翻刻テキスト
《巻首》日本書紀 巻第七
大足彦忍代別天皇 景行天皇
稚足彦天皇 成務天皇
大足彦忍代別天皇 景行天皇
《景行天皇即位前紀》大足彦忍代別天皇。活目入彦五十狭茅天皇第三子也。母皇后曰日葉洲媛命。丹波道主王之女也。活目入彦五十狭茅天皇三十七年(戊申八)、立為皇太子。九十九年(庚午七〇)春二月。活目入彦五十狭茅天皇崩。
《景行天皇元年(辛未七一)七月己卯(十一)》元年秋七月己巳朔卯己卯。太子即天皇位。因以改元。是年也、太歳辛未。
《景行天皇二年(壬申七二)二月戊辰(三)》二年春三月丙寅朔戊辰。立播磨稲日大郎姫〈 一云。稲日稚郎姫。郎姫。此云異羅〓〓〓[口+羊]。 〉為皇后。后生二男。第一曰大碓皇子。第二曰小碓尊。〈 一書云。皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子。 〉其大碓皇子。小碓尊。一日同胞而双生。天皇異之。則誥於碓。故因号其二王曰大碓。小碓也。是小碓尊。亦名日本童男。〈 童男。此云烏具奈。 〉亦曰日本武尊。幼有雄略之気。及壮容貌魁偉。身長一丈。力能扛鼎焉。
《景行天皇三年(癸酉七三)二月庚寅朔》三年春二月庚寅朔。卜幸于紀伊国。将祭祀群神祇。而不吉。乃車駕止之。遣屋主忍男武雄心命〈 一云、武猪心。 〉令祭。爰屋主忍男武雄心命詣之。居于阿備柏原、而祭祀神祇。仍住九年。則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛。生武内宿禰。
《景行天皇四年(庚戌七四)二月甲子(十一)》四年春二月甲寅朔甲子。天皇幸美濃。左右奏言之。茲国有佳人。曰弟媛。容姿端正。八坂入彦皇子之女也。天皇欲得為妃。幸弟媛之家。弟媛聞乗輿車駕。則隠竹林。於是天皇権令弟媛至、而居于泳宮之。〈 泳宮。此云区玖利能弥揶。 〉鯉魚浮池、朝夕臨視而戯遊。時弟媛欲見其鯉魚遊。而密来臨池。天皇則留而通之。爰弟媛以為。夫婦之道。古今達則也。然於吾而不便。則請天皇曰。妾性不欲交接之道。今不勝皇命之威。暫納帷幕之中。然意所不快。亦形姿穢陋。久之不堪陪於掖庭。唯有妾姉。名曰八坂入媛。容姿麗美。志亦貞潔。宜納後宮。天皇聴之。仍喚八坂入媛為妃。生七男六女。第一曰稚足彦天皇。第二曰五百城入彦皇子。第三曰忍之別皇子。第四曰稚倭根子皇子。第五曰大酢別皇子。第六曰渟熨斗皇女。第七曰渟名城皇女。第八曰五百城入姫皇女。第九曰〓依姫皇女。第十曰五十狭城入彦皇子。第十一曰吉備兄彦皇子。第十二曰高城入姫皇女。第十三曰弟姫皇女。又妃三尾氏磐城別之妹。水歯郎媛。生五百野皇女。次妃五十河媛。生神櫛皇子。稲背入彦皇子。其兄神櫛皇子。是讃岐国造之始祖也。弟稲背入彦皇子。是播磨別之始祖也。次妃阿倍氏木事之女。高田媛。生武国凝別皇子。是伊予国御村別之始祖也。次妃日向髪長大田根。生日向襲津彦皇子。是阿牟君之始祖也。次妃襲武媛。生国乳別皇子与国背別皇子。〈 一云。宮道別皇子。 〉豊戸別皇子。其兄国乳別皇子。是水沼別之始祖也。弟豊戸別皇子。是火国別之始祖也。夫天皇之男女。前後并八十子。然除日本武尊。稚足彦天皇。五百城入彦皇子外。七十余子。皆封国郡。各如其国。故当今時。謂諸国之別者。即其別王之苗裔焉。
《景行天皇四年(庚戌七四)二月是月》是月。天皇聞美濃国造。名神骨之女。兄 名兄遠子。弟名弟遠子。並有国色。則遣大碓命。使察其婦女之容姿。時大碓命便密通而不復命。由是恨大碓命。
《景行天皇四年(庚戌七四)十一月庚辰朔》冬十一月庚辰朔。乗輿自美濃還。則更都於纒向。是謂日代宮。
《景行天皇十二年(壬午八二)七月》十二年秋七月。熊襲反之不朝貢。
《景行天皇十二年(壬午八二)八月己酉(十五)》八月乙未朔己酉。幸筑紫。
