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SFと私
◆第三回:俺的SF者像は、如何にして形成されたか(98/10/15)
    「SFが『センス・オブ・ワンダー』を感じさせる作品を意味するなら、あなたが『それ』を感じた作品があなたにとってのSFなんです」

    これは、みのうらゲストブックにて、Ludens@古川さんからいただいた言葉です。確かにそうなのかもしれません。

    しかし、SF者(=SF界にどっぷりとつかった人)にとってのSFもそうなのでしょうか。SF者にとってのSFを、「個々人が『センス・オブ・ワンダー』を感じた作品」と位置づけてしてしまっても良いのでしょうか?

    私の認識では、そうではありません。

    私の認識では、あるSF者が、ある作品をSFだと判断したならば、その作品は他のSF者にとってもSFなのです。逆に、あるSF者が、ある作品をSFではないと判断したならば、その作品は、他のSF者にとってもSFではないのです。

    つまり、SFというジャンルの領域が、SF者によって異なることはないのです。ある作品を、SF者AさんはSFであると考え、SF者BさんはSFではないと考えるということは、基本的にないのです。

    SF者にとってジャンルの境界線ははっきりしています。高千穂氏のたとえ話に準えるならば、カブとダイコンの違い程に、はっきりしています。我々が、同じように白くて土の中にできる野菜であってもカブとダイコンを見分けるように、SF者はSFと非SFを容易に見分けることができるのです。SF者にとって、SFというジャンルの示す領域は、カブとダイコンの違いに例えられる程、はっきりしていると云うこともできるでしょう。そしてSF者は、カブとダイコンを一緒くたにされることを拒否しているのです。

    このたとえを裏返せば、非SFファンを、カブやダイコンを食べたことがない異国の人にたとえることもできるかもしれませんね。食べたことがないから、外見で同じ種類だと思う人もいるかもしれないが、食べるうちに違いがわかってくるということです。

    さて、ここまで読んで首を傾げたSFファンはいらっしゃいますでしょうか。自分は自分のことをSFファンと思っているが、そこまでジャンルの境界線を意識していないという方。いらっしゃるかもしれません。そんなに境界線に拘るSF者なんて存在するのか?と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、上に書いたようなSF者は確かに存在する、少なくとも存在したらしいのです。

    そして、私が怖れるSF者とは、その様な人々のことなのです。その様なSF者にとっては、彼らがSFであると判断する範囲の作品を愛好する人々のみが、SF者であり、SFファンであるはずです。いま、自身をSFファンだと思っているあなたも、SF者の視点からみると、SFファンではないかもしれないのです。

    ここで、些か長くなりますが、私にそのような認識を与えた、俺的SF者像を形成するきっかけとなった文章を紹介しましょう。

    SFを考える―巨大ロボットアニメを軸として― 高千穂 遥
    【月刊OUT 昭和56年2月号(みのり書房)/45〜47頁より】
    「なぜSFにこだわるのか?」

     SFの人間は、たしかに不思議なほどSFであるかないかにこだわります。
     たとえば、SF界にどっぷりとつかった人が、あるSF作品を読むなり、観るなりしたとしましょう。すると、かれはすぐにこれをSFである、あるいはSFでない、と判断します。それはもう電光石火の早業で、読み終えるか観終えるかしたら、即座にそう言ってのけます。考えたり、迷ったりはしません(いや、ときにはとまどうこともあるかな)。
     そして、こういった判断がなされたとき、SF界以外の多くの人はひどく驚きます。なかには「なんで、そんなことがわかるんだ?」と訊く人もいます。謳い文句に”SF”と書かれ、宇宙船もエイリアンもでてくるのにSFでないといわれてはわけがわからないからです。そのうえに、そう判断した当の本人がうまく説明できないとしたら、これは何をか言わんやです。無責任だとか、心が狭いとか、はなはだしいときには、SFにこだわって内容を理解していない、とまで言われます。ボロくそですね。
     しかし、はっきりと書いておきましょう。SF界の人間がある作品をSFではない、と判断したとき、それはおおむね正しいのです。その作品は、たしかにSFではないのです。たとえその人がうまくその理由を説明できなくてもです。
     うまく説明できないのには、わけがあります。それは、説明しようにも、相手の人がSFをほとんど読んでいないからです。SFを読んでいない人には、SFとSFもどきの違いを説明できません。あまりいいたとえではないのですが、古道具屋の修行が、これにちょっと似ています。古道具屋は本物と偽物を見わけなければやっていけません。そのために、修行として毎日毎日、本物だけを見てすごすのだそうです。本物だけを何年も見た人は、偽物をひと目で見抜くそうです。SFもこれと同じで、SFを読んでいない人には、SFとSFもどきのちがいがわかりません。説明してあげたくても説明できないのです。
    (中略)
     SFとは、歴史を持った文学の一ジャンルです。そのジャンルは、これまでに書かれた膨大な作品群によって支えられています。SFを知るには、その作品を読まねばなりません。そうしてみて初めてSFとは何かがわかるのです。読んでいない人には説明できないのです。読んだ人には、説明の要がありません。読めば、わかるからです。何がSFで、何がSFでないのかが――。
     SFであるかないかを判断するのに、心の広さ狭さは関係ありません。そういうことを云々する人は、SFを読んでいない人です。考えてもみて下さい。ダイコンとカブを同じものだといわれて納得できますか。色は白いし、どちらも地中にできる。だから、これは同じものだ。違うように見えるのは、あなたの心が狭いからだ。などという主張を容認できるでしょうか。心が広かろうが狭かろうがカブはカブ、ダイコンはダイコンです。変な比喩になりましたが、つまるところSFも同様なのです。宇宙船やエイリアンが登場してもSFでないものはSFではないのです。


