あいみちゃんへ


妊娠がわかっても、最初はなんだか不思議な気持ちばかりで、実感としてなかなかわいてこないものなのだけど、それでも、だんだんお腹が大きくなってくると、やはり、これは現実の出来事として受け止めないわけにはいかず、
「さて、赤ちゃんが生まれるってどういうことなのか?」
考えはじめるのだ。
が、その時になって、私には、そういうことを相談する人がまわりにいないということに気づいた。
なんせ、私の友達の中で、当時、結婚している子もいなければ、子供のいる友達もほとんど
いなかった。
その時、たった1人だけいた頼りになる友達。
それが埼玉の友達だった。


独身時代からの友達で、友達は埼玉、私は神奈川に住んでいたから、大きなおなかをかかえて、そう、しょっちゅう会えるというわけではなかったけど、電話やFaxなどで、赤ちゃんのこと、出産前に準備しておくもの、帝王切開のこと、ずいぶんいろんなことを教えてもらったものだ。
その友達の子は、女の子で5月生まれ。
「藍水」と書いて、あいみちゃんと言った。
ちょうど菜月より1つ年上、と年齢が近いこともあり、菜月が生まれてからは、私たちは、今まで以上に親しく、いろいろ話をした。
「昼寝してくれないのよぉ。」
「うちも、なかなか寝てくれないのよぉ。」
「なんだか、離乳食もあんまり食べないのよぉ。」
「うちは、ふかしたさつまいもとかよく食べるよ。試してみたらどう?」
「やっと寝返りができたよー。」
「うちも、やっと歩けるようになってきたよー。」
「あいみに、手作りのプリンを作ってあげたいんだけど、作り方わかる?」
「なっちゃんも大きくなったよー。今度写真送るね。」
「この間、プーさんのかわいい服見つけて買っちゃった。あいみには、もうちょっと小さそうだから、なっちゃんにプレゼントするね。」
と。


そのあいみちゃんが、先日、交通事故でなくなったと、他の友達から電話があった。
駐車場で、他の車に巻き込まれたのだと言う。
え...
亡くなったって何?
しばらく、どんな言葉も出てこなかった。
亡くなったって何?
それは、どういうふうに理解していいのかわからない出来事だった。
なんで?どうして?
その思いだけが、1日中、頭の中をぐるぐる、ぐるぐるした。


菜月が生後6ヶ月の時に、私たちは広島に引越したんだけれど、埼玉と広島に離れてからも、
「お互い、もうちょっと大きくなったら、また会いたいよね。」
いつもそんな思いをもっていた。
遠くに離れていても、それほど遠くに離れている気がしなかった。
あいみちゃんも、菜月も一緒に大きくなっているんだという思いだった。
そして、これからも一緒に大きくなっていこうと思っていた。

時々出す電子メイルの書き出しは、
「菜月が寝てるすきにメイルします。」
そして、
「あ、起きてきたので、このへんで。」
との締めくくり。
友達から来る返事のメイルも、長かったり、短かったり。
短い文章の最後には、
「あいみがなかなか寝てくれないので、このへんで。」
と締めくくってあった。
私たちは、なかなか自由にならない時間の合間をぬって、子供の成長を教えあった。
こんなことができるようになった、こんなことを言うようになった、どう、元気にしてる?と。

そんな会話を、これからもずっと交わしていきたかった。
そして、
「子供ってたいへんだよねぇ。でも、大きくなるのは、あっという間だねぇ。」
なんて言いながら、また、笑顔で再会したかったのだ。
いつか、大きくなったら...





引越し直前に遊びに来てくれた。

まんなかがあいみちゃん

でも、その「いつか」は、もう来ない。
あいみちゃんが、これ以上、大きくなることはないのだ。
あいみちゃんは、この5月に3歳になったばかりだった。
あいみちゃんは、たったの3年しか生きられなかったのだ。
なんで?どうして?
そんなことがあっていいのか...



壊れてしまうのは一瞬だ。
いとも簡単に壊れてしまう命。
でも、その命をここまではぐくんできた、この3年の月日は、たいへんな日々だったと思う。
特に、私の友達の場合は、普通の人以上に、ずっとずっとがんばってきた3年間だったと思うのだ。

あいみちゃんは、生まれつき、心臓が悪かった。
出産直前にそれがわかり、友達の出産は、急遽、帝王切開となった。
そして、あいみちゃんが生まれたのだ。
小さい頃は、心臓に負担がかかるから泣かせてはいけないってお医者さんにも言われてるんだと言っていた。
家も、あいみちゃんの通院のために、大学病院の近くに借りていた。
長い通院生活だった。
そして、体が少し成長した頃、あいみちゃんは、あのちっちゃな体にメスを入れて、心臓の手術をしたのだ。
それとは別に、妊娠中、お母さんの子宮がうまく大きくならなかったとかで、「内反足、外反足」という足の障害もあり、心臓が治った後には、足の手術もした。
ギブスでの生活も長かった。

