見聞集 第三」48ページ、「宝暦現來集巻之二」より、大正2年6月、国書刊行会=近デジ本、 (29)は侯爵前田家編集部編「加賀藩史料第13編」722ページ、昭和15年3月、石黒文吉=国会図書館インターネット本、 (30)は明治大学人文科学研究所編「明治大学人文科学研究所紀要」75冊247ページ、平野満「渋江長伯の本草学研究 ―物産学の視点から―」より、平成26年3月、明治大学人文科学研究所=原本、 資料その17は名著出版編「歴史手帖」11巻1号52ページ、樋口政則「綿羊の飼養をすすめし事」より、昭和58年1月、名著出版=館内限定デジ本、 (31)は船津喜助、大村進、原初男編集・校訂「日光御成道鳩ケ谷宿本陣 船戸家文書」256ページ、昭和52年12月、船津喜助、同

 「鋤雲手記」の300頭はともかく、渋江長伯の管理よろしきを得てか綿羊小屋では相当数の綿羊ペアを出荷できるぐらいいたんでしょう。でもね、何か毛織をすればお国のためになるといわれても、このお触れではよくわからん。飼い方ガイドがあったとしても、綿羊を飼わなきゃ読めない取扱説明書だし、そもそも巣鴨から2頭を連れ帰るのは大変だと、誰も手を出さなかったと思います。
 それで幕府は下々を当てにするのはやめて、大名に綿羊を割り当てることにしたらしい。大名なら将軍様から拝領した御羊様だからと、大事に扱い頭数を増やすことを期待したと思います。綿羊関連年表で見れば、最初に拝領したのは10代将軍の徳川家治のいとこの一橋治済だ。記録では文政3年5月28日に「綿羊二疋を幕府より賜はる(32)」 とあるけど領地を持ってませんから、いまの文京区千石にあった下屋敷で飼い殺しにしたか、何かの褒美として家来に渡したか、その後はわかりません。
 島崎藤村の「夜明け前」に「公儀から越前様へ御拝領になった綿羊」が出てきます。「三疋の綿羊が籠の中で顔を寄せ、もぐもぐ鼻の先を動かしている」とか「こういうめずらしい羊が日本に渡って来るようになったかと思うと、世の中も変わるはずですね。わたしは生まれて初めてこんな獣を見ます。(33)」と、藤村は木曾の馬篭到着の様子を書いてますが「加賀藩史料」に「今般綿羊牝二疋・牡二疋御拝領に付、近々人足持に而御国え可指上處、御定之人足に而は指支、余計継立之儀御聞済之旨申來る。(34)」とあるから、加賀藩も拝領の綿羊は籠に入れて人足が担いで運んだんですね。
 いまでこそ、金沢の兼六園と言えば知らぬ人なき有名な庭園ですが、その昔は金沢城の中で、そこに拝領した綿羊の小屋があったのです。40年以上前にね、金沢大の学生が金沢市内の下宿の襖の下張りで古文書を見付けた。プールに浸して丁寧に剥がして解読したら、金沢城の作事記録とわかり、それに綿羊関係の記録も含まれていた(34)というのだから驚き桃の木山椒の木。加賀の郷土史に興味を持ち、襖の下張りになっている古文書が見たいと表具屋を始め、膨大な古文書類を集めた旧制金沢一中の先輩(35)の逸話が伝えられているが、さすが古い町は違うねえ。資料その18は金沢城内で飼われた綿羊と小屋の位置の変遷の研究論文からです。

資料その18

 金沢城全域絵図の分類と編年
  ―金沢城絵図調査報告T―
               金沢城研究調査室

 <略>本図について、濱岡氏は文政4年〜天保9年の内容をもつと指摘したが、上記により文政13年10月に、金沢城代の横山隆章が作事奉行に命じて作らせたもので、一旦作成されたあと天保3年に水樋のラインを追記させたものだと判明した。つまり、本図は文政13年10月作成の建物等色分図なのである。
 本図の金谷御殿の部分に幅約6間×縦約21間の規模をもつ綿羊小屋の記述があるので濱岡氏は、本図の景観年代の上限を文政4年とした。幕府から前田家に綿羊が下付されたのは文政4年8月以後のことだからである。しかし「加賀藩史料」には金谷出丸に綿羊小屋を置いたと書いていない。別の文献に綿羊小屋は竹沢御殿の部屋方後方の雁鳴門(雁金門)の隣にあったという記録があり、竹沢御殿図の該当部分に2間半×14間の綿羊小屋に相当する建物があり、これを「御鳥部屋」と称する絵図もあった。また、文政8年に綿羊小屋を竹沢御殿から金谷出丸に移築したと記録する断簡史料もあるので、綿羊小屋が文政8年まで竹沢御殿に置かれたことは間違いなかろう。
 幕府から綿羊4匹拝領したのは12代藩主斉広であり、毛織物業の導入を意図したもので斉広の産物奨励策の一環であった。斉広は自ら拝領した綿羊を、まずは隠居所において飼育したのである。斉広は文政2年に竹沢御殿新築の許可を幕府より得て造営に着手し、文政5年11月に落成した。公儀より綿羊を拝領した文政4年は、竹沢御殿普請の最中であり、御鳥部屋に綿羊を置くことにしたのであろう。
 拝領後、綿羊は文政12年までに27匹まで殖えたという記録があり、文政9年には郡奉行から綿羊飼育を希望する者を広く募る触れが出ているが、すぐに希望者はなく天保9年、ようやく金沢町人越中屋紋次郎に下付され、金沢泉野で飼育されたという。その時、綿羊は御鳥部屋にて飼育されており、露地方役所より紋次郎に渡されたと記録するので、天保9年までは8匹の綿羊 が城内玉泉丸にあった御鳥部屋にいたのである。つまり、文政4年から天保9年まで城内で飼育された綿羊は、竹沢御殿「御鳥部屋」(文政4〜8年)→金谷出丸綿羊小屋(文政8〜天保3年)→玉泉院丸「御鳥部屋」(天保3〜9年)の順に移動したものと考えられる。

 天保3年になると、幕府は大名、百姓による綿羊増殖をあきらめたか、綿羊を飼ってみたいと望むなら、武士であろうが商人であろうが、巣鴨まで受け取りに来たらくれてやるぞよという前代未聞、空前絶後の通達を出した。これは緬羊増殖政策の転換点として重要事項なのに、日本の畜産史では無視されてきました。だから資料その6の綿羊関連年表では特に赤字で示し、その証拠を資料その19に集めました。
 (1)の通達が全国各藩に届き、それを受けて、例えば加賀藩は同(2)のように藩内人民に知らせた。同(3)はちょっと説明を要しますね。この「柳営日次記」というのは、いうなれば幕府の業務日誌なんですね。巣鴨には老齢とか病死した綿羊の皮を天日干ししてためていたんでしょう。ただ、その枚数はあまりないので同(3)のように幕府関係者に限り、希望すれば進呈するようにしたと私は解釈しました。
 本にはなっていないが、東京大学史料編纂所の近年編年データベース「仁孝天皇紀編年史料」を検索すると、同(1)と同じような緬羊払い下げの廻状があります。

資料その19

(1)
◎天保三年壬辰八月  日
  御勘定奉行明楽飛彈守より達
     写
綿羊望み候者可被下、尤御領分百姓等にても被下に相成候間、望之者有之候はゞ、巣鴨綿羊小屋へ御家来被差出、渋江長伯へ相談、為請取候様可被致候
右之趣水野出羽守殿被仰渡候間申達候、右者御自席之分へ不洩様通達可有之候
            【旧政府御達留廿六 公儀御触留百十六】

