急成長した「東来順」などでも食べた

 前回は北京にあった正陽楼にまつわる思い出を紹介しましたが、ジンギスカン料理ことカオヤンローの本場ですからね、屋台もたくさんあったのです。大きな鍋を囲み、片足上げて焼かせる店ばかりでなくてね、コックが焼いて皿に盛って出す料理店も含めると、札幌におけるラーメン店の普及率に近いぐらいカオヤンロー店があったのではないでしょうか。
 昭和14年に北京日本商工会議所が出した「北京商工名鑑昭和十四年版」に北京飯荘同業公会という団体の会員名簿が載っています。単なる名簿で結成の目的などが書かれていないのでわかりませんが、中国人経営の料理店組合のようなんです。店名とおおまかな住所と経営者の名前しか書いていないけれどね、数えると205店ある。前回話した正陽楼、きょう取り上げる東来順はちゃんと入っているし、全部ではないようだが、正統派の有名店も加盟しています。(1)そのリストは、いま必要としないので配りませんが、参考資料として私の講義録のホームページの方で見られるようにしておきます。<講義録を見ている人はここをクリックしなさい。>
 飯荘というのは大きな料理店を指すのだから、中小零細の料理店は入っていないはずで、ましてや、その中のジンギスカンを出す店となれば煙の中、見えにくい。中国語の本にも多分書いたものはないでしょう。
 高木健夫は烤羊肉(カオヤンロウ)正陽楼(チヨンヤンロウ)東来順(トンライシユン)西来順(シーライシユン)だけだと思ったら大まちがいで、まだまだ露店でもうまいところがある。(2)」といっていますが、北京を訪れた日本人の多くは、そうした道ばたでジュージュー焼いている店なら安く上がるとは知りつつも、だれかから教わったちゃんとした店構えの料理店へ入ったようで、正陽楼以外では、東來順という料理店についての思い出が多い。どちらかといえば羊肉の方が多いようですがね。さらに敗戦前、つまり昭和20年以前に北京を訪れて、店の名前は明記していないけれども、ジンギスカンを食べた思い出がまだまだあるので、きょうはそうした思い出も加えて話しましょう。
 これは、取りも直さずジンギスカン料理という奇妙な名前は、北京から広まったという北京発祥説を補強するものであり、ジンパ学としては満洲発祥説と比較検討するためにも、その収集に努めておるところであります、なーんて、そこらの当局答弁みたいだね。
 そこでだ、正陽楼と同じように年代順に話そうと考えたが、東来順のは正陽楼と違って、昭和10年代に集中していて明治、大正の回想がない、いや見つかっいないんです。それで店の生い立ちから始めることにします。その前に、資料を配りますからね、ちょっと待った。はい、行き渡りましたね。おほん、こまごまたくさんあるでしょう。
 正陽楼でも引用した村上知行は東来順がお気に入りだったようで、著書「北京歳時記」開店にまつわる逸話を詳しく書いています。人生訓としても読めるものであり、資料その1に途中を省略せずに引用したので、長くなりましたが、著作権継承者の方のご了承をお願いしておきます。

資料その1

 偖て私は此處で、東來順について一言しよう。
 私は今迄、日本からの客を随分そこに誘つたが、誰一人として店の大きいのと、客の混雑に驚かぬ人はなかつた。殊に晩飯時の雑鬧に至つては、四階建ての店全体が、幾百人かの客で、蜂の巣のやうに噏々(うをん/\)唸つてゐる。
『一体、此の店には何人ボーイがゐるのか?』
 私はある時、ボーイの一人に斯う聞いてみた。
『百三十五人ゐますよ。私なんざもう此の店に三十年間勤めてゐまさア。』
 答は斯うだつた。此の百三十五人といふのは、料理人だの帳場だの、その他の使用人を除いた数で、しかも日本のカフエーの女給のやうに無用の存在ではないのだ。仮に一人で五人の客(事實はそれ以上だらう)を扱ふとしても、一時に六百人以上の客に応接することが出來る勘定だから、朝から晩までに出入りする客数は大したものに違ひない。
 店の主人は丁子青(テインズチン)といふ。彼は回教徒で、そも/\は身に属する一物もない苦力(クリー)だつた。血と汗と、只だそれだけを資本としての幾年かの苦闘の後、やつと小金を貯め得た彼は、今その巨大な店を開いてゐる同じ東安市場の片隅に、形ばかりの露店を張つて(メエヌ)(日本のうどんみたいなもの)を売ることにした。それが今から二三十年前だ。
 ある日のこと、彼の店に立寄つた一人の老人がある。その老人が立去つたあと、不図見ると其處に鞄が置き忘れてあつた。
 彼は早速それを抱へて老人の行衛を追つた。人混みの市場の中を暫し迂露々々してみたが遂に捜し出せない。試みに鞄を開けてみると、札束が一杯だつた。
『弱つたな!』と彼は呟いた。『返してやりたくても相手は何處の誰とも分らないお客だ。早く取り來てくれゝば好いが! どうせ棄てゝ置く訳はない。屹度取戻しには來るだらう。が、それにしても、俺はみすぼらしい露店商人だ。今迄お目にかゝつたこともない此の大金を預つて、ひよつと盗まれでもしたらどうしようか!』
 彼は言莱通りに弱り切つた。商売も碌に手につかなかつた。
 老人は豫期に反し、翌日も、またその翌日も姿を見せず、徒らに彼の気を揉ませるばかりであつたが、四五日経つて訪ねて來た。
『若しや‥‥』
 老人は斯う問ひかけた。然し皆まで問ふ必要はなかつた。彼の方で躍りあがる程喜びながら、
『これでございませう?』
 と鞄を差出したのである。
 老人はその幾日かの間、心常りの諸々方々を尋ね歩いたのであるが、最後に不図思ひ出したのが、麺を喰つた露店のことである。しかし‥‥と老人は考へた。よしんばあそこに置き忘れてゐたにせよ、相手は露店商人である。藏して、知らぬと言へばそれまでゞはないか! 斯う思つて結局諦めたが、それでも念のため立寄つて見たのだつた。
『ほんとに、よく來て下すつた。來る日も/\俺は此れを抱へて、どんなに心配したでせう。』
 斯う言ひながら、鞄を戻す彼の姿が、老人の眼にはさながら『奇蹟』そのものだつた。その後老人は彼に、さゝやかな店を一軒建てゝやつた。それが今日の東來順の芽生えだつたのである。
 此のロマンスは、北京で遍く知られ、人々は丁子青の成功を、正直の徳に婦してゐるが、私は寧ろ、偶然手中に落ちた大金に依頼しようとしなかつた、果敢なる彼の独立心と努力とに帰すべぎてなからうかと思つてゐる。

  

参考文献
上記(1)の出典は塚本 正己編「昭和十四年北京商工名鑑」405ページ、昭和14年10月、北京日本商工会議所=原本、 (2)は高木健夫著「北京繁盛記」138ページ、昭和37年9月、雪華社=原本、 資料その1は村上知行著「北京歳時記」257ページ、昭和15年6月、東京書房=原本


 中野謙二は「涮羊肉は清の咸豊四年(一八五五年)に開店した前門外の正陽楼が最も歴史古く有名だったが、一九四二年惜しくも廃業した。現存するのでは東風市場の東来順(一九〇三年開業)がよく知られ、鴻賓楼も冬のうちならやってくれる。(3)」と「新北京歳時記」(252ページ、昭和56年5月、東方書店=原本、)に書いているので、開店は明治36年なのですね。この年はライト兄弟がライトフライヤーで飛行に成功した年であり、東来順もまるで飛行機みたいに発展して、正陽楼と並ぶ老舗になったのですなあ。大塚令三は「正陽楼・西來順・東來順は羊肉を以て鳴る。(4)」と書くのは当り前だったのです。
 竹内好は、すばり「東来順」という報告を書いています。「竹内好全集」14巻に収められており、飯倉照平氏の解題によれば、昭和17年に出た「回教圏」という雑誌に掲載された(5)ものだそうですが、彼の日記にも何度も東来順が出てくることからみて、竹内は村上と同じように東来順ファンだったと思われます。
 ほぼ同じ時期に書いたとみられるのに店主の名前が村上と違っています。子青は創業者で徳貴というのは、子供か孫ではないかな。いずれにしても回教徒の丁という一家が経営していたのでしょう。戦前の東来順の概要を知るよい一文として資料その2に引用させてもらいました。

資料その2

   東来順

 北京の東安市場といえば、西単商場と並んで、日本人にも有名な商店街である。商店街というよりも、一種のバザーである。一廓の中に、数百軒の商店が密集している。北京の名所の一つである。その中に料理店のブロックがあって、その中の一つに東来順というのがある。東来順は回教徒の経営する料理店である。日本人には、回教というよりジンギスカン料理として知られている。ジンギスカン料理の本当の名は、烤羊肉という。羊の肉を紙のように薄く切って、葱などの薬味を添え、醤油にひたして、特殊な鉄板の上で焼きながら食うのである。鉄板を熱するには特殊な薪が使われる。一つの鉄板を数人が囲み、立ちながら、片足を板の台に置いて、野天で賞味する。酒は、喉を焼く高粱酒が適う。合間に堅く焼いたパンに似た焼餅を噛る。冬が季節とされる。野趣があって、うまくて廉く、日本人にも昔から喜ばれている。烤羊肉は、北京では、この店ともう一軒正陽楼とが有名である。
 烤羊肉のほかに、涮羊肉(火鍋子)というのもある。これは同様の肉の水焚きである。特稼の鍋を用い、特株の薬味を調合した汁につけて食う。さっぱりして、うまいものである。東来順では、普通の料理も作るが、とくにこの二つが看板で、客は大抵その何れかを注文に加えることが多い。
 羊肉のほかに、牛肉も注文できる。今度行ったときは羊肉が供給不足で、牛肉の方を多く出された。しかし豚肉は絶対に使わない。経営者が回教徒だからである。その点だけが、ほかの料理店とちがうのである。
 僕は一日、市政府へ勤める友人とここへ飯を食いに行った。友人はある事件の解決に尽力した関係で、ここの主人である丁徳貴氏に労を多とされ、その日も歓待にあずかった。酒間とて立入った話は出来なかったが、成功した回教徒商人の典型に接しただけでも意外の収穫であった。この店は、一日三千元の売上げがあると友人は推定していた。税金から割出したのだから万更虚構ではないようである。店の格式から云うと、二流、あるいは三流なのだが、売上げの点では北京第一だそうである。構えはきたないが、それでも昔から見ると大分立派になっている。三階建で、一時に数百組も収容できる。それが食事時は殆ど空席がない。大した繁昌である。それを云うと、主人はしきりに謙遜の言葉を洩していたが、一宵百金を散ずる宴会料理屋としてでなく、いわば大衆料理屋として今日の北京一の地位を築いた点が、とくに敬服すべきものに思えた。<略>

  

参考文献
上記(3)の出典は中野謙二著「新北京歳時記」252ページ、昭和56年5月、東方書店=原本、 (4)は満蒙文化協会編「満蒙」15年2号189ページ、大塚令三「北京料理今昔記」、昭和9年2月、満蒙文化協会=原本、 (5)は竹内好著「竹内好全集」14巻508ページ、飯倉照平「解題」、昭和56年12月、筑摩書房=原本、資料その2は同362ページ、同


 では東来順がどんな店構えだったのか。夜の写真なのでほとんどわからないのですが、北京の羊肉店を撮ったこうした写真が残っているだけでも珍しいので、スライドでみせましょう。はい、これは安藤更生という新聞記者が昭和16年に出した「北京案内記」という本の「北京の飯館子」という章に載っていたものです。だから写真の左上に「北京の飯館子」と入っているのです。東来順と右書きした看板は電灯の光が邪魔ですが、なんとか読めます。  安藤も「回教系の回回館と云ふのがある。これは門口を見ると一目でわかるやうに回々の文字或は「回回清眞(ホイホイチンチエン)」とか書いてあり牛と羊を主とし豚の料理は絶対に作らない。(6)」と書いてますから、東来順も表のどこかにそうして表示があったはずですが、この写真では全然わかりませんね。
 もっとわからん写真が奥野さんの「北京襍記」にありますよ。「東安市場の午前東来順羊肉館の前通り、大北京の朝の鼓動。(7)」と説明しているのですが、ほとんど真っ黒の画面の右上から斜めに細い光が差し込んで、6、7人の市民が小路を歩いているのがやっとわかる程度なので割愛しました。これの方がはるかにマシですよ。

    
  (安藤更生著「北京案内記」より)

 安藤の「北京案内記」は「先づ北京の主な料理屋と、その得意な料理、及び所在を調査したのを挙げ以て参考に供する。」として、山東料理を得意にする料理店を山東館という書き方で調子で山東館18でこれが最も多い。以下は淮揚館7、閩川館6、広東館4、貴州館1、羊肉館8、河南館2、精進料理屋2、西洋料理9とに分けて合計57店を紹介(8)しています。資料その3(1)はその羊肉館を抜き出したものです。最後の一畝園という羊肉館は住所も何もありませんが、後で話す小説家高見順が訪れた店として挙げています。
 何人かが東来順は屋上で焼くようになっていると書いています。よく知られているのが、永井龍男の短編「手ぶくろのかたつぽ」ですね。平成15年の道新の「探偵団がたどるジンギスカン物語」でも紹介された。さわりを資料その3にしたから見て下さい。この中の「成吉思汗(ジンギスカン)鍋は、東安市場(トンアンシーチャン)の屋上にあるのださうで(9)」という個所は小学館の「日本国語大辞典」第2版の「ジンギスカン鍋」の用例に取り入れられていました。辞典の用例では自慢したいことがないわけではないけど、またの機会にしましょう。
 資料その3(1)は、安藤の「北京案内記」の羊肉館の抜粋、その(2)は永井による東来順の鍋の描写です。

資料その3
(1)

    羊肉館

東来順  涮羊肉、烤羊肉、凉悶鶏
     炸羊肉              東安市場
正陽楼  烤羊肉、涮羊肉、蠎
     蟹料理              前外肉市
西來順  ■<1字不明>三白、沙鍋魚翅、
     烤羊肉、涮羊肉           西長安街
同和軒  川散丹、木穉肉          前外李鐵拐斜街
両益軒  塔斯密、炮三様            〃
廣福居(俗に穆家齊) 炒烤疸燉牛肉      五道廟
同聚館(俗に餡餅周) 餡餅、水爆羊
           肚、烤涮羊肉      煤市街
一畝園