《景行天皇十二年(壬午八二)九月戊辰(五)》九月甲子朔戊辰。到周芳娑麼。時天皇南望之。詔群卿曰。於南方煙気多起。必賊将在。則留之。先遣多臣祖武諸木。国前臣祖菟名手。物部君祖夏花。令察其状。爰有女人。曰神夏磯媛。其徒衆甚多。一国之魁帥也。聆天皇之使者至。則抜磯津山之賢木。以上枝挂八握剣中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊。亦素幡樹于船舳。参向而啓之曰。願無下兵。我之属類。必不有違者。今将帰徳矣。唯有残賊者。一曰鼻垂。妄仮名号。山谷響聚。屯結於菟狭川上。二曰耳垂。残賊貧婪。屡略人民。是居於御木〈 木。此云開。 〉川上。三曰麻剥。潜聚徒党。居於高羽川上。四曰土折猪折。隠住於緑野川上。独恃山川之険。以多掠人民。是四人也。其所拠並要害之地。故各領眷属。為一処之長也。皆曰。不従皇命。願急撃之。勿失。於是。武諸木等先誘麻剥之徒。仍賜赤衣・褌及種種奇物。兼令〓不服之三人。乃率己衆而参来。悉捕誅之。天皇遂幸筑紫。到豊前国長峡県。興行宮而居。故号其処曰京也。
《景行天皇十二年(壬午八二)十月》冬十月。到碩田国。其地形広大亦麗。因名碩田也。〈 碩田。此云於保岐陀。 〉到速見邑。有女人。曰速津媛。為一処之長。其聞天皇車駕、而自奉迎之諮言。茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰青。二曰白。又於直入県禰疑野、有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰国摩侶。是五人並其為人強力。亦衆類多之。皆曰。不従皇命。若強喚者。興兵距焉。天皇悪之不得進行。即留于来田見邑。権興宮室而居之。仍与群臣議之曰。今多動兵衆。以討土蜘蛛。若其畏我兵勢将隠山野、必為後愁。則採海石榴樹。作椎、為兵。因簡猛卒。授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛。而破于稲葉川上。悉殺其党。血流至踝。故時人其作海石榴椎之処曰海石榴市。亦血流之処曰血田也。復将討打猿。径度禰疑山。時賊虜之矢。横自山射之。流於官軍前如雨。天皇更返城原。而卜於水上。便勒兵、先撃八田於禰疑野而破。爰打猿謂不可勝、而請服。然不聴矣。皆自投洞谷而死之。天皇初将討賊。次于柏峡大野。其野有石。長六尺。広三尺。厚一尺五寸。天皇祈之曰。朕得滅土蜘蛛者。将蹶茲石。如柏葉而挙焉。因蹶之。則如柏上於大虚。故号其石曰蹈石也。是時祷神。則志我神。直入物部神。直入中臣神三神矣。
《景行天皇十二年(壬午八二)十一月》十一月。到日向国。起行宮以居之。是謂高屋宮。
《景行天皇十二年(壬午八二)十二月丁酉(五)》十二月癸巳朔丁酉。議討熊襲。於是。天皇詔群卿曰。朕聞之。襲国有厚鹿文。〓鹿文者。是両人熊襲之渠帥者也。衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥。其鋒不可当焉。少興師、則不堪滅賊。多動兵、是百姓之害。何不仮鋒刃之威。坐平其国。時有一臣、進曰。熊襲梟帥有二女。兄曰市乾鹿文。〈 乾。此云賦。 〉弟曰市鹿文。容既端正。心且雄武。宜示重幣以〓納麾下。因以伺其消息。犯不意之処。則会不血刃。賊必自敗。天皇詔。可也。於是。示幣欺其二女、而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵。時市乾鹿文奏于天皇曰。無愁熊襲之不服。妾有良謀。即令従一二兵於己。而返家。以多設醇酒。令飲己父。乃酔而寐之。市乾鹿文密断父弦。爰従兵一人進殺熊襲梟帥。天皇則悪其不孝之甚、而誅市乾鹿文。仍以弟市鹿文賜於火国造。
《景行天皇十三年(癸未八三)五月》十三年夏五月。悉平襲国。因以居於高屋宮。已六年也。於是。其国有佳人。曰御刀媛。〈 御刀。此云弥波迦志。 〉則召為妃。生豊国別皇子。是日向国造之始祖也。