(2)
九月五日。幕府の飼養する綿羊を交附せらるべきことを告ぐ。
〔触留〕
綿羊望之者候はゞ可被下、尤御領分百姓等に而も、望之候もの有之候はゞ被下候間、望之もの有之候はゞ、巣鴨綿羊小屋江御家來被指出、澁江長伯江相談、爲請取候様可被致候。
右之趣水野出羽守殿被仰渡候間申達候。公儀御園置之綿羊望之者有之候はゞ可被下儀に付、別紙写之通、御勘定奉行明樂飛騨守殿被仰渡候條、望之者有之候者、可申聞候事。
右之趣被得其意、同役中達、組支配不相洩様可被申渡候、以上。
        九月五日            奥村内膳


(3)
〔附記、四〕綿羊革
六日[○天保三年九月○中略]
   御目付触
綿羊革望之者有之候はヾ、組支配之面々江も被下候間、頭支配より相達可申旨、且又寄合并布衣以下若年寄支配之面々江も、是又同様相達可申旨、肥後守殿[○林忠英]被仰渡候、且請取方之儀は、巣鴨綿羊小屋江家来差越渋江長伯江相談、為請取候様御申渡。尤望之者有之候はゞ、拙者江も御申聞可被成候。以上。     ――柳営日次記――

 ここで前に戻して資料その6、綿羊関連年表では赤字の通達のすぐ上、天保元年に太字で「渋江長伯、四月十九日没、年七十一歳。」とあるのに、幕府は綿羊を飼いたければ巣鴨薬園の渋江長伯へ相談に行けというのはおかしいと思わんかね。目を擦ってよく見なさい。3年前に死んだ長伯の幽霊と交渉せよとはご無体な、となりますが、山崎さんの「渋江長伯集」によると息子の伯順が天保元年以降、父親と同じく長伯(36)と名乗り奥詰医師を継いでいるそうですから、巣鴨の管理も引き継ぎ、通達の書き間違いではないようです。
 「日本緬羊史」というような本があったら、幕府が綿羊無料大放出なんて、北朝鮮の将軍様でもやらない増殖政策をどう扱ったかわかりませんが、昭和14年に農林省が出した「本邦内地ニ於ケル緬羊飼育ノ沿革」は完全に無視していることを資料その20で示しました。「牧羊事蹟考」ですら触れていないのだから無理もないがね。
 でも「漸次蕃殖シテ三百餘頭ニ達シ年々二頭ノ毛ヲ剪リテ幕府ニ納メ」はひどい。この通りなら毎秋毛を刈るのは2頭だけだから、残る約300頭の毛は伸び放題だ。「毛刈りから6年間も逃げ続けた羊の数奇な半生」という動画を検索してご覧、ドラム缶ぐらいの毛の塊だよ。
 昭和41年に農林省が出した「畜産発達史」でも天保3年の綿羊無料払い下げという画期的な政令が抜けているのは、綿羊分に関する執筆者たちは増殖飼育に詳しかったかも知れないが明治以降を纏めるのが精一杯だった。まあ、あちこち怪しいかも知れんが、古い方はジンパ学の示すところこそ正史だと思ってもらいたいね。はっはっは。

資料その20

     第一 明治以前ニ於ケル緬羊ノ飼育

  緬羊ガ日本ニ渡來セシハ既ニ千有餘年前ニシテ、嵯峨天皇弘仁十一年五月新羅ノ人李長行羖■<羚の令の代わりに歴を入れた字>羊二頭、白羊四頭、山羊三頭ヲ貢ギシコト又 推古天皇及朱雀天皇ノ御代二緬羊ヲ貢ギシ者アリシコト其ノ他欽明天皇ノ御代ニ羊毛ヲ紡ギテ計牟志呂ヲ織リシコト等古史ニ見ラル其ノ後徳川時代文化二年ニ緬羊ヲ支那ヨリ輸入シ肥前、浦上村ニテ飼育シ毛織物ヲ試織シタルコトアリシガ其ノ後緬羊斃死セシ爲遂ニ之ヲ廃止セリト云フ、同末年ノ頃幕府ニ於テ奥詰医澁江長伯ノ建議ニヨリ長崎奉行ニ命ジ緬羊数頭ヲ支那ヨリ輸入シ長伯ヲシテ江戸巣鴨ノ薬園ニ飼育セシメタリシガ其ノ後漸次蕃殖シテ三百餘頭ニ達シ年々二頭ノ毛ヲ剪リテ幕府ニ納メ幕府之ヲ濱ノ藥園内ニアル織殿ニテ毛織物ヲ織ラシメ又安政元年幕府函館奉行ノ申請ニヨリ緬羊約四十頭ヲ函館地藏町ノ倉地ニ飼育セシメ医官栗本瑞見ヲシテ之ヲ管理セシメタルコ卜栗本鋤雲手記ニアリ明暦四年薩摩垂水領主島津久治初メテ緬羊ヲ海潟村ニ放牧シ後齊興公ノ時毛織物ヲ織ラシメタルコトアリシト云フ

  

参考文献
上記(32)の出典は辻達也編「新稿一橋徳川家記」291ページ、昭和58年3月、 續群書類從完成會=原本、 (33)は島崎藤村著「夜明け前」第1部、青空文庫、底本は「夜明け前 第一部(上)」、昭和44年1月、岩波書店、 (34)は侯爵前田家編集部編「加賀藩史料第13編」86ページ、昭和15年3月、石黒文吉=国会図書館インターネット本、 (35)は石川県教育委員会金沢城調査研究室編「研究紀要 金沢城研究」4号80ページ、木越隆三「金沢城作事所に関する断簡資料(1) ―名倉氏採取襖下張文書(金沢大学文学部日本史研究室所蔵―」より、平成18年3月、石川県教育委員会金沢城研究調査室=原本、 (36)は一泉同窓会編「一泉」2号5ページ、米沢喜六「不世出の大鋸彦太郎翁」より、昭和55年10月、一泉同窓会=インターネット版、 資料その18は石川県教育委員会文化財課金沢城調査研究室編「金沢城研究」2号38ページ、 平成16年3月、金沢城研究調査室=原本、 資料その19(1)は大蔵省編「日本財政経済史料」3巻580ページ、「経済之部二 物産」より、大正11年9月、財政経済学会=近デジ本、 同(2)は侯爵前田家編集部編「加賀藩史料」14編262ページ、昭和56年3月、清文堂出版=館内限定デジ本、 同(3)は東京市編「東京市史稿 市街篇第37」631ページ、平成10年10月、臨川書店=館内限定デジ本、 (36)は山崎栄作編著「渋江長伯集 徳川幕府奥御医師 資料編」61ページ、平成18年7月、十和田=原本、 資料その20は農林省畜産局編「本邦内地ニ於ケル緬羊飼育ノ沿革」 1ページ、昭和14年2月、農林省畜産局=館内限定デジ本