    80年代前半にSFファンとアニメファンの間で繰り広げられた、「ガンダムはSFか否か論争」の炎に油を注いだ有名な文章の頭の部分です。私の中のSF者像は、この文章によって形作られました。高千穂氏はガンダムはSFアニメではない、巨大ロボットアニメであると云います。すなわちジャンルが異なるというのです。それをSFと一緒にされるのは、SF者にとっては、カブとダイコンを同じものだと云われるほどに納得のいかない話だというのです。 そして、SF者である高千穂氏がそのように判断したことは、他のSF者もまた、おおむね同じように判断するであろうことを意味するのです。

    私はこの文章を読んだとき、SF者がこれほどまでにSFというジャンル名と、そのジャンル名が指し示す領域にこだわっているのならば、SFファンを名乗るのはやめようと思いました。彼らが「ここからここまでがSF」と指し示すならば、その見解を尊重しようと思いました。彼らのこだわりは何となくわかるからです。そして、こだわりの人のこだわりに、こだわりの外にいる人が接したときの鬱陶しさも想像できるからです。

    私だって名前に拘ることはあります。博多ラーメンもどきが博多ラーメンの名前で売られていると納得できないとかね(こればっか)。看板を変えるべきだとか思いますしね。しかし他の地域の出身者が、一緒にラーメン食べに行く度に、そんな言葉を聞かされたらどうでしょう。”不思議なほど博多ラーメンであるかないかにこだわる人”と映らないでしょうか。鬱陶しくは思わないでしょうか。

    加えて、この文章に添えられたSF作品リストが、私にSFファンを名乗ることをためらわせました。そこには「最低限読んでおきたい作品」として60作品(地底世界ペルシダー/火星のプリンセス/冒険者コナン等)が並んでいたのです(以下、「さらにSFを読み込みたい人のための作品」「SFマニアをめざす人のための作品」「簡易コース」「マニアになってしまった人のための作品」と続く)。私はそれを、”SFファンを名乗るならば最低限この60作品程度は読んでおくべきだ”、”この程度は読んでいることが、SFファンを名乗るための条件だ”という高千穂氏、いや高千穂氏が代表しようとしているSF者の意志として受け取りました。
    これはちょっと決定的でしたね。読んでいないあなたが「SFファンです」と云っても、納得しませんよとSF者に宣告されたに等しい印象を受けたのです。1、2冊、SF小説を読んだくらいじゃSFファンとは認めないという、敷居の高さを感じさせるリストでありました。読書がちょっと苦手(つうか、読むのが遅い)だった私とっては、60作品ってのはえらく敷居の高い話だったのです。
    その時の印象を、そのまま言葉にすると、「君らSFわからないんだから、ガンダムがSFかどうか語る前に、こんだけまず読んできてね。読んでSFがわかるようになったら相手にしてあげよう」みたいな感じ。

    まあそんなわけで、私はSFファンの前で、SFファンを名乗るまいと決意したわけです。
    嫌じゃないですか、会話の途中で「それはSFじゃない」とか「君はSFファンじゃない」なんて云われたら。たとえ口に出されなくても、そう考えているんじゃないかと不安になりますしね。そんな不安を抱えて会話するくらいなら、はじめからSFファンを名乗らない方が気楽で良い。

    そしてこれは、私にとってのSFとは何か、何をSFと考えればよいのかという問題とは別の話なのであります。

    え?たった一人のSF作家の発言で、なぜそこまでかっちりとSF者像が固まってしまったのか…ですか?。

    なぜでしょうねえ。当時クラッシャージョウ(作/高千穂 遥)を好きだったってのもあるんでしょうけど…。高千穂発言に反論するSFファンの声の存在を知らないことも、SF者像の固定化に影響しているかもしれません。SFサイドから高千穂発言に対する反論が行われた事例をご存じの方がいらっしゃいましたら、教えていただけると嬉しいです。
    まあ、思いこみの部分もあるんでしょうけどね。その後のガンダム論争(注)において、SFファンサイドは高千穂発言と同様の論旨で、アニメファンサイドを論破した(即ち、高千穂発言の肯定)と根拠なく信じてますし。え?その通りですか?

    【次回予告:ガンダムはどの辺りがSFじゃないのか】

    注)この論争について言及した文章に、最近あちこちでお目にかかるのは何故だろう?例えば、こんな具合。
     しかしこの時代、SF本来の語源である”サイエンスフィクション(科学を基盤とした論理的裏付けがなされた空想文学)”の概念を逸脱する作品をSFとして語ることは「愚の骨頂」とされ、このトラップにはまった20歳前後のアニメファン(当然ながら、アニメにしか興味のない人々)がことごとく老練なSFファンに論破&駆逐されていった。(略)

    月刊モデルグラフックス 1998年11月号(大日本絵画)P33/[特別企画]WF年代記「完全補完」対談 岡田斗司夫×宮脇修一企画・構成・文/あさのまさひこ より
    駆逐ってのは穏やかじゃないですね。どこから駆逐されたというのでしょう。まあ、半分冗談なんだろうけどさ(そう思いたい)。