歎異抄

 親鸞聖人滅後、歪んだ教えを説くものが出てきたのを嘆いた唯円房が、今まで聞き受けた教えをまとめて文章にしたとされています。聖人の思想に迫ってくるものがあり、他力信仰の極致が述べられておりますが、聖人直筆のものではないことに注意して読みたい書物です。
 


歎異抄(原文)


  第一条  第二条  第三条  第四条  第五条  第六条  第七条  第八条  第九条  第十条  別序  第十一条  第十二条  第十三条  第十四条  第十五条  第十六条  第十七条  第十八条  総結  付録  奥書

歎異抄

 ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師(親鸞)の口 伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、 幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか易行の一門に入ることを 得んや。まつたく自見の覚悟をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ。 よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこ れをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

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第一条
 一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐる なりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわ ち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・ 善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑ は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべ き善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐ るほどの悪なきゆゑにと云々。

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第二条
 一 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、 たづねきたらしめたまふ御こころざい、ひとへに往生極楽のみちを 問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存 知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめして おはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししから ば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、 かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきな り。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるな り。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちた りとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげ みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はば こそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願 まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まこと におはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈ま ことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことなら ば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ず るところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏 をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はから ひなりと云々。

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第三条
 一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世 のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむ けり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむここ ろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のここ ろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を とぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなる ることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往 生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰 せ候ひき。

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第四条
 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、も のをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがご とくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、 念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごと く衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便と おもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき と云々。

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第五条
 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、 いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父 母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ 候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を 回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土の さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめ りとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

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第六条
 一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の 候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はば こそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し 候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つ くべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある をも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信 心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすも あるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩を もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

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第七条
 一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心 の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。 罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり と云々。

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第八条
 一 念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行 ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあら ざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、 行者のためには非行・非善なりと云々。

「にほんご・第八条」へ

第九条
 一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべき ことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審あ りつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、 天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、 いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをお さへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろ しめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願 はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたの もしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩 の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候 ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの 土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、こと にあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はた のもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそ ぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく 候ひなましと云々。

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第十条
 一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑ にと仰せ候ひき。

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 そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆ みを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にか けしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひと びとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはします なかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来はおほく仰 せられあうて候ふよし、伝へへうけたまはる。いはれなき条々の子 細のこと。

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第十一条
 一 一文不通のともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願不 思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひお どろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、 ひとのこころをまどはすこと、この条、かへすがへすもこころをと どめて、おもひわくべきことなり。
 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じ いだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと、御約 束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐ らせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はから ひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆ ゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議 をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号 の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづか らのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたす け・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わ がこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすな り。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、 辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、 つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、 誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。

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第十二条
 一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この 条、すこぶる不足言の義といひつべし。
 他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を 申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。ま ことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問し て、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教 の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。一文不通にし て、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名 号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門な り、難行となずく。あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住す るひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。 当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法輪をくはだてて、「わが 宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、報敵も 出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みずからわが法を 破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひと のためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそは ずして、「われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものの、信ずれ ばたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとの ためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。 たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およば ざればつとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸 仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、に くい気せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍 論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文 候ふにこそ。故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生 もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることな れば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、 仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば往生はいよいよ一定と おもひたまふなり。あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、い かに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候 ひぬべけれ。かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあ らず、仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひと の疑をあらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひ しか。いまの世には、学問してひとのそしりをやめ、ひとへに論議 問答むねとせんとかまへられ候ふにや。学問せば、いよいよ如来の 御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身に て往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢な き趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。た またまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学問 してこそなんどいひおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。 みづから他力の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷はさんと す。つつしんでおそるべし、先師(親鸞)の御こころにそむくこと を。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

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第十三条
 一 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、 また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本 願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
 よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもは れせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せに は、「兎毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあ らずといふことなしとしるべし」と候ひき。
 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せ の候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、い はんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつ しんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてん や、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにて は候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえ ず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふこと をたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごとも こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはん に、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業 縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあ らず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべ し」と、仰せの候ひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、 悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふとい ふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。そのかみ邪見におち たるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてまし ませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよし をいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消 息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて候 ふは、かの邪執をやめんがためなり。まつたく、悪は往生のさはり たるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、わ れらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願 にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。さればとて、身にそ なへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。また、「海・河に 網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥を とりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐ るひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、 いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞)は仰せ候ひしに、 当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、 あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、 道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外 にしめして、内には虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらん 罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば善きことも、悪しきことも 業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ他力 にては候へ。『唯信抄』にも、「弥陀、いかばかりのちからましま すとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と 候ふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をた のむ信心も決定しぬべきことにて候へ。おほよそ、悪業・煩悩を断 じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよ かるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、 五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめら るるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは 願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いか なる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきこ とか。

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第十四条
 一 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条 は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、は じめて善知識のをしへにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念 申せば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・ 五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるか、滅罪の利 益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆゑは、弥 陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信 心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終 すれば、もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたま ふなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか 生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、 みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。 念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を 消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。もししからば、一生 のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることな ければ、いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業 報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病 悩苦痛せめて、正念に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。 そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。罪消えざれば、往生 はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いか なる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、す みやかに往生をとぐべし。また念仏の申されんも、ただいまさとり をひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたの み、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはん は、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他 力の信心なきにて候ふなり。

