白山周辺と一番堀 その3

昭和橋
ここで紹介している昭和橋は、新潟地震で落橋した昭和大橋の先代で、木造でした。
板張りの上に土と砂利をもったもので、車道、歩道の区別はありませんでした。未舗装なので、雨が降ると橋の上に水たまりができたそうです。欄干の柵の間隔も広く、路肩がなで肩のようになっていたため、端の方に寄ると足をすべらしそうで恐かったそうです。
狭くて、自動車が通るようになってから危険がまし、しばしば交通事故がありました。バスも通っていたそうですが、すれ違いができませんでした。
とはいえ、新潟中心部から対岸の東新潟へ行くには万代橋と並んでこの昭和橋しかなく、とても重要な橋でした。
昭和橋は、昭和39年の新潟国体にあわせて掛け替えられて昭和大橋になりましたが、完成間もなく新潟地震で落橋したのは有名な話です。

昭和25年(1950年)春  新潟市白山付近 信濃川西岸にて    Photo by Keiichirou Watanabe.

▲新潟工業高校コーラス部員の写真だそうです。背後に見えるのが木造の昭和橋です。木造の橋桁の様子がよくわかります。

昭和25年(1950年)春  新潟市白山付近 信濃川西岸にて    Photo by Keiichirou Watanabe.

▲これも新潟工業高校コーラス部の記念写真です。対岸右手に見えるのが、私営の水族館。戦前にたてられたもので、当時の子供たちの人気を呼びましたが、まもなく経営困難になり営業をやめてしまいました。父は子供のころ見に行ったことがあるそうです。中央に大きな丸い水槽があり、亀やエイなど大きな魚が泳いでいました。周囲には、1平米くらいの水槽が並んでいたそうです。
建物は、戦後も永く残り様々な用途に利用されました。昭和大橋の東詰めからよく見える位置にあり、「水族館」という表示跡は取り壊されるまで残っていたので、記憶に残っている人も多いとおもいます。
総合競技場(陸上競技場
現在の陸上競技場は歴史が古く、昭和12年(1937年)に総合運動場として誕生しました。
以来、様々なスポーツ大会、イベントに使われ続けています。
昭和39年(1964年)6月の新潟国体ではメイン会場になりました。新潟市内の小中学校の体育大会に使われたり、メーデーの会場にもなりました。ちょっと前までは、高校陸上部の練習場に開放されていました。だいぶ前ですが、走り幅跳びの佐藤恵さんが練習していたのを見たことがあります。とにかく新潟市民に身近な競技場です。
現在ではすっかりきれいになって、J2新潟アルビレックスのホームにもなっています。

昭和30年(1955年)  新潟市総合競技場    Photo by Keiichirou Watanabe.

▲写真は高校の体育大会か何かを撮影したものと思われます。この頃はは周囲に大きな施設がほとんどなく、土のスタンドの向こうに、川向こうがすべて見渡せたそうです。
写真中央に見える木造三階建ての建物は、戦前は偕楽館という料亭で、戦後は一般の集会所変わり、一時は労働会館として使われました。かなり趣向をこらした立派な建物だったらしいということです。

昭和30年(1955年)  新潟市総合競技場    Photo by Keiichirou Watanabe.

▲右上に写っているのが公会堂です。長い間、さまざまな催しに使われ、新潟市民に最もなじみのある建物の一つでした。老朽化のため取り壊されて、現在は同じ場所に音楽文化会館が建っています。
白山球場
新潟地震の前までは、いま県民会館のある場所に、白山球場がありました。
内野席はコンクリートの階段席、外野席は芝生。当時はプロ野球が来るほどの野球場でした。グラウンド゙はかなり広かったらしく、父が観戦した阪神ー阪急戦では、ラッキーゾーンが作ってあたのを目撃したそうです。父が言いました。「阪神の別当が場外ホームランを打ったのを記憶して。阪急のピッチャーは浜崎だったと思う。」。さて、別当はともかく、浜崎の名前を知っている人はかなりの野球通ですよ。

昭和26年(1951年)  新潟市白山球場    Photo by Keiichirou Watanabe.

ちょっとスタンドが狭いですが、新潟市のど真ん中に野球場があったらどんなにすばらしいかと思います。それにしても、昔はちゃんとプロ野球がきてたんですよね。最後に新潟市にプロ野球がきたのはどれくらい前になるのかな。新潟の野球が今ひとつ力を発揮できないのは、プロをよべるような野球場がないことが原因の一つだと思いますよ。

 

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