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先日、ホームセンターに買い物に行った時だった。 園芸コーナーの片隅に、小さなおじぎ草を見つけた。 何年かぶりに見たおじぎ草。 おじぎ草を見ると、おばあちゃんを思い出す。 おじぎ草は、昔、母方のおばあちゃんちにあった草だった。 お盆と正月に必ず泊まりに行くおばあちゃんちで、朝晩、小さな鉢に植えてあるおじぎ草をちょんちょんと触るのが、おばあちゃんちでの楽しみの1つでもあった。 おばあちゃんは、 「そんなに好きだったら、持って帰り。」 と言ってくれたのだけど、いつも帰る時には忘れてしまい、結局持って帰れずじまいだった。 その元気だったおばあちゃんは、菜月が生まれて1歳にならない頃、突然の病で亡くなってしまった。 大好きなおばあちゃんだった。 おじぎ草を見ると、自分の幼少の頃の思い出とともに、いつも楽しそうに笑っていたおばあちゃんの顔を思い出す。 |
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ふとした瞬間に、なんでもない昔の思い出が頭をよぎることがある。 菜月が生まれてから、特にそんなことが多い。 菜月としゃがんで、一緒に虫をながめている時。 菜月をおんぶして、坂道をあがっている時。 手をつないで、横断歩道を渡っている時。 何気ない生活のひとこまの中で、ふと思い出すのだ。 そんなことは、もうここ何年も思い出したこともないような小さな出来事。 確かに、これと似た光景が昔にもあった、と。 |
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この間、実家に帰った時のことだった。 私の父親が、菜月をひざの上にのせ、なっちゃんの手をとって 「なんとちっちゃい手じゃのぉ。」 と言って、菜月の小指を自分の口にくわえたのだ。 何をされたのか、一瞬よくわからないというびっくり顔の菜月。 それは、まだ私がちっちゃかった頃、父親が、よく私の手を取ってやったことだった。 それを見た時、私ははじめて、あ〜そうだったのか、という思いにかられたのだ。 父親のあぐらの中に座ると、父親は、必ず、私の手を取って私の小指をがじがじし、そして、あごの無精ひげをじょりじょりと私のほっぺにあてた。 「んもぉ、おとうちゃんは!」 いつも、私はそうブツブツ文句を言っていたのだけれど... いとしそうに菜月の小さな手を取り、同じことをする父親の姿を見て、あれは、純粋に父親なりの愛情表現だったのか、と思ったのだった。 |
![]() 菜月にさゆを飲ます父親 ![]() |
中学校の時、中耳炎をこじらせて、大きな病院に連れていってもらった時だった。 私は学校を休み、父親は仕事を休んで、朝から病院に行った。 その帰り道、昼ご飯を食べるために、レストランに入ったのだ。 いつも、出かける時は、お母さんに連れられて行くことの多かった私は、なんとなく、父親と2人きりになり、どんなことを話していいのか、どぎまぎものだった。 その時、その海辺のレストランのすぐ窓の外には、海が広がっていたんだけど、父親がふと言ったのだ。 「あの波はどっちに流れとると思う?」 と。 なんだか、妙なことを聞くと思いながら 「向こう側かな?」 と言うと、父親は 「向こうに流れているように見えるだろ?でも、波っていうのは、見える方とは逆に流れとるんよ。」 その後は、何を話したか覚えてないけど、どこに行っても、海を見ると、なぜか、レストランで父親とむかいあってそんな会話をした、あの時のことを鮮明に思い出す。 「あの波はどっちに流れとると思う?」 と。 |
![]() 口に入れてもらって喜ぶ父親 |