 加藤の「本邦牧羊事蹟考」の半分を占めているのは、資料その6の綿羊飼養関連年表の万延元年の項にある南部藩内で箱館奉行所から買った綿羊と子孫を4年間以上飼った記録です。これは明治17年1月、農商務省4等属、山口辰次郎による旧南部藩の綿羊飼養についての問い合わせに対し、岩手県大書記官岡部綱紀の回答そのものみたいな内容でね。資料その21がその「旧南部藩治中綿羊飼養事跡調」です。■は昼の字の下の一のない「書」の異体字です。
 嘉永3年正月、南部藩では「太守様が美濃守様と称え奉る。御名の字附け居り候ものの名相改め申すべし」というお達しがあり、美濃という名詞を厳禁になった。それで美濃紙は生紙と書いて「きがみ」、美濃虫は羽衣虫、雨具の簑は雨衣と書いて「あまえ」または「まあい」と変えた(37)が、あまり守られなかったらしい。わざわざ美濃代藩士と書いたのは、その南部美濃守利剛が藩主だった20年間の侍という意味ですね。
 資料その21の末尾の東本氏は栗本氏の誤記でしょうが、資料その5(2)の「奥詰医師渋江長伯ノ建白ニ因リ長崎奉行ニ命アリ唐国ヨリ呼ヒ取レリ[頭数/未詳]」と、岩手県からの報告の中の「旧幕府徳川家ニ於テ綿羊五十頭支那ヨリ買入」は同じらしいから、幕府が唐国、支那から何10頭かの綿羊を輸入したのは本当だろうとみてますね。

資料その21

<略>安政年中奥州南部ニ於テ綿羊ヲ飼養セリ其顛末ハ岩手
県ノ調査ニ係ル次ノ一■ニ因テ知ルヲ得ヘシ
   旧南部藩治中綿羊飼養事跡調
 一安政年間南部美濃代藩士上山半右衛門函館留主居
  勤務中旧幕府徳川家ニ於テ綿羊五十頭支那ヨリ買
  入ノ内二十頭江戸城ヨリ函館奉行津田近江守ヘ回
  送相成リ然ルニ該羊ハ奥羽地方風土ニ適スヘキ趣
  半右エ門伝聞シ南部領数ケ所ニ牧養セシメ羅紗其
  他ノ毛織等ヲ産出スルニ至テハ国内ノ大産業ナラ
  ント思考シ万延元年四月半右エ門帰国ノ節奉行近
  江守ニ請求シ牝牡二頭ヲ自費ニテ買入レ盛岡ニ輸
  送シ南岩手郡仁王村字仁王小路自宅内ニ羊室ヲ建
  築シテ干草及豆腐殻等ニテ飼養ス
 一万延元年九月半右エ門死去シ其次男上山齢七父ノ
  遺志ヲ継キ飼養ニ尽力スルト雖モ飼養未タ至ラサ
  ルカ出産ノ児羊柔弱ニシテ一両月生育スレハ斃死
  又生スレハ斃レ何分蕃殖ノ効ヲ奏セス漸ク年ヲ経
  テ五頭ニ至レリ
 一文久三年同藩士大島惣左ヱ門[当今高任]八角又新外八名
  結社旧藩主ヘ請願許可ノ上南岩手郡東中野村字新山
  舘ヘ一ノ学校ヲ新設校名ヲ日新堂ト称ス藩主手許
  ヨリ年金三百円宛ヲ三ケ年間下与セラレ外ニ社員
  ヨリ募集金利子金ヲ併セ是ヲ経費ニ充テ教育科目
  ハ洋学医学製練本草牧畜等ノ各課ナリ齢七モ社員
  ノ一人タルヲ以テ綿羊五頭ヲ該堂ヘ寄付ス羊室ヲ
  学校敷地内ニ設ケ飼養ス
 一元治元年八月上山齢七江戸屋敷詰申付ラレ日新堂
  内ニ於テ其飼養ニ習達スルモノ幸ニ東和賀郡村崎野
  村及川玄周ナルモノ牧羊飼養希望ノ者ニ付同人ニ
  貸与セシニ玄周其居村ニ輸送セリソノ後ハ如何ニナリ
  シヤ詳ナラス
本文徳川家ニ於テ綿羊五十頭支那ヨリ買入レ云々トア
ルハ前ニ記スル東本氏<原文のまま>ノ説ニ殆ント符合セリ蓋シ同物
ナラント思ハルゝナリ<略>

 綿羊飼養関連年表の安政6年を見なさい。箱館奉行所は1疋銀4枚から7枚と売値を決めている。でもこれは羊肉を食べる外国人向けの値段であり、蝦夷地警備をしてくれた上山は全く知らない顔でもないと割引したんじゃないかと私は思ったんですよ。
 一方、平成4年に出た「東大史料編纂所報」27号に函館市中央図書館にある幕末維新期資料の調査報告が載っていて、上山半右衛門が盛岡に戻ったのは万延元年5月13日で「親父様箱館御勤番相済、益御機嫌能今日御着」と書いた「南部藩士上山半右衛門守古日記(38)」があることを知りました。この文面から半右衛門本人ではなく別人が書いた日記と気付かなかったのはまずかった。
 原本は現在、盛岡市の「もりおか歴史文化館」にあるとわかったので、急げと準備不足のまま出掛けて失敗した。盛岡に2度行くのは気が引けるので函館へ行き、昭和12年に西村猛氏が書き写した写本を見せてもらいました。それで半右衛門は綿羊だけでなく箱館から豚も買ってきたことがわかった。南部藩内にも豚はいたはずで、わざわざ箱館から連れ帰った理由はわかりません。
 ともあれ半右衛門の長男守古の万延元年5月13日の日記は資料その22(1)の通り、同(2)は日記の「豕五疋綿羊弐疋」と書いてあるところ。数字の5みたいなゟは何々よりの「より」です。父親は無事帰宅したのに、弟齢助は大畑から病気で帰ってきたのはよくない。箱館からの豚5頭綿羊2頭は松本弥蔵が3日後に連れてくるから、そのまま松本に預けて仁王馬場で飼わせるつもりだと私は解釈したのですがね。「本邦牧羊事蹟考」では仁王村に上山半右衛門の自宅があり、そこで飼ったとありますが、仁王村は盛岡市に統合されており、いまはありませんが、そこに馬場もあったのでしょう。
 資料その21に出てくる大島惣左衛門は文久元年、日新堂を開校させ翌2年に箱館出張を命じられ、箱館で鉱山技術者の学校を開き、道内の鉱山探査をしました。(39)大島の子供の大島信蔵が出した伝記「大島高任行実」にね、文久年間らしいが、大島は盛岡藩の国産調所を設けて鉄、塩、銅など25品目の生産を提案する上申書の草案があります。その中に唯一の家畜として綿羊を加えた(40)のは、箱館奉行所で綿羊を見たり上山半右衛門から南部地方でも飼えると聞いたからでしょう。また日新堂創立を藩庁に請願した洋学者18人と開校後の会計方7人の中にね、資料その21の上山齢七とみられる上山齢助という名前があります。(41)うち5人は学科の教授を兼ねているので、上山と吉田慶右衛門が会計専任だったとみられます。資料その22からしても齢七は県庁報告の誤記ですね。
 それから南部地方の民俗研究家、橘不染の「もりおか明治舶来づくし」に「豚肉の煮売り・切り売りは、至って近年なり。しかし、飼養せしことは古し。維新前後のときに、すでに日新堂といえる医学校にて、飼いおきし綿羊・豚を見たり。(42)」とあるので、学校の新規事業の1つ「有用の草木植立てより獣畜の牧法(43)」として上山齢助が提供した綿羊を飼っていたことは確かでしょう。

資料その22

(1)
   同 十三日   半晴
一、親父様箱館御勤番相済益御機嫌能今日御着
  尤齢助儀者大畑ゟ病気之所着セし頃ハ尤も不宜
一、箱館ゟ豕五疋綿羊弐疋松本弥蔵充江御預被遣候両三日
  頓而着直ニ同人江御預ニ相成仁王御馬場へ差置く


(2)
         

