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昭和47年 ある日の日出谷    -3-

 

臨客はすぐに日出谷を去り、後を追うようにイベント列車も新潟への帰途についた。

思わぬ駄賃。「敬老号」

1972. 8.27     日出谷     Photo by K.Watanabe.

  日出谷を出発して帰途につくイベント列車

1972. 8.27     日出谷     Photo by K.Watanabe.

ファンを詰め込んだ列車が去った後、日出谷駅にはもとの静寂が訪れた。
しばらくすると、D51238の牽引する新津行きの貨物列車が到着した。
D51238は、いつものように黙々と入れ換えを行う。

日出谷駅で入れ換え作業中のD51238。大きな給水塔が見える。

1972. 8.27     日出谷     Photo by K.Watanabe.

休憩するD51238をしばし眺めてから、DD51の引く客車列車に乗って日出谷を後にした。

夕日に映えるD51238のキャブ。ナンバーの位置が低いのがおもしろい。

1972. 8.27     日出谷     Photo by K.Watanabe.

おもいもかけずに、D51、C57の競演が繰り広げられた日出谷駅の一日。日出谷駅にとっても、最高の思い出になったに違いない。
やがて国鉄の衰退とともに、日出谷駅もその価値を急速に失っていった。

いつしか、給水塔や転車台も撤去され、側線さえも取り払われてしまった。当時の繁栄を伺わせるのは広い敷地だけ。ただ、日出谷を取り囲む山々だけが昔のままである。

 

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あとがき

 「ばんえつ物語号」のために訪れた方はご承知のように、磐越西線は景色がよく、よい撮影ポイントの多いところです。1969年までは、客車列車のほとんどをC57が担当し、越後線から修学旅行列車がC56重連で乗り入れたような記憶もあります。(私の旅行の時:1967年)ただし、写真等の記録がなく、証拠がありません。客車列車がDL化された後も、貨物はD51が担当し続けました。このほかに、たしか会津若松から野沢までは、日中線の無煙化までC11の旅客定期列車があったはずです。喜多方−山都間の大カーブで一度はお目にかかりたかったのですが、平日運行の上、新潟にその日のうちに帰る手段がなく、あきらめました。
 1972年当時はまだ数多くの蒸気機関車が残っており、一日たった2往復でしかもほとんど夜間を走るという撮影効率の悪いこの線区をねらうファンはめったにいりませんでした。地元の我々でさえも、無煙化までに残されたわずかな時間(と、少ない小遣い)を、たった1本の貨物列車につぎ込む気にはなれなかったのです。
ところが、いよいよ新潟の蒸気機関車が終わりというときに、C571の撮影会用の列車が走るという情報が入り、勇んで出掛けました。望遠レンズも持たず、38mmのコニカだけで麒麟山の頂上からの俯瞰などという無謀は今となってはよくやったものだとあきれています。
(館長)

当時中学1年生だった私も、C571撮影会の話をきいていました。撮影仲間の一人は、撮影会に申し込み勇んで出掛けていきました。しかし私は夏休み中だったにもかかわらず、新潟駅での発車と到着しか撮らなかったのです。しかも当時使っていたオリンパスペンの調子は最悪で、写真のほとんどが2重露出とピンぼけでした。今となっては自分の腕と愚かさを悔やむばかりです。
ところで、このC571撮影会の様子については、長谷川隆文さんの「ちょっと懐かしい鉄道写真」でも掲載されています。あわせてご覧下さい。
(管理人)