父親は、昔からあまり喜怒哀楽をはっきり表に表す人ではなかった。 いつも、淡々とものを言った。 だから、母親から感じるようには、直接的な愛情を感じにくかった。 お父さんは私のことが嫌いなのかな、小学校の頃は、何度かそんなことも思ったことがあった。 あれは、小学校の時だった。 交通安全ポスターで佳作をもらったことがあって、賞状と一緒に、でっかいトロフィをもらったのだ。 なんだか、照れくさいくらいおおげさなそのトロフィをもって帰った時、父親の最初の言葉は「よかったな」でも「おめでとう」でもなく、 「もっとうれしそうな顔をせぇ。」 だった。 なんだか、その言葉は、子供ながらに、けっこう傷ついたのを覚えている。 でも、今思えば、あれはあれで、父親なりの「おめでとう」だったのかなぁとも思う。 |
そして、この間。 孫の拓ちゃんの足をさすりながら、父親が、 「これも足は遅そうじゃな。かけっこの時は、後ろから押してやらんといけんな。」 と言ったのだ。 父親のそんな何気ない一言で、タイムレースのことを思い出す。 小学校の運動会の時だ。 私は足がおそくて、タイムレースなんて大嫌いだった。 やっとそのタイムレースが終わって、昼ご飯の時。 父親が言ったのだ。 「まあいい。一番最後でも、ちゃんと前にくっついとった。離されんだけでもよかった、よかった。」 と。 その時は、変なことを言うと思った。 でも、考えてみれば、それ以上の言葉なんてかけようがないではないか。 あれは、父親なりに、精一杯、気を使ってくれた言葉だったのかなぁ、と今頃になって、そんなふうに思ったりするのだ。 父親が拓ちゃんに言った言葉。 「これも足は遅そうじゃな。かけっこの時は、後ろから押してやらんといけんな。」 私が走る姿を見ていた時も、父親は、同じようなことを思っていたのだろうか? |
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昔は、なんとも思わなかった一言だった。 でも、自分にもこうして子供ができた今では、違ったふうに感じることができる。 うれしかったこともあるし、傷ついたこともある。 でも、今思い出す、いろんな場面の父親のいっけんぶっきらぼうな一言。 その言葉の奥には、やはり、暖かさがあったような気がする。 菜月を前に、自分の幼少時代を思い出すと、そのいろんな思い出の中で、確かに自分は愛されて育ってきたのだなぁ、ということを感じるのだ。 |
![]() (2歳1ヶ月) |
「子育て」 とは、幼少時代を2度生き直すことだと誰かが何かの本で書いていた。 確かに、菜月と一緒にすごしながら、重ね合わせて、自分の幼少時代を思ったりする毎日。 「子を持って、はじめてわかる親の恩」 とはよく言ったものだ。 まさか、子育てがこんなにたいへんだとは思わなかった。 そして、子供がこんなにかわいいものだとも思わなかった。 楽しいけれど、けっこうしんどい。 体験すると、身にしみて思う。 「私の親も同じ思いをしてたのかなぁ。」 「こんなふうにして大きくしてもらったのかなぁ。」 菜月を見ながら、よく思う。 とにもかくにも、無事に大きくしてくれてありがとう、と思う。 でも...やはり、いつまでたっても、照れくさくて、そんなこと、口には出せないものだ。 |
![]() ボールの上からこんにちは。 |
先日、いつも元気な父親が体調を崩し入院した。 あまり見たことのない、けだるそうな父親の顔。 今回ばかりは、さすがに、私もとても心配になったのだけれど... 病室にお見舞いに行き、父親を前にすると、 「花見に来たついでに、お見舞いに来たわ。どう、元気?」 なんて、やはり、そんなふうに言ってしまうのだった。 近々、父親は心臓の手術をする。 とにかく、元気になってくれることだけを願っている。 菜月、2歳と2ヶ月。 ホームセンターで買ってきたおじぎ草も、少し大きくなった。 ベランダに置いたおじぎ草を、ちょんちょんとさわって、うれしそうな菜月。 枯れずに大きくなってくれればいいなぁと思う。 そして、菜月にも、大きくなってふと思い出す、幼少時代の思い出が、暖かいものであってほしいと思う。 怒られたことも、いやだったこともいっぱいあるだろうけれど...(^^;;; そんな中に、どんな些細なことでもいい、自分は確かに愛されてきたのだなぁと思えるような思い出が、いっぱいあればよいなぁと思う。 |
![]() とーしゃんのおなかで逆立ちなのだ |