同(2)
 手ぶくろのかたつぽ
                    永井龍男
 <略>
「先生、先生」と起されてゐた。×さんから電話といふことだ。
「出掛けに一寸覗いたが眠つてゐたので――、寒くなければ、×君を迎ひに上げるから出ていらつしやい。初雪の中で、烤羊肉(じんぎすかん)を御馳走しよう。ここでは初めてでせう」<略>
 ×君が迎へに来て呉れた。成吉思汗鍋は、東安市場(とんあんすうちやん)の屋上にあるのださうで、一時に其処で×さんと逢ふといふのも好都合であつた。<略>
「私も、烤羊肉(カオヤンロウ)はこの冬初めてなので、御礼をいはれるどころではない。雪を見たらすぐ君を引張り出すことにしましたよ」
 ×さんが、ぽつりぽつりとした口調でさう云つた。
 給仕が迎へに来て三人立つた。廊下の突当りの扉を開くと、ちらちらと降る雪空の下の屋上へ出た。鍋の下の仕掛は忘れて了つたが、成吉思汗鍋といふ鍋らしくない鍋は、直径一尺余の七輪のおとし(・・・)を炮焙を伏せたやうに中高にしたもので、赤々と火を透かせてゐた。帯の高さほどのこの鍋を囲んで、粗末な縁台が二三脚置いてある、これへ片足かけて出汁に浸した羊を焼くのが法だと聞いた。錫の小徳利に入れて、焼酒そつくりな酒を添へてくる。ままごとに使ふやうな小さな杯で、合間合間に含むと、口中の脂が奇麗に消えた。<略>
(初出は「文芸春秋」昭和十八年四月号)

  

参考文献
上記(6)とスライドの写真の出典はいずれも安藤更生著「北京案内記」265ページ、昭和16年11月、新民書館=原本、 (8)は同264ページ、同、 (7)は奥野信太郎著「北京襍記」口絵写真、昭和19年4月、二見書房=館内限定近デジ本、 (9)は日本国語大辞典第二版編集委員会、小学館国語辞典編集部編「日本国語大辞典」2版7巻561ページ、平成13年7月、小学館=原本、 資料その3(1)は安藤更生著「北京案内記」264ページ、昭和16年11月、新民書館=原本、同(2)は文芸春秋社編「文学界」37巻10号(創刊50周年記念特大号)242ページ、昭和58年10月、文芸春秋社=原本、

 私はね、東来順について書いたものをせっせと探しているのですが、まだ古くても昭和1ケタのものしか見付けてない。明治からの店なのですから、そんなわけはないと思って、googleの書籍検索などを頼っているのですが、はかばかしくない。その理由として東来順はジンギスカンの店というより、さんずいに印刷の刷、それに羊肉と書くシュワンヤンロー、羊肉しゃぶしゃぶの店として思われていたことが大きいと私は考えておるのです。
 いまでこそ、しゃぶしゃぶという呼び方が定着して、冬より夏の北京観光を好む日本人は東来順はじめ羊肉館に入ってしゃぶしゃぶを食べてくる方が遙かに多いらしい。ゆがくことで脂が抜けてヘルシーということもありましょうが、戦前ではさしてそういうことを気に留めていなかった。ですから、東来順で食べた思い出でもどっちを食べたと明記しているのは少ない。いや、私がジンギスカン専門で集めなかったということもあるかな、はっはっは。
 それはさておき、これはレポートの課題に挙げておきます。きょうの資料に挙げた以外で戦前の東来順のカオヤンローの記録を探してほしい。羊肉でなくて、烤羊肉に限りだが、2つ見つけて書いたレポートには最高点を付けますよ、本当に。
 東来順と明記していて、内容から時期を推定できるものも入れて、年代順に並べてみたのが、資料その4です。その(1)は松本亀次郎の「中華五十日游記」です。松本は東京と北京で魯迅はじめ多くの中国人に日本語を教えた人です。そのために作った「漢訳日本文典」が国会図書館の近代デジタルライブラリーにあります。
 鹿児島女子大の二見剛史さんは「昭和六年七月出版の『中華五十日遊記』は松本の自伝とも称すべき著作であるが、その冒頭に『予が教場に於て相見えた中華学生は、優に萬を以て数へる程で』と記されているように、多くの教え子に接した喜びと自信が彼に充満していたことを示してくれる。萬を数える中には宏文学院や東亜高等予備学校での学生たちが含まれるわけであるから、北京時代ということになれば、数も限定されるわけだが、『撫子の色取りどりに咲き匂ふ国懐かしみ旅立ちにけり』という歌が詠まれる程に中国は彼にとって最も身近かな外国だったといえそうである。(10) 」と「京師法政学堂と松本亀次郎」に書いています。
 それぐらい中国語ができたのだから「東長安市の東来従号飯店」と書いてますが、これは東来順とイコールであろうと推察して取り上げたわけでしてね、もしかしたら、これは別の店かも知れません。
 (2)は川合貞吉の思い出です。この前を読むと、関東軍が錦州を攻撃する前のようなので、昭和6年秋のことでしょう。なお川合の回想にはリヒアルト・ゾルゲや尾崎秀美なども登場することもあり、その真偽についていくつかのサイトで議論が読めますが、東来順は出てきませんから、川合たちが食べたことは信用していいのでしょう。竹内が東来順は3階建てと書いているのに「四階の屋上」というのは変ですが、4階に当たる屋上ということでしょう。

資料その4

(1)昭和5年5月

 【張實氏の清真料理昼餐會】 八日正午張實氏から東長安市の東来従号飯店で、回々教の清真料理を饗せられた。来会者は高歩瀛銭稲孫両氏及び高橋君平氏と、予等一行四人であつた。こゝの料理は成程普通の飯店と違つて居る。烤羊肉(かうようにく)の料理など珍らしく感じた。清真料理は一切豚を用ひぬのが特徴である。


(2)昭和6年秋

「どうだ、久し振りだから大串も交えて一杯やろうか」
 日が暮れると街に点々と灯がつく。副島の提案で義勇隊にいる大串に電話して、三人は盛り場東安市場の「東来順」に足を運んだ。場内には美しい刺繍の靴をはいて耳飾りをした姑娘(クーニヤン)が三々伍々、楚々として歩いている。三人は北京名物の蒙古料理「東来順」の四階の屋上に上って秋天の星空のもとで「烤羊肉(カオヤンロウ)」を食べ酒を飲んだ。烤羊肉とは日本でいう成吉思汗(ジンギスカン)料理である。鉄の大きな炉に松丸太を燻ぶして、太い鉄の金網の上に長い箸で羊肉を炙りながら食うのである。片脚を火鉢にかけ、立ったまま飲みかつ食うのである。戦場指呼の間に敵を望みながら食う野戦料理の趣を伝えたものである。
 秋空高く銀河を仰ぎ、朔北の夜風颯々として燻烟を巻き上げ、焔に顔を染めて三人は大いに論じかつ鯨飲した。酔いが回ってくると、大串は「一つ唄いまっしょ」と熊本訛りで「おてもやん」を唄い「黒田節」を唄う。

   昭和7年の記録では竹内好の「鮮満日記・遊平日記」があります。「一九三二年の八月から十月にかけて、東大在学中の著者が、外務省から半額補助の出る旅行団に加わって朝鮮と『満洲』をたずねたさいの旅行記と、さらに個人的に『北平(北京)』に足をのばして一月あまり滞在したさいの日記から成る。(11)」と解題にありますが、その「遊平日記」にですね、東安市場の羊肉料理店が出てくるのです。
 ただ、竹内はこのとき初めて中国を訪れたため万事初めてで、カオヤンローと思うのですが、最初は羊肉のすき焼きに似た料理と書いてます。店名はありませんが、昭和10年以前の記録であることは確かなので、東来順らしい店で食べたくだりを資料その5(1)と(2)にしました。
 それから昭和8年秋ですが、歴史学者の本多辰次郎が「北支満鮮旅行記」に食べたことを書いています。本多は9月24日に京都を出発、10月1日に北平に着き、名所見物などをして10月3日夜に東来順と思われる店に招かれたのです。それが資料その5(3)ね。

資料その5

(1)九月三日(土)
<略>本日、東方文化瀬川氏招待のtea partyにて、日本服の娘さん奥さんら自動車にて多く来り葡萄一房を土産にして帰る。了先生らと共に出て、東安市場にて羊肉のすきやきに似た料理を御馳走になる。うまく、かつ安きに驚く。市場北口にて別れ、我々は本屋をひやかし、十数円買い物して帰る。

(2)九月十一日(日)
<略>午后、丁、楊両氏来るに八木氏留守なれば、共に市場を歩く中八木氏に逢い、一緒に写真をとり、またも昼食を御馳走になる。烤羊肉なり。商務印〔書館〕の『三民主義』を見つけ、二毛で買わんとすれば、楊氏金をはらってくれ、実に気の毒なり。<略>


(3)
<略> 此の夜は光岡氏の招きに応じて、東安公司内の成吉斯汗料理の饗応を受けた、予ねて其名は聞いて居たが味はうのは生まれて始めてである。立ちながら片足を臺に掛けて、長い太い箸で口に運ぶ真に蛮的なものであるけれども味は中々佳良である。十時過帰宿したれば杉村。河又氏等が、予ねて依頼して置いた書家を同伴して來られたといふこと、又其の節の話に、支那家庭をも見せる都合を運ばれたといふことで有つたが、遂に之は機会を得なかつた。<略>

  

参考文献
上記(10)の出典は阿部洋編「日中教育文化交流と摩擦」93ページ、二見剛史「京師法政学堂と松本亀次郎」、昭和58年11月、第一書房=原本、 資料その4(1)は松本亀次郎著「中華五十日游記」174ページ、昭和6年7月、東亜書房=原本、 同(2)は川合貞吉著「ある革命家の回想」95ページ、昭和58年10月、谷沢書房=原本。この個所は昭和戦争文学全集編集委員会編「昭和戦争文学全集」別巻151ページ、「知られざる記録」にもある。同書は集英社が昭和40年11月出版、 (11)は竹内好著「竹内好全集」15巻534ページ、飯倉平「解題」、昭和56年10月、筑摩書房=原本、 資料その5(1)は同20ページ、同 同(2)は同23ページ、同、(3)は本多辰次郎著「北支満鮮旅行記 第二輯」28ページ、昭和11年7月、日満仏教協会本部=近デジ本


   昭和10年代で東来順で食べたとはっきりわかるのは、いまいった竹内好、大宅壮一、谷川徹三、島一郎の書いたものです。それらを資料その6にまとめました。(1)の竹内は昭和12年から2年間、外務省の補助で北京に留学しました。そのときの日記が「北京日記」として全集に収められていますが、2年間に東来順へ行って烤羊肉を食べた回数を数えると「東安市場に烤羊肉を食う。」も入れてたったの2回。
 初めていったときは1カ月ほどの間に2回食べたのに、2年間に2回では少なすぎますよね。見落としたかと2回読み返したけど、正陽楼の烤羊肉も2回だった。ただ烤羊肉が2回で、羊肉の料理とか火鍋子を食べたと書いていますが、東来順の烤羊肉と明記したのは2回なんです。
 これは烤羊肉は年中食べられないこと、何日分かまとめ書きがするようになり食事を思い出せなくなったことがありますが、最大の理由は遊郭に足繁く通い、それを細かく書くようになったためです。読んだらわかる、はっはっは。
 (2)が大宅で「大宅壮一全集」にある尾崎秀樹の「解題」によるとね、大宅は昭和十年七月のいわゆる満鮮紀行にはじまり、昭和十一年九月の南洋諸島、昭和十二年から翌年へかけての北京、徐州、南京、上海、広州、香港などの中国各地を旅行した(12)そうですからも、このとき東来順で御馳走になったんですな。安かったと書いています。日本じゃ高いといって浜名家という料理屋を例に挙げてますが、これは、もしかすると日本橋濱町の濱の家を指したのかも知れません。
 (3)の谷川徹三の日記は昭和15年の「思想」7月号に掲載されていますが、カオヤンローが食べられるようになるのは、当時は旧暦の重陽節、9月以降だったはずだから、その前の年の14年の見聞でしょう。近ごろは使われないようですが、以前はおしゃまなという形容詞を使ったもので、東来順でそんな女の子を見かけたという話です。
 (4)の「成吉思汗鍋」は乗杉嘉寿という人の遺稿集にあった昭和17年の日記からで、10月13日に満鉄に招かれた話のようです。「その名付け親は日本人だということだ。確かに傑作である。」と感心ししたついでに、名付け親は何という御仁か書いてあったら、ありがたかったのですがねえ。乗杉さんに「成吉思汗が発明したものでもなければ、これを彼が常食としたのでもなさそうだが」と講釈した人も知らなかったんでしょう。

資料その6

(1)
十二月初七(礼拝二)
 上午楊先生來。神谷先生傘松枝的航空便來。道之上月三十号(?)写的。不但如此、信封也被開着。神谷説『月報』十二月号來了。即上東方文化接受。還有会書和家書。見岩村去、井田啓勝(実)巳経來。井田、岩村、神谷一同上東来順吃烤羊肉。<略>

十二月二十日(月)
刮風甚し。夕刻に到って止む。朝、渡辺竜策氏見ゆ。午后、読書会に神谷氏宅に出席。四時半、日華ホテルに渡辺氏を訪う。共に東安市場に烤羊肉を食う。 それより前門にゆき春?院。例の笑月、しきりに泊れといい、応対常の如からず。<略>


(2)
 北京の有名な東安市場で、満鉄の城所氏に成吉斯汗料理を御馳走になったが、これも四人で三円位だった。日本でもぼくはこれが好きで時々食いに行くが、浜名家あたりだと、ぼくのような大食いは、一人で五円以上かかる。<略>


(3)
九月二日
<略>
 夜、東來順で焼羊肉を食べる。所謂ジンギスカン料理であるが、まだ季節でないせゐかうまくない。私と同じ鐵板で品のいい夫婦が十二三の女の子をつれて食べてゐた。そんな小さな女の子が一人前の手つきでこんな揚所でこんなものを食べてゐるのが何かをかしかつた。支那では小學校の子供でも辮當といふものを食べない、少数の新しい學校だけには食堂があるが、街の小学校の子供などは道端で売つてゐるものを苦力が食べるやうに食べ てゐるのをよく見かけるといふ。<略>


 (4)成吉思汗鍋

 東来順という料亭で、俗に成吉思汗料理を御馳走になった。これは材料は羊肉であるがその方法が非常に珍奇なもので、普通には羊の肉を沸騰させた湯の中に突き込み、それが一通り消毒された後汁につけて食べるのであるが、これは上品な方法で甚だ平凡である。處でもう一つの食べ方は、生の羊肉を大火鉢の火の上でつけ焼してむしゃ/\喰うのであって、客はこの大火鉢を囲んで高梁酒を飲み乍らつまり牛飲馬食的に然も立ち食いをするのであって、いかにも古い時代の遊牧民が好んだらしい料理である。成吉思汗が発明したものでもなければ、これを彼が常食としたのでもなさそうだが成吉思汗が好んで食べそうな――輪になって立ち並んで飲み乍ら喰う図などなか/\野趣があって陣中ででも用いそうではないか――料理だという単なる想像から付けた名で、然もその名付け親は日本人だということだ。確かに傑作である。
 一体羊の肉という奴は仲秋から翌春三月頃までが食べ時期で、それ以外は甚だしい臭気を発散して食用に適しない。然も秋から春へかけて食べる肉は遠く緩遠――満洲吉林省の北東端――地方より牧童に追われて昼夜兼行休むことなく二ヶ月を歩続けて北平に着くのであるが、この道中睡眠を取らせない苛酷な労働の為に羊は見るかげもなく痩せて了う。つまり苦役の為に身体中の油が消費されてしまうので臭気が無くなるということで、春以後は羊の思春期に入るので油が乗って肉の方は却って不味いそうである。人間なんて勝手なもので、罪もない羊を二ヶ月間も引きずり廻して、そのあげくの果が焼いて食って了うのである。
 この東来順という料亭にはこの罪深いお客が何千何百と居て、夫々己れの味覚を満足さしていた。
 余もこの罪な北平名物に満腹して、帰りは昨夜の如く東安市場を過り、例に依って十銭力車で宿に戻った。

