昭和47年 ある日の日出谷 -3-
臨客はすぐに日出谷を去り、後を追うようにイベント列車も新潟への帰途についた。 | |||
|
|||
|
|||
ファンを詰め込んだ列車が去った後、日出谷駅にはもとの静寂が訪れた。 しばらくすると、D51238の牽引する新津行きの貨物列車が到着した。 D51238は、いつものように黙々と入れ換えを行う。 |
|||
|
|||
休憩するD51238をしばし眺めてから、DD51の引く客車列車に乗って日出谷を後にした。 | |||
|
|||
おもいもかけずに、D51、C57の競演が繰り広げられた日出谷駅の一日。日出谷駅にとっても、最高の思い出になったに違いない。 やがて国鉄の衰退とともに、日出谷駅もその価値を急速に失っていった。 いつしか、給水塔や転車台も撤去され、側線さえも取り払われてしまった。当時の繁栄を伺わせるのは広い敷地だけ。ただ、日出谷を取り囲む山々だけが昔のままである。 |
あとがき
「ばんえつ物語号」のために訪れた方はご承知のように、磐越西線は景色がよく、よい撮影ポイントの多いところです。1969年までは、客車列車のほとんどをC57が担当し、越後線から修学旅行列車がC56重連で乗り入れたような記憶もあります。(私の旅行の時:1967年)ただし、写真等の記録がなく、証拠がありません。客車列車がDL化された後も、貨物はD51が担当し続けました。このほかに、たしか会津若松から野沢までは、日中線の無煙化までC11の旅客定期列車があったはずです。喜多方−山都間の大カーブで一度はお目にかかりたかったのですが、平日運行の上、新潟にその日のうちに帰る手段がなく、あきらめました。 当時中学1年生だった私も、C571撮影会の話をきいていました。撮影仲間の一人は、撮影会に申し込み勇んで出掛けていきました。しかし私は夏休み中だったにもかかわらず、新潟駅での発車と到着しか撮らなかったのです。しかも当時使っていたオリンパスペンの調子は最悪で、写真のほとんどが2重露出とピンぼけでした。今となっては自分の腕と愚かさを悔やむばかりです。 |