TOPページへ
掲示板へ←感想・ご意見等はこちらへ

SFと私
もしくは”高千穂SF発言と私”、
もしくは”高千穂SF発言を読む”、もしくは…

◆第六回:キャンベルとガンダムについて/たかみさんのメールより(98/11/26)
◆第五回:SFの定義について/ガンダムは何故SFではないのか(98/10/30)
◆第四回:都築由浩さんの「SF者は『SF』を区別できるか」を拝読して(98/10/19)
◆第三回:俺的SF者像は、如何にして形成されたか(98/10/15)
◆第二回:SF者を怖れた日(98/10/**)
◆第一回:SF者を怖れるとき(98/10/**)
◆第零回:SFとSFもどきの境目(98/9/**)

メモ&当コーナーを読む上での注意事項
・今のところなし。

◆第六回:キャンベルとガンダムについて/たかみさんのメールより(98/11/26)
     以下は、11月9日にたかみさんからいただいたメールです。現在、これに対するお返事を書いている最中なのですが、まだまとまっておりません。大変申し訳ありませんが、暫くお待ち下さい。
    些細なところまで丁寧なRESありがとうございます^^;
    たかみです。

    どういう形で返答しようか迷ってしまったので遅くなりましたが、
    一応、本質的(でありそうな)点のみに焦点を絞ってゴタクをならべたいと思います。
    #長くなりましたので、メールにさせていただきました。

    ■ たかみのスタンス ■
    まず、これをはっきりさせましょう。
    そうでないと、言葉尻を捉えられて、あらぬ方向へ行きそうなのがネットの怖いところなので。
    - 自分はSF者だと思っている。
     SF研にもいたし、60冊以上は読んでるし(笑)、SFが好きだという自覚症状がある。
    - スペースオペラと本格SFは区別されるべきだと思う。
     これは面白さのベクトルが違うからであって、スペオペが下等だからではありません。
    - 『ガンダム』は立派なSFである。
     ハードSFでないのは当たり前です。SFとして面白いとか優れているかとかも度外視しています。
     しかし、本質的に、『ガンダム』はかなりSFであったと思います。
    #うーむ。かなり地雷原的記述になってしまった...^^;

    ■ 発言の趣旨 ■
    >「俺はSFとその周辺をただよっているけど、SFファンじゃないんだよー」という発言の
    >理由を説明したかっただけなのに、なんでこんな大袈裟な事になってしまったんでしょう(笑)。

    「何故、SFはそのように定義されたのか」について不服そうだったからです^^;

    >しかしながら、どうにも腑に落ちない部分があります。 いったい何故、SFはその様に定義
    >されたのでしょうか、定義されねばならなかったのでしょうか。
    とか。

    ■ キャンベルがスペオペを排除したのか ■
    >ぶっちゃけた言い方をするならば、パルプフィクション他をSFから排除可能な定義を、
    >敢えて考えたのではないか?
    >たかみさんの文章を読んで、とりあえずそのような印象を持ちました。

    ぶっちゃけた話、そうとってもよいかもしれません(笑)。
    が、敢えて反論を書きましょう。
    キャンベルがアスタウンディング誌の編集長に就任した時代にはSFなるものの概念がまだ
    柔らかく未分化であったと思います。なおかつ、パルプマガジン粗製濫造時代ですから
    相当な駄作も商業べースに載って売れていた時代です。
    このような時代背景と、アスタウンディング誌がパルプマガジンとして始まったこと
    を考えると、キャンベルは、「SFはもっと面白くなる」と考えて、それを編集方針として
    実践しただけだと考えられます。
    その結果、アスタウンディング出身の作家や、キャンベル原案の作品が市場を席巻し、
    50年代のいわゆる「黄金期」を招くわけです。
    つまり、キャンベルは文学的地位の向上を目指したのではなく、SFの面白さを追求した
    だけであり、SFがキャンベルSFを指すようになったのはあくまで結果であると捉えること
    ができます。

    >SFの文学的地位の向上を目的とした運動
    は少なくともキャンベル時代にはあてはまらない言葉でしょう。
    敢えて言うならば60年代ニューウェーブですかね。

    ■ SOWとSFマインド ■
    >SFマインドとSOWは不可分の関係にあるということなら理解できます。
    >ニアリーイコールであるというお話は、今ひとつピンときませんでした。

    これはその通りです。SFマインドとSOWは質的に異なります。
    「不可分」という言葉のほうが日本語的に正しいです。この点に関しては撤回します。

    ただし、個人的には、この二つはあまりにも不可分すぎて区別がつかないというのも
    素直な感覚なのです。

    > SOWとは、SFの理念とでもいうべきものです。くだけていうと、SFごころ
    >とでもなりますか。SF的発想、SF的展開を自然に、意識することなく作品へ
    >と結晶させていく源です。このSOWが感じられない人には、SFが書けません。

    >「その作品を読んで(見て・聞いて)脳裏に浮かんだイメージに、SFマインドを感
    >じるかどうか」であったと記憶しています。
    >
    >直接描くのではなくて「イメージ」させてくれる部分が必要で、しかもそこに「SF
    >マインド」なるSF者以外には曖昧模糊としたものを感じてはじめて「これはSF
    >である」となる。

    敢えてお二人の主張をひっくり返してみました。
    やはり、そう大きく異なったことを言っているようには思えないんですよね。

    ■ ガンダムがSFでない理由 ■
    先にスタンスとして述べたように、個人的見解では、SFとしておもしろいか、
    SFとして成功しているかどうかを度外視すると、『ガンダム』はSFに分類されて不思議の
    ない作品であったと思います。
    したがって、「第4話からSFでなくなった」しかも「展開においてSFではない」と断言
    された場合に、その意味を理解できません。