 嘉永6年、ペルリ提督率いるアメリカの黒船艦隊が下田沖にきて開港を迫ります。「ペルリ提督日本遠征記」などで沖縄でもらった綿羊を積んでいたことはわかるが、今津浩一著「ペリー提督の機密報告書 コンフィデンシャル・レポートと開国交渉の真実」を読むまで、旗艦ポーハタン号の甲板に綿羊がいる絵があるなんて、知りませんでしたね。資料その23(1)がそれだが、絵の説明に(財)黒船館蔵とあるので、検索して新潟県柏崎の柏崎コレクションというサイト内の黒船館とみて問い合わせのメールを送ったけど、レス無しでね。今津本の絵を借りました。
 今津本によると、神奈川沖に停泊中のバンダリア号の水兵アレンの日記に、マカオから家畜を積んだ輸送船サプライ号がきて、バンダリア号は羊6頭受け取った(44)と書いてあるそうです。ともあれペリーは新鮮な羊肉でもてなしたわけだが、初めて食べた役人たちには、その料理の価値は通じなかったでしょうね。
 資料その23(2)は「ペルリ提督日本遠征記」の土屋喬雄、玉城肇訳の宴会のところです。同(3)は猪口孝監修・三方洋子訳の同じところ。ペリーが日本人の反応について何も書いていないのは宴会の無事終了で万事OKとしたからでしょう。

資料その23

(1)
    


(2)
<略> 提督はずつと前から、日本人との協商が充分良好に転回して或る程度の宴會を催してもよくなつたらすぐに、この餐宴を催さうと決心してゐた。そこで彼は饗宴用として、生きた去勢牛、羊若干及び猟鳥(ゲーム)と鶏幾羽かをとつて置いたのである。肉、魚、野菜、果實等普通の船内食糧と特選した最上の葡萄酒をもつて、贅沢な饗宴整へるためのあらゆる必需品がつくられた。提督附司厨長は巧みな技術をもつて、豊富な材料から眼を驚かし、食慾をそゝるやうな、殆どあらゆる種類の料理をつくつた。<略>


(3)
<略> 提督は、日本人にアメリカ風のもてなしを見せてやろうとして、水夫や給仕を除いても客が七十人を超える大パーティを準備した。高位の委員たちが従者と同じ卓につくことはないという日本の厳しい作法はわかっていたので、二つの宴を催した。一つは提督の船室で高位の役人たちをもてなす宴、もう一つは後甲板での宴だった。ずっと以前から、日本との協定が好ましい方向へ展開し次第、懇親のために何かしよう、と提督は考えており、そのために雄牛、羊、猟鳥、鶏を生かしてとっておいた。肉、魚、野菜、果物といった倉庫の貯蔵品、良質のワインなどが、このもてなしのために供された。
 こういった豊富な材料が、提督の料理長の熟達した手にかかって、目を見張るバラエティ豊かな料理となり、食欲をそそった。

 下田での開港交渉の中でジンパ学として見逃せないのは、米国側が補給したい食料として「若やぎ」を挙げたことです。資料その24は「幕末外国関係文書之五」に載っているリストと交渉で若ヤギはいないと断った個所です。彼等は日本の国情をよく調べてヤギは飼われていると知っての要求だったのか。単にヤギで通じるのに、わざわざ若いヤギと本当にいったのか。牛がだめならヤギということか。ぜひ伺いたいね。
 アメリカ側に若いヤギを要求したという記録は残っていないのかと、外交文書の質問メールに答えてくれそうなアメリカの国立公文書館(Archives1reference@nara.gov)宛てで英文のメールを送ったんだが、そんな愚問に応じるほど暇じゃないというのか、英作文がまずかったのか、レス無しでね。2度出す気がせずにいるんだが、だれかレポートにこの若ヤギ問題を取り上げてくれるとありがたいなあ。高く評価して来年からの講義に盛り込みますよ。

資料その24

三五四  三月二十二日(?)在下田米人申立書 下田出役浦
  賀奉行支配組頭へ 休息所欠乏品の件
   
   異人申立候書面和解
一 人家無之山野ニ参、鉄砲を以鳥類狩致し度事、右は骨抜ニいたし、合衆国え
 持帰申候
一 使節上陸之節、休足所相設度事、
一 日本書籍貝類并草木相求度事、
一 衣類洗濯之義相ョ度事、
一 使節相願候は、長サ二十二フートニ御造立致下度事、
   食料之覚
一 薩摩芋
一 葱
一 菜
一 長芋
一 野菜
一 魚
一 蠣
一 鶏卵
一 牛
一 若やぎ
一 鳥類
一 鹿
一 亀
一 蟹
一 海老
一 獣類
一 生之食物類品々
 右之品々貴官之御方御約束之義ニ付、可相成ハ多分御渡し被下度事、
一 売込商人申付被度事、
一 品々売込之節、金預役より売込人え請取書可相渡度事、
一 代料は、可相成は一ウエーキ[日数七日を云ふ]毎に相払度事、
一 品々之代料承知いたし度事、
 右之通ニ御坐候、以上、
   寅 三月廿二日
     ○左ノ文書ハ此申立書ニ附帯シテ、組頭ヨリ亜米利加応接掛ヘ
     呈出セシモノニカゝル、今便宜ニ依リテ、コゝニ併収ス、
一 人家無之山家ニ参云々、
  <略> 
一 食料之内
  <略>
  若やぎハ、羊様之ものに候由、當所ニ無之候旨断可及候、
  <略>
 右之段申立候ニ付、不取敢申上候、猶得よ承糺、追々可申上候得共、筋合宜御賢
 察被下、取計之大旨早々御指図奉願候

  

参考文献
上記(37)の出典は豊田国夫著「代官所御物書役の日記 南部藩三戸物語」17ページ、平成2年4月、雄山閣出版=原本、) 資料その21は加藤懋述「本邦牧羊事蹟考」写し原稿6枚目から7枚目、明治初年、発行者不明=原本、 (38『東京大学史料編纂所報』第27号3ページ、 https://www.hi.u-tokyo
.ac.jp/publication/syoho/
27/saiho_HAKODA~1.HTM (39)は大島信蔵著「大島高任行実」452ページ、昭和13年7月、大島信蔵=館内限定デジ本、 (40)同337ページ、同、 (41)同372ページ、同、 (42)は橘不染著「もりおか明治舶来づくし」46ページ、昭和50年3月、トリョー・コム=館内限定デジ本、 (43)は長岡高人著「盛岡藩 日新堂物語」69ぺージ、昭和57年8月、熊谷印刷出版=館内限定デジ本、 資料その23(1)は今津浩一著「ペリー提督の機密報告書 コンフィデンシャル・レポートと開国交渉の真実」32ぺージ、平成19年10月、ハイデンス=原本、 同(2)は(ペルリ著、土屋喬雄、玉城肇訳「ペルリ提督日本遠征記」下巻630ぺージ、昭和11年4月、弘文荘=原本、 同(3)は猪口孝監修・三方洋子訳「猪口孝が読み解く『ペリー提督日本遠征記』」124ページ、平成11年10月、NTT出版=原本、 (44)は今津浩一著「ペリー提督の機密報告書 コンフィデンシャル・レポートと開国交渉の真実」31ぺージ、平成19年10月、ハイデンス=原本、 資料その24は東京帝国大学文科大学史料編纂掛編「大日本古文書 幕末外国関係文書之五」570ぺージ、大正3年2月、東京帝国大学文科大学史料編纂掛

