1977年修学旅行(その2)



三日目は、高知県から徳島日和佐へ


桂浜と月(テレカ)

 この日は朝から雨で、そのおかげでコースとしての桂浜散策が中止されてしまった。
予定では、団体写真撮影も入っており、まことに残念であった。
もし雨が降らなかったら、桂浜の坂本龍馬にこのとき会えたのだろうし、記念写真も龍馬のお膝元で、ということであっただろう。

しかしこのとき、龍馬の銅像が見れなかったことが、一人旅の決意にもなったのである。

龍馬の銅像とともにこの素晴らしい月の名所桂浜の姿は、
すぐそこにあるのに5年のおあずけとなる。

 



高知城と山内一豊の妻(テレカ)

やはり雨の中、高知城へと向かう。天気がよければ、このテレカのように高知県下を見下ろす綺麗な勇姿が見られたはずだ。

3層6階への天守閣には 友の助けで上ったが、城内の狭く急な階段と天守閣から見る、雨にけぶる高知城下の眺めがとても印象的であった。
多くの友の助けが受けられた修学旅行は、まさに感謝の旅としても心に残った。  



↑「ホテルニューむろと」の箸袋

昼食で立ち寄った、「ホテルニューむろと」
お弁当形式の食事であったが、海の幸ふんだんだったように記憶している。
このホテルは、5年後の一人旅の時に泊まることとなる。

中岡慎太郎と室戸岬(テレカ)

実際には、このように銅像が見えるわけではないが、
龍馬の像とともに高知では有名な銅像である。
それが故に修学旅行後には、しばらく龍馬と慎太郎の銅像を勘違いしたくらいである。

やはり雨の中、バスでその像の前を通り過ぎる。
徐行してくれたのか、その像の印象ははっきり残っている。
眉のキリリとした、男らしい銅像であった。  



日和佐海岸とうみがめテレカ

 高知から日和佐へ、旅も終盤戦へとさしかかる。
日和佐はアカウミガメの産卵地としても有名で、夏にはその姿を見るために、 多くの人が訪れるという。

ここで友人が「うみがめの卵」というお菓子を買っていたのが印象的だった。
もちろん本物の卵ではなく、マシュマロの中にアンズジャムの入ったお菓子であるが、 その小さめの丸い形が、うみがめの卵そっくりなのである。




↑「ホテル千羽」の箸袋

三日目の宿泊地となった、ホテル千羽。
夕食後に広間で、地元の連の踊り子さんによる阿波踊りを見た覚えがある。
最後には、手のふりや足の運びのコツを教えられ、みんなで踊ったのも印象的だった。

もちろんお風呂では、宿泊最終ということもあり、究極の悪さをする悪友がいたのであった・・・。


四日目は、徳島から東京へ


鳴門の渦潮

日和佐から鳴門へ、最終日のこの日は鳴門のうず潮見学から始まる。 右の写真は、観潮船からのもので、この当時はまだ大鳴門橋もなく、
観潮船からでしか雄大なうず潮は見れなかった。

船の揺れやうずのタイミング、写真を撮るには非常に難しかったが、
対向の船も写すことが出来、うずもまあまあ、臨場感のある写真となった。  



人形浄瑠璃(テレカ)

観潮船は淡路島の福良へ、 そこで阿波の人形浄瑠璃を見ることとなる。

演目は「傾城阿波鳴門」であった。
「父(とと)様の名は阿波の十郎兵衛、母さんはお弓・・・」の名ゼリフのものである。

人形使いと三味線と謡いの三つが一つになり、その古典芸能は旅の締めくくりとして、心に響いたものである。  



淡路島の福良から大磯、須磨へわたり新神戸発の「ひかり140号」で東京への帰路となる。
あたりは日も暮れ、窓の景色は夜景の連続となったが、
新幹線の中では旅の楽しかったこと、可笑しかったことで話は尽きなかった。
夕食も新幹線の中でお弁当が出て、みんなで楽しく食べたが、
横浜を過ぎる頃になると、終演への寂しさか、皆妙に無口になったのも覚えている。

午後8時56分、新幹線は東京駅へ
楽しかった四国への修学旅行はその終点を迎えた。
よくある学校行事の一つである修学旅行は終わった。


しかし、私の四国への思いは、
ここで終わったのではなく、1982年の一人旅へと続くのであった・・・。



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