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SFと私
もしくは”高千穂SF発言と私”、
もしくは”高千穂SF発言を読む”、もしくは…

◆第四回:都築由浩さんの「SF者は『SF』を区別できるか」を拝読して(98/10/19)
◆第三回:俺的SF者像は、如何にして形成されたか(98/10/15)
◆第二回:SF者を怖れた日(98/10/**)
◆第一回:SF者を怖れるとき(98/10/**)
◆第零回:SFとSFもどきの境目(98/9/**)

メモ
 
◆第四回:都築由浩さんの「SF者は『SF』を区別できるか」を拝読して(98/10/19)
    この度、本コーナーの内容を含む(みのうらゲストブック他で継続中の)議論に対し、都築由浩さんコメントを寄せていらっしゃいます。 第三回まで、私は"高千穂SF発言"を下敷きに「SFと称されるジャンルは、SF者のみがその領域を正しく認識できるらしい」こと、また「SF者は、SFであるか否かに非常にこだわる」ことについて書いてきたわけですが、都築さんによれば、やはりSF者は「SF」と「SFでないモノ」を区別できるとのことです(ただし区別の基準やグレーゾーンの幅は、高千穂氏のそれとは異なる模様)。

    今回は、都築さんのコメントを読んでの雑感などを書き記したいと思います。

    1.何故、SFはそのように定義されたのか
    宇宙や未来を舞台にしたアニメ作品の多くが、SFの定義「その作品を読んで(見て・聞いて)脳裏に浮かんだイメージに、SOW(センス・オブ・ワンダー)を感じるかどうか」に照らすと、「SFではないモノ」と判定される、その理屈といいますか、SF者の判定プロセスは理解できました。
    しかしながら、どうにも腑に落ちない部分があります。 いったい何故、SFはその様に定義されたのでしょうか、定義されねばならなかったのでしょうか。

    たとえば、「現在実現していない、または発見されていない科学(技術)が作中に登場する空想文学」という定義じゃあ、何故いけなかったのだろうか?と思うのです。初期のSFは、そのような定義で十分当てはまっていたのではないかと想像するのですが、それが何故、このような、ある種わかりにくい定義を必要とするようになったのか。これが疑問です。

    サイエンス・フィクション(最初は、サイエンティフィクションでしたか)という言葉が生まれたときから、あのような定義が存在していたわけではありませんよね。これまた想像ですけど、極初期の段階では、たとえば宇宙が舞台だったら、それだけでSFだった時代があったのではないか。それが、その後何らかの理由であのような定義を設定することになり、その段階でSFというジャンルからはじかれた作品群が実は存在するのではないか。そんなことを考えました。

    ちなみに高千穂氏の「ガンダムはSFじゃない」ですが、こちらは定義に照らして判断したものではありません。
    氏は、「SFマインドの欠如」を、ガンダムがSFではない理由として揚げています。
    ちょっと引用してみます。
    SFを考える―巨大ロボットアニメを軸として― 高千穂 遥
    【月刊OUT 昭和56年2月号(みのり書房)/50〜51頁より】
     SF作家や何人かの漫画家が、のびのびと自由に書いて、ちゃんとSFをものにしているのに、どうしてわかっていない人にはSFが書けないのでしょう。
     それは、SFマインドがないからです。
     SFマインドとは、SFの理念とでもいうべきものです。くだけていうと、SFごころとでもなりますか。SF的発想、SF的展開を自然に、意識することなく作品へと結晶させていく源です。このSFマインドを持たない人には、SFが書けません。
     SFマインドは、SFを多く読むことによって身に付きます。肌で織るという言葉がありますが、まさにそんな感じです。SFをSFたらしめる要素(エレメンツ)を知識として得るのではなく、思考のパターンとして脳に刻み込むといった雰囲気です。ほうっておいても、SFのアイデアが生まれ手が作品を作り出していくのです。
    (中略)
    「ガンダム」は、3話まではSFでした。4話から異和感を感じはじめました。5話になるとスタッフのSFマインドのなさがありありと見えてきました。全43話のトータルで一つの作品として成立しているのが「ガンダム」です。3話までSFだったからといって、「ガンダム」がSFだったとはいえません。限りなくSFに近いSFというのはないのです。線引きをするのなら、SFか、そうでないかのどちらかです。
    (中略)
     ぼくは「ガンダム」が20話ほど放映されたころ、富野さんに「ガンダム」がSFではなくなっていると告げ、その理由を説明しました。SFの人間が、あの設定を得たら、ストーリーは、あのようには展開しないと言ったのです。富野さんは、ぼくの意見に同意しました。何といってもSFの理解者です。多分、ぼくが言わなくても、わかっていたのでしょう。ただ理解することと、実践することは別のものだったのです。
    参考:ガンダムサブタイトル
    1話:ガンダム大地に立つ!!/2話:ガンダム破壊命令/3話:敵の補給艦を叩け!/4話:ルナツー脱出作戦/5話:大気圏突入
    ならば、「SFの人間が、あの設定を得た」場合のストーリー例を提示するか、せめて四話のどの辺りで違和感を感じたのかを書いてくれれば良いと思うんですけど。それについては何も書かれていないんですね。60冊読んで、SFを知るしかないんでしょうか(苦笑)。

    2.その定義は小説のものではないのか?
    主に小説という表現形式を意識して作られた古い定義を、無理矢理、他の表現形式にも適用しようとしているのではないかという印象も受けました。まあ、印象です。

    (上記1.2の疑問を解くためには、やはり「SFの定義」の成立過程を知る必要がありそうですね。てなわけでSF史講義、私も希望。)


    3.SF者の判断について
    >言われているように「SFかどうかの区別は、SF者全員が同じ判断を下す」というようなことはありません。

    あれは、高千穂発言をそのまま受け取っただけ…なんですけど(苦笑)。読み方が悪いのかな。それはともかく、要するに、SF者にとってのグレーゾーンは非常に狭いのだろうと受け取っていたわけですね。SF者の間での「〜はSFか、そうでないか論争」というのは、その狭いグレーゾーンの中で行われているのだろうと思っていたのです。


    みのうらゲストブックに掲示したものに大幅加筆)