 「牧羊事蹟考」のせいで江戸からの綿羊の函館到着が後になってしまいましたが、資料その25は箱館奉行所の奉行村垣範正の安政4年5月の「公務日記」から抜き出した綿羊関係の項目です。「在住医師栗本瑞見奉行ノ旨ヲ受テ箱館地蔵町ノ倉地ニ養ヘリ」なんて、まるで栗本が岸壁で待っていて、倉地に連れて行ったように受け取れますが、事実はまったく違うのです。綿羊の第一陣10頭は、栗本が函館に着任する1年前に来ていたのです。資料その6の綿羊飼養関連年表の青色の項で確かめなさい。安政元年と5年の緑色の項が栗本関係です。
 この中で私が注目するのは、18日分に出てくる岩尾勝右衛門に同行する鋌三郎です。「村垣公務日記」は名前だけ書くことが多いのですが、4月25日分などに仁杉鋌三郎と書いてあり、佐賀大教授の杉谷昭氏の研究によれば箱館奉行所の御雇(45)です。技術者だったらしく、このように鉱山探査とか五稜郭建築設などに立ち会っています。真面目な脱線だが、杉谷氏の「幕末蝦夷地調査史料『入北記』について」は、箱館奉行所の安政4年版職員録というべき301人の役職と名前が書いてある非常にありがたい論文です。
 一方、綿羊を積んできた順健丸は君沢形といい、2本マストに3枚帆の西洋式の帆船だったけど、強風のため津軽海峡を西向きに渡れず、19日に噴火湾側の砂原村に着き、日和待ちをしていた。船頭は箱館着は遅くなると奉行所にお知らせしてお前は箱館で待っていろと、水夫を船から降ろして箱館に向かわせた。鋌三郎は、今は北斗市になった大野村の宿でこの水夫に出会い、早くお知らせしなくちゃと人を頼んで奉行所に急報したのでしょう。村垣はにんべんに左の佐原と書いたが、これは砂の方の砂原です。
 ともあれ24日に調出役の三田喜六を通じて村垣は綿羊到着が近いことを知り、翌25日に通訳の名村五八郎を函館にいた米国貿易事務官、エリシャ・ライスに綿羊の扱い方を聞きにやったのです。これはいささか拡張解釈かも知れませんが、奉行は綿羊が26日に着くと知り、慌てて25日に八五郎を走らせたんじゃない。泥棒を見て縄を綯う、泥縄ではなくて、たまたまそうなったのだと私はみるのです。

資料その25

五月十五日 快晴
一  南部山先役川汲一ノ渡見分之様喜六承り申開
   候川汲是迠之通一ノ渡両敷之内川上斗ニ致候
   様茂助江談し鋌三郎并山先役外壱人蝦夷地江
   遣し候段為申渡候事
一  在住安藤武左衛門面会見込様子并順健丸上乗
   之様子等承る農夫十一人召連来る由
一  南部当所人数交代として物頭并上山半右衛門
   七人呼出し面会<略>


五月十八日 快晴
一 南部山先役岩尾勝右衛門外壱人并鋌三郎蝦夷
  地へ遣し候ニ付御手当向評議廻し済且勝右衛
  門江拾両仁吉江五両渡海之節破舩ニ而荷物海
  中捨りニ成候ニ付別段之訳を以御手当として
  遣す金銀山臨時より御出方之積り

五月廿四日 快晴大風
一 昨夜鋌三郎より用人宛大野より出候状来る順
  健丸佐原へ落舩平作代大野ニて合宿之由い才
  申越す喜六ニ為糺候所当月二日江戸出帆十九
  日ニ佐原へ落舩之由也

五月廿五日 快晴
一 綿羊飼方之儀ライス江聞合五八郎遣す委細相
  分る

五月廿六日 快晴
一 今九時過君沢形順健丸着舩届出る本月二日江
  戸出版綿羊拾匹其外所々の品物等積込来る自
  分荷物も有明日荷上之儀申出る
一 箱館丸御舩御入用漆并綿羊十匹積入順健丸五
  月二日出帆之旨申来る

五月廿七日 快晴
一 順健丸舩頭為御糺候所無別条舩中日記等出す
  綿羊十頭陸揚先御役所物置へ入置御備別当ニ
  為取扱候事
  内四頭ハ庭ヘ飼置候事

 資料その25の役所の庭に置いた4頭が、年表の「奥尻島へ羊に似たメンヨウを放す」となっている綿羊でしょう。これは後藤蔵吉が安政5年3月に檜山海岸を通り「此辺ヨリ七里程沖合ニヲクシリ島アリ周廻廿四五里ヲツトセイノ漁場小家二三軒アルヨシ此島ヘ昨年メンヨウト云ケダ物御放シニナル羊ニ似タル毛物ナリ(46)」<略>と書いた日記から奥尻へ何頭か送ったことは確かであり、安政5年4月の文書に「江戸より相廻り候綿羊都合弐拾四疋并御役所庭飼立之六疋共右飼場出来候迠当分豕飼場江差置(47)」とあるから、10頭のうち役所に6頭を残して奉行所の構内で越冬させたとみられます。
 ちと逸れるが、地図「西蝦夷地ヲクシリ乙図十四」に「惣体連山ニテ樹木海岸ヨリ繁茂ス往昔ヨリ獣一切不住野鼠蛇隔年ニ荒発ス安政三年同心長浜善右エ門初而猫ヲ渡追々生産シテ多シ但近年猫ノタメ鼠狩テ菜園ノ不熟ノ憂スクナシ(48)」と書いてあります。いつごろ書かれた本か調べてないが、早くても安政3年以後だから、野放しの綿羊は越年できなかったらしい。かわいそうにね。ああ、それから長浜善右エ門は島義勇の「入北記」にある、安政4年の箱館奉行所西蝦夷地詰のうちのクトウ詰(49)でした。クトウは今のせたな町久遠で、奥尻も管轄していたとみられます。
 私の想定外のことだが、後藤の「蝦夷日記」は箱館から松前を経て歩いたコースにいた遊女の名前も書いていた。木古内はハマナス、当別はカジマ、知内はハナマガリ、乙部はカドとね。ところが江差は遊女町ありだから、一々書けないぐらい大勢いたんですな。はっはっは。
 安政4年中に箱館にきた綿羊の記録は、どうもこの順健丸分しかないようなのです。翌5年になると、資料その26(1)の村垣公務日記にあるように前年11月に決まった巣鴨薬園の閉園により、渋江元亮の手許に残っていた綿羊約90頭は箱館奉行所へ船で送ることになったのです。それで同(2)から同(5)の文書にあるように、大寿丸は2頭が航海中に死んだけど12頭を運び、惠吉丸10頭、長徳丸14頭、信敬丸14頭合計50頭になるが、到着記録の欠落もありそうたし、船旅に耐えられそうにない虚弱個体や老羊は除いて巣鴨をそっくり箱館へ移したなものだったようです。福井藩士鈴木準道の覚書によると、安政6年春に旧薬園の巣鴨下屋敷を拝見した際、庭で羊が3、4頭遊んでいた(50)そうですから、これらが残された綿羊でしょう。

資料その26

(1)
   正月四日 晴 三十七度

一 左之御書付御渡ニ付渋江元亮引合候所綿羊
  九十疋余有之由追々舩廻し之旨
  巳十一月廿五日備中守殿早川庄次郎を以御下
  け

    御普請奉行
    小普請奉行  江
    箱館奉行

    覚

  巣鴨御薬園向後御差止相成綿羊ハ箱館奉行江
  御下相成候間得其意可被相渡候且又建物ハ小
  普請奉行地所ハ御普請奉行江引渡候様可被成
  候尤向々可被談候右之通渋江庄亮江相達候間
  得其意可被談候事


