母親像


菜月、1歳8ヶ月。
「お〜かぁしゃん。」
と言うようになった。
「おかあさん」という言葉は、実にやわらかい、いい響きを持った言葉だと思う。
「おかあさん」
子供の口からはじめて聞くこの一言は、たぶん、どんな母親にとっても忘れがたい感激の瞬間に違いなく...
舌足らずな言葉で、毎日、いろんな単語を覚えていく菜月が、かわいくて、いとおしくて...
だけど、なかなか手強くて、ちっても思うようにならなくて、イライラもし、うんざりすることも多い毎日。


公園で子供を遊ばせていると、通りがかりのおばちゃんたちは、たいてい一声かけてくる。
「かわいいお子さんがいて、うらやましいわ。」
「いいわねぇ、かわいい盛りね。なつかしいわ。」
と。
そう、「子育て」というのは、たぶん、後で振り返ってみれば、楽しかった思い出としてほほえみながら語られるものなのであり、今現在、まさに子育て中の当事者にとってみれば、目の前のこの事態は、けしてけして、そんなほほえましいことばかりではなかったりする。

昨今、ちまたでは「じこちゅう」という言葉がよく聞かれるけど...
「自己ちゅう」というなら、赤ちゃん(幼児を含め)ほど、自己中心的で身勝手なやつはいない。

寝てくれない。
食べてくれない。
そのくせ、お菓子ばかり要求する(^^;;;
自分のしたいことは、何がなんでも押し通そうとする。
でも、私のしたいことは、ぜったいにさせてくれない(^^ゞ
なぜか機嫌が悪くて、いつまでもぐずぐず、ぐずぐず。
1日じゅう、だだこねてばっかり...
「ややこしい」という言葉の語源は「ややこ」(子供)から来ているそうだけど、まさにややこしいとは、このことだ。

実際、公園での私たちの会話でも、
「たまに見る分には、かわいいんだけどねぇ、これが毎日となるとねぇ...」
「もう、ほんとげっそりするよ。」
「どうにかならんかね。」
「なんでこうなんだろぉ。」
そんな言葉が圧倒的に多い。
おばさん達の言うような「うらやましい」状態とはほど遠いものなのだ。

そして、ご多分にもれず、我が家も、それをそのままを地でいっている。
「もう、ほんとげっそりよ。」
と思い、
「どうにかならんものか」
と考え、最後には、
「なんでそうなん?」
問いただしたくなる日々。


この寒いのに水を入れてほしいと泣き



水がぜんぶなくなったと泣く...

(1歳7ヶ月)



公園で聞いた話によると、子供が「人の気持」ちがわかるようになるのは、4歳くらいなんだそうだ。
4歳...そう、菜月は1歳8ヶ月。
4歳なんて、まだまだ先の話であり、もちろん人の気持ちなんて考えてはくれない。
「かぁしゃんも眠たそうだから、寝てあげよう」
とか
「せっかく作ってくれたんだから、残さず食べよう」
とか
「今は、かぁしゃんも忙しそうだから、いい子にしておこう」
とか、そんなことは、ぜったいに思わない。
(当たり前だけど)

しかも、菜月、1歳8ヶ月にして、すでにお昼寝をしない。
する日もあるにはあるが、しない日のほうが多い。
これがどれほどたいへんかっていうのは、あまり想像がつかないと思うけど...
まだまだ手のかかる菜月が、昼寝してくれないということは、つまり、昼間には、私の自由はまったくないということなのだ。
お茶一杯ゆっくり飲ませてもらえなければ、ご飯なんてゆっくり食べさせてもらえるわけもなく...落ち着ける時間というのがまったくない。
これは、けっこうつらい。


三輪車に乗りたいと言っては泣き

(1歳7ヶ月)



だけど、こういったたいへんさは、実際は、なかなか他人にはわかってもらえない。
ま、私も子供ができてはじめてわかったのだから、人のことはとやかく言えないのだけれど...(^^;;;
少なくとも、男の人には、けしてわからないだろうなーと思う。

と思ったら、先日、親戚のおばさんに電話した時のこと。
「どう、なっちゃんは夜寝てくれるようになった?」
と聞かれ、
「うん。お乳卒業してからは、夜は寝てくれるようになったよ。でも、昼寝してくれん。」
と言ったのだ。
そしたら、
「夜寝てくれれば、昼寝してくれないくらいはいいじゃない。どうせ、あんた、毎日、暇なんだから...」
おばさんに、さらっと言われ...
「男の人」どころか、「女の人」にもわかってはもらえないと気づかされた今日この頃。

今の私にとっては、菜月が昼寝してくれないというのは、私の生活にかかわる重大問題であり...
今のこの生活が「暇」だと言うのなら、以前、仕事していた時のほうが、よっぽど自分の時間があった、と愚痴のひとつもこぼしたいところなんだけれど...