《景行天皇十七年(丁亥八七)三月己酉(十二)》十七年春三月戊戌朔己酉。幸子湯県。遊于丹裳小野。時東望之。謂左右曰。是国也直向於日出方。故号其国曰日向也。是日陟野中大石。憶京都而歌之曰。
@波辞枳予辞。和芸幣能伽多由。区毛位多知区暮。 はしきよし わぎへのかたゆ くもゐたちくも (K021)
@夜摩苔波。区珥能摩倍邏摩。多多儺豆久。阿烏伽枳 夜摩。許莽例屡。夜摩苔之。于屡破試。 やまとは くにのまほらま たたなづく あをかき やま こもれる やまとし うるはし (K022)
@異能知能 摩曾祁務比苔破。多多濔許莽。幣遇利能夜摩能。志邏伽之餓延塢。于受珥左勢。許能固。 いのちの まそけむひとは たたみこも へぐりのやまの しらかしがえを うずにさせ このこ (K023)是謂思邦歌也。
《景行天皇十八年(戊子八八)三月》十八年春三月。天皇将向京、以巡狩筑紫国。始到夷守。是時於石瀬河辺。人衆聚集。於是天皇遥望之。詔左右曰。其集者何人也。若賊乎。乃遣兄夷守。弟夷守二人令覩。乃弟夷守還来而諮之曰。諸県君泉媛。依献大御食、而其族会之。
《景行天皇十八年(戊子八八)四月甲子(三)》夏四月壬戌朔甲子。到熊県。其処有熊津彦者兄弟二人。天皇先使徴兄熊。則従使詣之。因徴弟熊。而不来。故遣兵誅之
《景行天皇十八年(戊子八八)四月壬申(十一)》壬申。自海路泊於葦北小嶋而進食。時召山部阿弭古之祖小左。令進冷水。適是時、嶋中無水。不知所為。則仰之祈于天神地祗。忽寒泉従崖傍涌出。乃酌以献焉。故号其曰水嶋也。其泉猶今在水嶋崖也。
《景行天皇十八年(戊子八八)五月壬辰朔》五月壬辰朔。従葦北発船到火国。於是日没也。夜冥不知著岸。遥視火光。天皇詔挟杪者曰。直指火処。因指火往之。即得著岸。天皇問其火光之処曰。何謂邑也。国人対曰。是八代県豊村。亦尋其火。是誰人之火也。然不得主。茲知非人火。故名其国曰火国。
《景行天皇十八年(戊子八八)六月癸亥(三)》六月辛酉朔癸亥。自高来県渡玉杵名邑。時殺其処之土蜘蛛津頬焉。
《景行天皇十八年(戊子八八)六月丙子(十六)》丙子。到阿蘇国也。其国郊原曠遠。不見人居。天皇曰。是国有人乎。時有二神。曰阿蘇都彦。阿蘇都媛。忽化人以遊詣之曰。吾二人在。何無人耶。故号其 国曰阿蘇。
《景行天皇十八年(戊子八八)七月甲午(四)》秋七月辛卯朔甲午。到筑紫後国御木。居於高田行宮。時有僵樹。長九百七十丈焉。百寮蹈其樹而往来。時人歌曰。@阿佐志毛能。瀰概能佐烏麼志。魔幣菟耆弥。伊和〓[口+多]羅秀暮。弥開能佐烏麼志。 あさしもの みけのさをばし まへつきみ いわたらすも みけのさをばし (K024)爰天皇問之曰。是何樹也。有一老夫曰。是樹者歴木也。嘗未僵之先。当朝日暉。則隠杵嶋山。当夕日暉。亦覆阿蘇山也。天皇曰。是樹者神木。故是国宜号御木国。
《景行天皇十八年(戊子八八)七月丁酉(七)》丁酉。到八女県。則越藤山、以南望粟岬。詔之曰。其山峰岫重畳。且美麗之甚。若神有其山乎。時水沼県主猿大海奏言。有女神。名曰八女津媛。常居山中。故八女国之名、由此而起也。
《景行天皇十八年(戊子八八)八月》八月。到的邑而進食。是日膳夫等遺盞。故時人号其忘盞処曰浮羽。今謂的者訛也。昔筑紫俗号盞日浮羽。
《景行天皇十九年(己丑八九)九月癸卯(二十)》十九年秋九月甲申朔癸卯。天皇至自日向。
《景行天皇二〇年(庚寅九〇)二月甲申(四)》二十年春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女、令祭天照大神。
《景行天皇二五年(乙未九五)七月壬午(三)》二十五年秋七月庚辰朔壬午。遣武内宿禰、令察北陸。及東方諸国之地形。且百姓之消息也。