  

参考文献
上記(12)の出典は大宅壮一著「大宅壮一全集」17巻398ページ、尾崎秀樹「解題」、昭和57年3月、蒼洋社=原本、 資料その6(1)は竹内好著「竹内好全集」15巻185ページ、「北京日記」、昭和56年10月、筑摩書房=原本、次は同189ページ、同、 同(2)は大宅壮一著「大宅壮一全集」17巻283ページ、「大陸旅行経済学(昭和13年8月)」、昭和57年3月、蒼洋社=原本、 同(3)は岩波書店編「思想」218号103ページ、谷川徹三「北京日録抄」、昭和15年7月、岩波書店=原本、 同(4)は乗杉恂編「乗杉嘉寿遺文集231ページ、平成7年8月、乗杉恂=原本


 それから時期ははっきりしませんが、戦前の東来順で食べた思い出を集めたのが資料その7です。資料その7(1)は詩人の草野心平ですが、草野は「大正10年に中国の嶺南大学(現・中山大学)に留学(13)」しています。
 同(2)の島一郎のはジンギスカン概論ですが、正陽楼と並べて東来順の名前が入っています。地名のにんべんに十の読みはジュウ、それに刹那の刹だから3字でジュウセッカイですね。紫禁城の西北にある人工湖です。

資料その7

(1)  烤羊肉

 初めて烤羊肉(かおやんろう)を食べたときは何んといふおあつらひ向きか、雪がふつてゐた。
 烤羊肉をたべるならば雪が欲しいとそれから思ひ、南京では両三度ためしたことがあるが、そしてまた雪の日ではなかつたが、上海や漢口でもたべたのだが、矢張り羊肉は、烤にしろ水たきにしろ揚子江沿岸やそれから南の代物ではない。
 今にはじまつたことではないが食べ物には揚所と人とが要るやうである。
 私はいつか一寸した物好きから東来順のてつぺんでロシヤの女共三四人と烤羊肉を食べたことがある。初めてだつたらしく、うまいとか素敵だとかいひ乍らむしやついてゐたが、どうもぴつたりしなかつた。烤羊肉なら、本当ならば蒙古で食べるべきなのだらう。蒙古服でも厚く着こんで。けれども向うからみれば変な外来が這入つたりすると、折角の御馳走も、その雰囲気がこはれてしまふかもしれない。
 それはさうとして大都で食ふなら北平であらう。最初の雪も北平だつた。雪が焼けてる鉄板におち、肉を喰ひ白酒をのみ(恐らくそれは海甸あたりのものだつたらう)それはなんとも言はれない一つの強烈な調和だつた。
 どうせ中国の友人に連れられていつたのだらうが、いまは誰だつたか想ひ出せない。
 只私には中国の菜館(れうりや)にはひつてゆくと台所をのぞきたいクセがあつて、その時も私は独りこつそりのぞきにいつた。すると羊肉を二人の男が大鉈のやうな庖丁で切つてゐた。私はその技術の見事さに驚嘆して、何年やつてゐるの、ときいてみると、二十五年切つてると年老つた方のが答へた。烤羊肉の鉄板は百四十年といふ歴史ものださうだが、肉切りの二十五年も一寸したもの。海豚の料理の大変さも知つてゐるけれども、それはむしろやり甲斐のある、複雑さの単純化であるが、これは単純そのものの廿五年なのである。


(2)
<略> もつともヂンギスカン料理といふのは、日本人同志にのみ通用する言葉で、正しくは『烤羊肉』といふ。直径数尺の偉大な鐵製の炉に、それに相當した偉大な鐵灸をかける。日本で鐵灸と言へば大抵針がねで出來てゐておさんどんの手でしてさへ、容易にクニャクニャになるけれど、こちらのは、日本銀行の金庫室に張つて置いても氣づかひないやうな頑丈な鐵の棒で組立てられてゐる。燃料としては『白木(パイムー)』と呼ばれてゐる柳の割木を用ふるが、それを炉にくべて火を点ずると、始めのほどは樹脂ッ氣のない白濁の煙があがり、間もなく鐵灸の鐵の隙棒の間から、眞ッ紅な小蛇のやうに、メラ/\と焔が閃めく。その時を待ちかねて、肉を山盛り、上にのせ、優に一尺五六寸はあらうといふ長く太い箸で一二分間ひつ掻きまはす‥‥すると、もうそれで立派な焼肉となり、口に抛り込めるのだ。世の中にこれほど簡単な料理もないものだらう。ヂンギスカン料理とは誰の命名か知らないけれど確かに思ひつきではある。
 今しがた言つたやうに、此の料理では正陽楼や東來順が有名であり、また之等の店はそれ/\゛蒙古に專属の牧場を有し、毎日夥しい羊を屠ってゐるといふやうに、仕掛けもなかなか大きい。自然有名であり、従つて有名が好きな日本人は勿論さういふ所へ押掛けて行く。しかし私自身の好みから言へば烤羊肉の烤羊肉たる本當の味はひは、むしろ、秋か冬へかけての埃立つ寒き街頭にあるのではないかと思つてゐる。たとへば哈達門の外とか天橋とか、東四牌の大街とか、さうした人通り多き露天で、朔風胡塵を吹くといつたやうな光景のなかに立ちながち、燃立つ焔に顔を赤らめ、『白干児』と呼ばれてゐる鋭い焼酎を含みつゝ、ぢつと、脂をしたゝらす肉の山と睨みつくらしてゐるところに何とも言へない情緒があるのではあるまいか! 更に御本尊の中國人に言はせると、『残荷、未だ謝せざる池の畔の柳のかげなどで、肆に火を焚き、肆に肉をつゝくのが一番だ』といふ。如何にもありさうなことで、恐らく什刹海のほとりなどでゞもやるのが最も風情に富む訳だらう。但し什刹海のほとりに烤羊肉を喰はせる所があるかどうかは、まだ行つてみないので、保證出來ない。<略>

   次は改造社員だった水島治男の手記。水島は昭和15年5月から上海の特務機関にいたのですが「昭和十五年十月末、森岡長官から打ちあわせたいのことがあるので、北京へ来てくれ、との命令があったので飛行機で行った。(14)」。森岡長官というのは興亜院在北京華北連絡部長官で陸軍中将森岡皐で、森岡が翌16年に「京都の師団長に転任」したので、水島も特務機関をやめて帰国したのだが、(15)自分の送別会の思い出のカオヤーズを書いた序でにカオヤンローにも触れたということですね。

資料その8

<略> 森岡中将は四月半ばに任地へ出発したが、私は急ぐこともないので、五月半ばまで逗留した。その間に、秘書の青山二郎氏は部署がかわり、その栄転と私の退職とを兼ねて、送別会を広報部の若い諸君とで催してくれた。そのときはじめて本場の烤鴨子(カオヤーズ)をたべた。北京の高級の名物料理で、人工養殖というか、あひるの口を手であけて、人問が濃厚飼料を無理やりくちばしに詰めて、のみこませ丸々とふとらせたもので、それを丸ごと蒸焼きにしたのを料理人が席に運んできて、俎板の上で適当の大きさに皮だけ、身までけずらないように庖丁でそぐのである。それを饒子(シヤオズ)(ギョウザ)の皮の上に細長くきざんだ玉葱と甘い油味噌をつけて手でくるんでたべる。その場で料理する脂ののったあたたかいあひるの皮の味は天下一品である。もう一つの逸品は烤羊肉(カオヤンロー)という。日本でいうジンギスカン焼である。羊の肉はさることながら、シナどんぶりに入っている薄茶色の独特なたれ、大きな鉄火鉢の中に燃えて白い灰になる粗朶の焚木、天井は吹き抜けの青空、星のきらめき、木製の長い腰掛けに片足をのせて、立ったまま三十センチもある長い箸で、うすい羊肉数片を皿からつまみあげ、たっぷりたれをつけて、分厚い鉄網にのせてジューと焼く。もう一ぺんたれにつけてひっくり返してほどよく焼く。そいつを食べながら、甘酢につけた丸ごとのにんにくと焼餅(シヤオピン)(ごまをつけた平べったい固焼まんじゅう)をかじる、煙がもうもうと上って行く。こうした豪快な野戦料理の雰囲気があってこそうまいのである。座敷で品よくたべたのではこの味はでてこない。北京について思い出すのは奇妙に食いもののことで、食いものでノスタルジアを感じ、それからおもむろに回想にうつるのである。<略>

   次の資料その9は、非売品でかつ昭和20年出版というめったにお目にかからない本からです。筆者の本田昇二朗は記者歴16年余りの血気盛んな山形新聞米沢支局員、もしかすると米沢支局長だったかも知れません。昭和19年に弘前師団管下東北四県合同皇軍慰問団特派記者という肩書きで満洲と中国北部を見て回った報告の一部です。検索すると、同姓同名の山形県会議員がいて、昭和25年に「中奥日報」という新聞社を創設した(16)と「米沢日報」のホームページにあるので、その方が東安市場で「米沢出発以來の空腹を」ジンギスカンで満たした本田さんだったのでしょう。

資料その9

<略>白矢君は、結局腹に食物が足りないから、記者が興奮するんだなと、頭を働かして、洋車(やんちよう)を東安市場北の、成吉思汗料理店に急がせた。その料理店は、一階売場から、窒息しそうな二階、三階の狭くるしい階段を、ぐる/\上つて、これは何と、ホツト一息のつける、青空のある大食堂だつた。
 「サア、上衣をぬいで、成吉思汗をやりませう、本當は寒い日に裸でやるんですが」
 と白矢君は、がらり、外套も上着も、チヨツキもぬぐ。その勢ひに巻かれて、記者も何が何だか分らず、乙号服をぬぎ、チヨツキをぬいだ。成る程食堂には、一尺余の薪をくべた、直径二尺、高さ三尺余め饅頭型の七輪が、上の鉄網から濛々と煙を吐き、燃えてゐる。その周囲に踏み臺があつて、片足を直角に載せ、網に半腰の恰好で向つたら、一尺ばかりの、太い棒のやうな丸箸を持ち、羊の肉をつまみ、焼網に焼加減の處を、生野菜を刻んだ、したじに浸し乍ら喰ふといふ寸法である。
 成吉思汗が、戦捷を祝して、勝鬨をあげながら、宴を催した、これは芽出度い野戦料理である。赤々と燃える網目に、一とつまみ二十匁宛の血のしたゝる肉を焼き、ジジジ‥‥‥‥と焼加減を見て、チヤンチユウといふ焼酎みたいな強酒を手酌でグイとあふる。羊肉五十皿、チヤンチユウ十本やれば豪傑の部類に勘定され英雄に近くなるといふ。白矢君が矢鱈に歓声をあげるので、記者も、米沢出発以來の空腹を、こゝぞと詰め込む。美味しいの、好いのと、いふ形容詞では、追付かない。男一匹倒れる迄は丸箸を離さない。そして極寒に玉の汗を流し、痛飲するといふのが、成吉思汗の礼儀だそうな。
 「咽喉に肉が、つかへたら、踏み臺の足を、とつかへて下さい」
 と白矢君は、臺にふん張つてゐた右足を、左足と、取つ換へる。そして交互に十遍足を取つ換へたら、勘定を支払つて帰るんだ。と豪語する。記者は、流石に、肉の匂ひが胸につかへて來た。店内の喧噪と薪の焔と、煙と、鉄綱の暑さにむせて、チヤンチユーの利き目が、又、恐ろしく早く、一室の野趣に、丸つ裸になりたいやうな衝撃が來る‥‥‥‥。<略>

  

参考文献
上記(13)の出典は いわき市立草野心平記念文学館ホームページ=http://www. k-shimpei.jp/01.htm、 資料その7(1)は草野心平著「草野心平全集」9巻135ページ、昭和58年7月、筑摩書房=原本、 同(2)は中央公論社編「中央公論」627号87ページ、島一郎「北京だより」、昭和14年11月、中央公論社=原本、 (14)は水島治男著「改造社の時代」戦中編183ページ、昭和51年6月、図書出版社=原本、 (15)と資料その8(1)は同195ページ、同、 (16)は米沢日報ホームページ=http://www.yone zawa-np.jp/company.html、 資料その9は本田昇二朗著「蒙彊に征く」14ページ、昭和20年4月、大米沢印刷所=館内限定近デジ本、


 かの文化大革命で、紅衛兵たちにによった北京の老舗の看板は外され、屋号も変えさせられた。東来順も民族飯莊と改名されていたのですが、10年間続いたその嵐が過ぎ、昭和55年までに歴史のある元の東来順に戻った(17)のです。50年前のことですから、そのころの紅衛兵がリッチな実業家になって北海道観光に来て、豪遊したかも知れませんよね。
 一時店名を変えたことは昭和60年に出た「成吉思汗」という本に陳舜臣夫人の陳錦墩も書いています。それには「北京の東風市場に『東来順』という古い店があり、涮羊肉で有名です。この店は文革中には『民族飯庄(ミンツヨフアンチユアン)』と改名していましたが、この民族は北方遊牧の民族を意味するのでしょう。いまはもとの名に戻っています。私も何回か足をはこび、そのたびにおいしくいただきました。羊肉は人によって好き嫌いがあります。一種のなまぐささがあって、むかつくという人もあれば、それこそ羊肉の醍醐味だという人もいるのです。ともかく、羊肉料理にはたくさん薬味がついていて、東来順でもその種類が多くて客が迷うほどです。薬味はおもになまぐささを消すために用いるのでしょう。(18)」とあります。
 しかし、老舗なら全部変えてしまえというものではなかったようで、宮廷料理を伝える沙鍋居という店は、そのままだった。中国食文化研究家の木村春子さんは「伝統料理を伝える老舗の店名が、文革当時改名された例は多いようだが、四人組全盛の六年前、北京の通りを走るバスの窓から『沙鍋居』という店名を見た記憶があるから、その名前は残っているのだろうと思う。(19)」と書いています。いまならインターネットで簡単に健在を確かめられるが、昭和55年では無理でしたね。
 そうそう、木村さんは「北京料とその特徴」というその記事で、カオヤンローを説明し「私も有名な東安市場の東来順で涮羊肉、烤羊肉を食べたが、この店も回教徒の創業である。」と書いています。(同32ページ)
 それから戦前の東来順という観点からは脱線だけど、木村さんが平成15年の「しにか」12月号に書いた「北京料理の特徴」に付いているカオヤンローの写真がすごい。(20)訪れた店の説明と炉の形から東来順だと思いますがね、食べている人々の箸の長さたるや、腕より長いといってもオーバーじゃない。スライドで見せたいのは山々だけど、著作権問題で自信がないのでね、見合わせました。ぜひ見たい人は文学部図書室へ行きなさい。
 「北京の老舗」のという本に、焼き肉の老舗、烤肉季の経営者、李閣臣という人の回顧談が載っています。資料その10がそれですが、東来順も積極的に支店を設けて事業拡大を図った時期があったのですね。これでは東来順もジンギスカン料理のケータリングをやったかどうかはわかりませんが、昭和12年に北京の海軍武官が正陽楼から道具を運ばせて航空隊員に振る舞ったという思い出は1件あります。