(2)
午 五月六日着船拾四疋之■弐疋船中死失残拾弐
疋飼所江引取
      送状之事
一 綿羊七箱  但弐疋ツゝ
  右大寿丸江積入相送候間御改御請取可被成候
  已上
        江戸
          箱館
午三月        会所
  箱館
    御役所

綿羊船中ニおゐて若死失いたし候ハゝ海中江
取捨不苦其段箱館御役所江申立へし
     江戸
      箱館方
   ■三月    会所
        大寿丸
          船頭
           重太郎


(3)
午四月廿三日御小印
    書面江戸より相廻り候綿羊都合弐拾四疋
    并御役所庭飼立之六疋共右飼場出来候迠
    当分豕飼場江差置■■■■可仕送状写入
    御覧此段申上置候    印 井上茂輔
印 下野守   午四月     印 安間純之進
     送状之事         向山栄五郎
                  梨本弥五郎 印
一 綿羊五箱  但拾疋
  右惠吉丸江積入相送り候間御改御請取可被度
  候以上
        江戸
   午     箱館
    四月    会所 印
  
   箱館
     御役所


(4)
     送り状之事
一 綿羊七筥  但弐疋ツゝ
  右長徳丸江積入相送候間御改御請取可被成候
  以上
   午    江戸
    三月   箱館
           会所 印
   
   箱館
     御役所
   
綿羊船中ニおゐて若死失いたし候ハゝ海中江
取捨不苦其段箱館御役所江申立へし
     江戸
         箱館
   午三月     会所 印
        惠■■
          船頭
           徳太郎


(5)
四月廿五日高島甚十郎外壱人江引渡候事
      送状之事
    一 綿羊拾四疋  但七箱ニ入
   但食料添
  右は信敬丸御船ニ積入差送申候着之節改御受
  取可被成候已上
        箱館方
  安政五年六月廿三日   江戸
   箱館           ■所
     御役所

 安政5年になると、江戸からもっと送られてくるから、ちゃんとした飼育場所がいる。それで奉行所は恵比須町の貸し地を牛豕飼立地に使うからと返させることにした。無事越冬した6頭と5年の先着24頭と合わせて30頭を「豚飼場ニテ飼立」たいという資料その26(3)は、この場所を指したのです。資料その27(5)の地図のように荷揚げに便利な場所で、かつて高田屋嘉兵衛が借りて蔵を建てていた土地です。弟金兵衛の罪を問い奉行所が没収して大町の宇右衛門に貸していた。その土地のうち2480坪に白羽の矢を立てたのです。
 資料その27(1)の村垣日記では和賀屋茂兵衛とあるけど、公文書では和賀屋宇右衛門と違っています。前通り間口と奥行きは資料その27(6)の地図の縦横比で海側を間口、右上が山手側で奥行きと判断しました。長さは1間1.8182メートル、面積は1坪3.30578平方メートルで計算すると誤差は1平方メートル以下になります。
 道文書館が公開してこれら書類の画像を見ればわかりますが、虫食いが激しい。だからこういう記録が残っているという程度に見なさい。資料その27(3)は加賀屋の嘆願書で、命令された土地の一部に家や厩があると申し出たので、そこを除いた土地としたため同(7)のようなほぼ正方形の綿羊飼立場が作られたと考えます。
 同(8)は部分を切り取り、反時計回りに回転した地図。御蔵所と綿羊飼立場が読めますね。その境目のほぼ真上に小さな正方形が2つあるが、これが掘り割りに架かった橋で、上の四角の上にある3字は「異国橋」です。これが今の函館市の十字街の交差点でね。同(9)は交差点の海側から御蔵所のあった方向を撮った写真でね。綿羊飼立場の場所はこの右奥という見当です。

資料その27

(1) 村垣淡路守公務日記 
正月十四日 雪 三十八度
      <略>
一 家囲所御藏地後千四百三十二坪牛囲所同断和
  賀屋茂兵衛拝借地之内二千四百八十坪上け地
  廻し濟


(2)
         印 奥村季五郎
         印 井上茂輔
         印 安間純之進
           鈴木尚太郎 印
           村上愛助 印
午正月十四日御小印済 向山栄五郎 印
           海老原武治 印
           山室精五郎 印
   印 淡路守   三田喜六 印
           長谷川就作 印
           梨本弥五郎 印
           松岡徳次郎 印
           小島源兵衛 印
           応接掛
           呼方掛
           御普請掛
        御勘定方

牛豕飼立地■■儀御蔵■■■内■用■積之處
同所は昨年之通藍植付度趣■■物掛より申聞候間
■■■続山手之方大町宇■■■ ■■■■
■千四百八十坪今般返地為■■■■■■■
仕度別紙絵図面相添此■■■■■■
  但地境堀割小土手築■■矢來根■■ 苗植
  付■積
  午正月


  差上申一札之事

大町宇右衛門拝借地之内御蔵地続山手之方
前通間口四拾間奥行六拾弐間此坪数弐千四百
八拾坪今般御用ニ付返地可仕旨被
仰渡承知奉畏候御請証■差上申■■
    
       大■■
 安政五年正月十五日  ■■■■衛門 印
   
  御奉行所

前書被 仰渡之趣私儀罷出承知奉畏候依奥書
印形仕 
差上申候以上
       町年寄
           白鳥今右衛門 印


(3)
  以書付奉申上候
   
一 今度牛豕御畜場御取建被為在候ニ付大町宇右衛門
拝借地殊ニ寄御用地ニも可相成其節は別段替地相願候
廉ニも可有之候間右等之趣差含篤と内調之上可申上
■■ ■■ ■■依之宇■■■江■■■■
■■■■借仕■■■■■■■■■■■■
飼葉御冥加上納罷在四方■土手築上野菜等植付
■■馬飼場ニ致置候事故不残 御用地ニ相成候而ハ
差掛馬飼場ニ当惑且急速願上候替地無御座候
間可相成御儀ニも候ハゝ恵比須町通表間口六拾弐間
うら行六拾間之内南手間口六拾弐間うら行三拾間奉返上
北手間口六拾弐間うら行三拾間之處ハ建家并馬小家
■■■候間是迄之通拝借被 仰付被下置度旨申出候間
可相成御儀ニも被為在候ハゝ同人願之通被仰付■様■■
■ ■■ニ付■段取調奉申■■以上
            町■■
 午正月十二日      西村次兵衛


(4)
    乍恐以書付奉願上候

 恵比須町通私拝借地之内御蔵地続山手之方前通
間口六拾弐間奥行四拾間今般御用ニ付返地可仕旨被
仰渡承知奉畏候随而奉願上候も恐多奉存候得共右
御用ニ相成候地所之内 番人居宅并馬小屋取建■候得■
■■居宅并馬小屋移転■■■候間■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■借被 仰付被下置度奉■■何卒■■
御憐愍右願之通被 仰付被下置度此段乍恐以書付
奉願上候以上
  午正月■■日
         和賀屋
            宇右衛門 印
         大町
          丁代
            和平 印
         名主
            伊兵衛 印
   御奉行所様 
 
前書之通奉願上候間御奥印仕候以上
   
           白■■右衛門 印


(5) 箱館港市街地図(函館市中央図書館所蔵)
   

(6) 箱館市中細絵図 文政ごろ(同)
   

(7) 官許/箱館全図 万延元年(同)
   

(8) 同上(同)
   

(9) かつて異国橋があった末広町交差点 平成29年3月
   

  