《景行天皇二七年(丁酉九七)二月壬(十二)子》二十七年春二月辛丑朔壬子。武内宿禰自東国還之奏言。東夷之中。有日高見国。其国人。男女並椎結文身。為人勇悍、是総曰蝦夷。亦土地沃壊而曠之。撃可取也。
《景行天皇二七年(丁酉九七)八月》秋八月。熊襲亦反之。侵辺境不止。
《景行天皇二七年(丁酉九七)十月己酉(十三)》冬十月丁酉朔己酉。遣日本武尊、令撃熊襲。時年十六。於是。日本武尊曰。吾得善射者欲与行。其何処有善射者焉。或者啓之曰。美濃国有善射者。曰弟彦公。於是。日本武尊遣葛城人宮戸彦、喚弟彦公。故弟彦公便率石占横立。及尾張田子之稲置。乳近之稲置而来。則従日本武尊而行之。
《景行天皇二七年(丁酉九七)十二月》十二月。到於熊襲国。因以伺其消息及地形之嶮易。時熊襲有魁帥者。名取石鹿文。亦曰川上梟帥。悉集親族而欲宴。於是。日本武尊解髪作董女姿。以密伺川上梟帥之宴時。仍佩剣〓裏。入於川上梟帥之宴室。居女人之中。川上梟帥感其童女之容姿。則携手同席。挙坏令飲而戯弄。于時也更深人闌。川上梟帥且被酒。於是。日本武尊抽〓中之剣。刺川上梟帥之胸。未及之死。川上梟帥叩頭曰。且待之。吾有所言。時日本武尊留剣待之。川上梟帥啓之曰。汝尊誰人也。対曰。吾是大足彦天皇之子也。名曰本童男也。川上梟帥亦啓之曰。吾是国中之強力者也。是以当時諸人。不勝我之威力。而無不従者。吾多遇武力矣。未有若皇子者。是以賤賊陋口以奉尊号。若聴乎。曰。聴之。即啓曰。自今以後号皇子。応称日本武皇子。言訖。乃通胸而殺之。故至于今、称曰日本武尊。是其縁也。然後遣弟彦等、悉斬其党類。無余〓[口+焦]。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。其処有悪神。則殺之。亦比至難波。殺柏済之悪神。〈 済。此云和多利。 〉
《景行天皇二八年(戊戌九八)二月乙丑朔》二十八年春二月乙丑朔。日本武尊奏平熊襲之状曰。臣頼天皇之神霊。以兵一挙。頓誅熊襲之魁帥者。悉平其国。是以西洲既謐。百姓無事。唯吉備穴済神。及難波柏済神。皆有害心。以放毒気。令苦路人。並為禍害之薮。故悉殺其悪神。並開水陸之径。天皇於是美日本武之功。而異愛。
《景行天皇四〇年(庚戌一一〇)六月》四十年夏六月。東夷多叛。辺境騒動。
《景行天皇四〇年(庚戌一一〇)七月戊戌(十六)》秋七月癸未朔戊戌。天皇詔群卿曰。今東国不安。暴神多起。亦蝦夷悉叛。屡略人民。遣誰人以平其乱。群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言。臣則先労西征。是役必大碓皇子之事矣。時大碓皇子愕然之。逃隠草中。則遣使者召来。爰天皇責曰。汝不欲矣、豈強遣耶。何未対賊。以予懼甚焉。因此遂封美濃。仍如封地。是身毛津君。守君凡二族之始祖也。於是。日本武尊雄誥之曰。熊襲既平。未経幾年。今更東夷叛之。何日逮于大平矣。臣雖労之。頓平其乱。則天皇持斧鉞。以授日本武尊曰。朕聞。其東夷也。識性暴強。凌犯為宗。村之無長。邑之勿首。各貪封堺。並相盗略。亦山有邪神。郊有姦鬼。遮衢塞径。多令苦人。其東夷之中。蝦夷是尤強焉。男女交居。父子無別。冬則宿穴。夏則住樔。衣毛飲血。昆弟相疑。登山如飛禽。行草如走獣。承恩則忘、見怨必報。是以箭蔵頭髻。刀佩衣中。或聚党類。而犯辺界。或伺農桑。以略人民。撃則隠草。追則入山。故往古以来。未染王化。今朕察汝人也。身体長大。容姿端正。力能扛鼎。猛如雷電。所向無前。所攻必勝。即知之。形則我子。実則神人。是寔天愍朕不叡。且国不平。令経綸天業。不絶宗廟乎。亦是天下。則汝天下也。是位則汝位也。願深謀遠慮。探姦伺変。示之以威。懐之以徳。不煩兵甲。自令臣隷。即巧言而調暴神。振武以攘姦鬼。於是。日本武尊乃受斧鉞。以再拝奏之曰。嘗西征之年。頼皇霊之威。堤三尺剣。撃熊襲国。未経浹辰。賊首伏罪。今亦頼神祗之霊。借天皇之威。往臨其境。示以徳教。猶有不服。即挙兵撃。仍重再拝之。天皇則命吉備武彦与大伴武日連。令従日本武尊。亦以七掬脛為膳夫。