資料その10

<略>日本支配のころ、日本の人はたいてい焼肉が好きだったので、少なからぬ人が来た。一方、わたしたちは肉を届けるサービスもした。一回五キロ以上の注文があれば、家まで届けてあげ、時にはわたしは小さな手押し車を用意して、道具、肉、調味料、薪などを乗せて、手伝いを二人ほど連れて出前もやったものである。次第々々に、焼肉を食べる人が段々増えてきたので、それはやがて普通の食べ方の一つとなった。
 新中国成立前の一時期、北京ではかつて焼肉の店がいっぺんに林立する状況があった。商売人は競争をするものだから、焼肉商売が儲かると見込んで、一部の人々はわたしどもの近くに焼肉を始めた。たとえば地外大街の龍海居、同興居、万順居、早い時期の馬凱食堂などの店がみな焼肉を経営していた。東城の東来順まで数人を投入して鼓楼湾で回民族飯店を作って肉の炒め、焼きとしゃぶしゃぶを専門としていた。とくに烤肉季の東側には「烤肉吉 Kaorou ji」が現われて、「吉」と「季」の発音の相似を利用して人を騙そうとしていた。その店は場所が広くて設備も整っていたが、最初からぜんぜん食べる人がいなかったので、二、三か月もしないうちについに潰れてしまった。<略>

 日中戦争で日本軍が中国の北部から順次占領地を広げると、日本からどんどん旅行者が北京を訪れるようになり、それに応じて中国の旅行ガイド、観光案内が出版され、ジンギスカンを紹介しているので抜き出して資料その11にしました。
 その中の(3)は昭和10年10月、上海で日本と中華民国両政府による東洋工業会議が開かれ、それに出た社会学者、円谷弘によるものです。円谷は北京など寄っており、食べたのは正陽楼に違いないのですが、明記していないので一旅行者の見聞記としてここに入れました。

資料その11

(1)烤羊肉

 花屋の店先に菊の花が香をため始めると、そろそろ北京名物の烤羊肉が飯館子の食卓を賑はせる。烤羊肉といふのは、日本で俗に云ふ「ヂンギスカン料理」といってゐるもので、柔かい羊の肉を獨特の醤油に浸し、四五尺もある大きな鐵架のうへにのせ、松や柳の薪を燃やしながら、焼いて食ふのである。澄みきつた夜空の下、白乾児をのみながら烤羊肉をつつく風情は捨て難いものだ。この料理は一人で二斤や三斤平げても一向腹にもたれない。肉の乏しい日本では一寸出來ない料理である。北京在住の日本人はこの烤羊肉が大好きだと見え、烤羊肉シーズンになると、どの店も、日本人客で満員になる。このため回館(回教徒の飯館子)の專門だつたこの料理も近頃では普通の支那飯館子で取扱ふやうになつた。有名な飯館子では、蒙古に「羊圏」といふ自家專用の牧場を有し、仔羊の時分から、特別の注意を払つて育ててゐる。


(2)<略>
 次に飯館子では東安市場の中にありますところの東来順や春陽楼、前門の煤市街にある致美齋等で、われわれ日本人が二、三人連れで食事をするのに最も適当かと思ひます。<略>


(3)
  5 駱駝と成吉思汗料理

 北平の市街で、羊の群が堂々と街頭を行進してゐるのに出合ふ。数十頭の羊が追はれ乍ら電車路をゆく。電車も鈴を鳴らし乍ら、没法子(メイフアーズ)で悠々と羊のうしろから徐行してゆく。まことにのどかである。<略>
 北平滞在中に、私は羊の行方をたづねる訳ではなかつたが、電通の北平支局長の案内でジンギスカン料理を食べに行つた。ジンギスカン鍋とかいふのは、近頃東京でも喰べさせる處があるやうだが、この北平のジンギスカン料理は特有な趣をもつてゐる。普通の支那料理屋の構造だが、家の中に中庭のやうなところがあつて、青天井の下に粗末なテーブルが長いベンチに囲まれ、中央には直径三尺位の鉄の炉があつて、その中で二尺位の松丸太が盛に黒い煙りを上げて燃えてゐる。この炉の上には荒い鉄の網が焼けてゐる。用意のどんぶリの中には昼間見た羊の群かどうか知らないが、真赤な羊肉が純白な脂肉を付け、青い葱の刻み込まれたのと一緒になつて醤油に漬けてある。これを一尺以上もある長い箸ではさんで、赤く焼けた鉄網の上に揚げて焙るのである。右手でこの箸を巧にあやつりながら肉を焼いて喰べる。立つて椅子の上に左足を乗せ、膝の上に左手の肘をついて、手先には強烈な焼酎が盃から口へ運ばれる。これがこのヂンギスカン料理の作法だそうであるが、極めて原始的で中々うまい。露天のこととて、冬になると雪のチラ/\する下で、じゆう!じゆう!と、松火に羊肉の脂をさらし、熱い奴を口に運ぶ、焼酎は胃袋の隅々まで焼き尽す……これは北平生活者でなければ味はへないといふのであるが、特徴のある料理だ。料理と云ふより、むしろ食べ方の方が適当であるかも知れない。<略>

 そのほか系統立てて調べたわけではありませんが、昭和10年には日本画の石井柏亭や洋画の藤田嗣治らが招かれており、石井は「南満雑観」というスケッチ付き随筆を書いています。このときの満鉄招待とは別らしいのですが、藤田は昭和9年11月に北京に行き、羊肉料理を食べたと「文藝春秋」に書いているのを見つけました。「上京裏去」という随筆に「蒙古料理宝源楼と言ふに羊肉を試食して見る。(21)」というたった一言で、うまいとも珍しいとも書いていませんがね。
 もっぱら露店でも食べたらしいのは画家の野口義恵です。「栄養と料理」に載っている随筆「北京の味」は「北京を覗いたのは戦争のはじまる少し前で滞留三ケ月<略>」とあるので、昭和12年7月の盧溝橋事件を発端とした支那事変の少し前なのでしょう。「北京街に棗がつや/\と色づき、みぢかい柚から起きだしの姑娘の腕に夜風が冷たくあたり出すとそろそろ成吉思汗鍋がはじまる。<略>」というから秋だったのでしょう。たれの味もさることながら「前門外の正陽楼が一番と聞くが、私には名もない店の閑寂な味も又別な味ひとなつて、色あざやかな思ひ出となつてゐる。」と結んでいます。
 これには「生来の食しん坊に辶がかゝつて、写生帳をかゝえて街から胡同へと終日歩き廻る日課のかたはら、ふところのやりくりをしては食べ歩いた」とき描いた「成吉思汗鍋 西単牌楼ニテ」という挿絵が付いています。
(22)鍋の向こうに中国服の男1人、手前に浴衣の日本人の男が2人、それぞれ長椅子に片脚を上げて大きな鍋を囲んでいます。
 ついでですが「栄養と料理」ではもう1つ、注目すべき思い出があります。それが資料その12の勝又温子の「重陽節と北平料理」です。これには鍋とそれを囲んだ肉の皿などを載せたテーブル3卓を上から見た絵が付いています。勝又自身が描いたのかも知れませんが、濱の家の写真の鍋とは異なるし、どちらかといえば焜炉の構造は「中国名菜集錦 北京T」に掲載されている「烤肉季」の鍋みたいだが、鉄板が違うようです。
 どちらの絵もインターネット上で見られるので、スライドにはしていません。女子栄養大学の「栄養と料理」デジタルアーカイブにアクセスしなさい。

資料その12

 烤肉(カオロー)(羊、牛等のヂンギスカン料理)

 重陽の頃から盛になる烤肉は北平市内にこれで名を売つた店が二、三あり、近年は全然昔の味を失つてしまいましたが事変前又は事変後二年位までは蒙古から運んで味を誇つた物です。しかも其運び方も草を食べさせ乍ら歩かせて來た物を上物と区別したものでした。これを専門に切る職人が居て紙の様に薄く切るのを特徴とします。大きな鉄板の一寸巾位のものを一分位感覚をおいて並べ丸くそして中央を少し高く作り、高さも一尺位つけて一方に口をあけた大道具を大きな鉄炉にかけ、口から柳のまきを入れてドンドン燃やし鉄板の熱くなつた所で生肉を数片はさんで一寸調味料をつけてすぐのせてヂーヂー焼き乍ら頂くのです。勿論お酒をのみ乍らですし陣中料理ですから立食です。又此時焼餅(シヤオピン)と云つて片面に香ばしくゴマをつけて焼いた主食を食べ合わせますが、焼餅は一方をかじつて(又片手で)中に箸を入れるとポカツと口をあく様にほかほか出來て居ますので此中に焼いた肉を入れて頂けば特に美味しいのです。付け汁は上等中国醤油、酒を合わせ、葱、生薑及び香菜(シヤンツアイ)と云つて、三つ葉とセリの合いの子の様な香気の強い青い物を刻み込んだもの。漬物は蒜の砂糖漬ときまつて居ます。

  

参考文献
上記(17)の出典は東洋史研究会編「東洋史研究」39巻2号161ページ、木田知生「北京留学記」、昭和55年9月、東洋史研究会=原本、 (18)は尾崎秀樹、駒田信二、陳舜臣編「成吉思汗」148ページ、陳錦墩「羊あれこれ」、昭和60年3月、旺文社=原本、 (19)は大修館書店編「月刊言語」9巻3号33ページ、昭和55年3月、大修館書店=原本、 (20)は大修館書店編「月刊しにか」14巻12号27ページ、木村春子「北京料理の特徴 ―北の風土と都の歴史」、平成15年12月、大修館書店=原本、 資料その10は北京市政協文史資料研究会編・楊暁捷訳「北京の老舗(馳名京華的老字名)」52ページ、平成2年9月、心交社=原本、 資料その11(1)は華北交通株式會社資業局編「北支」28号48ページ、「北支暢談」、昭和那16年9月、華北交通株式會社資業局=原本、 同(2)は井川克巳編「中国の風俗と食品」196ページ、大木一郎「中国料理について」、昭和17年、2月、華北交通社員会=原本、 同(3)は円谷弘著「支那社会の測量」294ページ、昭和11年9月、有斐閣=近デジ本、 (21)は文芸春秋社編「文芸春秋」15巻11号200ページ、「曾遊支那」、同12年11月、文芸春秋社=原本、 (22)は栄養と料理社編「栄養と料理」13巻1号32ページ、野口義恵「北京の味」、昭和22年1月、栄養と料理社=原本、 資料その12は同14巻10号44ページ、勝又温子「重陽節と北平料理」、昭和23年10月、栄養と料理社=原本


 ところで勝又憲治郎という留学生が竹内好と同時に北京に行きます。その後の竹内の日記に何度も出て来て、奥さんがいたこともわかります。勝又なんてそうザラにある名前ではないから、資料その13の勝又温子が、この勝又の奥さんではないか調べてみました。
 勝又憲治郎が書いた「大陸民俗の風韵」を読んだら「食」という章に「私がこちらへ來た當座、民衆食をやつて見たいと或る大人<たいじんとルビ>に漏したら、大人は目をむいて、民衆食とは一体何のことだと聞かれたから、私は恐る/\例の街上に並んでる食ひものですと返答に及んだものだ。すると大人は益々不快さうに、そんな乱暴なことはおよしなさいと叱つておいでだつた。然し私の悪趣味は今日も癒らないで、大きい飯館子の崩れた調理よりも、道傍の油餅や豆腐臓に至味があると思つてゐる。柿、糖胡蘆、烤白薯、それらを享樂し尽してこそ北京の味がほの/\゛と判るのである。『一体如何なる料理でも、熱心に前以て論じたり、食うてから批評するといふ風でなければ、その料理をほんたうに楽しんでゐるのではないのだ。』これも林語堂曰くである。(23) 」とはあるけど、カオヤンローうんぬんはなし。
 留学は「四月初めに突然北京行の話があつて小さい中野の家を大騒ぎで畳むと顔。として塘沽埠頭にあがつた。私は二度目の大陸だが、妻は初めての外国行である。(24) 」としか書いてませんでした。
 憲治郎と温子が夫婦だったと仮定すれば、夫がこうなんですから、北京の民衆食というか、珍しい食物を論じ批評し合っているうちに、温子さんが支那料理の研究に踏み込むことはありうるが、どうも温子さんはもともと料理研究家だったらしいのです。
 昭和14年に北京にいた日本人のクリスチャンが日本基督教青年会館を建てようと運動を起こし、仮会館でいくつか勉強会や講習会を開いた。そのころ温子(ハルコ)さんが北京で発行されていた日本語の「東亞新報」に料理の記事を書いて名を知られていたため、温子さんが料理講習会を開くと「主婦達が押しかけて、食堂も調理場も昼間は一杯であった。(25)」という報告があります。
 さらに昭和17年の「栄養の日本」8月号に国立北京大学医学部小児科教室という肩書きで「中国乳幼児の食餌に就て」、19年に北京同仁会の会誌「同仁会報」第16冊に北支衛研という肩書きで「一般中国人の家庭食に就いて」(昭和19年1月)という報告を書いていることから、温子さんは栄養学の研究者だったかも知れません。
 また華北交通が北支文化紹介誌として出していた月刊誌「北支」29号(昭和17年10月)には支那料理研究家という肩書きで料理随筆「烙餅と蟹」を書いている。戦後引き揚げてきたとすれば、8年は北京などにいたことになり、料理店と一般家庭の実情を知ることができたのでしょう。
 だから「重陽節と北平料理」に「本當に肉を味いにゆく北京人は後は粟に小豆を入れた独特のお粥に砂糖を充分に入れてすすり塩辛目の単味食の後口の満足をさせて帰るのがつきものです。烤肉の後平凡な色々の料理を注文する人は本当の北平の味を知らない人のする事です。」と言い切り「家庭で招客に用いる時は専門店を呼べば道具持参で家の中庭で簡単に食べられます。(26)」とケータリングの存在も知っていたのですね。
 デザートみたいな粥を食べることは東洋史の松田寿男が誰かに聞かせるような形で書いた思い出にもあります。資料その13でわかるように松田は日本の鍋は小さいと嘆いていますが、いいじゃないですかねえ。とじょう鍋や桜鍋を見なさい。数人でやるすき焼き鍋でさえ、あの大きさなんですからね。大勢で大鍋を囲み、長い箸で食うなんて先人には思いもよらぬことだったんですなあ。