参考文献
上記資料その25の出典は「村垣淡路守公務日記12巻」13コマ、 函館市中央図書館デジタル資料館所蔵 http://archives.c.fun.ac.
jp/fronts/detail/reservo
ir/516f6d901a55724270001
4cd (45)は日本歴史学会編「日本歴史」294号73ページ、杉谷昭「幕末蝦夷地調査史料『入北記』について」より、昭和47年11月、吉川弘文館=館内限定デジ本、 (46)は道立文書館・旧記1751「後藤蔵吉著『蝦夷日記』5丁ウ、道立文書館所蔵=写本、 (47)は請求番号A1−3簿書58件番号101「綿羊二拾四疋豚飼場ニテ飼立方ノ義伺書、但送り状とも」、安政5年4月、道立文書館=原本、 (48)は梨本氏蔵書「西蝦夷地ヲクシリ乙図十四」、年月不詳、YD−古−3045=マイクロフィルム、 (49)は日本歴史学会編「日本歴史」294号76ページ、杉谷昭「幕末蝦夷地調査史料『入北記』について」より、昭和47年11月、吉川弘文館=館内限定デジ本、 (50)は福井県文書館編「福井県文書館研究紀要7」68ページ、柳沢芙美子「福井藩巣鴨下屋敷のリンゴをめぐって」より、平成22年3月、福井県文書館=国会図書館インターネット本、 資料その26(1)は「村垣淡路守公務日記12巻」13コマ、 函館市中央図書館デジタル資料館所蔵、   http://archives.c.fun.ac.
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ir/516f6d901a55724270001
4cd、 同(2)は請求番号A1−3簿書58件番号107「綿羊七箱大寿丸にて積越し送り状」、安政5年3月、道立文書館=原本、 同(3)と(4)は同件番号101「綿羊二拾四疋豚飼場ニテ飼立方ノ義伺書、但送り状とも」、安政5年4月、同、 同(5)は同件番号102「信敬丸御船ニテ鉄積越ニ付送り状、同持運賃書上共」、安政5年6月、同、 資料その27(1)は「村垣淡路守公務日記12巻」44コマ、 函館市中央図書館デジタル資料館所蔵、 http://archives.c.fun.ac.
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ir/516fc08c1a55724270001
c99、 同(2)は請求番号A1−3簿書3件番号58「大町宇右衛門拝借地ヘ牛豚飼立場取建ニ付返地為致候書付」、安政5年1月、道立文書館=原本、 同(3)と同(4)は同件番号17「大町宇右衛門御蔵地脇拝借願書」、安政5年1月、同

 安政5年6月、医師栗本瑞見が箱館に着任します。幕府製薬局の医師だった彼が観光丸という外輪船の試し乗りに応募したら、医者がやるべきことではないと蝦夷地へ左遷されてきたのです。栗本が加藤懋に渡した文書は「安政年間箱舘奉行ノ請ニヨリ賜リテ北地ニ養ハシム是ヨリ後在住医師栗本瑞見奉行ノ旨ヲ受テ箱館地蔵町ノ倉地ニ養ヘリ」つまり命令されて綿羊を飼ったと書いたけど「外国人へ差渡の牛豚羊飼養並に薬園世話方栗本瑞見へ申付の件」という文書では「栗本瑞見儀牛豕羊とも引請飼立方仕法取調申立候ニ付(51)」ですからね、進んで引き受けたように受け取れます。
 それはさておき、栗本は渋江長伯からの耳学問で、生きた綿羊を扱ったことがない。それで、まず自宅の庭に小屋を作った。「元栗本端見屋敷内ノ綿羊小屋払下ノ件(52)」という文書が残っていますからね。そして自宅の何頭かを観察しながら、倉地の綿羊群の飼い方を指導したらと考えます。
 万延元年10月ににその綿羊小屋を「金拾九両三分永五拾分」で払い下げ受けたのは山ノ上町の文右衛門と栄吉(53)です。この2人が屋敷内と倉地の綿羊の飼育担当者だったようで、同年12月の「牛豚羊飼養損失多きに付山の上町文右衛門外1名へ飼育申付薬園は栗本瑞見取扱の件」という書類から、奉行所は栗本の家畜管理に見切りをつけ、2年分のご褒美銀7枚を与えて薬園専任とし、綿羊と牛豚飼育は引き続き文右衛門と栄吉に任せたのです。(54)
 後に鋤雲と名乗るようになってからの「栗本鋤雲翁の自伝」では「移住諸士の頭取を命ぜられ、箱館に止まりて之を統轄し、兼て綿羊を牧するを督し(55)」と綿羊はだれかにやらせたと語り「栗本鋤雲先生自伝」でも「又官、薩人肝付兼武ノ請ヲ容レ、軍川ノ原ヲ柘シ、種牛百頭ヲ南部地方ニ購フテ放牧シ、蓄殖ノ後チ窮窘ナク、内外ノ需用ニ充ツルヲ以テ、予ヲシテ其事ヲ督セシム(56)」と綿羊に触れていないのは、こういう事情があったからでしょう。
 では綿羊小屋付きの栗本屋敷は箱館のどこにあったのか。小屋払い下げの文書には住所がないので私はお手上げしたんだが、大妻女子大名誉教授の井田進也氏は栗本の「箱館叢記」を手がかりに船見町3丁目のここだろうと論文「栗本鋤雲の函館」に書いてくれました。それによると井田さんは平成12年9月、函館にきて栗本宅を探していて、もらった函館の観光地図に咬菜園跡という史跡マークがあるのに気付いた。栗本は「十升」という屋号の「界屋何某」という名主が開いたの「咬菜園」がわが家の隣地にあったと「箱館叢記」に書いているので、咬菜園跡の隣と思う場所の写真を撮って東京に戻った。その後、井田さんが得た咬菜園関係者や函館の歴史研究者からの情報を総合すると「どうやら鋤雲旧居の最有力候補は、『咬菜園』下のマンションのその下、現在『函館庵』という宗教法人になっているところ(57)」と判定したのです。資料その28は井田さんが描いた地図で、奉行所はいまの元町公園のところでしたから、ここなら通うにも楽です。
 ところが、栗本は最後は五稜郭にいたのです。元治元年にあれが完成して奉行所が移転して、土塁の北側に今風にいえば56軒と同心長屋の公宅団地ができて栗本も組頭の1人として入居したのです。「江戸」という雑誌に「五稜郭内箱館奉行支配組頭以下役宅地割図」が載っていて、三田佶という人が4人いた組頭宅はここと示しています。(58)當時は真北にも橋があり、その橋を渡って奉行所への往復したのです。
 栗本は「文久二年、歳四十一幕府特命アリ、予カ医籍ヲ改メ士藩ト為シ、箱舘奉行支配組頭ト為ス、(59)」だから転居は文久2年以降ですが、同年8月箱館を発ち樺太で1冬過ごして3年夏に戻り、12月に江戸に転勤になったので、五稜郭には何年と数えるほど住んでおらず、それで「箱館叢記」には船見町の家のことを書いたとみられます。

資料その28

     