《景行天皇四〇年(庚戌一一〇)十月癸丑(二)》冬十月壬子朔癸丑。日本武尊発路之。
《景行天皇四〇年(庚戌一一〇)十月戊午(七)》戊午。抂道拝伊勢神宮。仍辞于倭姫命曰。今被天皇之命。而東征将誅諸叛者。故辞之。於是倭姫命取草薙剣。授日本武尊曰。慎之莫怠也。
《景行天皇四〇年(庚戌一一〇)是歳》是歳。日本武尊初至駿河。其処賊陽従之。欺曰。是野也糜鹿甚多。気如朝霧。足如茂林。臨而応狩。日本武尊信其言。入野中而覓獣。賊有殺王之情。〈 王謂日本武尊也。 〉放火焼其野。王知被欺。則以燧出火之。向焼而得免〈 一云。王所佩剣叢雲自抽之、薙攘王之傍草。因是得免。故号其剣曰草薙也。叢雲。此云茂羅玖毛。 〉王曰。殆被欺。則悉焚其賊衆而滅之。故号其処曰焼津。亦進相摸、欲往上総。望海高言曰。是小海耳。可立跳渡。乃至于海中、暴風忽起。王船漂蕩而不可渡。時有従王之妾。曰弟橘媛。穂積氏忍山宿禰之女也。啓王曰。今風起浪泌。王船欲没。是必海神心也。願以妾之身。贖王之命而入海。言訖。乃披瀾入之。暴風即止。船得著岸。故時人号其海曰馳水也。爰日本武尊則従上総転入陸奥国。時大鏡懸於王船。従海路廻於葦浦。横渡玉浦、至蝦夷境。蝦夷賊首・嶋津神。国津神等。屯於竹水門而欲距。然遥視王船。予怖其威勢。而心裏知之不可勝。悉捨弓矢。望拝之曰。仰視君容。秀於人倫。若神之乎。欲知姓名。王対之曰。吾是現人神之子也。於是。蝦夷等悉慄。則〓裳披浪。自扶王船而着岸。仍面縛服罪。故免其罪。因以俘其首帥。而令従身也。蝦夷既平。自日高見国還之。西南歴常陸。至甲斐国。居于酒折宮。時挙燭而進食。是夜。以歌之問侍者曰。@珥比麼利。菟玖波〓[土+烏]須擬〓[氏+一]。異玖用加禰菟流。 にひばり つくはをすぎて いくよかねつる (K025)諸侍者不能答言。時有秉燭者。続王歌之末而歌曰。
@伽餓奈倍〓[氏+一]。用珥波虚虚能用。比珥波苔〓[土+烏]伽〓[土+烏]。 かがなべて よにはここのよ ひにはとをかを (K026)即美秉燭人之聡而敦賞。則居是宮。以靭部賜大伴連之遠祖武日也。於是。日本武尊曰。蝦夷凶首。咸伏其辜。唯信濃国。越国(。頗未従化。則自甲斐北転。歴武蔵。上野。西逮于碓日坂。時日本武尊毎有顧弟橘媛之情。故登碓日嶺而東南望之。三歎曰。吾嬬者耶〈 嬬。此云菟摩。 〉故因号山東諸国。曰吾嬬国也。於是。分道。遣吉備武彦(吉備津日子の孫)於越国。令鑑察其地形嶮易。及人民順不。則日本武尊進入信濃。是国也山高谷幽。翠嶺万重。人倚杖難升。巖嶮磴紆。長峰数千。馬頓轡而不進。然日本武尊披煙凌霧、遥径大山。既逮于峰而飢之。食於山中。山神令苦王。以化白鹿立於王前。王異之。以一箇蒜弾白鹿。則中眼而殺之。爰王忽失道。不知所出。時白狗自来。有導王之状。随狗而行之。得出美濃。吉備武彦自越出而遇之。先是。度信濃坂者。多得神気以〓臥。
【上記仮名文】 岩倉紙芝居館/古典館/日本書紀/7-2上田啓之/より抜粋
於是 日本武尊曰 蝦夷凶(あしき)首(ひとども) 咸(ことごとくに)伏(したがふ)其辜(つみ) 唯信濃國(しなののくに)・越國(こしのくに) 頗(すこぶる)未(いまだ)從化(みおもぶけ) 則自甲斐(かひ)北(きたのかた) 轉歴(めぐる)武藏(むさし)・上野(かみつけの) 西(にしのかた)逮于碓日坂(うすひのさか) 時日本武尊 毎(つねに)有(ます)顧(しのぶ)弟橘媛之情(こころ) 故登碓日嶺(うすひのみね) 而東南(たつみのかた)望(おせる)之三(みたび)歎曰 吾嬬(あづま)者耶(はや) 【嬬 此云菟摩(つま)】 故因號(なづく)山東(ひむがし)諸國(もろもろのくに) 