資料その13

    肉食の蒙古とジンギスカンなべ
             早大教授 松田寿男

 うまいものは望めないにせよ、せめて主食の肉を腹いっぱい食べたい年頃を、あわれや木の実、草の根でがまんして暮したジンギスカンの名を帯びた料理がある。もちろん野草料理ではなくて、蒙古人の得意な肉料理。おそらく蒙古料理と銘うちたいところを、ジンギスカンに名を借りて、人目をひこうとしたのであろう。蒙古からの帰途、北京に立寄って、この料理を紹介されたとき、実のところ私は、鉄なべの中の羊の塩うでを予想した。ところが大ちがい。
 なにしろ、今ではもう二十年の昔になってしまったから、とかく記憶がぼやけているが、案内された二階の一室は、かなり広かった。板張りの床に、いくつかすえつけられた背の高い円いカマド。それらには、鉄製のカマボコ形の網がすっぽりとかぶせてあって、ちょうど人の胸丈ほど。客はそのまわりに立ったまま、スキヤキの牛肉さながらに皿にならべてある羊の肉をつまみあげ、網の斜面にあてて焼く。この網が鉄製ながら蒙古人のテントの骨組さながらなのに、はるかに奥地をしのんで肉をあてていると、肉汁は下に流れて、ふちにつけられたミゾにたまる。だしをつけては焼き、たまった汁をつけては食べる。もちろん片手に飯椀などはにぎっていない。出るはずもないのである。
 したたかに羊の焼肉を腹につめて、別席に退くと、アズキのカユが一椀はこばれてくる。うれしいことには、これは我々のいう御膳汁粉そっくり。キメも細かに、アズキをていねいにこしてあるから、田舎汁粉にはたとえられぬ。その紫色が、目もさめるほどあざやかで美しかった。むろん、汁粉ではないから、甘味などつけてはない。客はそこにさしだされている砂糖壺から、おのおの自分の口にあうだけの砂糖をとって、カユに入れてたべる。実にうまいものであった。なんでもマネ好きな日本人が、これだけはまだまねていない。寡聞ではあるが、いまも私はそう思って、紫色のさらりとした北京のカユをなつかしんでいる。
 そのとき何杯たべましたか……って? どういたしまして、一杯きりしかくれません。なにしろ蒙古人の食事の立前では、それは明かに添え物にすぎないのですから。日本人が西洋料理でパンのおかわりをするのとは、ちがいますよ。
 ついでながら日本のジンギスカンなべは、北京のものにくらべると、まったく玩具に等しいものである。私はあまり多くを経験していないけれど、それは直径約三〇センチの丸アミにやや傾斜をつけただけのもの。まさに島国的といおうか、四畳半趣味といおうか。 なさけなやジンギスカンの雄大を偲ばせるものは何もなかった。

 松田はいつごろ蒙古旅行をしたのか調べておりませんが、賀来敏夫が昭和12年に出した「赤裸の支那」によれば「蒙古料理と云つて北平で賞美するのは羊肉の薄く切つたのを屋外の焚火の上にある鉄条の上で、自分で長い箸を持つて汁を付けて焼いて食ふので、肉が黒焦げになつて余り気味のよいものではないが、其中に一種の味があり、立食であるのと、酒は高粱酒しか飲ませぬのが特色であります。(27)」と説明してます。こうした表現から見て、昭和10年代の北京には、まだ蒙古料理と呼ぶ人たちがいたように思われます。
 さて、早稲田が出たからには慶応。資料その14(1)は「三田文学」にあった中村恵の「北京生活第一課」です。潤明楼という店名は「北京商工名鑑」の飯荘同業公会の名簿にもありますし、東安市場の名簿にもありますね。安藤更生の「北京案内」では山東館、山東料理の店に分類されており、(28)だからジンギスカンは出さないとは言い切れませんが、中村は昭和13年の9月末から北京に住んだばかりでしたから、食べ方のどこが日本式になったのか、よくわからなかったと思いますよ。まだ見おりませんが、中村は「三田評論」に「北京の忘年会―及川教授を囲んで―」なども書いていますね。ああ、それからいまいった東安市場の名簿ですがね、惜しいことに店名と経営者の名前だけなので各店の商売がわからん。でも113店のその名簿は、飯荘同業公会と同じく講義録の方でみられるようにしておきます。<講義録を見ている人はここをクリックしなさい。>
 資料その14(2)は舞踏家の石井漠の本からで、東来軒と書いていますが、東来順ですね。石井はこの3年前にも兵隊さんの慰問で北京に来ており、そのとき何回か食べに来ているので、例の東来順であり、顔なじみのボーイと書いたわけ。家の連中というのは東京から連れてきた舞踊団のメンバーのことです。
 最後の(3)は、東来順に入った華北交通社員、中島荒登の失敗談です。東来順では経営者だけでなく従業員も全員回教徒であり、彼等がいかに豚、豚肉を嫌うかがうかがえるエピソードです。見るからに豚皮の財布から取り出したお札も受け取らなかったかどうかまで書いて欲しかったと思いませんか。ふっふっふ。

資料その14

(1)<略>
 杜先生(ツウセンシヨン)――これは正しい発音で教へられた、S君が紹介のとき教へたのだが、僕の覚えた最初の支那語である。S君は杜先生の良き友人であるばかりでなく、杜先生一家の或る意味での相談役でもあつた。彼の本社帰還の日もいよ/\迫つたので、私を杜一家に紹介して相談役を引きつがせやうと云ふ氣持や、立ちぶるまひの二つの意味から杜先生の家族八人と私とを東京市場の潤明楼に招いた。潤明楼は北京の日本人の間に成吉思汗料理で有名だ。村上知行氏に言はせると、日本人が來てすつかり日本式の料理にしてしまつたと云ふことだが、廉くて親しみのある淺草の米久のやうな感じである。支那料理はもと/\客の註文を受けでから火を入れてゆつくり料理の味を味ふものだといふのに、日本人はせつかちにせき立てるので近頃は出來合ひを作つておいて温めて持つて來る店が多いさうだ。潤明楼も亦日本人によつて味をスポイルされた料理屋なのだそうだが、その辺は來たばかりの私には少しも判らない。<略>


(2)<略>
 再会を約して大使館を出た私は、東安市場に入らうとすると、偶然にも家の連中に出会つたので、名物の成吉思汗鍋の約束を果たす為めに、例の東来軒のうす汚い階段を登つた。
 三階に行くと顔馴染のボーイは、真つ黒に煤ぼけた、窓のぬけた屋上の室に案内された。其処には腰の高さの薪竈のやうなものが並べられて、その上には真つ黒な鉄の棒が中高に並べられてあつた。薪火がメラ/\と赤い焔を吐いて燃えさかつてゐる。その上に韮汁をぬりつけた羊の肉を焼きながら食べるのであるが、その前には古ぼけた椅子の様な臺が周囲に置かれてあるが、この上に片足をのせ立食する豪壮なさまは、たしかに成吉思汗鍋をはづかしめないものである。
 一行七人が満腹になつても、代金は僅か五円足らずの支払ひに過ぎないと云ふことも、東京では到底想像も出来ないことである。<略>


(3)
<略> 去年の今頃であつた。誰かを案内して東安市場に行つた時、春陽楼で月餅(ユエピン)を買つてそれを持つて向隣の東來順の屋上に上つた。烤羊肉(カオヤンロウ)を喰べるつもりである。棹子の前に腰かけて包紙を開けたら夥計(ホオヂイ)が飛んで來て呶鳴り出した。それは何か、どこから買つて來たか、開けてくれたら困ると見るも汚らはしい顔をして棹子掛を引外した。ああ明白(ミンパイ)明白、私は惘れてやつと気がついたけれども夥計が激しいので腹を立て意地になつて一つ喰べた。さうしてここは清眞(チンチン)(回々教徒)だから豚肉を使うた月餅が氣に食はんのですよと半分お客に謝つた。清眞には清眞の月餅があるのです。<略>

  

参考文献
上記(23)の出典は勝又憲治郎著「大陸民俗の風韵」127ページ、昭17年1月、黄河書院=原本、 (24)は同225ページ、同、 (25)は池田鮮著「曇り日の虹」333ページ、平成7年6月、上海日本人YMCA40年史刊行会=原本、 (26)は栄養と料理社編「栄養と料理」14巻10号44ページ、勝又温子「重陽節と北平料理」、昭和23年10月、栄養と料理社=原本、 資料その13は雄鶏社編「野外料理 ピクニック料理とバービキュー 野山・海・お庭で」16ページ、昭和34年6月、雄鶏社=原本、 (27)は賀来敏夫著「赤裸の支那」87ページ、昭和12年9月、三笠書房=原本、 (28)は安藤更生著「北京案内記」264ページ、昭和16年11月、新民書館=原本、 資料その14(1)は三田文学会編「三田文学」14巻1号276ページ、中村恵「北京生活第一課」、昭和14年1月、三田文学会=原本、 同(2)は石井漠著「皇軍慰問 北支から中支へ」36ページ、昭和14年4月、大日本雄弁会講談社=館内限定近デジ本、 同(3)は満洲文話会編「大陸の相貌」264ページ、中島荒登「仲秋」より、昭和16年4月、満洲日日新聞社及び大連日日新聞社、同


 小説「人生劇場」を書いた尾崎士郎は4回、中国に行きました。4回目は歴史小説「成吉思汗」を書くための取材でね、昭和14年9月下旬、満洲の新京まで行き「同地に三日ほど滞在し、九月三十日に北京に入った。そして翌十月一日さっそく蒙古国境の包頭へ行き、北京に向かって厚和、大同、張家口を順番にまわり、一週間後に戻ってきた。(29)」そうですが、その北京入りの初日にジンギスカンを食べたことを書いています。
 通路脇の小部屋で待たせ、またその部屋に戻ったことからみて正陽楼だろうと思うのですがね、店名がわからないので正陽楼の思い出には入れないで、今回の資料その15(1)にしました。尾崎を誘った八木沼は、満鉄が菊池寛など文春一行を招待したとき面倒をみた元満鉄総務部庶務課員です。
 俳人飯田蛇笏も北京で食べたことを書いていますが、尾崎と同じく店の名前がわかりませんので、ここの(2)にしました。この「成吉思汗料理」は句誌「雲母」の昭和15年8月から17年4月ま連載した「大陸貴旅雑記」の1編なので、いずれ調べて出典は「雲母」の正確な掲載年月に手直しします。焼き面を「木琴のやうに脚高の棚」と描写して、丸いとは一言も書いていないので、この店の焼き面は方形のものだったのではないでしょうか。
 また添えられた句から日差しの明るい春に食べたことかわかりますね。これは旧正月でカオヤンローは終わりという北京古来の伝統が、季節はお構いなしに食べに来る日本人によって崩されてしまい、年中食べられるように変わっていたためでしょう。店員たちは、歌手の誰かみたいに、お客様は神様ですといっていたかどうかね。

資料その15

(1)成吉思汗鍋

 私が満洲から北京に入ったのは九月三十日で、次の日の午後は早くも包頭に向かって出発していたが、その晩(九月三十日)成吉思汗鍋が店をひらいたばかりだというので、私は久しぶりで会った八木沼丈夫、荒木章の両友に誘われ、前門外の、名前は忘れたが古色蒼然たる店へ入っていった。鈍い電燈の灯かげの下で、幾つかに仕切られた部屋の中は日本人の客が顔をならべている。鉄格子の鍋には羊のあぶらが焦げついてつよく鼻を撲つにおいが一種異様な野性を唆りたてる。どのテーブルも客で一杯なので、私たちは入口の通路からすぐ右にそれたうす暗い部屋でお茶を飲みながら待っていた。
 若い宣撫官らしい男が二、三人で愉快そうに入ってきたが、八木沼の顔を見るとびっくりしたようにお辞儀をした。(八木沼は北支の宣撫総班長である) <略>
 席が出来たというボーイの知らせで私たちはすぐ立っていったが、高粱酒を呷りながら喰う(というよりもむさぼる)羊の肉は私の食慾に快い調和をあたえた。私は五皿を代え汁びっしょりになって元の部屋へもどってくると、さっきの老人達はまだ同じ席にいて同じ速度で酒を飲み、箸を動かしている。――「いいなァ」とこんどは私が感嘆した。娘の顔にかすかな、憂色もうかんでいないことが私の心をほっとさせたのである。妓院と娼楼はその露路からあまり遠くないところに一廓を成しているのである。


(2) 成吉思汗料理

<略> 南北君の東道で北京の街衛を押し歩いてゐるうち、同君が衝と一戸のえたいの判らぬ家の門へふみ入り
「さあ」
とか何とか云つた調子で、ぐんぐんと鴻翔君と私とを拉致した。それが何を購ふ店舗であるのか、何のために強行で案内するのか皆目判じかねる家屋の構造であつたが、路地のやうな壁と壁との間を通りぬけると、裏庭のあんばいで素朴な料理屋であらうといふ見当がほぼついた。赭土が少しはげかかつた壁によつて楊柳の薪が沢山積まれてあつた。その薪は内地の榾のやうに短く丹念に切り揃へられてあり、且つ半焼に総てが焦げてゐた。庭の中央に、恰度胸へとどくほどの高さに据ゑられた粗末な臺があつた。その臺には脚から脚へかけて一枚の板が渡してあり、其れへ泥靴をかけて臺上をのぞき込むに都合の宜いやうに出來てゐた。
「成吉思汗料理です」
と南北君が軽く我々に囁く後ろから、中華人が例の空色の服を着て、何かの獣肉を山盛りした器をささげ持つて來た、南北君の説明によつてそれは羊の肉であることが判つた。別の器によつて又汁と芹のやうな青々した蔬菜が少しばかり運ばれて來た。それと同時に臺上に据ゑつけられた鉄の火鉢でどんどん焚火が燃えはじめた。火鉢には木琴のやうに脚高の棚が仕掛けてあり、その鉄板製の棚は楊柳の薪が燃える炎で忽ち焼け爛れていつた。南北君が器にそへてある長い箸をとつて肉をはさみ上げては火棚の上へのせた。肉の焼ける音がぢりぢりと烈しく響いた。ここは青天井であるが為めに日の光りがぢかに我々と焼肉を照らした。太古さながらの焚火の炎はめらめらと棚を這ひまはり、成吉思汗の頬げたを照したやうに我々の面上に熱を送つた。たちまち片面が焼けてくる肉を一、二度汁に浸しては焼きながら小皿にとつて啖ふのである。
「羊の肉はこの楊柳の火で焼くと決して獣くさい匂がしないのださうです」
 南北君が肉を頬張りながら説明した。われわれも亦臺脚の靴掛け板を片足で踏み、肉をあさるのに適当な姿勢をたもちながら成吉思汗の裔を真似るべく人後に落ちざらんとしたのである。