「入院生活は長かったよぉ。」
「手術とかいろいろあって、予防接種なんかもぜんぜんしてないの。これからだよ。」
友達は明るい声で退院の報告をしてくれたけど、こんなに小さい子が何度も手術を受けるということは、親にとっても子供にとっても、ほんとにつらいものだったと思う。

そんな友達のがんばりを見て、私も、なっちゃんがとにかく寝てくれなくて、つらかった時期には、いつも、友達のことを思った。
私なんてまだまだ...と奮起してきた。

私の知ってる友達は、いつも、明るく、笑顔だったけど、
「今だから笑っていえるけど、2重の障害があるってわかったときは、すごく落ち込んで、もう子供なんていらないって思ったこともあるよ。」
ずっと後になって私に言った。


「母親」は、最初から「母親」なわけではないのだ。
子供が生まれたからと言って、すぐに「母親」になれるわけでもない。
母性というのは、子供を育てながら、徐々にはぐくまれていくものなのだと思う。
妊娠に始まる体調の変化、出産の恐怖、そして迎える出産。
はじめて見る、なんだか不思議な物体の赤ちゃん。
どうやって育てていけばいいのかわからない不安。
ある日を境に突然変わる生活。
そんな中で、どんな母親も、みんな苦しみ、不安になり、悩みながら、赤ちゃんの成長する姿に、赤ちゃんの笑顔にささえられ、とにかく無我夢中で赤ちゃんを育てるのだ。
そして、いつしか「母親」らしくなり、子供はかけがえのない存在に変わっていく。
そんな子供が亡くなるということは、いなくなって寂しいというよりも、自分の体の一部を引きちぎられる痛みに近いと思う。


あいみちゃんも、この春、3歳になった。
「3歳」というのは、ちょうど、親の手が離れはじめて、ほっと一息という時ではなかったのだろうか。
いろんな試練を乗り越えてきた友達にとっては、なおさらそうだったのではないかと思う。
何度も手術を乗り越え、ようやく健康を取り戻し、元気に育っているあいみちゃんとの生活を楽しめるようになった3年目の春だったはずなのだ。

「魔の瞬間」というのがある。
母親なら、誰しも、はっとした瞬間というのを経験したことがあるはずだ。
ちょっと目を離したすきに、子供が道路に出そうになっていたり...
ベビーカーを畳むほんのちょっとの間に、あやうく線路に落ちそうになったり...
思いもかけないところで、転んだり...
予想もできないようなことが起こるものだ。

電気コードが首に巻きついて亡くなった子がいる。
綿アメを食べている時に転んで、わりばしがのどに刺さって亡くなった子がいる。
こんにゃくゼリーをのどに詰まらせて亡くなった子がいる。
エスカレーターとエスカレーターの間に頭をはさまれて亡くなった子がいる。
子供の身には、時として
「まさか、そんなことが...」
と思うようなことが起こるものなのだ。
そして、どんなに気をつけてみているつもりでも、24時間、母親が子供から全く目を離さずに見張って、それを完全に防止するということは、とうてい不可能なのだ。
違うのは、その「魔の瞬間」に、大事になったか、ならなかったか、だけだ。
危ういものなのだ。


でも、その大事が、どうして、あいみちゃんの身に起こらなくてはならなかったのか?
なぜ、あいみちゃんでなくてはならなかったのか?
どうして...
一生懸命生きてきたあいみちゃんが、どうして...

今回のことも、ただの事故であってほしかった。
「今だから笑って言えるけど、あの時はたいへんだったのよ。」
またそう言って、元気になったあいみちゃんの笑顔を見せてほしかった。

子供の笑顔は、宝物だ。
ただ、そこにいてくれさえすればいい。
子供の温かみというのはそういうものだ。
ただ、そこにいてくれさえすればよかったのに...
そんな思いさえ、友達には、もうかなわなくなったのだ。


あいみちゃんが亡くなったと聞いた時、自分の子供が死んでいくのを見るくらいなら、自分が死んだほうが、まだましだと思った。
友達も、今、そんな痛みに耐えているのだ。
友達が、今、どんな気持ちでいるのか、そして、今後、あいみちゃんのいなくなったことを受け止めるのに、そしてそれを乗り越えるのに、どれほどのつらい日々を重ねていかなければならないか、そのことを思うと、息がつまりそうになる。
胸が押しつぶされそうな思いがする。
私は、友達に、なんという言葉をかけてあげればいいのか...
今は、そのどんな言葉も見当たらない。


今年もらった年賀状のあいみちゃん

大好きな犬のルナと
3年の人生はあまりにも短すぎる。
大切に大切にはぐくまれてきた命は、こんなにはやく逝ってしまうべきではなかったのに。
ただ、確かに、ここに、あいみちゃんはいたのだ。
この3年のあいみちゃんの人生が幸せなものだったと信じたい。
そして、今は、ただただ、あいみちゃんの小さな魂が天国に召されますように、もう2度と痛い思いをしませんように...
心の底から、ほんとに心の底から祈りたい。