「寝れない」「つらい」「しんどい」...
どんなことを言ってみれも、それをほんとにわかってくれるのは、同じくらいの子供をかかえた当事者のお母さん達だけであり、たいていは
「母親なんだから当然」
の一言でかたづけられてしまうものなのだ。


水が冷たいと泣き...



冷蔵庫からアイスクリームを

出してほしいと泣く


(1歳8ヶ月)


ところで、この
「母親なんだから...」
という言葉は実に重い。
それを一番わかっているのは自分自身なだけに、それは実に実に重い(^^;;;

「母親」
もちろん、あまり小さい時の記憶はないけれど...
物心ついてからの記憶でいうと、お母さんが声をあらげて怒るという姿を、私は思い出せない。どなられたり、ひどく怒られたという記憶がない。
私にとっての母親は、いつも「やさしい」人であり、「おだやかな」人であり...
そして、それがそのまま、私にとっての「母親像」であり...
保育園のお誕生日カードに記された「将来の夢」は「おかあさんになりたい。」
お母さんみたいなお母さんになりたい、ずっとそう思って育ってきた。

ところがところが...
現実は、理想どおりにはいかないのだ、これが。
レストラン、お店、病院、いたるところで見かけるのだけれど、子供をひどく叱りつけるお母さんを見ては
「何もあんなに怒らなくても...」
と思っていたはずが、1日じゅう、つきまとってくる菜月に
「うるさい。」
と言っては、大泣きされ、あんまり
「おかし、おかし。」
としつこく追っかけられては
「いいかげんにしなさい!」
あまりにも寝てくれないことにいらだっては
「はよ寝!」
何かにつけては、ぶちキレなのである。
何のことはない、
「何もあんなに怒らなくても...」
とは、私のことではないか(^^;;;

今や、ちょっと
「ダメよ。」
と注意するや、
「はよね、はよね、んもぉ、んもぉ。」(はよう寝!のつもり)
と、口をとがらせて、私のマネをする菜月。
マネすなっちゅうねん(^^;;;


かぁしゃんのメガネをかけてみたり...



ふとんをかぶって「いないいない、ばぁ」

とても寝るどころではありません。


(1歳8ヶ月)


「・・・してはいけません。」
「・・・しましょう。」
そんなことは、わかっている。言われるまでもなく。
でも、言うのは簡単だけど、これがそんな思いどおりにはいかないのだ。

子育てというのは、毎日毎日だから、たいへんなのだ。
休みがないからたいへんなのだ。
たまに、ちょっとだけめんどうみるのではないからたいへんなのだ。
「ほんとにもう、毎日毎日..」と思う。
ストレスだってたまる。

母親だって人間なのだ。
母親だというだけで、寝れないのも、しんどいのも、それは当然のことだと思われるのはつらい。
「(子育ては)誰もがやってきたことだから。」
と、人はよく言うけれど...
確かに昔から誰もがやってきたことかもしれないけれど...
だからって楽だったというわけではないはずなのだ。
「やさしく」「おだやかな」私の母親でさえ、私が思っているような、同じような思いを抱いて子育てをしてきたはずだと思うのだ。(たぶん)
イライラもしたし、怒りもしたはずだと思うのだ。(たぶん)


とはいえ、だから、それでいいというものでもなく...
「こんなんでいいのかなぁ。」
と思わない日はない。

でも...
「んもう、んもう」
と私の怒るマネしながらも、おもちゃの電話を持ってマネする菜月の口調は、他の誰でもない私の口調そのものであり...
こけてケガした時、泣きながら帰ってくるところは、他の誰でもない私のところであり...
菜月にとっての、母親は、とりあえず、他の誰でもない私なのだ。

友達のいった、母親というのは
「他にかわりのいない専門職」
だという言葉に支えられ...
寝起きの菜月の
「おかぁしゃん」
の一言に、抱きしめたくなる一瞬にすくわれ...
反省、自己嫌悪、落ち込み、開き直り、奮起の日々(^^;;;

朝起きて、まず自分に言い聞かせることは、
「今日は、怒らずにすごそう」
だから、その日1日怒らずに過ごせた日には、自分をちょっとだけ誉めてやりたいと思うのだ。

菜月、1歳と8ヶ月。
思い描いた「母親像」とはほど遠いかもしれないが...
やさしい母親ではないかもしれないが...
とりあえず、かぁしゃんだって、がんばってるのだよ。
だから、ま、少々のことは大目に見てやったほしいと思うのだ、菜月(^^;;;


「うん、うん、ちょっと、ちょっと...」

かぁしゃんと同じ口調で電話する菜月

(1歳7ヶ月)