曰吾嬬國(あづまのくに)也 於是 分(くばる)道 遣(つかはす)吉備武彦於越國 令監察(みる)其地形(くにかた)嶮易(ありかた)及人民(おほみたから)順不(まつろひまつろはぬ) 則日本武尊 進入(いでます)信濃(しなの) 是國也 山高谷幽(ふかし) 翠(あをき)嶺(たけ)萬重(とほくかさなる) 人倚(つかふ)杖(つゑ)難升(のぼる) 巖(いはほ)嶮(さがし)磴(かけはし)紆(めぐる) 長(たかし)峯(たけ)數千(ちぢあまり) 馬頓轡(なづむ)而不進(ゆく) 然日本武尊 披(わく)烟(けぶり)凌(しのぐ)霧遥人一巛工(わたる)大山(みたけ) 既逮(いたる)于峯 而飢(つかれる)之 食(みをしす)於山中 山~令苦(くるしぶ)王(みこ) 以化(なる)白鹿(かせき)立於王前 王異(あやしぶ)之 以一箇蒜(ひとつのひる)彈(はじきかく)白鹿 則中(あたる)眼(まなこ)而殺之 爰王忽(たちまちに)失(まどふ)道 不知所出 時白狗(いぬ)自(おのづから)來(まうく) 有(ある)導(みちびく)王(みこ)之状(かたち) 隨(したがふ)狗而行(いでる)之 得出美濃(みの) 吉備武彦 自越出而遇(まうあふ)之 先是 度(わたる)信濃坂(しなののさか)者(ひと) 多(さはに)得~氣(いき)以广冫莫臥(をえふす) 但(ただ)從殺白鹿(かせき)之後 踰(こゆ)是山者(ひと) 嚼(かむ)蒜(ひる)塗人及牛馬(うしうま) 自不中(あたる)~氣也
【上記解説文】 岩倉紙芝居館/古典館/日本書紀/7-2上田啓之/より抜粋
”つみ”は~へのけがれを意味するような行為、「とが」は過失、「つみ」はその意図をもて為すこと、またその報復として加えられる処罰、自辛が初文で鼻に入墨する罪、~に対して「つつむべきもの」を犯し、「つつみあるもの」とされることを「つみ」という、罪の字は始皇帝が自辛と帝と字形が近いことをにくんで、罪に改めたとされる。辜は入墨の罪にとどまらず、磔殺の意を含むもので、古声に歹古(残骨)の義があるとされる(字訓、字統)。高天原を継ぐ皇孫に従はぬことが”つみ”となろうか、凶首は殺したことを暗示していよう。化を”おもぶけ”と訓じている。”み”は尊称、面向(おもむ)くからきて他動詞は教化の意にもちいる(字訓)。信濃國(長野県)と越國(北陸地方の古称)は未だ従はなかった。甲斐(山梨県)より北、武藏(埼玉県、東京都、神奈川県一部)・上野(上毛野國、群馬県)を経て、碓日坂に至る。碓日坂は、上野から信濃国佐久郡に通じる碓氷峠(地図)と注される。「坂本より軽井沢へ二里三十町。坂本の人家百二三十軒許。是より坂を越て碓日嶺へ上る。」(東路記に見る峠:峠の世界)とある。顧を”しのぶ”と訓じている。東南を望みとあるが、ここから浦賀水道といえば、東南といえぬことはないが感覚的には南であろう。弟橘媛を吾嬬(あづま:我妻)と三度嘆息し、碓日嶺の東を吾嬬國と称し、後に東國(あづま)となる。碓日嶺の東は上野、下野、常陸となり、相模、武蔵、上総、下総を対象とするなら、南、東南であり、東というなら、古事記の足柄の坂本の方が方向感覚が合う。信濃國・越國を視野にいれたために、かなり北方に軌道修正されざるを得なかった。ここで、吉備武彦が越、日本武尊が信濃と二手に別れることとなる。後の北陸の吉備の國造に、角鹿国造(越前国敦賀郡)、伊弥頭国(造(越中国射水郡)があり、吉備武彦がここに登場せしめられたことは、その証となるものであった。
【伊弥頭国((射水郡)の解説】
天平勝宝6年(754年)の正倉院文書に始めて伊弥頭国((越中国射水郡)が正史に出てくる。『先代旧事本紀』で国と呼ばれていた地域が、『日本書紀』で郡になっている場合がある。風土記にはこのように国を郡に変えた事例がいくつか記録されている。『先代旧事本紀』の表記は、のちに郡になった地域が「国」と表されていた古い姿が残されたことを示す。