   春暑く旅人づれの肉を焼く
   肉炙る上古の(ほむら)春の昼

 資料その16(1)は大柴衛が書いた本で、書名がすばり「北京の追憶」からです。奥付の著者略歴によると元北京日本大使館副領事で、本を出したときは姫路工大教授でした。これは「支那料理」という章からなのですが、大柴は烤鴨子を支那料理の粋と褒め「古来北京を占居した民族で百年続いたものはなく」うまい支那料理も含めた「温湯のような環境に亡されてしまつたのであつた。日本人は果して永久に北京の主となり得るであろうかと論ぜられたものである。<略>ところが百年はおろか、まだ舌の根の乾かぬうちに日本人は敗退した。(30)」と結んでいます。元外交官ならではの見方だと思います。
 その(2)は大阪毎日新聞の記者沢村幸夫が書いた本からです。我々は中国の羊の産地というと北部を思うのですが、沢村によると、南の方でも飼っており、湖筆という優れた毛筆の材料は南の方で蚕の糞で飼った羊の毛に限るといわれているそうです。ただ、肉の味は北京や天津で食べる羊肉よりかなり落ちる(31)と書いています。ああ、それから真ん中あたりに真っ黒く見える字があるが、これは鹿の字を2つ並べ、その上にまた鹿を置いた字でソと読む。荒っぽいという意味ね。

資料その16

(1) 支那料理

<略>ところで一人や二人で支那料理を食べるには適当に皿数を少くする他はない。そう いう揚合は、むしろちよつと変つたところへ行つて珍しい料理を食べた方がよい。その代表的なものとしては、まず成吉思汗に指を屈しなければなるまい。これはその昔蒙古の英雄、成思吉汗が遠征に出た時の野戦料理という謂われのあるもので東安市場の中にその料理屋がある。中国の他地方からでもまた日本からでも、北京へ旅行に来た人は必ずこれを食べてこいと教えられたものだ。それほど有名であり、且つ珍しいから遠来の客はこういう所へ案内すれば割合安くて且つ感謝される。ここの光景は甚だ勇ましい。直径三尺以上もある大きな鉄の火鉢の中に丸太が二三本盛んに燃えている。その上に鉄板が載せられてあり、軟かい羊の肉が十皿二十皿と運ばれて、客はめいめい自分で羊肉を鉄板にのせて焼けたら食べるのである。適度な味をつけた汁とネギなどと一しよに食べるのであるが、仲々に美味しく、二十皿や三十皿は忽ち平らげられる。こういう火鉢が室内に十個以上もあるので煙が相当立ち込めている。この煙の濛々たる中で、片足を火鉢の前にある台に載せかけて羊の肉をつついていると、昔の蒙古の英雄の気持も若干味わえるというものである。<略>


(2) 一五、烤羊肉・鴨子

 おい/\毛皮の外套が着たくなるころ、北京の大街小巷、おほよそ羊肉館のあるところ、おの/\門前に一隻の炉竈を設け、炉中には柴火を燃し―これに用ふる薪は柳の木を普通とするが、上等の薪としては松の木に限るさうである。柳の木も単なる薪では不可。炭を作ると同じ方法で、赤い焔をあげるを限度の半燻でなければならぬといふ―その上に一隻の鉄篦子をおく。一般顧客等は、腹の虫をじつと抑へて。その炉をめぐりて、薄片に切りなされた羊肉の一盤々々をとつて、鉄篦上におき、一面に烤り、一面に調合された加薬を和して大嚼するのである。これが北京名物のいはゆる『烤羊肉』なるもので、ソヴイエトのスタアリンが好んで食ふといふカウカサスのシヤシエリツクと一般だ。たゞ、しかし、羊脂が火に烤られて鉄篦子の間隙から薪上に注がれると、薪火はこれによりて、一段の火勢を強め、肉脂一時に焦げて、燻煙と奇臭とをそこら中に漲らす麤野な趣は、西のヨウロツパに適はず、まさに東の胡砂吹く漠地に見るべきものである。もつとも、同じ羊肉館でも、大館子と称していツぱし料理店として構える家、たとへば前門外肉市の正陽楼の如きは、竈を院内に設けて羊肉の顧客も回教徒とも限らず、中流以下の人ばかりでもない。烤羊肉に用ふる加薬は、肉の羶臭を消すといふ香菜の外に、料酒、胡椒、塩、醤油、醤豆腐など十余種に達するさうだが、それは第一流羊肉料理店でのことである。<略>

 きょうの講義は戦前の東来順の思い出が中心なんですが、東安市場の東来順と西単牌楼の西来順が烤羊肉の双璧とみる西来順ファンの思い出もあるので資料その17としました。昭和10年に宇都宮高等農林を出て満洲棉花協会、華満鉄北支事務局や華北交通などに務め(32)、敗戦後引き揚げてきた草川俊の「雑穀物語」からです。これは昭和56年から「農林水産省広報」に連載した「雑穀物語」に手を入れて59年に出した本です。
 両者の同じ箇所を比べると、連載1回目の「粟」は498字だったが、本の方は部屋などの説明と粟粥讃美が詳しくなっており、短歌2首もあるので1946字と4倍に増えてます。西来順の焼き面はロストル型でなく鉄板だったのですね。

資料その17

<略> 晩秋から冬にかけた頃には、よく烤羊肉(カオヤンロー)を食べに出かけた。いわゆるジンギスカン(成吉思汗)鍋である。北京では当時、王府井のそばにある東安市場の中の東来順と西単牌楼に近い西来順という店が、ジンギスカン料理の双璧だった。烤羊肉は朝陽門外が発祥地らしいが、この方面へは一度も出かけたことがない。
 私は東来順よりも西来順のほうが好きだった。東安市場は北京の銀座通り王府井のそばで、いつもごった返していた。その中の東来順は、ごうごうたる繁盛ぶりである。日本人の客が多かった。
 西来順は東来順ほどの喧噪さはなく、日本人の姿も少なかった。大抵の有名な料理屋では、酒がまわり腹がふくれてくると、大声を出す日本人が多かった。そんな日本人客の間をおろおろして歩くボーイが気の毒だった。
 静かな田舎暮らしに馴れていたので、騒々しい店よりも静かな店が好きだった。それで日本人客の少ない西来順が気に入った。東来順にくらべると駅からは少し遠いが、馬車で行けばなんでもなかった。
 ジンギスカン料理は煙が立ちこめるので、露天でやるのが本式だろう。西来順でも烤羊肉料理の部屋は二階にあって、天窓が大きく開いており、煙が外へ出る仕掛けになっていた。天窓に星をちりばめた晩秋の夜空が、いっぱい広がっていた。
 直径一メートル半もあろうという丸い鉄板が、煉瓦積みの炉の上に、でんと乗っかっている。炉の周りに、幅五寸、長さ三尺ばかりの厚板を打ちつけた腰掛け様のものが、いくつか配してあった。これは椅子ではなくて、足をのせる台なのである。烤羊肉は立つたまま食べるので、この腰掛けみたいな台に片足をのせ、長い竹箸を手に少しばかり前かがみになると、鉄板上のほどよく焼けた羊肉が、うまい具合いにはさめるのである。
 足をのせる台は、鉄板から一定の距離を保ち、はねた羊肉の脂が体にかからないための工夫なのだろう。白いエプロンをかけてもらって食べる東京風のジンギスカンなど、まことに、ぶざまな恰好である。北京の烤羊肉には、さすがに大陸らしい風格があった。
 スライスした羊肉や肝をのっけた白い皿がみる間に空になり、あとからあとからと運ばれて来る。薬味の香菜をたっぷりと入れたタレに肉を浸し、熱した鉄板の上で焼いては、ひっきりなしに口に運ぶ。肉や肝の焼ける間には高粱酒を飲む。まことに勇ましい料理だった。
 仲間といっしょの時は、食べた皿数をきそって、自分たちの前に空き皿を重ねて満足したものである。十枚ぐらいの皿は、またたく間だった。
 ボーイの役目の一つに、炉の火加減を見ることがある。火がおとろえたころを見計って、薪を突っ込むのである。烤羊肉には楊の薪が一番だと聞いたことがあった。
 満腹し、高粱酒の酔いも適度に回ったところへ運ばれて来るのがアワ粥である。小ぶりな茶碗に、適度な温度の黄色いアワ粥が盛られている。
 脂の多い羊肉をたらふく食らい、アルコール度の強い高粱酒を飲んで膨れた胃の腑が、アワ粥をすすり込むと、なんとなく、すっきりと落ち着いて来るから妙だった。ほんのりと甘味があり、とろりとした舌ざわりがうれしく、何杯もお代わりしたものである。  アワ粥が粳なのか糯なのかは聞き洩らしたが、どうも糯アワのような気がしてならない。日本でアワと言えば、アフ餅を食べた経験かかるだけだったし、中国では食べたことが一度もなかった。アワ粥が、こんな旨いものだとは、思いもおよばなかった。
 アワ粥をすすったのは、はじめて烤羊肉を食べたときだが、あとで烤羊肉の後では、きまって出るものと知った。何時すすっても、最初のときと変わらない味だった。烤羊肉の後でアワ粥をすするのは、中国料理の知恵なのだろう。当時は、食い気や飲み気ばかり旺盛で、アワ粥の由来など聞き出すゆとりすらなかった。
 アワ粥をすすり終わる頃になると、部屋の中に濛々と立ちこめた煙も消え、一服つけて天窓を見上げると、利鎌のように冴えた三日月が、ちょうど天窓の真ん中に、まるで額縁にはめられたようにかかっていることがあっだ。そんな冬の夜は、外へ出ると冷えるにまちがいなかった。
 西来順を出ると、思った通り寒い。しかし、羊肉に満腹し、高粱酒で火照った頬には、吹きすぎる朔風もものかわである。腹のアワ粥が、まるで湯タンポを抱えている感じさえした。
 北京のアワ粥をすすったのは四十年近い昔のことである。北京をはなれて二度とすする機会に恵まれない。それなのに北京のアワ粥は、昨日のように思い出される。あのほの甘いアワ粥が、糯だったのか粳だったのかと考え出すと、北京への郷愁がかき立てられて、すぐさま飛んで行きたい気持ちである。
  烤羊肉のあとですすりし粟がゆの甘さなつかし北京の冬よ
  さざめきて烤羊肉に更けし西来順の天窓をよぎる冬の月冴ゆ

 この後は戦前、北京で食べた思い出とわかるれども、いつごろ、なんという店で食べたかはっきりしない記録です。資料その18(1)は那須電機鉄工の社長、那須仁九郎さんが書いたもので、いろいろ美味しいものを食べた中でも、ジンギスカンが忘れがたいというのですから、うれしいですね。皆さんも、私みたいな年になったら、北大でのジンパが忘れがたいと書くことがあるでしょう。
 (2)の筆者、四ツ橋銀太郎は「満鮮を旅する」という本を書いているので、それにもジンギスカンを書いているか知れませんが、取り敢えず富山の郷土研究雑誌「高志人」からです。

資料その18

(1)ひつじ

<略> 逃げるに足る脚もなければ,かくれる智恵も持たたい程従順で弱く,全く同情のわくこの小動物を人類の利用だけで考えるのは一寸残酷のような気もするが,先ず食べ物では成吉思汗料理であろうか。
 羊肉を薄く大きく切り,薬味の漬け汁につけ,軽く焼きながら食べる。冬によく夏にもよく,四季を通じて最近では材料も羊に限らず,他の肉類や野菜を取り入れた一般家庭料理となっている。
 昔ジンギスカンが雪原の戦に野外で真赤な焚火をかこみ,軍勢に兜を鍋として長い箸で羊肉を焙り焼きにして食べさせたといわれるが,成吉思汗料理はまざまざとその光景を彷彿させてくれる。
 お隣りの中国では,羊は古くから神聖なものとされているが,私も戦前戦後と,かの地を訪れた折に,中国通の知人に連れ回されて数千年来の美味探究の歴史の所産であるいろいろの食べ物にめぐりあったが,なかでも戦前北京郊外の大きな店で,大勢で囲みながら長い箸でつまんだ本場地元の味ともいうべき成吉思汗料理を,興味深く味わったことはまことに忘れがたい。<略>


同(2)放話会ジンギスカン鍋

<略> けうは「ジンギスカン料理」ということ。
 遅刻したので。小走りに護国神社角まできたら、アノ羊肉独特の臭いが流れただよつていた。えらいところまで臭いがするものだ、とおどろいた。とたんに、腹の虫がグツとうなつた。
 北京の飲食店街に流れただよう、アノ臭いをなつかしく思い出した。けうこのごろも、きつと、たそがれの中空に紫のけむりが條々と立ちのぼつているのに違いない。
 店の名は、わすれたが、北京の前門街にジンギスカン鍋で有名な飯店があつた。この店はいちばん早く紫煙をあげるので有名だつたが、われわれ初物食い連は、さきをあらそつて十月末の前門街におしかけたものである。
 ジンギスカン鍋というが、鍋ものは水だき羊肉で、ほんとうのジンギスカンは、屋外に大きなカマドを伏せて、薪をもやし、その上に鉄の網をのせて、薄くきつた羊肉をサツと焼いてたべるのである。足台に片足をのせ、ながい箸で羊肉を焼きながら七味の醤油で立ちはだかつての野食は、まことに気宇壮大なものがある。まつたくの野戦料理というところである。<略>

  

参考文献
上記(29)の出典は愛知淑徳大学編「愛知淑徳大学論集 文学部・文学研究科篇」28号34ページ、都築久義「尾崎士郎と中国」より、平成15年3月、愛知淑徳大学=http://aska-r.aasa.ac.jp/
dspace/bitstream/10638/
1254/1/0021-028-200303-(027)-(037).pdf、 資料その15(1)は尾崎士郎著「尾崎士郎全集」11巻03ページ、「関ケ原」より、昭和41年10月、講談社=館内限定近デジ本、底本は「関ケ原」、昭和15年12月、高山書院、 同(2)は飯田蛇笏著「田園の霧」317ページ、昭和18年12月、文体社=館内限定近デジ本、 (30)と資料その16(1)は大柴衛著「北京の追憶」38ページ、昭和28年5月、駿河台書房=原本、 同(2)と(31)は沢村幸夫著「支那草木虫魚記」53ページ、昭和14年8月、東亜研究会=館内限定近デジ本、 (32)は草川俊著「雑穀物語」奥付、昭和59年6月、日本経済評論社=原本、 資料その17は同4ページ、同、 資料その18(1)は経済団体連合会編「経団連月報」27巻1号64ページ、那須仁九郎「ひつじ」、昭和54年1月、経済団体連合会=原本、同(2)は翁久允編「高志人」23巻1号38ページ、四ツ橋銀太郎「放話会ジンギスカン鍋」、昭和33年1月、高志人社=館内限定近デジ本


