SFを考える―巨大ロボットアニメを軸として― 高千穂 遥
【月刊OUT 昭和56年2月号(みのり書房)/45〜47頁より】
「なぜSFにこだわるのか?」
SFの人間は、たしかに不思議なほどSFであるかないかにこだわります。
たとえば、SF界にどっぷりとつかった人が、あるSF作品を読むなり、観るなりしたとしましょう。すると、かれはすぐにこれをSFである、あるいはSFでない、と判断します。それはもう電光石火の早業で、読み終えるか観終えるかしたら、即座にそう言ってのけます。考えたり、迷ったりはしません(いや、ときにはとまどうこともあるかな)。
そして、こういった判断がなされたとき、SF界以外の多くの人はひどく驚きます。なかには「なんで、そんなことがわかるんだ?」と訊く人もいます。謳い文句に”SF”と書かれ、宇宙船もエイリアンもでてくるのにSFでないといわれてはわけがわからないからです。そのうえに、そう判断した当の本人がうまく説明できないとしたら、これは何をか言わんやです。無責任だとか、心が狭いとか、はなはだしいときには、SFにこだわって内容を理解していない、とまで言われます。ボロくそですね。
しかし、はっきりと書いておきましょう。SF界の人間がある作品をSFではない、と判断したとき、それはおおむね正しいのです。その作品は、たしかにSFではないのです。たとえその人がうまくその理由を説明できなくてもです。
うまく説明できないのには、わけがあります。それは、説明しようにも、相手の人がSFをほとんど読んでいないからです。SFを読んでいない人には、SFとSFもどきの違いを説明できません。あまりいいたとえではないのですが、古道具屋の修行が、これにちょっと似ています。古道具屋は本物と偽物を見わけなければやっていけません。そのために、修行として毎日毎日、本物だけを見てすごすのだそうです。本物だけを何年も見た人は、偽物をひと目で見抜くそうです。SFもこれと同じで、SFを読んでいない人には、SFとSFもどきのちがいがわかりません。説明してあげたくても説明できないのです。
(中略)
SFとは、歴史を持った文学の一ジャンルです。そのジャンルは、これまでに書かれた膨大な作品群によって支えられています。SFを知るには、その作品を読まねばなりません。そうしてみて初めてSFとは何かがわかるのです。読んでいない人には説明できないのです。読んだ人には、説明の要がありません。読めば、わかるからです。何がSFで、何がSFでないのかが――。
SFであるかないかを判断するのに、心の広さ狭さは関係ありません。そういうことを云々する人は、SFを読んでいない人です。考えてもみて下さい。ダイコンとカブを同じものだといわれて納得できますか。色は白いし、どちらも地中にできる。だから、これは同じものだ。違うように見えるのは、あなたの心が狭いからだ。などという主張を容認できるでしょうか。心が広かろうが狭かろうがカブはカブ、ダイコンはダイコンです。変な比喩になりましたが、つまるところSFも同様なのです。宇宙船やエイリアンが登場してもSFでないものはSFではないのです。
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