但従殺白鹿之後。踰是山者。嚼蒜塗人及牛馬。自不中神気也。日本武尊更還於尾張。即娶尾張氏之女宮簀媛。而淹留踰月。於是聞近江胆吹山有荒神。即解剣置於宮簀媛家。而徒行之。至胆吹山、山神化大蛇当道。爰日本武尊不知主神化蛇之謂。是大蛇必荒神之使也。既得殺主神。其使者豈足求乎。因跨蛇猶行。時山神之興雲零氷。峰霧谷〓。無復可行之路。乃捷遑不知其所跋渉。然凌霧強行。方僅得出。猶失意如酔。因居山下之泉側。乃飲其水而醒之。故号其泉曰居醒泉也。日本武尊於是始有痛身。然稍起之、還於尾張。爰不入宮簀媛之家。便移伊勢而到尾津。昔日本武尊向東之歳。停尾津浜而進食。是時解一剣置於松下。遂忘而去。今至於此。是剣猶存。故歌曰。
@烏波利珥。多陀珥霧伽幣流。比苔菟麻菟。阿波例 比等菟麻菟。比苔珥阿利勢麼。岐農岐勢摩之〓[土+烏]。多知波開摩之〓[土+烏]。 をはりにただにむかへる ひとつまつ あはれ ひとつまつ ひとにありせば きぬきせましを たちはけましを (K027)逮于能褒野而痛甚之。則以所俘蝦夷等、献於神宮。因遣吉備武彦。奏之於天皇曰。臣受命天朝。遠征東夷。則被神恩。頼皇威。而叛者伏罪。荒神自調。是以。巻甲〓戈。〓悌還之。冀曷曰曷時。復命天朝。然天命忽至。隙駟難停。是以独臥曠野。無誰語之。豈惜身亡。唯愁不面。既而崩于能褒野。時年三十。天皇聞之。寝不安席。食不甘味。昼夜喉咽。泣悲〓〓。因以大歎之曰。我子小碓王。昔熊襲叛之日。未及総角。久煩征伐。既而恒在左右。補朕不及。然東夷騒動。勿使討者。忍愛以入賊境。一日之無不顧。是以朝夕進退。佇待還日。何禍兮。何罪兮。不意之間。倏亡我子。自今以後。与誰人之経綸鴻業耶。即詔群卿命百寮。仍葬於伊勢国能褒野陵。』時日本武尊化白鳥。従陵出之。指倭国而飛之。群臣等因以開其棺槻而視之。明衣空留、而屍骨無之。於是。遺使者追尋白鳥。則停於倭琴弾原。仍於其処造陵焉。白鳥更飛至河内。留旧市邑。亦其処作陵。故時人号是三陵曰白鳥陵。然遂高翔上天。徒葬衣冠。因欲録功名。即定武部也。
《景行天皇四三年(癸丑一一三)》是歳也。天皇践祚四十三年焉。
《景行天皇五一年(辛酉一二一)正月戊子(七)》五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而宴数日矣。時皇子稚足彦尊。武内宿禰不参赴于宴庭。天皇召之問其故。因以奏之曰。其宴楽之日。群卿・百寮。必情在戯遊。不存国家。若有狂生、而伺墻閣之隙乎。故侍門下備非常。時天皇謂之曰。灼然。〈 灼然。此云以耶知挙。 〉則異寵焉。
《景行天皇五一年(辛酉一二一)八月壬子(四)》秋八月己酉朔壬子。立稚足彦尊為皇太子。是日命武内宿禰為棟梁之臣。』初日本武尊所佩草薙横刀。是今在尾張国年魚市郡熱田社也。』於是所献神宮蝦夷等。昼夜喧譁。出入無礼。時倭姫命曰。是蝦夷等不可近就於神宮。則進上於朝庭。仍令安置御諸山傍。未経幾時。悉伐神山樹。叫呼隣里。而脅人民。天皇聞之、詔群卿曰。其置神山傍之蝦夷。是本有獣心。難住中国。故随其情願。令班邦畿之外。是今播磨。讃岐。伊勢。安芸。阿波。凡五国佐伯部之祖也。』初日本武尊娶両道入姫皇女為妃。生稲依別王。次足仲彦天皇。次布忍入姫命。次稚武王。其兄稲依別王。是犬上君。武部君。凡二族之始祖也。又妃吉備武彦之女。吉備穴戸武媛。生武卵王。与十城別王。其兄武卵王。是讃岐綾君之始祖也。弟十城別王。是伊予別君之始祖也。次妃穂積氏忍山宿禰之女。弟橘媛生稚武彦王。
《景行天皇五二年(壬戌一二二)五月丁未(四)》五十二年夏五月甲辰朔丁未。皇后播磨太郎姫薨。
《景行天皇五二年(壬戌一二二)七月己酉(七)》秋七月癸卯朔己酉。立八坂入媛命為皇后。