 戦前、北京というより中国のどこかとみるべき思い出もあります。もう亡くなったけれど黒田初子という女性を知ってますか。登山やスキー、料理の本もたくさん書いた黒田が昭和14年「家畜」という専門誌の9月号に「蜂蜜を使用して作るお菓子と蜂蜜をかけて食するお菓子」と題する料理記事を書いてます。黒田がこの雑誌に書いたのは初めてだったこともあり、そのページに黒田の随筆「つみくさ」発刊を紹介して「女流登山家として知名な著者が(33)」とあるので、当時は山の方が知られていたようですが、その次の号に「美味しい羊肉の食し方」という記事を書いたのです。
 黒田は「北京から蒙古への旅行中に、最も私の味覚を満足させてくれた羊肉料理」として「羊の水たき(シヨワンヤンロー)」と「ジンギスカン焼」を紹介しています。ところが黒田は水たきの方が気に入ったようで、45行も費やして詳しく作り方も説明しているのに、ジンギスカンは付けたりみたいにたった10行。
(34)その短い記述が資料その19(1)です。
 「味と自然の散歩道」に「昭和十二年から十三年にかけての冬には三か月ばかり北支蒙彊地方へ出掛けた。名古屋大学の須賀太郎理博と黒田と助手格で私が加わった。(35)」とありますから、これはそのときの体験でしょう。
 資料その19(2)も、そのとき覚えた食べ方と思われます。黒田はジンギスカンの作り方をいろいろな本に書いていますが、葱の揉み込みを書いたものは、これ以外にないようなので、加えておきました。この秘法は、鉄網上にある微塵切りでない葱を箸で取り上げて、葱のぬめりを食べるつもりの肉片の表側になすりつける行為と私は理解しとるが、黒田料理教室ではどう生徒に教えていたのか知りたいところです。
 もう1人、女性の思い出があるので、ここの(3)にしました。これは、戦後は翻訳家になった元新聞記者、望月百合子が、京劇の俳優の家に招かれて食べた思い出ね。望月は昭和13年に満洲へ転居しているので、それ以前ということですね。望月のこの思い出の後半は満洲の見聞なので、もう一度、満洲事情の講義で使うつもりです。

資料その19

(1) ジンギスカン焼き

<略> 之は矢張り極く薄く切つた羊肉を、韮とまぜて、たれ
(醤油と酒を半々に混ぜたもの)に漬けておき、木炭火
の上にかけた鐵あみの上に箸でこすりつけて、ポロポロ
に焼いて食するのです。日本でやつてゐるやうに厚く切
つて箸で両面を返しながら焼くのではありません。この
料理と一緒に焼餅(シヤオピン)といふパンのやうなものを一緒に食べ
ると美味です。然し白米の御飯も、よく味があふやうに
思ひます。但し之は非常に煙が出るので、閉めきつた部
屋では出來ません。お庭で野戦料理気分で召上るのがい
いと存じます。


(2) ジンギスカン焼きの秘法はねぎのもみ込み

 ジンギスカン焼きは北京でもたびたびいただきましたが、ねぎやニンニクや調味料を肉とまぜておき、これを鉄網で焼く時は、長いおハシで肉に葱をもみ込むのが秘法で、日本のジンギスカンと異なる点だと思いました。ああした方が肉がおいしくなるはずで、私どもでは以後ずっとそうやっています。


(3)青草に想う
     ジンギスカン鍋

<略> 私は芦溝橋事件が起つた昭和十二年の正月
を北京で迎えたが、ある日晩餐に烤羊肉を招
ばれることになつた。梅蘭芳と並び称されて
いる名優程硯秋が私のために特に寒夜の珍味
を用意してくれたのだつた。
 ベランダに高い炉を立て松薪が美しい焔を
上げながらバチパチと燃えている。月のない
星の降るような漆黒の空にそれを何か夢幻的
な美しさに照り映えた。
 焔の上に二センチ幅位の鉄の、中高い盛り
上つた網をのせて、この網が赤く熱したとき
めいめい用意された羊肉を長い箸でつまんで
のせる。ジューとこげると裏返して、もう一
度ジューとこがして、酢醤油にニラの青味を
浮かしたタレにシュンとつけて食べる。やわ
らかで軽くていくら食べても食べあきること
がない。合間に老酒をふくむとさらに肉の味
がよくなる。
 それは零下何度という、打てばカンと響き
そうな夜気の中だつたが寒さ知らず、しかも
卓子で出されるかしこまつた料理とちがつて
初対面の友達ともすぐ親しめる雰囲気なので
一層食慾をそそられるものがあつた。
 冬は家にとじこもりがちな北京の生活でこ
れは野外への郷愁でもあり、また文化的に万
事品よくことごとにボーイや女中の手をかり
るブリジョア生活の野性への憧憬の現われで
もあろう。
 いつもは雀の食事と云われるほど小食な私
がその夜一斤以上も羊肉を食べてお腹もこわ
さなかつたことを思い合せてもそれがいかに
おいしく楽しくまた胃に軽い料理であつたか
が分ろう。<略>

 戦前、北京を訪れた多くの日本人が名のある料理店で食べたのはいいのですが、芳しくない影響ももたらした。それを資料その20に入れました。この本は昭和14年に東学社から出した方ですが、翌15年に同じ書名で成光館書店からも出したおり、国会図書館サーチでは再版となっているので中身は同じなのでしょう。
 筆者の東文雄がどういう経歴の人物かわからないのですが、この本は1カ月ぐらいかけて朝鮮、満洲、支那を見て回ろうという個人向けに書いた(36)と「まへがき」にあります。外国語ができないという制約に加えて、本場の味への畏敬といいますか、学習欲十分というか、外国で料理店に入った日本人客、ことに少人数の際のおとなしさは、いまも変わってないんじゃないすかねえ。

資料その20

<略> 北京はどうしても一週間は滞在しないと、一通りだけでも見物することはできない。二日や三日位滞在して北京を見て來たやうなことを言ひふらすのは厚かまし過ぎるといふものである。北京を知るといふことは、単に一日や二日で名所旧蹟を見て廻ることではない。支那の料理をたらふく食べ、支那酒をヂツクリと味ひ、北京の土着人に裸で交際して、北京の街々に充ち溢れてゐる異國情緒を心から体験する、これでなければ意味がないし、北京に來た甲斐がない。
 この支那の料理の話がでたから序でに書くが、支那に來ると、とにかくこの支那料理だけは喰ひたくなる。特に北京においてそれは然りである。支那料理には色々あつて千差萬別だが、最近はとかく料理がまづくなつたといふ話である。それはなぜかといふと、日本人は料理屋へ行くと別に料理が美味くなくとも何ともいはない。それに金はキチンと払つて行き、しかもその上に目榮を切つてチツプまで弾んで行く。だから支那人は日本人といふものは料理が少し位はまづくとも黙って金を払つてくれる國民だといふ考が段々常識化されてしまつて、あの北京獨特の味のある古來の支那料理といふものが次第に低下して來たのだといふ。だから最近の北京料理は比較的に高くなつた。最近は北京にも日本人経営の料理屋などが多くなつて來たが、支那人はさつぱり近づかない。支那人に言はせると「大体食へるものがなくて高い/\」といふのださうだ。日本人の心理をよく物語つたもので、食べ物屋に關する限りはどうも日本人は支那人の相手にならないやうである。こんな話は聞き棄てゝしまへば別に何でもないやうであるが、さうではない。大陸の開発はわが日本人の偉大なる使命であれば、それが日常の生活に關係ある食べ物には直接の影響があるわけだから、今後は食べ物の再編成運動にまで話が進まないと本當ではない。
 しかし北京で味ふヂンギスカンの味は忘れ難い。北京の地の食通にいはせると、ヂンギスカン料理は八月の末頃から九月頃にかけて汗だく/\で喰ふのが旨いのださうだが、また寒い冬の日に二、三の親しい友達とでも連れ添つて前門外の正陽楼あたりで紅の焔の上る鍋の上で喉を焦すやうな焼酒を嘗めたがら尺にあまる長い箸で焼いて喰ふヂンギスカンの味も北京のみが有つ獨特な美味料理の一つである。ヂンギスカン料理として名のあるものは、こゝに掲げた正陽楼以外には東來順、一畝園、同和軒、両益軒などが一流どころである。私が喰へたのは正陽楼であつた。<略>

 臼井武夫は「北京追想」に「ジンギスカン料理と呼ばれる料理は多くの日本人に知れわたっていて、これを食べさせる店も方々にある。みな中国の特に北京のそれと同じものだと称しているらしいが、日本人が勝手に命名してジンギスカン料理と呼んでいる北京の〈烤羊肉〉とは似ても非なるものである。(37)」と書き、その相違を4つ挙げています。正陽楼に案内する想定で書いた後に付けてあるもので、資料その21(1)がそれです。
 同(2)は劇作家の岸田国士が昭和12年10月から半月ほど、文芸春秋の特派記者として当時北支戦線と呼ばれた中国北部の戦闘地域を視察し、さらに北京、天津などを旅した記録「北支物情」からです。岸田は陸軍士官学校出身なので、戦線視察中に何人か同窓生に出会ったこともこの本に書いています。
 同(3)は食物史や民俗の研究などで知られる篠田統の随筆「北京の秋は羊肉(ヤンロー)から」の前半。掲載した雑誌の「食道楽」は、松崎天民が編集した同じ名前の「食道楽」とは違い、広告から名古屋で発行されたとみられるもので、国立民族学博物館の篠田関係の資料にあります。篠田は京大で動物学専攻し、陸軍の技師になって中国に行っています。
 同(4)は北京大に学び満鉄調査部、同弘報室などに勤務し、戦後は代々木クッキングスクール常務理事などを務めた大島徳弥の「百味繚乱 ―中国・味の歳時記」からです。大島も「明治から大正にかけて北京に住み、旅行した日本の人たちにジンギスカン料理と名づけられた。北京でジンギスカン料理といってもけげんな顔をされるばかりである。」と書いています。うまいうまいと1人で何皿も肉を食べるのですから、選りに選った肉はすぐ尽きるでしょう。例えば最初は腿、次は肩、その次は首というように同じように見える肉でも、名店には出す肉の順序に秘伝があるのではないかと私は考えます。■は虫篇に下と書く字でユニコードにもない字です。ニョクマムとかナンプラーと同じような蝦を使った魚醤です。

資料その21

(1)
 ここで、日本のジンギスカン料理との相異を述べたいと思う。
 第一に、羊肉は、厚い切身や、塊りではない。日本のふぐの刺身の様に、ごく薄く切られなければならぬ。正陽楼や東来順には、薄刃の包丁で、紙の如く薄く切る達人が名人芸を見せている。日本にはこの様な名人は一人もいない。普通の肉片とは厚さが違うのである。まして、チョップの様なものは問題にならない。
 第二に、マリネ(仏語、羊肉等の臭いを消す為に、油に玉葱や蒜等の微塵切りを混ぜたものの中に肉片を漬けて置く料理法)の方法が特殊である。これには〈香菜〉という中国特産の野菜を使う。これは日本なら、「みつば」の様な特殊な香気を持つもので、その微塵切りは羊肉独特の臭気を消すと共に、よき香りと味とを加えるものである。香菜は、この頃では、横浜の南京街等で入手出来る様になったが、日本人には好悪があって普及はしない。然しこの香菜なくしては烤羊肉は成り立たない。
 第三に、本格的燃料として白松がある。これはその煙によって、羊肉に独特の香気をつけること前記の通りである。そして、この燃料は日本にはない。(白松は少ないから中国でも他の薪が使われるらしい)
 第四に、白乾児がある。日本の焼酎では白乾児の代用は出来ない。
 烤羊肉は俳句の季題で言えば「冬」のものである。北京の冬は酷寒である。食べるのは室内ではない。中庭とは言え戸外である。食べ始めるまでは、外套の襟を立てていても寒い位である。
見上げれば、冬の天がある。月齢の若い時は満天の星辰が仰がれる。目の前には火炉がある。食べるものは熱ッ熱ッの羊肉であり、飲むものは白乾児という火酒である。
 北京の正陽楼で烤羊肉を食べていると、粉雪がチラチラと院子に舞い散って来ることがあった。火炉からは、白松の燃えて出すほのかな煙が、空にあがって行く、その空からはチラチラと乾いた粉雪が降って来る。それが烤羊肉を食べる雰囲気たのである。雰囲気を伴わぬ食事には魂がない。日本のジンギスカン料理は全く似て非なるものと私が言う理由は少しはわかって頂けたろうか。
 北京を訪れる人士は、烤羊肉を試食されるがよいと思う。その時期は冬、それも厳冬の事よい。零下十数度の酷寒の夜であっても、帰宅するまで、いや帰宅して後も体はホカホカと温まっているであろうことを私は保証したいと思う。


(2)
<略> その夜は、本場の羊料理、かの豪快な炙肉の立ち食ひを試みた。ヂンギスカンとは日本人の命名ださうだが、沙漠に開かれる軍旅の夜宴は連想としてまづくない。羊料理の店は給仕の少年までみな回々教徒だといふこともはじめて聞いた。


(3)
 毎日のようにあつた夕立が間遠くなり、空には白い雲のかけらも無く、広々と限りなく真ツ青になる。街一面の洋槐(アカシヤ)(エンジユ)の葉が、流石に黄ばみこそすれ、心なしかいさゝか堅く乾上り、風に吹かれてカサ/\と音をたてる。
  秋來ぬと目にはさやかに見ゆれども
         風の音にぞ驚かれぬる
と、日本ならばくる所だが、北京では左に非ず、ここでは秋の訪れは、町々の小料理屋の表にかゝる。
   焼   烤    涮
の看板に始まるのだ、
 (シヤオ)は即ち焼羊肉(シヤオヤンロー)(カオ)烤羊肉(カオヤンロー)、つまりお馴染の成思吉汗のこと、そして涮羊肉(シユアヤンロー)は羊肉の水だきである。
 仔羊は大体二、三月から四、五月までに産まれる。是が八ケ月十ケ月と経てばソロ/\発情を始めて、肉が臭くなつてくる。八月末から九、十月は仔羊ならば五、六ケ月目。夏充分草を喰べて是から冬むきにと脂が乗り出す、一番おいしい時である。
 十一月、十二月と、寒くなれば去勢羊が登場する。脂の乗りきつた一才の去勢牡羊の味と來ては、それこそ文字通り「こたえられない」。
 我国の様に残暑が土用よりも暑いとゆうのと異り、黒潮の影響の少い大陸奥地の北京では、立秋はホントに秋の初め。その秋が立つと同時にこの焼、烤、涮、の看板が街をにぎわし、かくて北京は秋になる。
 烤羊肉(カオヤンロー)、即ち日本人の所謂成吉思汗鍋は、人も知る通り、羊肉をば太目の金網で薪の火で焙り、醤油につけて喰べるもの。肉の臭みをぬく為に、つけ醤油には芹菜(コエンドロ)韮菜花(ニラノハナ)芝麻醤(ゴマミソ)辣子油(トーガラシアブラ)など、種々の薬味がまぜてある。涮羊肉(ミヅダキ)の場合、例の神仙炉(火鍋子)にダシを煮たぎらせ、火がサツト透る程度に羊肉を煮て(通人は肉を箸で挟んだまゝ両三度左右に泳がす丈だそうだ)――煮すぎると硬くなる――つけ醤油につける。
 いづれにせよ、天高く馬肥え、人亦大いに食欲を感じる初秋に、しこたま詰めこんで夏痩せを恢復させようとゆう、典型的の栄養料理であつて、編輯者が筆者に要求した(?)日本風の秋の味、例えば柚の香をきかせた焼松茸とか、芽蓼をピリツと効かせた鱸の洗いといつた類の、茶人好みの渋い代物とは断然趣きを異にする。飽くまでも現世的、積極的、活動的な味覚ではある。<略>


