SFを考える―巨大ロボットアニメを軸として― 高千穂 遥
【月刊OUT 昭和56年2月号(みのり書房)/50〜51頁より】
SF作家や何人かの漫画家が、のびのびと自由に書いて、ちゃんとSFをものにしているのに、どうしてわかっていない人にはSFが書けないのでしょう。
それは、SFマインドがないからです。
SFマインドとは、SFの理念とでもいうべきものです。くだけていうと、SFごころとでもなりますか。SF的発想、SF的展開を自然に、意識することなく作品へと結晶させていく源です。このSFマインドを持たない人には、SFが書けません。
SFマインドは、SFを多く読むことによって身に付きます。肌で織るという言葉がありますが、まさにそんな感じです。SFをSFたらしめる要素(エレメンツ)を知識として得るのではなく、思考のパターンとして脳に刻み込むといった雰囲気です。ほうっておいても、SFのアイデアが生まれ手が作品を作り出していくのです。
(中略)
「ガンダム」は、3話まではSFでした。4話から異和感を感じはじめました。5話になるとスタッフのSFマインドのなさがありありと見えてきました。全43話のトータルで一つの作品として成立しているのが「ガンダム」です。3話までSFだったからといって、「ガンダム」がSFだったとはいえません。限りなくSFに近いSFというのはないのです。線引きをするのなら、SFか、そうでないかのどちらかです。
(中略)
ぼくは「ガンダム」が20話ほど放映されたころ、富野さんに「ガンダム」がSFではなくなっていると告げ、その理由を説明しました。SFの人間が、あの設定を得たら、ストーリーは、あのようには展開しないと言ったのです。富野さんは、ぼくの意見に同意しました。何といってもSFの理解者です。多分、ぼくが言わなくても、わかっていたのでしょう。ただ理解することと、実践することは別のものだったのです。
|