《景行天皇五三年(癸亥一二三)八月丁卯朔》五十三年秋八月丁卯朔。天皇詔群卿曰。朕顧愛子。何日止乎。冀欲巡狩小碓王所平之国。
《景行天皇五三年(癸亥一二三)八月是月》是月。乗輿幸伊勢。転入東海。
《景行天皇五三年(癸亥一二三)十月》冬十月。至上総国。従海路渡淡水門。是時聞覚賀鳥之声。欲見其鳥形。尋而出海中。仍得白蛤。於是。膳臣遠祖。名磐鹿六鴈。以蒲為手繦。白蛤為膾而進之。故美六鴈臣之功。而賜膳大伴部。
《景行天皇五三年(癸亥一二三)十二月》十二月。従東国還之、居伊勢也。是謂綺宮。
《景行天皇五四年(甲子一二四)九月己酉(十九)》五十四年秋九月辛卯朔己酉。自伊勢還於倭居纒向宮。
《景行天皇五五年(乙丑一二五)二月壬辰(五)》五十五年春二月戊子朔壬辰。以彦狭嶋王拝東山道十五国都督。是豊城命之孫也。然到春日穴咋邑。臥病而薨之。是時。東国百姓悲其王不至。窃盗王尸葬於上野国。
《景行天皇五六年(丙寅一二六)八月》五十六年秋八月。詔御諸別王曰。汝父彦狭嶋王。不得向任所而早薨。故汝専領東国。是以御諸別王承天皇命。且欲成父業。則行治之、早得善政。時蝦夷騒動。即挙兵而撃焉。時蝦夷首帥。足振辺。大羽振辺。遠津闇男辺等。叩頭而来之。頓首受罪。尽献其地。因以免降者、而誅不服。是以東久之無事焉。由是其子孫於今有東国。
《景行天皇五七年(丁卯一二七)九月》五十七年秋九月。造坂手池。即竹蒔其堤上。
《景行天皇五七年(丁卯一二七)十月》冬十月。令諸国興田部・屯倉。
《景行天皇五八年(戊辰一二八)二月辛亥(十一)》五十八年春二月辛丑朔辛亥。幸近江国。居志賀三歳。是謂高穴穂宮。
《景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月辛卯(七)》六十年冬十一月乙酉朔辛卯。天皇崩於高穴穂宮。時年一百六歳。
《成務天皇即位前紀》稚足彦天皇 成務天皇稚足彦天皇。大足彦忍代別天皇第四子也。母皇后曰八坂入姫命。八坂入彦皇子之女也。
《大足彦天皇四十六年(丙辰一一六 前紀辛酉一二一)》大足彦天皇四十六年。立為太子。年二十四。
《景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月》六十年冬十一月。大足彦天皇崩。
《成務天皇元年(辛未一三一)正月戊子(五)》元年春正月甲申朔戊子。皇太子即位。是年也。太歳辛未。
《成務天皇二年(辛未一三二)十一月壬午(十)》二年冬十一月癸酉朔壬午。葬大足彦天皇於倭国之山辺道上陵。尊皇后曰皇太后。
《成務天皇三年(癸酉一三三)正月己卯(七)》三年春正月癸酉朔己卯。以武内宿禰為大臣也。初天皇与武内宿禰同日生之。故有異寵焉。
《成務天皇四年(甲戌一三四)二月丙寅朔》四年春二月丙寅朔。詔之曰。我先皇大足彦天皇。聡明神武。膺〓受図。洽天順人。撥賊反正。徳〓覆〓。道協造化。是以。普天率土莫不王臣。稟気懐霊。何非得処。今朕嗣践宝祚。夙夜兢〓。然黎元蠢爾。不悛野心。是国郡無君長。県邑無首渠者焉。自今以後。国郡立長。県邑置首。即取当国之幹了者任其国郡之首長。是為中区之蕃屏也。
《成務天皇五年(乙亥一三五)九月》五年秋九月。令諸国。以国郡立造長。県邑置稲置。並賜楯矛以為表。則隔山河而分国県。随阡陌以定邑里。因以東西為日縦。南北為日横。山陽曰影面、山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。
《成務天皇四八年(戊子一七八)三月庚辰朔》四十八年春三月庚辰朔。立甥足仲彦尊為皇太子。
《成務天皇六〇年(庚午一九〇)六月己卯(十一)》六十年夏六月己巳朔己卯。天皇崩。時年一百七歳。
日本書紀巻第七 終
養老4年(720)
Copyright© Kiku tamio Office 2007
|