(4)
   烤肉(かおろお)(ジンギスカン料理)

 北京の烤肉は明の末、清の初めに始まっなといわれている。現在北京で有名な店は「烤肉苑(かおろおえん)」、「烤肉季(かおろおちい)」#28900;肉苑<かおろおえんとルビ>」という二つの店がある。烤肉苑は祖伝すでに六世、二百有余年といい、烤肉季は三世で百余年も経ている店である。烤肉苑は城の南、烤肉季は城の北にあるので「南苑北季(なんえんべいちい)」の称で親しまれている。
 烤肉の特色は肉を選ぶことと、肉の切り方に高度の技術を要することである。肉は主として羊、牛を使い豚は使わない。牛肉は四、五歳で一五〇キロ以上、秋草を食べた牛が最もよくて、山東省の牛のようにあ.り肥大になったのは適さないとされている。羊は休重二〇キ口くらいが最もよく、一五キロ以下はよくない。二五キロ、三〇キロになるとこれも悪い。では、このような規格の牛や羊が全部使用されるかといえば、そうではなく、一五〇キロの一頭の中から烤肉に使用され、これに適している肉の部分は二〇キロ内外で全体の一五パーセントに過ぎない。羊でも、二〇キロのものから八―九キロで五〇パーセントに満たない肉の使い方をする。どの部分が適しているか、これはその店の秘伝である。
 またこれを焼く方法がむずかしく、燃料にしても柏、柳、松の木とされ、中でも松の小枝、松かさを最上とする。割箸くらいの大きい鉄棒の網をかぶせた大きな炉で焼くのであるが、だいたい露天か家屋の屋上に食卓を出し、食卓の回りにベンチを置き、その上に片足だけをのせて立つ。食卓には肉と薬昧が並べてある。薬味はねぎ、生姜のせん切り、調昧料は生姜汁、醤油、酒、■油(しやあゆう)(えびからとった塩汁)などである。これらの薬味と調味料を適度に混ぜ合わせ、つけ汁を作りこれに肉を漬けておく。肉を焼く前に羊の尾からとった油で鉄網を塗る。ほかの油では味が落ちる。鉄網が熱くなったところで、水を一滴落としてみて、すぐ乾けば、ねぎ、生姜のせん切りをまずのせ、つぎに肉をとり出して焼く。
 肉を焼く箸は六〇―七〇センチくらいの長いもので、これは、日本のすき焼と同様、食べるのにいちいち皿に盛らず、焼いて熱い肉を武接口に運ぶのがおもしろいし、美味なのである。
 この焼き肉といっしょに食べるのに、砂糖漬けのにんにくがある。これを食べると羊の臭みもなく、またにんにくの臭みも消えるのである。また、焼餅(しやおぴん)(ごまかけのパン)が米飯や饅頭などより適している。

 いまや巷のジンギスカンが北京のそれに似てるとすれば、羊肉を焼くところだけで、モヤシ、玉蜀黍や南瓜、椎茸、果てはこんにゃく、麺類まで盛りだくさんに入れちゃうんですからね。臼井の挙げた相違にもう2つ3つ足さにゃならんでしょう。
 作家高見順の日記によると、昭和19年11月24日に、資料その21に出てきた一畝園で昼食をとっています。また高見が描いた鍋と焜炉の絵が載っていて(38)、薪で焼いていたことがわかります。スライドで見せましょう。その場で手帳か何かに描いたのでしょうが、焼き面が帯状の鉄板で隙間が狭いことなどがわかりますね。一畝園という名前も入るようにしたため縦長になり過ぎたが、笑わないでください。


     

 資料その22(1)は、太平洋戦争の直前、ハワイから滿洲などの大陸旅行に出掛け、北京で奢られた成吉思汗料理の肉は豚肉だったと信じたまま書いた思い出です。
 掲載したのは日布時事という邦字紙の昭和16年の元旦号ですが、ページ数がすごい。いまならいざ知らず、戦前ですよ、物資豊富を誇ったアメリカだったとしても、ハワイ在住邦人向けの新聞が本紙と4部の特集を合わせて、なんと50ページ。信じにくいが事実なんだ。「欲しがりません勝つまでは」では勝てっこないね。
 この随筆は第2特集の4面にありましたが、本紙2面では昭和15年秋の紀元2600年奉祝行事で、在留邦人発展功労者として招かれた4人の座談会があり、日米間の緊張を強く感じていたからこそでしょうが、日本人は平和の愛好者であり、ハワイ開発と日米両国の親善と日本民族の海外発展に努力とてきた、今後も決してこの信念を貫いて生きるほかに道はない(39)―と語っていました。
 同(2)は東大出の海軍主計大尉、山上丹五郎の句集「北洋」からです。跋によると「大東亜戦争勃発と共に、軍籍にある私は命を奉じ北支に渡り北京にて或る種の勤務」に服し「ついで私は軍艦に乗組み北方方面に勤務」した。「帰還以降」「戦力増強に関聯する」任務を果たしながら水原秋桜子門下となり、指導を受けた(40)とあります。
 この句集が出たのは昭和20年1月、その7カ月後に大日本帝国はアメリカなど連合国に無条件降伏をしたのです。いまだから笑って話せるが、小学6年生の私は、アメリカ人の奴隷にされると本当に心配したもんです。

資料その22

(1)成吉思汗料理
           K田慶整
約十ケ月前の事である。大
急ぎの鮮滿北支一人旅の折
北京のみには妙に腰を落着
けて五日間留まつたが、そ
の一日同窓の友T氏の案内
で汚い小盗兒市場と云は
れ人間と豚とごつちやの埃
だらけのテント街、然も恐
ろしく民衆的歓楽境の天
橋を見ての歸途『一つ昼
食に珍料理を御馳走しや
う』と連れて行かれたのが
前門 の繁華街の裏胡同を
二三町入つた古びた薄汚い
老飯店である。石畳の中
庭に三四基の異様な鉄爐が
並べられ先客がその廻りに
寄つてゐる。些かしり込み
してゐる小生に、T氏はい
かにも手際よく支那人ポー
イの持つに來た豚肉の切れ
を韮の入つた出し汁に浸し
ては爐上に並べられた鉄棒
の上にのせては轉がしてパ
ンに挟んでは喰べ乍ら『君
此れが例の沙漠蒙古の生ん
だ不世出の英雄成吉思汗の
世界征服の雄図に燃えて征
野万里の果に喫した野戦料
理だと云はれてゐる。君支
那では汚いと思つたら一つ
も食べる物はないよ勇気を
出してやつてみよ』と勧め
られ恐ろしく長い木箸を不
器用に使つて頬ばつてみた
が、実に野趣満々たるその
立食料理に然もその美味に
恐れ入つて仕舞つたが、御
上品な畳の上の日本のスキ
焼料理に比して、野天で大
きな鉄爐を前に立食の成吉
思汗料理こそは実にこれ位
野趣に富んだ、豪傑的と云
はうか、大陸型と云はうか
英雄的料理は他にあるまい
【筆者は東本願寺別院開教使】


   烤羊肉(カオヤンロウ)火鍋子(ホウコウヅ)
      いずれも冬の名物料理なり

   支那街や羊肉館の路地狭く

   羊肉の招牌古りし胡同かな

   羊肉を烤くや毛皮の人群れて

   羊肉を烤けば冬天気宇大に

   羊肉を烤けば星座もゆらめけり

 最後は大物。資料その23は阪急デパートの会長や映画の東宝社長を務めた清水雅が戦前に書いた「静水居漫筆 続」からです。阪急デパートは昭和13年から天津に進出して阪急共栄薬房や寿街市場というデパート的雑貨店を開いた(41)のですが、清水はそれらを指揮して、何度も天津、北京に出かけた。「静水居漫筆」は昭和14年、その続きの「静水居漫筆 続」は16年に出した自家本です。
 これでわかるように清水はジンギスカンが大好きになり、北京のジンギスカン料理店から鍋を買い、日本に持ち帰った。そして戦後、その鍋を100枚ぐらい複製して、阪急系列の六甲山ホテルの近くでジンギスカン料理店を開業した。それがいまのジンギスカンテラスなんですよ。

資料その23

(1)講演 食事と台所

<略> いつか私は、共栄会の雑誌に、ヂンギスカン料理の事を一寸書きましたが、冬間、北京へ行きまして、私はこれを喰べるのが実に楽しみであります。大きな、こんな鉄の鍋に、羊の肉を汁につけて、のせて焼きます。テーブルの周囲に腰掛があつて、それに腰をかけないで片足をかけて、長い箸で肉や野菜をつゝいて、御茶のかわりに老酒を飲みます。
 青天井の下で、寒風に吹かれながら、羊肉をつゝく感じは中々乙なもので、それが済むと隣のテーブルで粥をすゝり茶を飲んで談笑を交へるのであります。

(2)北支の旅から

 目通り二尺ばかりの松の木を輪切りにして、その切目をかまぼこ型に加工したものが、羊の肉をうすく切る時のまな板である。
 ぐるりに皮のついてゐるのが、このまな板の値打なのか、どの屋台店を見て廻つても、実に立派な皮がついてゐる。店の横に鉄砲風呂の様なものをすえて、この中に羊の肉が氷と雑居してゐる。こう云ふづう体の大きいものが、所謂北京の「市場」とよぶ雑貨や化粧品を売つてゐる店の集団の中の料理屋の前に、所狭きまでに並んでゐる。
 ジンギスカン料理は、この料理屋の屋根の上で、寒い青天井を見ながら、支那酒を茶碗についで、片足を椅子にあげて、長い箸で羊の肉を焼きながら喰ふのである。
 喰つて終ふと、隣のテーブルで、粟の粥に砂糖をかけてあついのをすゝる。
 幾度來ても、北京とジンギスカン料理は私には別個にして考へられない。

 ジンギスカンテラス開業に至る経緯は、清水が昭和54年に出した「六甲だより」の「第六信」(42)などに詳しく書いてあります。ジンパ学研究で大事なのは開業に至る数年前、清水は「戦争がすんで大分たってから」と書いているのですが、朝日新聞がその鍋の写真を撮らせてといってきたので、奥さんと焼いてみせた。この記事の提示はテラスの発端を説明する上で欠かせません。新聞に載ったらしいでは、思いつきの俗説と同じでしょ。
 それでね、清水さん、あなたの鍋の記事を拝見しましたなんて、行く先々でいわれたんでしょう。そこからが、私らと違うんですなあ、実業家は。こりゃ流行るんじゃないかと読んで、複製鍋をたくさん作り、まず大阪でジンギスカンの店を開こうとしたというのです。
 清水の鍋の記事が載ったとしても、朝日の何という地方版に載ったか札幌にいては調べようがない。一応は朝日の聞蔵Uは当たったけれど、こんなローカルな記事は入っていないんですよ。それでね、現地に行った方が早いと神戸市立、西宮市立と2つ図書館をお訪ねしてだ、資料を教えて頂き、神戸版と阪神版のマイクロフィルムを少し見せてもらった。お陰で清水は戦後、西宮市に住んでいたから記事は西宮に配達される阪神版らしい。朝日では22年8月分からの阪神版を含む兵庫版のマイクロフィルムを作っているとわかった。こうなればこっちのものだ。
 それで国会図書館に通って昭和22年から30年末までの朝日兵庫版を1回読んだのだが、残念ながら見つからなかった。求めよ、さらば与えられん―だ、それで、もう1回読み直しているところです。テラス開業は昭和31年という説もあるのですが、いずれ見つけて、神戸のジンギスカンとして改めて取り上げましょう。終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記(33)の出典は子安農園内家畜研究会編「家畜」23巻5号52ページ、黒田初子「美味しい羊肉の食し方」、昭和14年9月、子安農園内家畜研究会=原本、 (34)と資料その19(1)は同23巻6号52ページ、昭和14年11月、同、同(4)は大日本女子社会教育会編「女性教養」197号38ページ、黒田初子「ジンギスカン焼きの秘法はねぎのもみ込み」より、昭和30年6月、大日本女子社会教育会=館内限定近デジ本、 (35)は黒田初子著「味と自然の散歩道」291ページ、昭和53年4月、評論社=原本、資料その19(2)は同49ページ、同、 資料その19(3)は女性教育社編「女性教育」197号38ページ、昭和30年6月、女性教育社、同、 (36)は東文雄著「鮮満支大陸視察旅行案内」の「まへがき」、昭和14年6月、東学社=原本、資料その20は同60ページ、同 (37)と資料その21(1)は臼井武夫著「北京追想 城壁ありしころ」196ページ、昭和56年11月、東方書店=原本、 同21(2)は岸田国士著「北支物情」271ページ、「市中見物」より、昭和13年9月、白水社=近デジ本、 同21(3)は食道楽社編「食道楽」1巻5号4ページ、篠田統「北京の秋は羊肉から」より、昭和29年9月、食道楽社=原本(国立民族学博物館・研究アーカイブ・篠田アーカイブ「著作目録 no.082」)、 (4)は大島徳弥著「百味繚乱――中国・味の歳時記」70ページ、昭和44年4月、文化服装学院出版局=原本、 (38)は高見順著「高見順日記」2巻の下880ページ、昭和36年5月、勁草書房、同、 (39)は昭和16年1月1日付日布時事朝刊第4部2面、米国フーバー研究所データベースより、
https://hojishinbun.hoover.org
/en/newspapers/tnj19410101
-01.1.26
資料その22(1)は同第2部4面、米国フーバー研究所データベースより、
https://hojishinbun.hoover.org
/?a=d&d=tnj19410101-01.1.50
&srpos=57&e=
同(2)と(40)は山上丹五郎著「句集 北洋」34ページ、昭和20年1月、山上丹五郎(非売品)=原本、 (410)は清水雅著「静水居漫筆」89ページ、「天津から」より、昭和14年7月、清水雅(非売品)=館内限定近デジ本、 資料その23(1)は清水雅著「静水居漫筆」95ページ、昭和16年12月、清水雅(非売品)、同、 同(2)は同170ページ、同 (421)は清水雅著「六甲だより」82ページ、昭和54年6月、清水雅=原本(非売品)