1977年修学旅行(その1)

[四国の旅路/ 1977年修学旅行/ 1982年一人旅/ 1987年一人旅/]
ここでは、自分にとっての初めての四国について、書いていきたいと思う。
あまり写真が残ってないので、当時何故か?記念に取っておいた箸袋とテレカ等も交えて説明していきたい。


一日目 東京から四国香川へ

1977年11月2日、東京駅からひかり103号に乗り岡山へ・・・
新幹線での長旅もこれが初めてなのであった。

修学旅行ということもあり、昼食は各自持参で、私はおにぎりであったが、
このとき東京駅で買ったらしい、当時人気だったチキン弁当を食べていた友達が、
妙に印象的だった。
新幹線から見えた、富士山、姫路城、京都タワー、旅の序章として、興奮を盛り上げる。
岡山に着き、倉敷の美観地区で大原美術館等を散策し、
そして旅は宇高連絡船の発着所に向かう。




宇高連絡船(テレカ)

初めて乗り込んだ宇高連絡船は静かに瀬戸内海をわたる。
潮風、海の香り、海の色、甲板に出ずにはいられないくらい叙情を誘う。

そしていよいよ四国へ!
夕暮れ迫る午後6時41分、
これが初めて四国の地に足を踏み入れた瞬間である。

それが私にとっての四国慕情の始まりであった。


屋島と那須与一(テレカ)

今では、あらゆるアクセスで四国に訪れることが出来るが、
宇高連絡船の着く香川県高松は、四国の玄関であった。
私もその地から四国の旅が始まった。

そしてまず訪れたのが、屋島。
源平合戦、那須与一の扇の的でも有名なこの屋島は、屋根の形をした半島である。

平家軍の一艘の船は扇を掲げて、海岸の源氏軍の前に現れる。
その扇を見事射抜いた那須与一、合戦とはいえ、ロマン溢れる逸話である。
そんなロマンは、まさに旅を夢中にさせるのであった。



↑「ホテル桃太郎」の箸袋

泊まった旅館は、屋島山頂にある「ホテル桃太郎」
「桃太郎」という名前の由来は、キビ団子で有名な桃太郎である。

旅館に着きすぐお風呂となったが、それは修学旅行でのこと、初日とはいえいきなり羽目を外す悪友もいた。
男風呂と女風呂は、迫り立った岩のようなもので仕切られていたが、それでもそれをよじ登っていった悪友が・・・同窓会では必ずその話が出てくる。

ここでの夕食は、高松の讃岐うどんのうどんすき、とても美味しく、思い出に残る食事であった。



二日目は、香川県から高知県桂浜へ

屋島から琴平へ、琴平とはこんぴら(金比羅)さんのある所である。
ここは写真がなく、785段といわれる長い階段も上ることが出来なかったので、
説明はこれだけにしておく。

その金比羅さんを後にし、高知に向かいバスの中から見れたのが、大歩危・小歩危である。
ここでは、写真も撮れたので、修学旅行ハンドブックの解説とともに説明していきたいと思う。

 大歩危・小歩危1

ここは、徳島県西部、吉野川上流にある渓谷で、剣山国定公園に属する景勝地である。
吉野川が高知県から南北の方向をとって、徳島に入り池田町にいたるまでの約20km、この四国山地を横断しながら展開される渓谷美が大歩危小歩危である。
「ほけ」とは「崩壊」の意味で、そそり立つ谷の両岸が今にも崩れ落ちそうな様子が名前の由来となったらしい。
露出した谷の両岸には、日本で最も古い結晶片岩が見られるといわれている。  

今回の旅は祖谷で昼食を取り、この大歩危小歩危はバスの中からの眺めとなった。


 大歩危・小歩危2

写真は両方ともバスからであるが、バスの通行する道も渓谷のすぐ脇を通る。

渓谷を流れる川の色は、エメラルドグリーンを濃くしたような色であり、 何故そこまで濃いのかとても不思議で、それは深く印象に残り、 とても魅惑的に思えた。
この渓谷の脇を徒歩で歩いていたら、その川の色に魅入られて危うく・・・ということにも、 なりかねないとも思った。

写真は古いので幾分、色が落ちていたが画像補整で当時の色合いを出してみた。  



龍河洞(テレカ)

高知に入り、次に訪れたのが龍河洞である。
入り口近くに長尾鳥が見れる場所もあり、気楽な気持ちで私も龍河洞に入っていったが、 ところがどっこい、この鍾乳洞は総延長約4キロといわれ、
滑りやすい道もあり、狭い所もあり、長い階段もあり・・・、
足の悪い僕にとって、皆の助けを借りながらも、この鍾乳洞探検は大変な行軍となった。

しかし、だからこそ今は良い思い出にもなった。
ここで龍河洞の説明もちょっと付け加える。

この鍾乳洞は日本三大鍾乳洞の一つと数えられている大石灰洞で、
かなり歴史が古いらしく、承久の乱を逃れた土御門状況が里人に案内されたという伝説がある。いやもっと古い弥生時代に、奥深くを住居として人が住んでいたともいわれている。


 ごめん電車

龍河洞を後にし、高知市内をバス周遊、そのときにインパクトが強かったのが、路面電車
高知では、はりまや橋を交差するように路面電車が走っていたが、
その中で「ごめん」行きの電車を見てついつい写真を撮った。

「ごめん」というのは高知の地名であるが、
やはり旅の・・・、ほのぼのとした印象に残る。

心なしか、「ごめん」の文字も下に傾いているように見える。 




↑「桂浜センター」の箸袋

高知での宿は、桂浜にある「桂浜センター」と「桂浜荘」に分かれて泊まった。
当時、桂浜センターの方が収容人数も多く、こちらがメインで、
私たちは桂浜荘で泊まり、夕食が桂浜センター、 朝食は桂浜荘でということだった。
今では、その桂浜センターは無く、新たな桂浜荘が高知の地にそそり立つ。時の流れを感じてしまう。。。

この日のお風呂も、やはり印象に残る出来事があった。
旅の途中、みんなでお金を出し合って買ったトニックシャンプーを、仲良く回し使いして・・・、
途中に回ってきた一人の悪友が、勢いあまってシャンプーの蓋を全開し、
半分以上ドボドボ出してしまい、旅の間中ひんしゅくをかったというものである。
まあ、笑い話でであるが。

夕食には高知の海の幸が中心で、もちろん鰹のたたき も出た。美味かった。

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