 おお、時間がない。ここで箱館奉行所が本気で綿羊を飼い、売っていた事実を示します。安政6年1月、下田のアメリカ領事ハリスが箱館で牛1頭が25ドルもするのは不当だと、去年からいっているのに変わっていない。長崎なら3ドルで買える。蝦夷は土地が広くて牛を沢山飼っていて安いはずなのにおかしいと外国奉行に抗議した。(60)それで幕府は箱館奉行に同じ品物を港によって値段が違いすぎるのはよろしくない。どれぐらいの値段なのか報告するようにと命じました。
 それで箱館奉行は牛や豚は飼育場の設置、蕃殖費、運賃などがかかる。価格未定の物は原価の2倍程度、その他は3割5分見当の関税を掛けて売り渡していると、大工の手間賃を含めた38品目の物価割掛取調書を付けて外国奉行に報告しました。外国人に売るときの値段は、だいたい元値の3割5分増しとし、2割は用達、残り1割5分は関税と決めたようです。取調書を見ると丁銅という銅板、棒のような延べ銅、生きた牛と豚と綿羊と鶏は一律元値の2倍、そのほかの32点はだいたい3割5分前後上げた価格(61)を示しています。
 ジンパ学として注目するのは、売るほどいたかどうかわからないけど、安政6年に箱館奉行所が綿羊1頭は大銀銭4枚から7枚と価格を決めていたことです。ですから飼立場を預かった文右衛門と栄吉は一生懸命、頭数を増やそうとしたと思います。
 資料その29は取調書の先頭の7品目だけとし、残りは講義録のここをクリックすれば見られるようにしておきます。それからね、加藤懋は長崎縣からの綿羊飼育の史実報告を求めたのですが「牧羊事蹟考」の締め切りに間に合わなかった。農商務省に届いたその報告書と加賀藩の資料については時間がないので、取調書と一緒に読めるようにします。

資料その29

  物価割掛取調書

一 丁銅百斤
   代銀銭弐拾壱枚九分四厘
    此銭百七貫五拾四文
     但
      御勘定所元代
      一倍之積
      一斤目方百六拾目
      大銀銭壱枚銭四貫八
      拾文以下同断

一 延銅百斤
   代銀銭弐拾六枚壱分七厘
    此銭百弐拾七貫七百弐拾六文
         但前同断

一 生牛壱疋
   代大銀銭拾八枚より弐拾五枚迄

一 豕壱疋
   代大銀銭三枚より七枚迄

一 綿羊壱疋
   代大銀銭四枚より七枚迄

一 鶏拾弐羽
   代大銀銭三枚
    此銭拾四貫六百四拾文

一 白米百斤   此石四斗三升
   代大銀銭壱枚五分壱厘七毛
    此銭七貫四百弐文
    内
     銭五貫四百八拾三文 元代
     銭壱貫九百拾九文  割懸但三割五分

一 石炭百斤
   代大銀銭三分
    此銭壱貫四百六拾四文
    内
     銭壱貫二百六拾四文 石炭掘出し諸入用
     銭弐百四拾八文   割懸弐割余

 箱館奉行所は蝦夷地の防衛費を生み出すために、積極的に道産品の流通を統制して江戸、大坂、兵庫、下関、新潟、敦賀に設ける蝦夷地池産物会所で売りたいと幕府に願い出て、安政4年6月、江戸濱町に200坪余りの土地の使用(62)を許されました。
 また、アメリカの捕鯨船が次々入港してくるので、捕鯨を始めようとしました。それで安政4年11月、アメリカ捕鯨船に乗り組んだ経験のあるジョン万次郎こと中浜万次郎を箱館に招いて鯨の取り方を学んだり(63)、入港していたアメリカ捕鯨船に漁具を見せてもらい、鯨用の槍などを造ったりした。翌6年に捕鯨船を2隻買いたいライスに相談したところ、新造船なら2年掛かるし、停泊中のレヒット号なら11万5000ドルはする(64)と言われて断念したようなのです。
 安政6年のことですが「陸奥国盛岡城主南部美濃守利剛家来上申書」という文書は南部藩の山本直右衛門が用事があり箱館奉行所にいったら調役大橋宥之助からことし6月から外国船と交易できるようになるから国産品販売店を開く。南部藩もいろいろ売り物があるだろうから、一緒に売ろうとおいしい話を持ち掛けられ、資料その29の物価割掛取調書と同じような価格表を渡された。また上山半右衛門も何度も箱館側から同じように共同販売を持ちかけられたそうだと報告しています。(65)この翌年上山が綿羊を買って帰国したのは、将来箱館でなくても売り物になると信用したからでしょう。
 こうした箱館の政治経済の推移について「更に注意すべきことは多少外人に接して外国の事情を知る機会を得た箱館奉行等が、進歩的思想を有していたことで、竹内・堀両奉行の如きは安政二年四月に既に早く幕府に向て蒸気船の下渡を申請した程であった。後年出貿易を主張して亀田丸がニコライエフスクに渡航して貿易し、又健順丸が香港バタビアへ派せられんとした如きも箱館奉行の画策による所であつた。(66)」と経済史研究者本庄栄治郎氏は評価している。当然、箱館育ちの綿羊も新しい蝦夷地産物にしょうと大事に育てたに違いないということで終わります。
  

参考文献
上記(51)の出典は請求番号A1−3簿書432件番号1「外国人へ差渡の牛豚羊飼養並に薬園世話方栗本瑞見へ申付の件」、安政6年7月、道立文書館=原本、 (52)と(53)は同簿書32件番号110「元栗本端見屋敷内ノ綿羊小屋,払下ノ件」、万延元年1月、同、 (54)は同簿書45件番号20「牛豚羊飼養損失多きに付山の上町文右衛門外1名へ飼育申付薬園は栗本瑞見取扱の件」、万延元年12月、同、 (55)は旧幕府雑誌社編「旧幕府」2巻4号79ページ、明治31年4月、旧幕府雑誌社=館内限定近デジ本、 (56)は博文館編「日本大家論集」2巻4号451ページ、明治23年4月、博文館、同、 (57)は大妻女子大学比較文化学部 編 「大妻比較文化 大妻女子大学比較文化学部紀要」12号146ページ、井田進也「栗本鋤雲の箱館」より、平成23年3月、大妻女子大学比較文化学部、同、 (58)は江戸旧事采訪会編「江戸」5巻1号83ページ、「箱館鎮台史料 其七」より、大正5年11月、江戸旧事采訪会、同、 (59)は博文館編「日本大家論集」2巻4号451ページ、明治23年4月、博文館、同、 (60)は東大史料編纂所編「幕末外国関係文書之二十二」91ページ、「正月二十一日米国総領事ハリス書翰 箱館物価の件」より、昭和60年9月、東大出版会=原本、 (61)と資料その29は請求番号A1−3/簿書32件番号14「外国人ヘ売渡ノ牛・石炭其外諸品値段ノ件」、安政5年1月、道立文書館=原本、 (62)は東大史料編纂所編「幕末外国関係文書之十五」795ページ、85/6「三〇六 四月十八日箱館奉行伺 老中へ 東西蝦夷地産物取締方の件」と昭和年月、東大出版会と同「十六」494ページ、「一五九 六月二十七日箱館奉行上申書 老中へ 蝦夷地産物会所地請取の件」、いずれも昭和60年6月、東大出版会=原本、 (63)は 村垣淡路守著「公務日記」写本11巻139ページ、安政4年11月、函館市中央図書館所蔵、 http://archives.c.fun.ac.
jp/fronts/detail/reservo
ir/516fc5111a55724270001
d00 (64)は同12巻88ページ、同、 (65)は東大史料編纂所編「幕末外国関係文書之二十二」626ページ、「二月陸奥国盛岡城主南部美濃守利剛家来上申書 箱館表国産店開業の件」より、昭和60年9月、東大出版会=原本、 (66)は本庄栄治郎著「本庄栄治郎著作集」9冊317ページ、「幕末の新政策」より、昭和48年6月、清文堂出版=原本

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