    高千穂遥は非常に尊敬していますが、引用文の中に
    >アニメーティングや人物設定に気を奪われたとき、SFから逸脱します。
    とあります。
    個人的にはまったく賛成できません。アニメーティングは知りませんが、これでは人物
    設定に注力するとSFではなくなる。もしくは、SFはSF的展開にこだわればよく、人物が
    書けてなくてもよいとなってしまいます。これは、私にとって最も忌み嫌う小説です。

    すいません。本質ではないですね。
    SF的展開とSF的発想に話を戻しましょう。
    展開がSFではないというと、司城志郎の『ゲノム・ハザード』とか、渡辺浩弐の
    『アンドロメディア』とかを思い浮かべてしまいますが。『ガンダム』はそうでもないんじ
    ゃないですかね。

    >SFであることを忘れてしまい、作法を見失ってしまうのです。
    この言い方は非常によくわかります。SFには作法があるのです(笑)。
    それはプロレスに「こうきたらこうくる」的な暗黙の了解があるのと非常によく似
    ていると思いますし、あるいは音楽において「このメロディーならこう続く」的な(某カ
    ラオケ番組で尾崎清彦とかがよく言ってたでしょ)感触にも似ているかもしれません。

    >SFの人間が、あの設定を得たら、ストーリーは、あのようには展開しないと言ったのです。
    これも言葉としては非常によくわかります。『ゲノム・ハザード』はそっくりそのまんま
    これに当てはまると思います。

    しかし、『ガンダム』の展開がSFでないとは...?
    たとえば、年端もいかない子供たちがモビルスーツを駆って敵をなぎ倒すとか?
    最新鋭の兵器をその子供たちに預けっぱなしにしてしまうとか?
    時代錯誤の復讐劇が展開されるとか?
    エースパイロットが最新鋭兵器を持って砂漠に逃げ出すとか?
    どれも致命的な欠陥には見えないんですがねぇ。

    まあ、要するに総論賛成各論反対みたいな感じなんですが。

    ■ ガンダムがSFである理由 ■
    じゃあ、『ガンダム』はSFであったのか?
    これは人それぞれで違う意見を持っていてかまわないと思います。
    それぞれがそれぞれのSFマインドに照らし合わせてみればよいのです。
    別に多数決をとるようなものではないでしょう。

    『微細機械ボーアメイカー』(リンダ・ナガタ)という作品があります。
    これは某サイトで、科学考証がなっていなくてダメダメであると評されていました。
    個人的には好きですよ。これは。
    確かに、ナノマシン万能な昨今の風潮にのった科学無視な設定ではありますが、
    ここで描かれているのは万能なナノマシンによって人間の生活がいかに変わるか
    という視点だったり、科学派と自然派のせめぎあいだったり、SFにしかできない
    テーマであり、SFという手段を「正しく」使っているという印象をうけました。
    したがって、この作品は、私にとってはSFマインドがある作品であり、
    すなわちSFなのです。

    では『ガンダム』はどうかといえば、
    宇宙に移住した人類がニュータイプとして目覚めていく過程が描かれており、
    (これは第1作目から成功しているとは言いがたいですが、成功すれば日本版
    『幼年期の終わり』になり得たかもしれない。お、もしかしてそうならなかった
    ことがSF的展開ではないということか?)
    民間人の少年を無理やり戦場にたたき出すことにより戦争のおろかさが描かれ、
    (日本人の子供たちにとっては遠い国の戦争よりもリアリティがあるでしょう)
    モビルスーツにもミノフスキー粒子や旧ザクなどの歴史的背景が付加されており、
    十分にSFにしようと努力した跡が見うけられます。
    さすがにSOWを感じるとまでは言いませんが、SFではないと批判する対象には
    思えません。

    ただし、これこそがSFであると言えないことも確かであるので、実は高千穂遥
    発言はそのあたりを主張していたのかもしれません。
    「こんなの見てSFとはこういうものだなんて思わないでね」って。

    ■ 最後に ■
    などとゴタクを並べてきましたが、
    キャンベルはスペオペを嫌っていたわけではない、とか、『ガンダム』は『幼年期の
    終わり』だとか、その他いろいろ丸ごと信じてはいけません(笑)
    私はキャンベルの研究家でもないし、ガンダムフリークでもありません。
    ただの通りすがりのSF好きです。

    SFマインドはSFをいくつも読みこなすうちに自然に身につくものです。
    (先天的な部分も確かに大きいかもしれませんが)
    したがって、その人が何を読んで(あるいは見て)育ってきたかが重要なのです。
    それによって、何にSFマインドを感じるか、SOWを感じるかが異なってくるのは
    当たり前です。
    そのために、いつの時代も「SFの定義」自体が議論のネタになりうるのです。

    突っ込まれても対応できるだけの経験を積んでおけば、世の中の流れに反して
    「SFとはこれだー」などと叫ぶことも可能だと思います。
    SFファンと名乗れない、などと思わず、自分なりのSF観を主張してみてください。


    ■ 追伸 ■
    SF論争が不毛かどうかには、Picaさんとは別の意見を持ってます。
    が、まぁ、そりゃSF“研”あがりですから。

    (メーラーの関係で、改行位置が少々変わっているかもしれません。問題がありましたら、ご指摘下さい)