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第十五条
 一 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。 この条、もつてのほかのことに候ふ。
 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はま た法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつ とめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心 決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。 おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてあり がたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさと りをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、 弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるも のならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれ て、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんとき にこそ、さとりにては候へ。この身をもつてさとりをひらくと候ふ なるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八 十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさ とりをひらく本とは申し候へ。『和讃』(高僧和讃・七七)にいわ く、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光 摂護して ながく生死をへだてける」と候ふば、信心の定まるとき に、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。 しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、 さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。「浄土真宗 には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとなら ひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候しか。

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第十六条
 一 信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもを かし、同朋・同侶にもあひて口論をもしては、はかならず廻心すべ しといふこと。この条、断悪修善のここちか。
 一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびある べし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の知 恵をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおも ひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、 廻心とは申し候へ。一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生を とげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずし てをはることなれば、廻心もせず、柔和・忍辱のおもひにも住せざ らんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせ おはしますべきにや。口には、願力をたのみたてまつるといひて、 こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますとい ふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほ どに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の 生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。信心 定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、 わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力 を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出 でくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひ を具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねは おもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏も申され候ふ。これ自然 なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力に てまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われ物 しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふ。

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第十七条
 一 辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。 この条、なにの証文にみえ候ふぞや。学生だつるひとのなかに、い ひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。経論・正教 をば、いかやうにみなされて候ふらん。
 信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪 をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候 へ。信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふ を、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつ けまゐらせられ候ふなれ。

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第十八条
 一 仏法のかたに、施入物の多少にしたがつて、大小仏になるべし いふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
 まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの 安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方 便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかた ちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにを もつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるとい ふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」 (大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひき かけられ候ふやらん。かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、 いかに宝物を仏前にもなげ、師匠に施すとも、信心かけなば、その 詮なし。一紙・半銭も仏法のかたに入れずとも、他力にこころをなげ て信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にこと をよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。

「にほんご・第十八条」へ


 右条々は、みなもつて信心のことなるよりことおこり候ふか。故 聖人(親鸞)の御物語に、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおは しけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、 親鸞、御同朋の御なかにして御相論のこと候ひけり。そのゆゑは、 「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心も一つなり」と仰せ の候ひければ、勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつてのほか にあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一 つにはあるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御知恵・才覚ひろくお はしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。往生の信心 においては、まつたく異なることなし。ただ一つなり」と御返答あ りけれども、なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、 詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定むべきにて、この 子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如 来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはら せたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておは しまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたま ひ候はじ」と仰せ候ひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかに も、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。い づれもいづれも繰り言にて候へども、書きつけ候ふなり。露命わづ かに枯草の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなはしめたまふ ひとびと、御不審をもうけたまはり、聖人(親鸞)の仰せの候 ひし趣をも申しきかせまゐらせ候へども、閉眼ののちは、さこそし どけなきことどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、かくのご とくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、いひまよはされな んどせらるることの候はんときは、故聖人(親鸞)の御こころにあ ひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。お ほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をす てて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の 御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみみだらせたまふま じく候ふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候ふて、目やす にしてこの書に添へまゐらせて候ふなり。聖人(親鸞)のつねの仰 せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞 一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてあり けるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と 御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に 罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転し て、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、す こしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなく、わが御身にひ きかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩 のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて 候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われ もひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。聖人の仰せには、 「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来 の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善き をしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほ したらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、 火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはこと、 まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と こそ仰せは候ひしか。まことに、われもひともそらごとをのみ申し あひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。そのゆゑは、 念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひき かするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく 仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候 ふなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに 候ふ。これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈の往 く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さ だめてをかしきことにてこそ候はめども、故親鸞の仰せごと候ひし 趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書き つけ候ふなり。かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報 土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信 心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。 なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。

「にほんご・総結」へ


後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。ときに、 興福寺僧侶、敵奏のうへ、御弟子のうち、狼籍子細あるよし、無実 の風聞によりて罪科に処せらるる人数のこと。

一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪 におこなはるるなり。聖人(法然)は土佐国幡多という所へ流罪、 罪名、藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。親鸞は越後国、罪名、 藤井善信云々、生年三十五歳なり。
 浄聞房 備後国、澄西禅光房 伯耆国、好覚房 伊豆国、行空法  本房 佐渡国、幸西成覚房・善恵房二人、同遠流に定まる。しか るに無動寺の善題大僧正、これを申しあづかると云々。遠流の人々。 以上八人なりと云々。

 死罪に行はるる人々。
 一番 西意善綽房
 二番 性願房
 三番 住蓮房
 四番 安樂房
 二位法印尊長の沙汰なり。

 親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。よつて僧にあらず俗にあらず、 しかるあひだ、禿の字をもつて姓となして、奏聞を経られをはんぬ。 かの御申し状、いまに外記庁に納まると云々。流罪以後、愚禿親鸞 と書かしめたまふなり。

「にほんご・付録」へ


右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機において は、左右なく、これを許すべからざるものなり。

                              釈蓮如(花押)

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